2021年10月27日水曜日

塙保己一の千分の一の記憶力が欲しい

6時57分、室内気温22.7 °C、外気温14°C曇り。

朝読書その1。『職業としての小説家』。

1982年、変化が生じる。
『羊をめぐる冒険』、271頁~。

「書いていて自分で気分が良くて、しかも同時に正面突破的な力を有した小説を書きたかった。」
「そのためには物語という枠組みを積極的に導入しなくてはなりません。」

専業作家になった。

その2。『小松左京自伝』より。

1973年(昭和48年)、42歳、3月、9年がかりの書き下ろし長編『日本沈没』。
1982年、『さよならジュピター』刊行。
2006年(平成18年)、75歳、『日本沈没 第二部』、谷甲州との共著として刊行。7月。
荒川静香がトリノオリンピックで金メダル。記憶に新しい。

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11月2日巻頭言用ラフスケッチを再度改訂。!

(1)TBSTVで日本沈没がドラマ化され、第4話を観た。関東沈没?官僚ドラマ?

明らかな兆候をもとにした沈没説を否定するのは金権主義のため。そして皆が「現状」を守ろうとして不都合な真実をもみ消そうとする、または目を背ける。

(2)本題、最近『日本沈没 第二部』を読み終えた。結末は予想を超えていた。ネタバレ禁止。

(3)『日本沈没 完全版』(つまり第一部)はKindleで読み直した。ドラマ以上のはやい展開。

(4)19XX年の映画版『日本沈没』を何回目かで観た。初回作。悪くない展開。原作を最大限生かした脚本。

竹内均さんが出てくるのは頷けるが、小松左京が一瞬出てくるのはご愛嬌。

(5)『小松左京自伝』を読んで、小松の苦しい心境の一端を知る。

(6)補強資料で『小松左京さんと日本沈没 秘書物語』を読んだ。周囲への優しさは悲しみの現れ。

(2019年1月10日のブログより

「乙部さんは小松左京の秘書でありマネージャであり残された会社「イオ」の社長である。秘書の回想録かと少し軽く見て読んだが、しっかりした文章で驚いた。小松左京の豪快に見えて繊細な人柄が見事に活写されている。

 小松左京が東日本大震災のあとの心痛でうつ病になったと言う話を読んで、気の毒に思った。自分の母のことも考え合わせるとなおさらである。

 福島の原発を加圧水型でなく、安価だが爆発しやすく危険な沸騰水型にしたことを怒っていたのは初めて知った。」

(7)小松左京の苦悩の理由を理解に努めなければならない。
予言の的中による犠牲者。それを救う充分な手立てを自分はとったのか?万博は何のためだったか。

明後日には原稿(第一稿)にする。

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明日、CM月報の「原稿」も書こう。題材は新チャンネル開設始末。

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友人からの(Facebook経由)耳寄り情報。

「フランス文学は、著作権が切れている作品は大体ネットで拾えます(版本に限りがありますが)。

作品名、texte intégrale で検索すると大体みつかるので、勉強の役に立ちますね。それにWordに落とすと、検索等色々な機能が便利に使えるので、研究にはうってつけです。」

スバラシイ!やってみた。見つかった。

http://groupugo.div.jussieu.fr/Miserables/Lecture/Final/Cadres_lecture_Final.htm

https://fr.wikisource.org/wiki/Les_Mis%C3%A9rables


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それにしても偉いひと。すごい!

塙保己一
はなわほきいち
[1746―1822]

江戸後期の国学者。延享 (えんきょう) 3年5月5日生まれ。武蔵 (むさし) 国児玉 (こだま) 郡保木野 (ほきの) 村(埼玉県本庄 (ほんじょう) 市児玉町)の百姓荻野宇兵衛 (おぎのうへえ) の長男。幼名寅之助 (とらのすけ) 。7歳、病により失明、辰之助 (たつのすけ) と改称。15歳、江戸に出、雨富検校須賀一 (あめとみけんぎょうすがいち) に入門、千弥と改名。翌年、須賀一の勧めで、歌学を萩原宗固 (はぎわらそうこ) に、神道を川島貴林 (たかしげ) に学ぶ。のち故実を山岡浚明 (まつあけ) に、医学を東禅寺の孝首座 (こうしゅそ) に学ぶ。18歳、保木野一と改名。24歳、宗固の勧めで賀茂真淵 (まぶち) に入門。30歳から塙姓(須賀一の本姓)を称し、名も保己一と改める。34歳、各地に存する未刊の国書を叢書 (そうしょ) として出版することを志し、41歳(1786)から『群書類従』(530巻1270種)の刊行を開始し、幕府の援助を得て、74歳(1819)完成する。当時の本屋は仲間以外の出版物を扱わなかったので、販売面でも苦労し、年頭には予約購読者を訪ねて挨拶 (あいさつ) して回ったという話も伝わる。 48歳(1793)江戸・表六番町和学講談所を開設し、後進の教育と、図書・史料の研究調査活動を進めた。温故堂の号は、初め松平定信 (さだのぶ) が講談所に命名したもの。『大日本史』の編纂 (へんさん) ・校訂に協力したほか、『続群書類従』『史料』などの出版も計画したが未完成に終わる。76歳、総検校となる。著書に『花咲松 (はなさくまつ) 』『武家名目 (みょうもく) 抄』などがある。『群書類従』の版木1万7244枚は東京都渋谷区東の温故学会に、和学講談所の蔵書は国立公文書館に現蔵。文政 (ぶんせい) 4年9月12日没(文政5年7月9日公儀に届出)。76歳。墓は東京都新宿区若葉町の愛染院と埼玉県本庄市児玉町の竜泉寺とに現存する。本庄市には記念館があり、生家も保存されている。[梅谷文夫]

"塙保己一", 日本大百科全書(ニッポニカ), JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2021-10-27)

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