2017年1月20日金曜日
ルカーチ『ロマンの魔術師』でトーマス・マンはいつまでも一人前と認められない?
午前中に歯医者に行ってきた。右下奥から二番目の大臼歯の金属冠が取れたので治してもらいに行っているが、そこ以外の歯をあれこれ治すので、なかなか終わらない。毎度のことだが。
ルカーチの論文集『ロマンの魔術師』。4番目の論文は「遊戯的なものとその背景」。これは以前読んだことがある。「詐欺師フェーリクス・クルル」の詐欺師としてのふるまいと、芸術家(トーマス・マン)の振る舞いは。現実生活に対する遊戯性ということで、似ているという論旨だった。今回読み直してみて、他に心に残ったところ。
210ページ。
「彼(クルル)ののぞむものは、勝利と勝利の快感なのであって、金と社会的地位は、自分の能力をそれにふさわしい状況のもとで発展させるための、当然の(もちろん、たぶらかしで手にいれるのであるが)前提なのである。この条件をつくりだすために、クルルは詐欺術を必要とするのである。」
これが、小説家と一緒ではないかとルカーチは言っている。もちろんトーマス・マン自身もいろいろな著作で同様なことを述べている。
213ページ。
(貴族を詐称する)「クルルは、原型よりも、ずっと(本物)なのである。」
清水ミチコやコロッケの真似する様子は、真似されているスターよりも、スターらしい。すると、トーマス・マンは、米国や欧州で民主主義者の真似をしているが、実は社会主義国にいる者よりも、民主主義者らしいのかもしれない。もちろん、ルカーチは紳士なので、こんなことは言っていない。
この論文はトーマス・マン80歳の記念の論文だ。トーマス・マンはもうあきらめて「詐欺師フェーリクス・クルル」を未完のまま。出版する。リスボンから南米に向かって旅立ったクルルの化けの皮はまだはがれない。トーマス・マンもこの後すぐ黄泉の国に旅立つ。小説家の化けの皮もやはりはがれなかった。ルカーチはこの論文においてすら、もっとトーマス・マンに書かせたかったようだ。私もそう思うが、仕方ない。
トーマス・マンの晩年の日記をみると、歯医者に通うという記述が多く見られる。お坊ちゃま育ちで歯性は悪かったのだろう。ブデンブローク家の当主も歯医者で無理に抜歯をしようとして心臓発作で亡くなった。気をつけなくてはならない。
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2017年1月19日木曜日
冬休みの宿題 読書感想文『ロマンの魔術師』(その2) 付録『戯作三昧』つき
ルカーチの『ロマンの魔術師』を読み続ける。2番めの「太閤殿下」は読み飛ばす。1と論旨は同じかと。
3番目の論文は「現代芸術の悲劇」で80ページ近い。長い。
78ページ。「トーマス・マンの発展のおよその足どりは、ゲーテのそれと興味ある並行性と、同時に対照性を見せている。」
ゲーテはフランス革命を経験した、そしてマンはもちろんナチズムと連合国との抗争をそして共産主義の台頭も体験した。ルカーチはゲーテがその経験を活かして成長したのに対し、マンは体験を活かしきれず中途半端な状態を続けざるを得なかったと言っている。
90ページ。「ヨゼフの教育とは、まさにこういう態度の克服なのである。」
こういう態度とは、ドイツ国民にもある独善性のことと思う。そしてそれを「教育」するのは、ヨゼフに対してはエジプトなのだが、エジプト自体がその当時、健全な状態ではなく、「教育」は不十分に終わる。
これは、亡命してきたマンに対する、米国の状態に通じるような気がした。ナチズムを倒し、日本を倒しても、共産主義の「脅威」をも倒すまでは、米国人は「教育」ができない。
共産全体主義のソビエトを倒しても、他の共産主義国は残っているし、新たにISの「テロ集団」も倒さなければならない。米国はいつまでも、亡命民そして自国民の「教育」に苦慮する。が、これはあとの話だ。
ともかく、論文執筆当時のルカーチにとってはトーマス・マンの態度は歯がゆいが、本人の状況を考えると同情の余地が十分ある、と考えたのではないか。
このあと、4番目の論文は未完の小説「詐欺師フェーリクス・クルル」に関するものだが、ここでなんらかの思想的発展を、ルカーチが認めてくれるかが、興味深い。
ここまで読んで夜中になった。花粉症のかかりはじめで、体にアレルギー性の発疹がでていて、かゆい。眠れないので、導眠剤として、青空文庫を利用する。iOSのアプリで「青空文庫 i読書」というのがある。これで、「日替わりランダム100」という機能(上記のスクリーンショットご参考)を使って、なにか読むというのが今のお気に入り。
今回は芥川の「戯作三昧」を推薦してきたので、読んでみた。滝沢馬琴が南総里見八犬伝を書いているときの挿話で、非常に面白いし、創作の醍醐味も伝わってくる。創作の苦しさもだが。
八犬伝も読みたくなるが、我慢しないとここにもドロ沼が口を開けている。くわばらくわばら。
よく寝られたので、今朝は花粉症の具合はかなり良い\(^o^)/
3番目の論文は「現代芸術の悲劇」で80ページ近い。長い。
78ページ。「トーマス・マンの発展のおよその足どりは、ゲーテのそれと興味ある並行性と、同時に対照性を見せている。」
ゲーテはフランス革命を経験した、そしてマンはもちろんナチズムと連合国との抗争をそして共産主義の台頭も体験した。ルカーチはゲーテがその経験を活かして成長したのに対し、マンは体験を活かしきれず中途半端な状態を続けざるを得なかったと言っている。
90ページ。「ヨゼフの教育とは、まさにこういう態度の克服なのである。」
こういう態度とは、ドイツ国民にもある独善性のことと思う。そしてそれを「教育」するのは、ヨゼフに対してはエジプトなのだが、エジプト自体がその当時、健全な状態ではなく、「教育」は不十分に終わる。
これは、亡命してきたマンに対する、米国の状態に通じるような気がした。ナチズムを倒し、日本を倒しても、共産主義の「脅威」をも倒すまでは、米国人は「教育」ができない。
共産全体主義のソビエトを倒しても、他の共産主義国は残っているし、新たにISの「テロ集団」も倒さなければならない。米国はいつまでも、亡命民そして自国民の「教育」に苦慮する。が、これはあとの話だ。
ともかく、論文執筆当時のルカーチにとってはトーマス・マンの態度は歯がゆいが、本人の状況を考えると同情の余地が十分ある、と考えたのではないか。
このあと、4番目の論文は未完の小説「詐欺師フェーリクス・クルル」に関するものだが、ここでなんらかの思想的発展を、ルカーチが認めてくれるかが、興味深い。
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(i読書を使用中のスクリーンショットです) |
ここまで読んで夜中になった。花粉症のかかりはじめで、体にアレルギー性の発疹がでていて、かゆい。眠れないので、導眠剤として、青空文庫を利用する。iOSのアプリで「青空文庫 i読書」というのがある。これで、「日替わりランダム100」という機能(上記のスクリーンショットご参考)を使って、なにか読むというのが今のお気に入り。
今回は芥川の「戯作三昧」を推薦してきたので、読んでみた。滝沢馬琴が南総里見八犬伝を書いているときの挿話で、非常に面白いし、創作の醍醐味も伝わってくる。創作の苦しさもだが。
八犬伝も読みたくなるが、我慢しないとここにもドロ沼が口を開けている。くわばらくわばら。
よく寝られたので、今朝は花粉症の具合はかなり良い\(^o^)/
2017年1月18日水曜日
ルカーチ『ロマンの魔術師』の読書感想文(その1)
冬休みの読書感想文です。今年はルカーチさんの『ロマンの魔術師』にします。トーマス・マンに関する論文集だそうです。(片岡啓治訳、1971年、立風書房)
序文でルカーチは2つの論文と言っているが、出版時に2冊にまとめたことがあるのでそう言っているだけ。実際には5つの論文が掲載されている。序文と訳者解説をひっくり返しているうちにわかった。ややこしいことだ。まず第1番目の論文「市民を求めて」に関してです。
トーマス・マンの70歳誕生日(1945年!)を記念してこれは書かれた。トーマス・マンはかならずしもルカーチが好きとは言えなかったようだが、認めては居たらしい。(序文による)
12ページに(トーマス・マンは)「ドイツ市民階級のなかでも最良の、しかも目の前にみることのできる象徴である」と書いてあります。象徴という意味深長なことを書いていますが、トーマス・マンの貴族性を軽く揶揄しながらも、市民としてふるまおうとする態度や行動(特に亡命中の)を評価していると思われます。
54ページ以降。「フランス人は、ブルジョワに対比してシトワイヤンといい、ロシア人はグラジダニンというのに、ドイツ語にはそれにあたる言葉がない。」とあります。
日本語ではどうか? 「市民」という言葉には深い意味付がまだされていないような気がします。自発的な「革命」を経験していないせいか?
60ページ。「彼は現在でもまだ市民を求めている。...自分の魂のなかに。」 つまり絶えざる追求が必要だし、トーマス・マンならそうするだろうと注文を付けている。
トーマス・マンはその15年後、85歳でスイスで亡くなるのだが、その時点でのルカーチの評価も調べてみたいと思います。
特に1946年の赤狩りに時代をトーマス・マンはどうくぐり抜けたのか、結局米国の生活を続けられなかったのはなぜか、またこの苦しい時代を通じて書き続けられたのは何故かなどがなどがテーマとなりそう。
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