2020年9月30日水曜日

鷗外も今ならブログに読書日記を書くだろう

『鷗外全集 第三十五巻』の「観潮樓日記」(明治25年 1892年)を読む。新居に移って喜んでいる雰囲気が伝わる。幸田露伴なども訪れて文学談を交わしたのだろうが、いわゆる日常些事を記入した日記という感じがする。

「明治三十一年日記」(1898年)を読む。

文学者の日記らしくなった。おもしろいのは、7月1日の日記。「本草の書に魚食多し。糊紙もて繕完す。」紙魚にやられたのを自分で糊と和紙を使って補修したのだろう。器用な鷗外らしい記述。

トーマス・マンの日記と比べてみたくて読んだのだが、この年の鷗外の日記では旺盛に著述を続けながら、同時に勤務の傍ら書店を巡って多くの書物を買い求め、その書名を丹念に書き留めているところが、似ている。もちろん、著述の記録も日記の主力をなしている。

こころみに、買った書籍の数を日記の記述をもとに数えてみた。

1月は5、2月は7、3月は18、4月は43、5月は14、6月は94、7月は19、8月は10、9月は2、10月は4、11月は11、12月は16、計243。

書名を見ると、和本が多いようだ、一日にたくさん買い込む日もあるのだが、和本なら軽くて便利だっただろう。留学中やその後の仕事に必要な本は洋書が多かったと思うが、このころは暇を見つけてゆっくりと和書を紐解いていたのかも知れない。大正に入ると徳川時代の人物を題材としたものを書き始める。

243の書籍のなかに『蒹葭堂雜録』がある。全部読んでみたいが、『蒹葭堂雜録』だけ、国会図書館DCで検索してみた。




鷗外全集のこの巻の月報に、石黒忠悳(ただのり)の日記の話がでてくる。先輩軍医でドイツにも鷗外と同時期に行っていたらしいが、同一日の体験の日記を比べると、鷗外のがそっけないのに、石黒忠悳の日記は詳細を極める。鷗外日記を補完する資料なのだそうだ。考えてみると、このような日記は世の中にたくさん存在し、そのほとんどは公開されず埋もれたまま消えていくのだろう。残念だがしかたない。でも、今後は今皆が書いているブログなどが、消滅せずに残って、後世の利用に供されるだろう。好むと好まざるにかかわらず、デジタル社会とはそういうものになる。

2020年9月29日火曜日

なぜ私は読書するのか?……トーマス・マンを読んでいてわかってきた

朝の読書の後、風呂に入り朝食の支度と日課はいつもどおり進む。読書の余韻で、風呂に入りながら(あるいは風呂掃除をしながら)何かを考えていることがある。今朝は……

なぜ自分は読書を好むのか、というギモンに対する一つの答えを見いだした。それは、同好の士に会えるからである。同好の士は、時空を超えて存在する。毎日『トーマス・マン日記』を読み続けた今は、トーマス・マンが同好の士だ。自分と似たようなことで悩み、あるいは喜びを感じる人がいる。そこに、こよない嬉しさを覚え、孤独の哀しみが和らぐ気がする。

トーマス・マンが自分と同じ年齢で、頑張って著作にはげみ、その材料収集にとどまらない膨大な読書を、不自由な亡命先で続けている。肺の感染性膿瘍(たぶん結核が原因)で、危険な手術を受けながらもなんとか回復して、書き続け読み続ける。入院先では、看護人の優しさに魅せられたり、麻酔術を受け意識の遠のきと回復を興味深く体験し、はじめてベッドから立ち上がるときのときめきや虚脱感のなかで、生きていることを実感する。これらの感覚は3年前に自分もほとんど同様に感じた。なので、『日記』や『ファウストゥス博士の成立』に書かれた文章に、そうだそうだと一人で相槌をうつ。

大げさに言えば、この宇宙の中で自分は一人ではない、自分と同じ考えの人がいるのだと思うと、安らぎを感じるのだ。

朝と、午前中の読書で、『ファウストゥス博士の成立』はほぼ目を通し終えた。

午後には、『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』(新潮社版 全集第7巻)のうち、徴兵を逃れ、パリに出て大ホテルのボーイになるところを読む。実に面白い。そのわけは、フェーリクス・クルルに共感し、パリに行くことの恍惚をこのような形式でうまく表現しているトーマス・マンの技倆に感心するからだろう。

これは文庫本のほう、今はこちらが入手しやすい


2020年9月28日月曜日

デスクワーカーの職業病である腰痛には皆苦労している

『トーマス・マン日記 1946年-1948年』のあとがき(森川俊夫)を読む。

1946年4月1日から5月27日は、日記は空白。トーマス・マンは肺の感染性膿瘍でシカゴの病院で検査と手術を受けたからだ。シカゴにはこの病気の名医がいたし、娘夫婦や、Kの兄(物理学者のペーター)がいたからだと思う。それにしても、カリフォルニアからシカゴまで列車の移動は辛かっただろう。

自宅に戻った翌日から、5月28日から日記が再開されている。

『ファウストゥス博士』は1943年5月23日から執筆を開始しているという。物語の主人公は1885年に生まれ1940年に亡くなる設定だ。語り手が過ごす時間は、戦争中であるということにしてある。主人公の生きる時間と、ナチスの支配が進む時間の二重性をうまく演出してあるのだ。そして、主人公レーバーキューンの先駆者としてトニオ・クレーガーがいると指摘している。

1947年1月29日の日記には11時50分に『ファウストゥス博士』の最後の記述が終わったと書かれていることが、指摘されている。

日本語版の日記の註釈は各日付ごとに配置されており、私としては読むのに便利と感じた。たまたまこの巻だけ買ったドイツ語版の日記を見ると、註釈は巻末にまとまっている。註釈を読むのに毎回厚い本の頁をめくるのは大変だと思う。日記の文面を手早く読むだけならドイツ語版式が良いのかも知れない。

どちらにも、膨大で詳細な註釈がついているのには驚く。訳者も大変だったろうが、このあとがきに紹介されている、校正と索引を受け持った伊藤暢章氏の苦労が偲ばれる。

さきほど出てきた、トーマス・マンの義兄ペーター・プリングスハイムのことを少し調べたくなった。日本語Wikipediaには項目がない。ドイツ語Wikipediaにはある。Google翻訳で翻訳したら、日本語の翻訳はいまいち。英語に翻訳したら、読みやすい。1881年生まれ、1964年死去。当時は米国に亡命していた。トーマス・マンが金銭的に援助もしていたようだ。この人は、寺田寅彦がベルリン大学に留学したときに、教室で会ったプリングスハイムと同一人物かどうかよくわからない。寺田寅彦の「ベルリン大学」に登場している海坊主みたいな人。

ペーター・プリングスハイムの理学的著作はInternet Archiveで読める。


***

トーマス・マンの『ファウストゥス博士の成立』も少し読む。

日本語版全集第6巻の528頁付近。創作に脂が乗っている時には、肉体的に困難を抱えていることが多いという。要するに無理をしているわけだ。『ファウストゥス博士』の場合は上記の次第で死にかけた。そして『ワイマールのロッテ』を書いている時には、坐骨神経痛の激痛に悩まされていたらしい。こちらはかなり身近な病と思う。私もそうだし、知人でも腰が痛いという人は多い。問題解決にはG. M. ワインバーグの『文章読本』がおすすめ。


昨日のブログに書いた鹿島茂さんの『成功する読書日記』にも、腰痛対策は書いてある。


2020年9月27日日曜日

鹿島茂『成功する読書日記』を読んだので、このブログも成功間違いなし


鹿島茂さんの『成功する読書日記』(文藝春秋)を読んだ。題名通りのハウツーと、「読書日記」が掲載されている。私の、このブログも、読書日記を名乗っているが、この本は非常に参考になった。偉そうだが、我が意を得たり、という気もする。少し前に書評に関しての本も読んだが、まずはこのブログでは今回の本に書いてある方法でやっていこう。

最初に読書日記のあるべき姿が記されている。引用(コント・ランデュのほう)する。

・量を書いて、自然に質が伴うようにすべし。とにかくたくさん本を読み、たくさん記録を取る。量が質に転換するのを気長に追求する。

・本との「遭遇情報」を書き留めておく。端的には買った場所や金額など。

・批評や感想は最初は不要で、書きたければ星(☆)の数で良い。

・それより、気になる文章を「引用」する。

・慣れたら引用からなるレジュメを作ってみる。

・もっと慣れたら、引用を自分の言葉で言い換えてみる。(コント・ランデュ)

・ここまでを習熟したら、批評に進んでもよいが素人にはあまり勧めない。

このあとに、鹿島さんの「読書日記」実践例が続く。最後にはあとがきとして、「理想の書斎の作り方」が掲載されている。

***

今朝も6時から、『トーマス・マン日記 1946年-1948年』の続きを読んだ。日記に関する部分は今日で読み終えた。次の巻を借りる手続きをしなければならない。

1948年
10月13日。
ニュートリノの話を書いている。科学の話題が好きなのだろうが、たいてい作品にも取り入れている。

10月14日。
『ファウストゥス博士の成立』のなかの「エヒョー」を書いている。終わりに近い部分。

10月20日。
「小説の小説」つまり『成立』を書き終えた。181枚。16週間かけた。

10月24日。『選ばれし人』に再度取り組む。勤勉!まずは過去の原稿を拾い読みし、筋の細部を検討する。

10月25日。
「グレゴ―リウス」を読み、メモを取り、想い出す。

11月1日。
マルクス診療所に行き、診察を受け、老眼鏡はまだ替えなくて良いと言われる。目が悪くなったと自覚したのだろう。

11月2日。
大統領選。Kはトルーマンに、本人はウォリスに投票した。役割分担だと。デューイとトルーマンのマッチレースなのだが。

11月6日。
『フェーリクス・クルル』の続行に力が残っているか検討。再成功のチャンスなのだ。好きなことを追求するのと、生活の必要との調和ができるのか。

11月11日。
夜、かゆみに悩まされる。前日の考えすぎがたたったか。手当して良くなる。

11月15日。
英チャールス皇太子誕生。

11月24日。
中国で共産党が優勢。

12月16日。
『選ばれし人』各章の表題つけ。11章開始。

12月17日。
ローレンス・オリヴィエの『ハムレット』を観る。気に入る。

12月21日。
元執事のフェーリクスは60日の勾留。寛大な処置だと。

12月30日。
ルカーチの『トーマス・マン』1巻本出る。

12月31日。
仕事を休んだ。ということはここまでほとんど休みなし。

***

16時から、「月刊ALL REVIEWSノンフィクション回 ジェームズ・バーダマン(北米文化史家) × 鹿島 茂(仏文学者)、『地図で読むアメリカ』(朝日新聞出版)を読む」を観る。トランプがなぜ当選したかがわかった気がする。組織されていない多数の収入の低い層が、北東部の「金持ち」民主党候補を嫌うからという。

https://allreviews.jp/news/4974


こんなサイトを見つけました。
https://www.jmvardaman.com/10-american-regions

2020年9月26日土曜日

トーマス・マン『ファウストゥス博士』と、ヘッセ『ガラス玉演戯』の類似とはどんなことかしら


6時から、『トーマス・マン日記 1946年-1948年』の続きを読む。

1948年

7月5日。
セコナールでよく眠り、「多彩」な夢を見る。

7月9日。
「ファウストゥス博士の成立」を書き進める。執事のフェーリクス夫妻は喧嘩(またも夫の飲酒が原因)。翌日復帰。

7月10日。
イタリア語版の『ワイマールのロッテ』に挿絵がついていて立腹。ついでにエッカーマンを読む。

7月11日。
夜、息子のクラウスが自殺を図る。入院させる。

7月12日。
仕事が散漫になる。

7月13日。
クラウスを知人邸に見舞う。

7月14日。
ケレーニイ『原始人と秘儀』を読む。グレゴリウスの食べ物の記述の参考。

7月21日。
ベルリンでの対ロシア問題、ヨーロッパ、アメリカ。他イスラエル問題など心痛が絶えない。

7月27日。
ノーベル賞再授与が検討されているというニュース。結局同一人物同一部門ではダメ。平和賞あげればいいのにと素人考え。

8月2日から4日。
胃炎性感冒。ブラームスのハイドン変奏曲を聴く。(Op. 56a)

6日から10日。
Kも感冒にかかる。マンは仕事はやめない。

8月11日。
フェーリクス夫妻については終止符。

8月19日。
ワシントンでの聴聞会(の放送)を聴き、むかつく。

9月5日。
『ガラス玉演戯』に触れた部分を朗読。この日記の註は良くわからない。新潮社版全集の11巻569頁には『ガラス玉演戯』の事が出てくる。『トーマス・マン日記 1944年ー1946年』では、82頁。1944年3月9日に、「スイスから『ガラス玉演戯』が送られてきた。」とある。

9月6日から9日。
はげしい身体の痛み。

10月5日。
「サタディ・レヴュー・オブ・リテラチュア」のために、最愛特選レコードをメモする。(註によると、一位はフランクのニ短調シンフォニー(モントゥ指揮サンフランシスコ・シンフォニー・オーケストラ)。)

***

『文学こそ最高の教養である』を読み始める。最初に高遠弘美先生の「プルースト」を読む。また目からウロコが落ちた。なかで言及されている『プルーストによる人生改善法』を読みたくなる。近所の図書館にはない。古本でも高いので、世田谷区立図書館で借用を申し込む。

(後記:この本の英語版は「How Proust can change your life」で、Internet Archiveで読める。ただし、貸し出し時間は今の所1時間。)

***

孫の写真(とビデオ)を一箇所に集めてみた。日に日に表情が豊かになっていく。嬉しいことだが、本人はどう思っているのか……早いうちに聞いてみたい。

2020年9月25日金曜日

雨降りの日は読書がはかどる

朝、『トーマス・マン日記 1946年-1948年』の続きを読む。

1948年3月22日。
『ガラス玉演戯』と『ファウストゥス博士』の共通性とは?

1948年3月23日。
『掟(邦題 十誡)』の日本語訳があるのを知る。左手の治療を中止する。

1948年3月24日。
左手も使ってヒゲ剃り。

1948年3月31日。
手術後メーディ(娘)からプレゼントされた日記帳がいっぱいになった。22ヶ月使ったことになる。

1948年4月1日。
チューリヒで買った新しい日記帳を使い始める。『ミーメシス』を読む。『選ばれし人』の6章と7章の参考にした。ところで6章と7章とはどこのことだろう。要調査。

1948年4月7日。
エーリカ手術を受ける。

1948年4月8日。
同退院。

1948年4月22日。
このころ毎晩レコードを聴いている。この日は『ラインの黄金』のラスト。

1948年5月9日。
『ファウストゥス博士の成立』を書き始める。内面からの取り組み開始。一方、『選ばれし人』執筆は順調に進む。

1948年5月10日。
『失われた地平線』を観る。

1948年5月28日。
湿疹ができる。胸にも。

1948年6月6日。
73歳の誕生日。

1948年6月14日。
Kもエーリカも病気。トーマス・マンはマニキュアとヒゲ剃り。日記によく、足の手入れやマニキュアと書いてあり、そんな事するのかと思っていたが、自分も年をとってみると、必要性がわかる。そうしないとかなりみっともないことになる。

1948年6月18日。

執事フェーリクスは飲酒、奥さんが一人で仕事している。

1948年6月19日。

『ファウストゥス博士』時代の日記で仕事すると書いてある。『ファウストゥス博士の成立』を書いているのだろう。翌日の日記には、その頃の日記に赤インクでマークを付けながら読み直すとある。また、6月26日の日記には、当時の日記を抜粋して現代化するとある。

1948年6月28日。
フェーリクスが金を盗んだとある。もうかばいきれない。

***

午前中をかけて、読みかけの本を2冊、読み終えた。

森茉莉の『父の帽子』の138頁。映画を観て現実逃避している。そして人生も映画のようだと……

「夢」のなかの黒猫が印象的。

171頁。「おまりはイルミネエションが好きだなあ」と父鴎外。

194頁。「深く究めれば、その思想に偏することはない。」と思想の統制をいさめる鴎外。

森茉莉の文章は非常に気に入ったので、他の著書も読んでみる。

星新一『祖父・小金井良精の記』。

432頁。大正10年に現役退官後、余生を研究に捧げる。

434頁。昭和14年3月15日。めまいを覚える。大事を取って一週間休む。若いときから、このような「無理をしない」やり方で弱い体をいたわって、結局長生きする。

昭和19年9月16日。大往生。



2020年9月24日木曜日

70歳を過ぎても新しいものを書こうとする気力はどこからくるか

『トーマス・マン日記 1946年-1948年』の続きを読む。

1948年1月1日。
孫のフリードも一緒の楽しい元日。もちろん、翌日からは仕事再開。

1948年1月3日。
孫たちは早朝出発。落ち込む。『選ばれし人』の下調べはやめない。『ファウストゥス博士』の、一部からの不評原因は音楽(がわからない)からか、いろいろな意味で「不協和音」がやまない。

1948年1月7日。
新しいレコード棚を注文。

1948年1月15日。
『ファウストゥス博士』が売れ行き好調。嫉妬を覚える人もいた。

1948年1月30日。
ガンディー暗殺のニュース。

1948年2月10日。
寝室の書棚に新しい棚を付け加える。

1948年2月12日。
ロシアの作曲家は党中央よりブルジョワ音楽でなくリアリスティックなのを書くように警告された……

リルケも『ヴェニスに死す』を読んでいて、雑誌に評を書いており、最終的には芳しくない評価だった。時代が見えないリルケ。寓意がわからなかったか。

1948年2月20日。
フェーリクス夫妻を再雇用。

このころから、『選ばれし人』の草稿を書き始める。いろいろなアプローチを試みているようだ。

1948年2月26日。
リビングと玄関の間の段差で転倒。左肩の骨を折る。

1948年2月27日。
執筆は続ける。左肩でよかったかも。

1948年3月6日。
兄ハインリヒとは話が合わない。

1948年3月7日。
「グレゴーリウス」の導入部分を少し書き始める。

***

『文学こそ最高の教養である』(光文社新書)を借りてきた。


『鴎外全集 27巻(椋鳥通信)』を借りる手配。読んでみて、欲しくなったら、岩波文庫の中巻と下巻を買えば良い。

2020年9月23日水曜日

トーマス・マンの1947年は『ファウストゥス博士』と欧州不完全里帰りで暮れた

『トーマス・マン日記 1946年-1948年』の続きを読む。

今朝は早起きして、5時から6時まで。

1947年10月7日のマンの悩み。
1.ヨーロッパ旅行の疲労。
2.『ファウストゥス博士』発刊直後の緊張。
3.アメリカにおける出来事への心痛。
4.「ゲーテ選集」について出版社から通知が来ない。

1947年10月10日。
映画『わが生涯の最良の年』を偶然に観て感激する。

1947年10月20日。
非米活動委員会の聴聞会の報道がひどいと立腹。

1947年10月24日。
『ファウストゥス博士』の最初の四つ折り本(米国用複写版)が届く。

1947年10月28日。
この日に限らず、この頃フェーリクス・ヴァイル博士(芸術パトロン)とよく話している。

1947年10月29日。
『天国への階段』(映画)を観る。1946年英国。面白そうな映画だ。

1947年10月30日。
放送番組「ハリウッドは抵抗する」にて発言を行うので、その準備をする。

1947年10月31日。
同上録音。

1947年11月21日。
孫を可愛がる。

1947年12月2日。
日本語版全集の準備が始まった。

朝日新聞の新年号に「日本への新年の挨拶」を掲載するのでその原稿を書く。

1947年12月14日。
『ゴリオ爺さん』を読む。これに限らず、読書は毎日のようにしている。

1947年12月31日。
『ファウストゥス博士』の年が終わる。元日にはエーリカが途中の原稿を読み、「徹夜で読んだ」と言ってきたのだった。日記を読み直したのだろう。

***

早起きした理由は、朝食後すぐでかけたため。三軒茶屋に行き、出生届や健康保険、児童手当、保育所調査などをする、息子殿のサポートと、いつもの家政夫業務。今日は湖南省風中華料理ランチをごちそうになる。世田谷区役所のそばの松陰神社にも行ってみた。小雨。

世田谷線の電車で面白いのに乗り合わせた。







2020年9月22日火曜日

『霧の彼方 須賀敦子』を読む

若松英輔さんの『霧の彼方 須賀敦子』を読み始め、興に乗って夕方読み終えた。


第一章とあとがきをまず、読む。須賀敦子の精神のふるさとはアッシジだという。彼女の目的地は遠い。強く惹かれても読み終えられない本のようだ。あとがきの最後はまだやり残したことがあると、余韻を残す。上手い。冒頭に要約があり、本論でオリジナルな事柄を満載し、振り返りと残された課題を示す、この構成は学術論文ではおなじみだ。

7頁。
著者はそれほど深く須賀敦子を読んでいたわけではないが、これからは深くまじわるという予感があると。

8−9頁。
マルセル、三雲夏生、ムーニエ、モーリアック、ベルナス。

11頁。
ベッピーノとの結婚。

12頁。
ヨハネ23世の対話路線。

コルシア書店。ミラノの「シェークスピア書店」だろうか。どちらも書肆。

19頁。
生きることで祈る。聖職に就く必要は必ずしもない。

26頁。
和讃と「のらくろ」が原点。#本を読むには、「捨てる」勇気が必要だろう。

30頁。
空海とネストリウス派キリスト教は出会っていた。「どうせひとつ」。

42頁。
本に読まれるなと母に叱られる。

45頁。
父親から『即興詩人』を勧められる。鷗外好きの父親。15歳の彼女はキェルケゴールの『死にいたる病』も好き。原著(!?)にもあたる。

52頁。
宮沢賢治も好きだった。

56頁。
サン=テグジュペリも好きだった。

57頁。
リルケも。#このあたり読みながら、私の本棚を眺めて悦に入る。

102頁。
シャルトルへの「巡礼」旅。やっとたどり着いたが、聖堂に入れない。人生を象徴しているのか。

173頁。
「翻訳は批評である」

川端康成に小説を書くことを勧められる。

「神曲」を訳す。

須賀敦子の文筆人生は短い。晩年の7年間だけ。でも、豊饒。

後半は端折って読んだ。次の人に早く回したい本。

2020年9月21日月曜日

『父の帽子』の上手さに脱帽

『トーマス・マン日記 1946年-1948年』の続き。

1947年4月22日から9月14日までの、イギリス、スイス、オランダ旅行は、単に戦後初の旅行であるだけでなく、米国に居づらくなり、ドイツにも帰れない状況、戦前戦中よりかえって複雑な政治的状況下で、困難な亡命生活を続けるトーマス・マンの必死の動きと言えるのだろう。

やっと書き上げた『ファウストゥス博士』の大量のゲラの校正をしながら、講演や朗読を行い、ミュンヒェンからの誘いにも応対(結局行かなかった)し、その感に、次の執筆活動(ゲーテに関する本)の準備もする。読書量も多い、なかでも帰りの船ではホイジンガの『エラスムス』を精読している。往路の船(クイーン・エリザベス号)より、帰路のヴェスターダム号の方が乗り心地が良かったのだろうが、その精力には感嘆する。やはり老齢には勝てずに寝込むことも多かったのだが。

旅行中の気休め(?)としては、モンタニョーラにヘルマン・ヘッセを訪ねたり、映画『天井桟敷の人々』を観覧したり、預け先で行方不明になっていた愛犬ニーコが見つかったニュースを聞いたりしていた。下世話な話だが、各地での講演料がかなり高額だったことも、精神的には良かったのだろう。

カリフォルニアに戻ったが、このあと、米国の暗黒時代がやってくるので、読み進むのは気が重くなっていくだろう。

***

昨日、ご近所図書館で借りた2冊。『霧の彼方 須賀敦子』と『父の帽子』を少しずつ読む。前者を先に読み終えないといけないだろう……順番待ちキューに8件溜まっているので。であるにも関わらず、森茉莉の『父の帽子』(講談社文芸文庫)を読み始め、その文章の素晴らしさに魅せられて、半分まで一気に読んでしまった。66頁に、文学を読むのか、文学者の私生活を覗きたいのかという痛烈な読者批判があるが、これを重く受け止めたい。そして、森茉莉のテクニックに脱帽したい。テクニックの分析ができるといいのだが。




2020年9月20日日曜日

『トーマス・マン日記 1946年-1948年』の冒頭部分は明るいタッチだが……


『トーマス・マン日記 1946年-1948年』読み続ける。面白い。

編者Inge Jensの書いた註釈の詳細さと見事さにうたれる。編者序文に本人が書いているように「ゆっくり、急げ ( Festina lente ) 」でないと出来ないだろう。そして、老年期になったトーマス・マンも『ファウトゥス博士』を、周囲の手を借りながら、「ゆっくり、急いで」書いていたようだ。

1947年1月29日に、1943年5月23日から書いていた『ファウストゥス博士』を完結させたと、正確な日付を持ち出しているが、これは、日記を書いていたからに違いない。念の為、この日の日記を引っ張り出してきて見ると、たしかに書き始めたことの記述があった。少し戻る。

1946年12月21日。日本で津波があったという記述。南海大地震のことだろう。

1946年12月27日。妻や娘などが執筆を手伝う。うらやましい。彼女らはマンの進行の遅さに業を煮やしたのかも。

1947年1月1日。この日だけは執筆をしない。読書は休まない。ここも頭が下がるが、読書を続けるのは、執筆へのエネルギー供給になるのだろう。

1947年1月6日。娘のエーリカが原稿の校正校閲をしっかりやってくれたとの感謝の言葉。でも譲れないところもある。

1947年2月5日。執事のフェーリクスが酔って車を運転し、逮捕されたとある。「フェーリクス」だと!? 「詐欺師フェーリクス・クルル」との偶然の一致かしら? これを種にして、『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』の続編パロディーを考えるという、楽しそうな作業を思いつく。明日、具体策を考えてみよう。

1947年4月10日。フェーリクスが収監から戻る。索引を見ると、何箇所にも登場している。「フェーリクス・クルル」という語も何箇所も出てくるようだ。面白そう。

1947年4月22日。パシフィック・パリセーズを発ち、ヨーロッパ旅行に出発。シカゴ、ワシントン、ニューヨークを経由して、クイーン・エリザベス号でサウザンプトンへ。乗り心地はあまり良くないと書いている。船高が高く揺れるのだ。ロンドンでは講演を二つ。「ドイツとドイツ人」、「ニーチェ論」。

これも読んでおきたい。

1947年5月28日。エア・タクシー(小型機)で、ロンドンからチューリッヒへ。懐かしかっただろう。

***

孫の命名書をインターネット上のツールで書いてみる。手書きのほうが趣はありそう。でも、これは親の仕事だと考え直す。

2020年9月19日土曜日

日記読みは面白くてやめられない

『「斷腸亭」の経済学』の続き。

115頁。
大正8年からは発表作品も少なく、時代の行き詰まり的窮境。大正末期もひどい。しかし、大正15年、春陽堂が『荷風全集』の紙型を地震で失ったのを名目で重版してくれた。これで息を吹き返した。

118頁。
カフェーの女給にチップを渡す。これが女給の収入源。

131頁。
昭和2年から、金融大恐慌。大正12年の震災後のためダメージが大きい。

(今回のコロナ禍の影響による不景気も、東北大震災の傷跡の大きい地域ではダメージが大きいはずだ。考慮が不可欠。)

140頁。
大正12年の所得は4184円。これがこのころ半減している。それでも大卒初任給月50円から70円、よりは大きいが。

141頁。
救世主。円本ブーム。

143頁。
知恵を絞れば不況下でも(であるが故に)、大幅な売上増、収益増を招来できる証拠。

144頁。
当時の単行本や全集本の定価表。皆、円本より高い。

150頁。
改造社の巧妙なシステム。全集予約金は壱円。これで作家から出版許可を得る資金ができる。34万部予約が来た。

154頁。
春陽堂も追随。20万部。

156頁。
荷風の得た印税は計5万円。現在の金額でいうと5億円?

157頁。
昭和2年の所得は2万6千円。

170頁。
デフレ。昭和5年の所得は3360円。

***

上記は数日前に読んだ記録。

今朝からは、昨日世田谷区立図書館から借りた、『トーマス・マン日記 1946年ー1948年』を読み始めた。三年前から読みたくてジタバタしていたもの。

https://hfukuchi.blogspot.com/2017/09/blog-post_4.html

第2次世界大戦終了後、カリフォルニアにいた、トーマス・マンは共産主義に対するアレルギーで狂気に向かう米国の中で、居心地悪く感じながら、そして老いて(でも私と同じくらいの年だけれど)、体に、多くの故障(肺の膿瘍、歯痛、痔などなど)をかかえながら、『ファウストゥス博士』を書き続けている。



2020年9月18日金曜日

森鷗外の家族は筆達者な人が多い

 朝、星新一の『祖父・小金井良精の記』をなおも読み進める。

330頁以降に出てくる、N.G.マンローの話。桑原千代子という人の評伝があるそうだ。アイヌに関して調べていたイギリス生まれの(後に日本に帰化)医師・考古学者・人類学者。この人は、堀辰雄の「美しい村」に出てくるレエノルズ博士のことらしい。変わり者のスイス人として描かれている。

336頁。
森於菟の件。明治23年9月14日、森鷗外の長男として生まれている。明治23年8月6日には小金井良精の長男が生まれており、鷗外に相談もして良一と名付けた。

340頁。
森於菟が良精を訪ねてきたので、解剖を専門としてやればと思いつきで言ったら、その通りになった。そこで、「しっかりやろう」と指導もした。

342頁。
台湾に森於菟は赴任する。新天地でのびのびできた。

343頁。
森於菟は内心では文学もやりたかったが、鷗外の子供なのでやりにくい。でも、『解剖台に凭りて』という面白い随筆集がある。

後には『鷗外全集』の日記編の編集も手伝った。

353頁。
小金井良精は孫を可愛がる。柿内賢信は賢坊、星新一は新坊、賢坊の甥(だから小金井良精の孫)は元坊。 元ははじめと読む。


これは面白い。著者の人柄の良さがわかる。帝國圖書館(アプリ)でも読める。少し面白すぎて筆が滑っているところもある。

***

昼前から三軒茶屋に行き、掃除の続きをやる。可愛い孫の顔も(写真だが)見たので、精が出る。なお、ついでに、『トーマス・マン日記』も世田谷区立図書館のサービスカウンターで借り出した。

孫様は今日は乳を飲む訓練をしたらしい。飲んだ後の満足げな顔の写真が届いた。LINEは素晴らしい。

2020年9月17日木曜日

「孫を可愛がれば好きな研究の時間を奪われるがその分長生きすれば良い」と小金井良精は思っただろう

星新一の『祖父・小金井良精の記』かなり読み進めた。

定年退官したあとも、好きな研究(人類学)のために、発掘した人骨を自ら洗う生活を続ける。夜は遅くまで論文を読み、自分も書く。根っからの研究好き。土日もあまり休まない。ただし、夜ふかしはしない。



貧乏で、地味な研究者なのだが、名声は高い。他の有名人との交遊も多い。坪井正五郎(地球物理学者坪井忠二の父親)、ベルツなど。そしてもちろん、義理の兄森鷗外、たとえば、大正11年奈良に旅行し、国立博物館長だった鷗外と邂逅。アインシュタイン。

交遊ではないが、原敬首相が暗殺されたとき解剖に立ち会い、その自宅の質素なのにおどろく。

女婿、星一に息子ができ(大正15年9月5日)、可愛がる。二番目の孫だが同居していたこともあり、猫可愛がり。これが星新一。名付け親だ。星一は研究者ではないが、事業一筋の生き方に共感していたようだ。

星一の参考書はいくつか、国会図書館デジタルコレクションで読める。『百魔』、『星とフォード』など。



同じ星新一の『明治・父・アメリカ』は読んだが、『人民は弱し 官吏は強し』も読まなくてはいけない。

70歳で、御前講義。「本邦先住民族の研究」で、日本人の先祖にはアイノ(彼はそう記述していた)であったと述べる。若き天皇は興味深く聴いていたという。熊楠を連想させる。

昭和4年には八戸の是川遺跡の発掘調査にも行っている。

小金井良精の孫柿内信子は坂田昌一と結婚し京都住まい。もちろん、京都にも旅行する。後継者とみなしていたが、先に病んだ足立文太郎(人類学者『日本人の動脈系(ドイツ語)』)を見舞う。ちなみに足立の娘は、井上靖と結婚。

決して体が丈夫ではないが、小金井良精は節制しながら研究を続け、87歳まで長生きした。

ここまで読んで、わかったのは、節制しつつ好きな事(例えば研究)をこつこつ続ければ、長生きするだろうということ。

***

ところで、本日午後、初孫が産まれた。男子3032グラム。先週は医師の見立て違いがあり、かなり心配したが、無事に誕生し、母子ともに健康のようだ。ありがたい。小金井良精におとらず猫可愛がりしそうだ。ひ孫ができるくらいまで長生きしたい。節制する。



2020年9月16日水曜日

書評の世界は奥深い

昨夜出た週刊ALL REVIEWS(メールマガジン)の巻頭言は私が書いた。以下にそのまま掲載しておく。(主に個人の記録のため。)


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ALL REVIEWS友の会に所属しながら、書評のことは知っているようで知らない。これはクヤシイので月刊ALL REVIEWSの対談ビデオや書評本で、書評について勉強してみた。

8月の月刊ALL REVIEWSノンフィクション回、武田砂鉄さんとの対談のなかで鹿島茂さんが、書評についていろいろ語ってくださった。そのなかで心に残ったのは丸谷才一が述べたと言う新聞掲載書評の書き方三原則。いわく、

・マクラは三行で書く。

・要約はきちんとする。

・本をけなさない。

鹿島さんは、書評は書籍を通じて時代を知る一種のフィールド・ワークであるとも、おっしゃっていた。

鹿島さんの書かれた書評集を、ALL REVIEWSで探した。『歴史の風 書物の帆』が見つかった。ご近所の書店で売っていなかったし、最寄り図書館にもなかったので、電車二駅先の隣の市の図書館で借りてきた。

まえがきに代えて」(実はALL REVIEWSに収録済み)に、書評の原則が書かれている。期せずして、さきほどの丸谷三原則の解説にもなっている。

・イントロは素人向けに書く、書評の目的は最終的に書店で本を買ってもらうためのものだから。

・引用は多めにする。引用だけになってもかまわない。ポイントを引用できると効果的だ。

・評価は同種の本と比べた相対評価とする。評価の際にフォルム(本の書き方)も重視する。

「歴史の風 書物の帆」という題名は美しいし、書評は時代の思潮を知るフィールド・ワークであるという事をうまく表現している。これは、小学館文庫版についている堀江敏幸さんの解説(これもALL REVIEWSに掲載済み)を読むと、エピグラムとして掲載されたベンヤミンの『パサージュ論』の一節に由来することが理解できる。元となった筑摩書房の単行本は1996年に発行されたが、昭和という時代に「航海」に出たたくさんの本という「帆」にどのような風が吹き付けたかが、収録された多数の書評を読むとよく分かる。もちろん、この中には本を買いに書店にすぐ行きたくなるような書評がたくさんある。

2020年、現在の大嵐のなかでも、たくさんの「帆」が厳しい風をはらんで、この世界の中で舞っている。鹿島さんのみならず、多くの書評家の方々の書評を読み、なるべく多くの帆の状況を調べたい。誰にでもできて、楽しい「フィールド・ワーク」だ。(hiro)

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数日前にAmazonで古本で注文しておいた『鷗外全集 第35巻』(岩波書店)が到着。「日記」を集めた巻だ。旧版の全集では3巻に分かれていたが、この新版(1975年)では1巻にまとめられている。そして、旧版にくらべ「北游日乗」が新たに収録されている。『鷗外選集』は持っているのだが、『選集』では、「北游日乗」、「独逸日記」、「小倉日記」、「委蛇録」の4編のみ。『全集』のほうが断然たくさんの日記が収録されているし、行間が広いので書き込みがしやすい。そして、45年前の本だが、状態は非常に良い。1,000円は買い物だ。


余談ながら、作家の個人全集が最近出ていないのは困る。電子出版でいいから、いや電子出版のほうが自由に検索できていいのだが、全集をぜひ出して欲しい。Webの形でも良い。

2020年9月15日火曜日

小金井良精のようにのんびり屋のほうが学者に向いている

星新一の『祖父・小金井良精の記』を半分読んだ。

変な題名なのだが、これは最初の方で星新一が説明している。小金井良精は星新一の母方の祖父(ついでに言うと母方の祖母は森鷗外の妹喜美子)で、若き日のドイツ医学留学から晩年まで欠かさず日記をつけていた。それを探し出して、テーマごとに読みながらこの本の材料としている。この本は星新一が書いたものか小金井良精が書いたものか、判然としないことを題名の曖昧さで表している。

星新一らしく、短いストーリーの連続で書いている。そのせいもあり、非常に読みやすい。相当に無味乾燥であろう日記に忠実に書きながら、小金井良精と周囲の綺羅星のような人々(含む鷗外)が、生き生きと動き回る。

長岡藩の悲劇のなかで子供時代を過ごした小金井良精は、のんびりしてはいたが学問に頭角をあらわす。東大医学部(の前身)を首席で出て、ドイツ留学に行き、腎臓の弱さをかかえながら、ベルリン大学で助手として教鞭を取るまでになる。そのころドイツにやってきた森林太郎にも会っている。帰国して東大医学部の教授になる。賀古鶴所の紹介で鷗外の妹と結婚。正確には再婚。賀古鶴所からドイツの鷗外に承諾を求めると、即座に電報で認める旨の返事が戻ってきたという。

鷗外を追って来日した「エリス」の説得にもあたったようだ。

小金井良精は鷗外とは違い、医学の仕事一筋。解剖学を教え、骨の研究も行う。三度目のドイツ訪問で購入してきた計算尺で研究の計算を夜中までやって倦むことがない。

六十歳あたりの所まで来たが、今後小金井良精の生涯がどのように展開するのか(しないのか)が楽しみだ。


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予定日を過ぎたが、息子の配偶者は産院を出たり入ったりしている。相当のんびりした初孫が生まれてきそうな予感。ともかく楽しみである。コロナ禍のため産まれてもすぐに面会はかなわないだろうが、楽しみを先にとっておくと考えよう。

2020年9月14日月曜日

鷗外と荷風の師弟愛は素晴らしい


朝読書。吉野俊彦『鷗外・啄木・荷風 隠された闘い』のうち、「第二部 森鷗外と永井荷風』の部分を読む。

鷗外と荷風の出会いと初期の交流の記述が面白い。

・初めて言葉をかわしたのは、明治36年1月。市村座での観劇後、森鷗外から『地獄の花』を読んでいると声をかけられ、荷風は感激した。

・鷗外日記の明治41年11月20日に、永井荷風が観潮楼を訪ねたことが、例によって簡潔に記されている。このときの礼状を絵葉書(! FLYING DUCHMANの絵柄)で、翌日荷風は鷗外に送った。洋行帰りの荷風30歳、鷗外47歳。

・鷗外日記、明治42年1月13日。上野での文学会で上田敏と荷風に会った旨の記述。

・明治43年1月27日。慶応大学文学部刷新のため、上田敏や永井荷風を推挙すると、鷗外日記に記されている。

・その後も積極的に鷗外は荷風たちを推す活動を続ける。

こうなると、「鷗外日記」も読みたくなるが、戦後の『鷗外全集』にしか載っていないようだ。もっと捜してみよう。揃いで古本だと3万円くらいなのだが、場所が…日記だけ買うか?

(後記:このあと、Amazonで捜してみたら、全集第35巻が送料込み約1300円で出ていたので、ついふらふらとポチってしまいました😃)

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鷗外と、幸田露伴、斎藤緑雨の鼎談書評集で「三人冗語」というのがあるという。「たけくらべ」を激賞しているようだ。これも『鷗外全集』で読むしかなさそうだが、幸い、国会図書館デジタルコレクションにあるのを発見した。

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夕方、ご近所図書館に行き、三冊新たに借りてきた。




2020年9月13日日曜日

日記は簡潔に大きな字で書くのが良い

小堀杏奴の『晩年の父』(岩波文庫)を読み終えた。森鷗外家の問題は、直系家族のなかの嫁姑問題に帰着するようだ。これを文学として書いた鷗外は大したものだが、書いて発散は出来なかったのだろう。ともかく、子供たちには非常に優しい父親だった。

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『鷗外選集 第21巻』のなかの、晩年の日記「委蛇録」を拾い読みする。簡潔な漢文の形で書かれた日記。叙情的な部分はほとんどない。でも随所に出てくる子供や妻との外出・外食の記述を読むと、最後に良い父親・夫であろうとした鷗外の姿が浮かび上がる。

簡潔なので、じっくり読まないと味が出てこないが、そういう読み方がかえって熟読感を増す。読んでいて疲れない。

以前は当用日記帳にペンで日記を書いていたと言うが、この日記は和紙に筆で書いてある。体力も衰えており、毛筆で漢字のみで短い語句を並べるほうが良かったのだろう。もしかすると、目も衰えていたので、大きな字で書かざるを得ない毛筆のほうが、便利だったのではないか。自分も、最近目の衰えを感じるので、そう思う。鷗外よりも10年も生き延びていると思うと感無量。

2020年9月12日土曜日

老年になると日記は簡潔になる(例:鷗外)、が、そうでない人も(荷風)

朝読書。

『鷗外選集』21巻のなかの大正7年11月から12月の日記を読む。11月は「寧都訪古録」、巻末の小堀桂一郎の解説によれば、「委蛇録」中唯一、蒼古の飛鳥仏の頬の一部のような淡い色彩感が残ったところ。解説では、共に「奈良五十首」も読むようにとのこと。帰京した鷗外は疲れたのか12月を病褥中に過ごす。

『「斷腸亭」の経済学』を読む。吉野俊彦が川本三郎の江戸・下町視点とはまったく別の、経済学的視点から「日乗」を読み解くのが面白い。世界大戦後の「バブル」景気とその後の大不況を、荷風はうまく乗り切って父の遺産を保全・運用したが、その才覚は銀行員時代に修行したからか。

大正7年11月には父から受け継いだ家を売っている。弐萬参阡圓。

大正7年から10年にかけて、春陽堂が「荷風全集」(全五巻)を刊行。大正10年8月11日の日記によると第五巻の印税は963圓。春陽堂は大正15年から第二次の「荷風全集」(全六巻)を出版した。


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家政夫の仕事を頼まれた(身内からだけど)。10時半頃三軒茶屋に向かう。電車は空いている鈍行に乗ることにした。途中読む本を用意していった。小堀杏奴の『晩年の父』(岩波文庫)。この本は1981年に出た版で、名古屋に当時いたので名古屋駅前の書店で買って読みながら新幹線で東京に出張したと思われる。内容は綺麗に忘れていたが、今回読み直すと面白い。鷗外は子供に甘く、捜し物や片付けを子供に代わってやってあげたらしい。その作業を非常に綿密に行い、しかも楽しそうにやる。これは、なかなか出来ないことだ。

今日はにわかやもめの息子のアパートの掃除をしに行ったのだが、洗面所と風呂場を気合をいれてやったら、ピカピカになったが、疲れて、二人でラーメンを食べに行ってしまった。おいしかった。戻って、台所のガスレンジと流しをなるべく綿密に掃除したが、、楽しそうには出来なかった。残りはまた後にする。

せっかくなので世田谷区立図書館の窓口カウンターに行き、利用者登録をした。目的は『トーマス・マン日記』。さっそく1946年から1948年のをインターネット予約した。通知が来たら、また家政夫作業をやりに行く。

2020年9月11日金曜日

『鷗外の坂』を読むと理想的父親像が明確になる


森まゆみさんの『鷗外の坂』(新潮社)を読み終える。

244頁。
『澁江抽斎』も掃苔小説説。

247頁。
鷗外は同窓生冨士川遊を経由して医学史研究のため池田京水の墓碑銘のいくつかを得る。迂遠だが楽しい方法。また、実碑文を使った対校は時間がかかるがこれまた楽しい。今なら写真を使おうと考えるかもしれない。

255頁。
「万朝報」に、児玉せきのことが書かれる。明治31年。

「鷗外の坂」は人生の坂でもあると思える。人はみな一歩ずつ坂をのぼる。

344頁。
森鷗外は60年の人生のうち50年以上本を読んでいる。

347頁。
葬式饅頭が手に入ると饅頭茶漬けを食べる。

348頁。
森茉莉も読みたくなってきた。他の親族の著書も。小堀杏奴の『晩年の父』(岩波文庫)は、いま発掘してきた。レシートが挟んであったが、1981年に名古屋で購入したらしい。当時の文庫新刊。

358頁。
理想的な父親。

365頁。
「闘う家長」よりも「微笑する鷗外」を森まゆみさんは書きたかった。それは成功している。


2020年9月10日木曜日

『歴史の風 書物の帆』という題名にも惹かれた


鹿島茂さんの 『歴史の風 書物の帆』(小学館文庫)を読む。「まえがき」に書かれた書評論が素晴らしい。

エピグラムと、あとがきで堀江敏幸さんが称している、冒頭のベンヤミンによる警句の引用が、本に関する卓抜な概念を与えてくれて、うっとりする。

「弁証法的思想家にとって肝要なのは、世界史の風を帆に受けることである。思考するとは、こうした弁証法的思想家にとっては帆を張ることを意味する。どのようにその帆を張るかが重要なのだ。」(ベンヤミン 『パサージュ論』 今村仁司他訳)

歴史の風を受けるための道具が書物であり、書物というたくさんの帆の様子を、手早く記述するのが書評というカメラ。帆の様子をたくさん記述すれば、歴史の風がどのように吹いたかがわかってくる。つまり、書評集として書評をたくさん集めれば、歴史を理解するためのフィールド・ワークとなる。

この本そのものに関しては、来週のARメルマガ巻頭言で取り上げる予定。

***

心配なことがあり、急遽三軒茶屋に向かったが、着く前に問題解決。安心して、皿うどんを食べた。一層美味しかった。




2020年9月9日水曜日

荷風、露伴、鷗外がつながった

『荷風と東京『斷腸亭日乗』私註』(川本三郎)、ラスト。

488頁。
昭和20年3月10日。偏奇館炎上。日乗と草稿の入った革包のみを持って避難。蔵書が焼けてひときわ激しい炎が上がるのを見る。

ここは、自分にも火事の経験があるので、共感する。自分は、悲しいと言うよりも、虚しい気分だった。

489頁。
その後、各地を転々とするが、日記は書き続ける。

トーマス・マンを思わせる。二人共、日記を書くことにより平静を保てたのではないか。

490頁。
避難先でも、花に目をやり、本も買っている。

492頁。
岡山の古本屋で、菊池三溪の「虞初新誌」を買う。鷗外の影響だとか。フランス語の本も買う。

これだろうか?

494頁。
成島柳北を読む。「硯北日録」を写す。

以前の随筆に柳北の話が……

497頁。
文人趣味による日乗の文体。それが偏奇館炎上の後の荷風を支える。

502頁。
市川の地にも次第に慣れ、慰めを見つけていく。

507頁。
自炊。

508頁。
「葛飾土産」

510頁。
露伴も近くに住んでいた。「曠野評釈」を読む。露伴は昭和22年7月30日に亡くなる。80歳。告別式の門外で黙礼して帰る。

551頁。
中村眞一郎『永井荷風研究』(新潮社 昭和31年)https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000436017-00

***

昨日行けなかった、相模大野図書館に行ってきた。炎天下。駅からの近道であった伊勢丹デパートの通り抜けが、デパート閉鎖でできなくなった。迂回する。駐車場や公園を通るが、なぜか、香港の九龍公園を思い出させる。

『断腸亭の経済学』、『鷗外・啄木・荷風 隠された闘い』、『歴史の風 書物の帆』、『摘録 断腸亭日乗』など借りる。

***

帰って、シャワーを浴び、昼寝をしながら、『鷗外の坂』を読み進む。弟篤次郎の話が愛しい。

2020年9月8日火曜日

荷風から鷗外にさかのぼろう

朝、『荷風と東京『斷腸亭日乗』私註』(川本三郎)の続きを読む。

360頁。
活動寫眞は最初は嫌いだった。「雨瀟瀟」(大正10年)。しかし、世の中ではキネマとか映画と呼ぶようになり、大正8年『キネマ旬報』発刊。大正10年『カリガリ博士』などヒット作も出てきた。

361頁。
大正15年4月15日。『最後の人』を溜池の葵館で観る。

363頁。
映画嫌いではあるが、「つゆのあとさき」(昭和6年)には、題材として取り入れた。

365頁。
仏蘭西映画を本格的に観始める。

367頁。
脚本を書いた。『浅草交響曲』。昭和13年。

戦後はよく仏蘭西映画を観ている。『パリの空の下セーヌは流れる』は8回観た。

370頁。
昭和32年11月29日。『パリの恋人』を観た。これが最後に見た映画。

明日はこの本をともかく読み終えよう。

***

午後、『鷗外の坂』を本格的に読む。森まゆみさんの鷗外への愛情溢れる本。現地を実際に歩いて、取材をしているのが素晴らしい。

これは中公文庫だが、私の読んでいるのは新潮社の単行本


***

昼食後、相模大野の図書館に「遠征」して、予約本を借りてこようとしたが、電車が人身事故で止まっているため、断念。明日以降にまわす。

2020年9月7日月曜日

荷風に料理を教えたかった(^^)

台風の余波で、時々驟雨が襲ってくる朝、『荷風と東京『斷腸亭日乗』私註』(川本三郎)の続きを読む。

昨日の分をめくっていたら、287頁に「訪れた主な寺と墓」の表があるのに気づく。コロナ禍のなかだがちょっと行ってみたくなった。

292頁。
「自働車」の話。金回りが良いときは、今で言う「ハイヤー」を良く利用した。女性にドーダ顔をしたいためかしら。

304頁。
震災後の銀座の復活。カフェ―、デパート、食堂に繰り出す。

322頁。
喫茶店でレコードを聴く。

348頁。
寫眞道楽。昭和11年10月26日にドイツ製二眼レフ、ローライコードIを中古で購入。104圓。これをぶら下げて寫眞を撮ることを目的に街に出かける。

353頁。
ローライフレックス、310圓、にグレードアップ。昭和12年2月1日。墓地の寫眞もよく撮りに行った。

357頁。
もちろん踊り子も被写体に。昭和13年10月24日。

358頁。
現像も自分でやっている。理由はもちろん、人に見せたくない寫眞があるから。

佐藤春夫によると、荷風は凝り性の飽き性だという。

***


佐藤春夫『小説永井荷風伝』(岩波書店)を読む。「小説」と銘打ってある通り、非常に読みやすい。佐藤春夫の個人的印象は、慶応大学教授時代の荷風はなかなか親切で講義も意外に丁寧で面白かったと言う。時代が下るにつれて評価は辛くなっていく。荷風の弱さをはっきり書いている。でもどこかに愛情のある書き方ではある。

***


今夜は新しい鮭が手に入ったので、パン粉焼きにする。ソースはしめじと玉ねぎと人参とミニトマトを、酒とポン酢と醤油と砂糖でじっくり炒めたもの。油なし水なし。きのことトマトから滲み出したエキスが良い味になった。美味い。

思うに、荷風は料理を習えばよかったのではないか。独身で気楽だからといって、手軽にカツ丼ばかり食べていたので体を悪くしたと思う。凝り性で飽き性のお坊ちゃんでは無理か?

2020年9月6日日曜日

本を買ったら少なくとも目次に目を通すことにしよう(^^)

今日も『荷風と東京『斷腸亭日乗』私註』(川本三郎)の続きを読む。

下町の話は少しとばして、「ランティエの経済生活」から再開。

264頁。
ランティエとは金利生活者のことらしい。戦前の荷風は幸運なランティエだったと、石川淳が「敗荷落日」に書いているそうだし、「日乗」には大正13年の所得金額は4184圓だと税務署から通知されたと書いてあるようだ……

ここまで、書いてきて、はたと思い当たり、物置部屋で石川淳の『夷齋虛實』(文藝春秋)を引っ張り出す。もしやという感じだったのだが、その中に「敗荷落日」が収められているのを発見。昔古本で買ったときに、目次だけには目を通したのだろう。持つべきものは記憶力。あやふやな記憶でも脳の中に残っていて、期せずして浮かび上がるのがうれしい。快感を感じる。この本には森鷗外に関する記述も二段組で100頁以上ある。忘れていた貯金が見つかったような気持ち。

……

267頁。
荷風は金銭的に「しっかり」していた。でも戦後のインフレのため、金銭に対する執着が増した。

268頁。
株も買うし生活には困らないが絶対に「贅沢」はしない。とくに食べ物には……

272頁。
昭和21年からは売文で稼がなくてはと身構える。大正期の円本ブームのような出版好況は、戦後少しはあったろう。

276頁。
ここからは「墓地探検」の話。昭和10年の句、「行くところ無き身の春や墓詣」。

285頁。
昔からガイドブックがあったそうだ。江戸時代の掃苔家、老樹軒の『江戸名家墓所一覧』。昭和15年、藤浪和子『東京掃苔録』。

285頁。
探墓会というのもあり、会誌もあった。

288頁。
鷗外の墓が向島の弘福寺から三鷹の禅林寺に移った。荷風は昭和18年10月27日にお参りに行く。そもそも荷風の探墓の趣味は鷗外から受け継いだ。

***

石川淳は荷風の晩年の随筆にはかなり辛い点をつけている。ランティエでないと良い随筆は書けない。賣文はやはり難しい。

2020年9月5日土曜日

芸術家の目で外側から見る下町は荷風にとって好ましい

『荷風と東京『斷腸亭日乗』私註』(川本三郎)の続きを読む。

198頁。
大正12.5.19。本所深川方面を歩く。「裏町」の文学散歩。旧津軽候屋敷跡など。

199頁。
明治42年「深川の唄」、「大窪だより」。青空文庫にある。前者では電車で体をゆすられる快感を述べたりしている。

203頁。
「雪の日」(昭和19年)、落語家に弟子入りして修行中の淡いできごと。

204頁。
「日和下駄」、昭和10年「深川の散歩」、「元八まん」。

208頁。
深川から江東の新開地、砂町や荒川放水路に足が伸びる。

212頁。
「放水路」昭和11年、露伴の『讕言』、釣魚紀行。

218頁。
『おもかげ』には堀切橋の寫眞が載っている。


219頁。

「風景」を芸術家が「発見」する。例:『草枕』、ターナー。

220頁。
「ふらんす物語」の「船と東(車の誤植か)」。言葉を通して風景を発見。

225頁。
砂町や元八まんへ……(ランティエあたりまでとぶことにする。)

以前は、下町に住んでみたがあわなかった。今回は山の手に住んで、下町とその郊外を散策する。芸術家の目で風景を楽しむ。

***

午後は、森まゆみさんんの『深夜快読』(筑摩書房)を読み終えた。

2020年9月4日金曜日

「歴史に残る名書評……」凄い!

鹿島さんがとりあげた荷風の「書評」が、究極の姿の一つ。凄すぎるのでお手本には難しいが、目標にするため掲げたい。

「歴史に残る名書評、名時評 その1 永井荷風×谷崎潤一郎」

https://allreviews.jp/column/292



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豊島区が作っている動画、「ワンシートリーディング」を見つけた。面白い。




***

『荷風と東京『斷腸亭日乗』私註』(川本三郎)の続きを読む。

158頁。
荷風が亡くなっったとき、机上には『澁江抽斎』が開かれていた。

160頁。
晩年は、近所の大黒屋で、毎日(昼)カツ丼を食べていた。昭和34年3月。荷風の質素な食生活には、谷崎の豪華な食生活との、対比の妙を感じる。

163頁。
大正8年元日、昭和2年元日、昭和7年3月の日記を見るとショコラとクロワッサン、またはショコラのみの朝食。少し悲しい。

164頁。
50歳ごろからは和食が主。好みがさっぱりしたものに変わった。老いと体調のせいだろう。

170頁。
有名な野菜混ぜご飯を作って食べている。外食は決まった店で。金兵衛・アリゾナ(浅草)。しかもいつも同じものを。

174頁から。
二世市川左團次との交友。共に帰朝者どうし。

184頁。
左團次のソビエト公演旅行を見送る。警戒厳しい。

188頁。
荷風は梨園の人でもあった。若い頃修行。福地櫻痴の門下生。『書かでもの記』。国家権力(明治政府)への反発から江戸趣味へ。

2020年9月3日木曜日

ひとり暮らしを楽しむのを、荷風のやせ我慢と言っては失礼だ

『荷風と東京『斷腸亭日乗』私註』(川本三郎)。まだ、新居での独身生活を楽しんでいると書き続ける荷風。

121頁。
その典型は「夜歸る」で、麻布の高台の静けさを愛でている。大正10年の『寫況雜記』に入っているそうだ。(本としては『麻布雜記』の63頁。帝國圖書館アプリで読んだ。)

123頁。
近所には、元南部候のお屋敷、米国大使館があり、公孫樹の落ち葉も美しい。ときには暖炉に火を入れてその雰囲気を楽しむ(大正14.12.21)

126頁。
落ち葉焚きを楽しむ。最近見た『おもかげ』には落ち葉を掃く箒の寫眞が掲載されていた。荷風自身が撮った寫眞。

『伊沢蘭軒』も庭掃きが好きだったと、「葷齋漫筆」に書いてあるそうだ。「葷齋漫筆」は『荷風随筆』(昭和8年)で読める。なお、『伊沢蘭軒』が掃除をする場面は、私の『鷗外選集』では7巻の374頁に書いてある。

ともかく、これらは皆文人趣味。

132頁以降。
近所の小さな「山形ホテル」は良く利用していた。このホテルの経営者の息子は名優の山形勲だった。

145頁からは、「鷗外への景仰」。

146頁。
大正11。7.9。鷗外が60歳(!)で死去。

147頁。
鷗外は向島弘福寺に葬られた。(弘福寺については『澁江抽斎』参照。)

前後するが、7月11日通夜、12日葬儀にもちろん参列した。

148頁。
鷗外は第2の父だった。実の父永井久一郎(文部省から日本郵船)の死より、純粋に悲しかっただろう。

151頁。
荷風は、「鷗外のなかに日本的なものと西洋的なものの落ち着いた調和」を見ていた。

154頁。
大正12年、『鷗外全集』が出ると、「澁江抽斎」や「伊沢蘭軒」をあらためて読み直す。

156頁。
自分も「澁江抽斎」のような史伝を書きたくなり、『下谷叢話』を書く。鷲津毅堂の話。

この流れは、現在森まゆみさんが受け継いでいると言っても良い。掃苔探墓。

『鷗外の坂』(森まゆみ)と佐藤春夫の『小説永井荷風伝』を図書館で予約した。

***

昨年、鬼子母神の古本市で買った『永井荷風 ひとり暮らしの贅沢』(新潮社)を読んだ。寫眞がたくさん掲載されている。



2020年9月2日水曜日

『「月刊ALL REVIEWS」ノンフィクション部門第20回』の対談ビデオから「書評」について学んだ

『「月刊ALL REVIEWS」ノンフィクション部門第20回、武田砂鉄さん×鹿島茂さん』のアーカイブ、後半も聴き直した。前半も含めて、一時間半の対談の中での、書評に関しての言及を私なりにまとめてみた。この作業は自分としては非常に参考になった。以下。もちろん文責は私。

***

【書評の意味】
書評を書き、読むことはフィールドワーク。つまり、種々の本を通して社会を理解しようとするときに書評が武器となる。

【本を読むときの注意】
シニフィアンも合わせて理解すべし。シニフィエのみを問題として理解または鑑賞する素人が多い。パフォーマティブなところも問題にしないといけない。

【批評に必要なこと】
批評するには、批評の対象(本、映画もそう)を大量に読んで(映画なら観て)いないとできない。量から質への転換が必要不可欠。

【書評の長さ】
例えば、朝日新聞は800字(原稿用紙2枚)、500字使って要約を書くと批評には300字しか使えない。毎日新聞では1400字(3.5枚)。この0.5枚分が結構重要になる。

【丸谷才一の三原則】
毎日新聞の書評を書く場合に鹿島さんが聞き取ったこと。

1.マクラは3行で書く。
(詳細後述。)

2.要約はしっかり書く。
(なぜなら、書評は読者にとって受け売りで本の話をするためのツールだから。)

3.けなしはやめる。
(本が売れなくなっては大変。そのためには書評する本は自分で選べ。)

【書評の想定読者】
素人であるべき。書評する側も一般人として読む。本の良し悪しは専門家にはわからない。

【クロス書評】
クロス書評をやるべき。別の分野の人が書評すると良い。小説を書いている当事者が小説を批評できるか疑問。

【専門分野の扱い】
当事者が数人しかいない場合もある。書評には、専門性と一般性の釣り合いを取る必要があって、そこに「専門技術」が必要になるかも知れない。

【3行マクラとは?】
マクラができたら、書評全体ができてしまう。3行とは新聞なら5−60字だが、丸谷才一はイギリスの書評(長い)を頭においていたと考えられる。毎日新聞の書評の長さ3.5枚のうち、0.5枚がマクラにあたる。

【マクラは先に書くのか】
マクラができたら全部できたも同然なのだが、先にマクラをひらめきで書いてしまえると楽。いろいろ考えてたくさん書き、後で削るという手もあるが、面白くなくなることがあるので要注意。

【サビから入る?】
最近の音楽のように、イントロ(マクラ)を省いて、サビから入ることも考えられる。

【落語の効用】
落語を聞いている人は書評がうまい。素人でも上手い人はいる。特殊な技術が必要なのだろう。この技術はひらめきだけではないし、マニュアル化も難しい。

【アナロジー】
アナロジーを使うと良いのかも知れない。身辺のモノゴトと本の世界の基本構造が似通っているのを察知する。身辺雑記のみでなくうまく要約する。それで良いマクラができることがある。

【面白い本】
面白い(と思った)本の書評が良いとは限らない。つまらない本からはなにも出ない。

【書き方の工夫】
対話形式にするなどいろいろ工夫すべき。ワンパターンはだめ。一方、苦労して書いたと思わせてはいけない。楽に書いたと思わせるべき。太宰の小説の人気があるのは、読者が自分でも書けると思うため。これはすべてのジャンルで言えること。

【究極の目標】
結局、書評の目的は本屋にその本を買いに行かせることである。

【良い本とは】
書評を長くやっていると、別ジャンルの本でも良し悪しがわかるようになる。駄目な本の特徴は、やさしさを押し出そうとして読者におもねること。そしてそこにマーケティングの匂いがすること。良い本は時代に共鳴するが、共鳴しているだけでなく予見も含むこと。例は『ボヴァリー夫人』。

2020年9月1日火曜日

「良い」書評とはなにかを考え始めた、考えるための鍵はやはり多読か……

昨日の武田砂鉄さんと鹿島茂さんの対談。

どのあたりから、書評の議論になったのかを調べようと、前半を聴き直す。

武田砂鉄さんを紹介するとき、鹿島さんが「書評としてのフィールドワーク」をやっている方と言った。つまり、種々の本を通して社会を理解するそのときに書評が武器となるのだと。

書評と要約(わかりやすい)の違いを考えるのも、この本を書いた動機だと、砂鉄さん。

大学の授業のシラバスはわかりやすさとともに、授業の面白さのアピールが要求される。人気授業のために。(鹿島さん)

プレゼン文化の蔓延。効率の良さとの折り合い付け。

自分で考える、ことは他人の頭の中をも考えることになる。

大学以前で「考え方」を教えないと、考えられない。例『方法序説』。(鹿島さん)

議論への恐怖感があるのか。結論が出ないことに恐ろしさを感じる。(砂鉄さん)

パリの古本屋店主と客の猛烈な議論後のあっけない手打ち。(鹿島さん)

インターネットでよくある、本の読者評価が星1つ問題。すぐに「わからない」本には高評価を与えない。これもゲンダイ的だ。(砂鉄さん)

翻訳していてわからない文章があると、翻訳している自分の頭でなく、原文が悪いのだと誤解することが多い。(鹿島さん)

シニフィアンも合わせてでなく、シニフィエのみを問題として理解または鑑賞する素人が多い。パフォーマティブなところも問題にしないといけないことがある。(鹿島さん)

批評するには、批評の対象(映画や本)を大量に見て読んでいないとできない。量から質への転換が必要。(鹿島さん)

「論理国語」の危うさ。原因は教養ある役人の不在。(鹿島さん)

歴史と地理を座標軸にたくさん読み、考えることが有効。(これは出口さんが頭にありそう、実際あとで出口さんの読書量の膨大さの話が出てくる。)

池上さんの出演番組が、最近はいけてない。やさしく3点にまとめるのは出発点として、その後議論を深めるべき。それがいまは結論になってしまっている。改善策はあるが、コマーシャリズムの下では難しい。

ARのような、Noスポンサーの活動がこれから有効、有望だろう。時間にも縛られず、中身の濃い話ができる。現在のインターネット環境のなかで可能になってきた。(鹿島さん)

48分辺り。

要約と書評の問題。朝日新聞では書評は800字。500字で要約すると、批評は300字しか書けない。(砂鉄さん)

鹿島さんから、毎日新聞の書評を書いた丸谷才一の書評三原則の紹介があった。この先は昨日のブログで要点を書いたが、明日以降もう少し詳しくまとめるつもり。

書評の話は、約半分の時間が経った、このあたりから本格化するが、それ以前のところでも、書評論に重要な示唆がたくさん含まれている。

***

今朝の読書。『荷風と東京『斷腸亭日乗』私註』(川本三郎)。

106頁。
草木好きの荷風。大正9年6月2日、苗賣から夕顔、糸瓜、紅蜀葵(紅葉葵?)の苗を購入。大正9年9月23日、プランタン(プラタナス)を植える。大人の風雅。6月18日、薔薇を植える。10月16日、菊。11月17日、チューリップ。11月28日、福寿草。などなど。

108頁。

小品「うぐいす」を引用。草花好きの老人を描いたもの。これは「帝國圖書館」アプリでも読める。『斷腸亭雑稾』(1918)の287頁。全集なら第6巻(1962.12.5)163頁。なお、「研究余録 ~全集目次総覧~」という凄いページがあって、いつも助かっている。

大正15年9月26日にやっと斷腸花(秋海棠)を入手した。これは翌昭和2年5月11日に芽を出して喜ぶ。

109頁。
「枇杷の花」は『冬の蠅』(1935)にある。帝國圖書館で読めた。全集なら17巻。なお、青空文庫にもある。

125頁。
「小さな花の名でも知ること、しかもそれを漢字で表記すること」は荷風のささやかな文人趣味だったという。

113頁。
大正13年9月18日。世田谷の植政で買った珊瑚樹、青木などの値段を書き留める。しっかり者の荷風。

116頁。
丹精した庭で読書を楽しむ。昭和3年5月30日や6月17日の記述。

『珊瑚集』にはアンリ・ド・レニエの詩「庭」が収められている。これも帝國圖書館アプリで読めた。