2010年6月29日火曜日

Leavittあれこれ

 G.Johnsonの"Miss Leavitt's Stars"に書かれたように、個人的データがあまりにも少ないと思う。Johnsonはハーバード大学図書館に出向いて古い(たぶんピッカリング天文台長や同僚たちの)手紙類を覗いてきたようです。ここが電子化してくれればいいが、いまのところ現地に出かけるしかない。こちらはインターネットで細々と探していくとしましょう。
 1900年前後の時代背景(特に天文学界の)を知らなければ、彼女の仕事の意味と、仕事上の立場(後任?の英国生まれの女性天文学者セシリア・ペイン=ガポシュキンの批判する)を正当に理解できない。米国とほか(例:英国)でのその差も調べないといけないでしょう。
 たまたま読んでいる中村真一郎さんの「文学としての評伝」の方法論はおおいにやくだちそうです。

2010年6月25日金曜日

Leavittの本(Miss Leavitt's Stars)到着

 本日届きました。
 やはり、Leavittに関する個人的な資料(日記や手紙など)はほとんどないと序文で言っている。でもその一寸後にピッカリングとの手紙めいた記述があるが?? これはハーバード大のアーカイブスにある手紙らしい。
 旅行は1896年から2年ヨーロッパへ行ったがどこに誰と行ったかは不明である、1903年には冬の休暇でイタリアか南仏にいっのだとか。(船会社の名前からの推測らしい。)同年夏には英国に行っているようです。大西洋横断は6日半しかかからなかったようです。船賃はかなり安い、10ドル前後。ここをつつくのも面白いですね。

2010年6月23日水曜日

Leavittの挿話

 昨日から今朝までにインターネットで調べた結果、かなり詳細な論文リストが見つかりました。(これは「Leavittの業績」にコメントしてあります。
 次に系図が上にはたどれました。
 http://www.leavittfamilies.org/genweb/Leavitt/Leavitt335.html
数代さかのぼると英国から移住してきたJohn Leavittという祖先(1608年生まれ)に突き当たります。また彼女は牧師の7人の子供たちのうち一番年かさな娘です。系図はまだ下にたどれていないのですが(彼女自身は子供はいなかった。)どうもシカゴにいとこの孫?がいるらしい。

 天文学上の関係者のリストもこれから調べて整理しそれぞれ書きます。(たとえばPickering, Annie Cannon, Solon Bailey, Antonia Maury, H. Shapley, Willimina Fleming, Hubbleなど)中村さんの「木村蒹葭堂のサロン」風にしたいですね。

 ノーベル賞ノミネート話は事実らしい。
 http://www.aas.org/cswa/status/2005/JANUARY2005/HenriettaLeavitt.html

 あまり評判よくないらしい伝記本はAmazonで中古(幸い日本の業者さんでした)を購入手配しました。これしか本は見あたらないので注文。今日、夕方には届くでしょう。楽しみ!

2010年6月22日火曜日

Leavittの情熱

 まだ、彼女をドライブした情熱の出所は判然としません。ほとんど伝記的事実がみつからないのです。
 清教徒(といっていいのか?)としての家庭環境や、当時のアメリカの事情に影響はされているようだが、本質は宇宙へのあこがれと、真実の追求意欲だと思いますが、これから考えなくてはなりません。
 没年月日は1921年12月12日で間違いないようです。(新聞記者が撮った墓碑の写真を見つけました。)また、時給30セントは当時の標準(25セント)に比べて高いという説もありました。英国の賃金はもっと安い。天文台長ピッカリングからも一目おかれていたらしいし。

2010年6月21日月曜日

Leavittの業績

1893年(5年?)
 ハーバード大学天文台で「人間コンピュータ」の一人として、写真から星の光度を読みとり一覧表にして整理する仕事を始める。無給。後に有給の常勤職員となる(1902年)。

1908年
 マゼラン星雲の変光星の一覧表作成。以下を発表。Periods Of 25 Variable Stars In The Small Magellanic Cloud. Edward C. Pickering, March 3, 1912; credits Leavitt.

1912年
 小マゼラン星雲中の変光星の変更周期と光度の関係を発見。以下を発表。1777 Variables in the Magellanic Clouds. H. S. Leavitt, Annals of Harvard College Observatory, vol. 60, pp. 87–108.3

1921年
 ハーバード大学天文台に勤務を続けたまま、53歳で死去。

宇宙論でもっとも大切な遠い天体までの距離を算定するための基礎を築いた。銀河はわれわれの済む銀河だけでなく、アンドロメダをはじめとする無数の島宇宙銀河からなることや遠方銀河の後退速度などわれわれの宇宙観が一変したのは彼女の発見がきっかけとなっている。

2010年6月20日日曜日

Leavitt小伝

とりあえず、インターネットで調べたことを私なりに文章にしてみました。これをベースにまた調べて、彼女の業績の意味や他の周辺トピックスも調べて書きます。最終的には「なぜ彼女は天文学を志し、どう生活を楽しんだか」が解明できれば幸いです。

 Henrietta Swan Leavittは1868年7月4日、米国マサチューセッツ州ランカスターという小都会の牧師の娘として生まれた。幼くして家族とオハイオ州クリーブランドに移住し、オベロン・カレッジそしてラドクリフ大学(現ハーバード大学)の前身校を1892年に卒業した。これを見ると両親は当時としては珍しく娘の教育に熱心であったようだ。
 卒業前から天文学に興味を持ち、天文学の講義を受け、その成績はA-だったという。卒業後も天文の勉強を続けたがそのころ病を得、聴覚に障碍を持つようになっている。
 卒業後数年して、ハーバード大学天文台で有名な「人間コンピュータ」役の女性の一員として無給で働くようになった。望遠鏡を用いて写真乾板上に撮影された星々の光度測定とそのデータ整理が主な仕事であったのだろう。彼女はこの仕事でたちまち頭角を表した。
にもかかわらず天文台長ピッカリングは1902年になって初めて時給30セント(!)の常勤職員に任命している。) 彼女にとっては天文に関する仕事をすることが金銭にかえられない至上の喜びだったのだと思う。
 写真乾板上の星像から星の光度を算定する基準システムを作り上げたがこれは後に(1913年)国際標準として採用されている。
 1908年、小マゼラン星雲の中のCephide変光星たちの光度変化を調べ、光度変化の周期と絶対光度に相関関係があることを発見した。星の周期から絶対光度がわかれば、観測される見かけの光度と比較することでその星までの距離を見積もることができる。これは大変重要な発見で、アインシュタインの一般相対性理論による宇宙方程式の理論的解釈や観測的宇宙論(たとえば宇宙の大きさやその大きさの変化など)の論争のなかで科学者たちが追求し議論していることのおおもとを左右することになる。
 その後も彼女は仕事を続け、女性天文学者の団体で地位向上などの推進もしたが、1921年12月(12日または21日)、胃ガンで亡くなる。病気ではありながら明るい性格で同僚にも人気があったとされている。
 1924年にはノーベル賞の候補にもあげられたがすでに死去していたことがわかり沙汰やみとなったとのこと。

2010年6月18日金曜日

リービットさん(その2)

 昨日からインターネットで調べている。
 1.1868.7.4生まれ。これは正しそう。
 2.没年月日は1921.12.12と同21の二説有り。
 3.大学時代(ラドクリフ大の前身)に天文学の講義を受けて興味を持ったと言うがどんな講義だったのか?
 4.父親は牧師さんらしいが娘をどう教育したのか不明。
 5.ハーバード天文台での上司(ピッカリング)の女性蔑視らしい態度は当時としては当たり前?それとももっとひどかった?
 6.卒業後に欧州も旅行しているらしいがどこに行ったのか?
 7.なぜ病気になったのか?
 8.1924年にノーベル賞候補になったがご本人が亡くなられていたのでその話が消えたという話は本当?
 9.同僚にもっとすごい女性もいた?
 10.明るい性格で女性科学者の地位向上にも貢献していた?

調べると疑問が大いにわいてきてそこをつっこむのがまた面白い。

2010年6月17日木曜日

リービットさんのこと

Henrietta Leavittさんは私より80歳以上年上のかた。病身をおして好きな天文学をやろうと、ボランティアで天文台に勤め(後には常勤となったが)、セファイド変光星の変光周期と光度の相関を発見、その後の天文学の発展の礎を築く。後にノーベル賞候補となったがすでに胃がんでなくなった後。ちょっと調べて伝記的なことを書いてみたくなりました。

2010年6月6日日曜日

イメージを媒介にするのがおすすめ

 放送大学の講義を聞いていて気づいた。教え方がうまい先生のお話を聞いていると、内容のイメージが沸き上がってくる。銀河系宇宙の大構造やその進化のしくみ(仮説であっても)が具体的なイメージとして想像出来るようになる。これは言葉であるいは数式を用いて理解・記憶するのとは違う、快感を伴った理解といえる。
 コンサルテーションも研修の講義もイメージまたはモデルを媒介あるいは主体として成り立たせるのが効果的なのだろう。そのためにはコンサルタントまたは講師の頭の中に語るためのイメージが出来ていなければならない。あるいは顧客や受講者とともにイメージを作り上げていくにせよ、自分たちなりの完成イメージを持って置く必要がある。
 辻さんは小説を書き始める前にその「イメージ」が完成しているという。そのイメージを描写するために細かい表現の断片を積み重ねていく。目的を失った部分の積分として作品が構築されるのでなく、完成品に近づくために部分を連ねる微分的作業なのだとか。
 たしかにお互いのイメージをすり合わせるために話しあう、図を使う、グラフのパラメータを検討する、文章の表現を調整するという行き方のほうが上手くいくイメージがある。

2010年6月1日火曜日

ブライアン・メイに続きたい

 クイーンのギタリストのブライアン・メイ(Brian May)はロンドンのインペリアル・カレッジに宇宙空間の黄道上のちりやガスに関係する博士論文を提出して、博士に2年前になったらしい。当時60歳。もともと大学院には行ったのだが、音楽活動で30数年研究を中断していたという。素晴らしい。
 博士論文まではいかなくても、私も60の手習いを続けます。