2019年3月31日日曜日

「月間ALL REVIEWS友の会」またも大盛会、やはり「友の会」に入ってよかった!

「月間ALL REVIEWS友の会」のビデオ中継・収録の日。現地観覧を許されたので西麻布の鹿島スタジオへ向かう。途中中目黒で乗り換えるのだが、いつになく混雑。みなさん中目黒で花見をなさるようだ。「昔(50年前に)下宿していたが、あまり桜を見た記憶がない。」などと言うと年がわかるので言わない。

ともかく、雑踏にめげず乗り換えて広尾駅につき、散歩をしながらスタジオへ。思い立って、5年前に甥の入学祝いに呼ばれた「さくら」という和風創作居酒屋(西麻布交差点そば)がまだあるかと、行ってみた。あった。ただし日曜定休日。私にとっては安くないので寄るつもりはなかったが、すこしがっかりした。


鹿島先生なら、ご存知かもしれない、と思いつつスタジオ入り。いつになく椅子が沢山。

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巖谷國士先生は、鹿島先生の大先輩だがすごくお元気な話が聞けた。お二人の絶妙な掛け合い(つまりドーダの言い合い)で、20名近くの現場観衆は大喜びだった。課題本『プラハ、20世紀の首都 あるシュルレアリスム的な歴史』は分厚いし高価なので、読みこなしてなかったが、それをしっかりカバーしていただけた。私は図書館で借りているが、再度延長して少しでも読む努力をすることにした。索引の助けを借りるだろう。藤田嗣治の名前も出てくる、と巖谷先生に教わったし。

ともかく、どうしてもプラハに行きたくなる、そんなタノシイ対談だった。それと、メキシコシティーにも行きたくなる。それだけでなく趣のある都市なら世界のどこへでも行きたくなる…オソロシイ対談と言えるかも。

私はメモできなかったが、他の方のメモによると、『カレル・タイゲ』とか、映画『日曜日の散歩者 わすれられた台湾詩人たち』とか、『複数形のプラハ』とか、『スターリンとヒットラーの軛のもとで―二つの全体主義 』とか、『カフカの恋人 ミレナ』とか、『美しき瞬間』とか、面白そうな本・映画がどんどん紹介された。やはりオソロシイ対談^^;

以下はALL REVIEWS(中の人)によるTweetです。

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帰りに有志で軽くお茶を(私はワイン)して、新しい友人たちと話ができた、これもこの対談のおかげだ。

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帰ったら、「いだてん」でポルトガルのマラソンランナー、ラザロの亡くなったのを知り、残念な気持ちになった。その後、イチローの愛犬「一弓(イッキュウ)」の姿が拝めたので、今日は全体としては良い一日。

2019年3月30日土曜日

OLD REVIEWS試作版第七弾…「私の知ってゐる南方熊楠氏」(中山太郎)

私の知ってゐる南方熊楠氏 中山太郎

私は南方熊楠氏を、奇人だとか、變人だとか、又は單なる物識りだとか、そんな陳套な文句を以て品隲することは、氏に對する大なる冒瀆であると信じてゐる。私は斷言する、南方氏は奇人とか變人とか云ふそんな小さなケタは、生れながらに超越した偉人であり哲人であると云ふことを。而して南方氏こそ眞に生ける日本の國寶であることを。

我が南方氏は日本に過つて生れた大學者である、言ひ換へれば日本が過つて生んだ大天才なのである。學者必ずしも天才ではなく、天才又必ずしも學者でないが、南方氏に在つては一身で此の二面を具へてゐるのである。寡聞ではあるが私の知れる限りでは、其の學殖に於て、其の精力に於て、然も識見に於いて、氣魄に於て、我が南方氏に比肩すべき者を我國の現代に於て、其現代に於て
否、我國の過去に於ても遂に發見することが出來ぬのである。彼の勤續四十年を以て歐洲の學界に有名なるキングスカレツジ教授ダクラス氏が『南方は大偉人なり』と敬服し、更にロンドン大學總長ヂツキンス氏が『南方はそれ異常の人か、東西の科學と文藝とに兼通せりと激稱したのは、決して世辭でもなければ追從でもない、氏は不世出の大偉人、大異常人なのである。
    ○
南方氏の學殖に就ては、苟くも本書を通讀せられたお方ならんには、其の該博と深遠とに必ず驚かるゝことゝ思ふので敢て説明せぬが、精力の絶倫に就ては、氏が大藏經を三度精讀したとか、内外古今の書籍を讀破したと」か、そんな月並のことではなく、更に驚くべき事實が數々ある。然し此處に其の總てを盡すことは許されぬが、私が一番驚いてるることは氏の書信である。一度でも氏の書信に接したお方ならば、卷紙に毛筆の飯粒大の細字で通例三尺五尺、長いのは一丈二丈と云ふ、一通讀むにも三日は、かゝると云ふほどの書信を、一氣呵成に書きあげる精力である。然もその書信たるや南方一流の引例考證の微に入り細を極めたもので、書き出しの時間と書き終りの時間(氏は如何なる書信にても此の事を附記する)から推して、引用書を參考する餘裕はないと信ずるので、あれだけのものを全くの暗記で認めるのかと思ふと、實際異常の人を叫はざるを得ないのである。然も斯かる長文の書信を、明治三十四年の歸朝後に於て先づ佛教に就ては故土宜法龍師(仁和寺門跡、後に高野山座主)に、植物學に就ては理學博士白井光太郎氏に、民間傳承に就ては柳田國男先生に、神話及び童話に就ては故高木敏雄氏に更に粘菌學に就ては小畔四郎氏に、淡水藻に就ては上松蓊氏に、人類學び粘菌に就ては平沼大三郎氏に、多きは數百通、少きも數十通を寄せてゐる。以上の中で私が披見したものは白井博士、柳田先生、小畔氏の三氏だけであるが、故高木氏の分は學友ネフスキー氏の談によれば、一部の書册をなしてゐたと云ふし、上松氏の分も、平沼氏の分も、又相當の量に達してゐることゝ思ふ。これだけの書信、それは營業としてゐる手紙書きでも遣󠄁れるものではない。然もそれを研究の傍ら遣󠄁り通す氏の精力には誰か企て及ぶものか。

氏の識見と氣魄とに就ては、別項に就て記す考へであるから改めて此處には舉げぬ。更に氏の專攻である粘菌學に於て、如何なる位置を世界的に占めてるるかと云へば、これは左の數字が雄辯に證明してゐる。

大正十五年迄の世界植物學界に報告されてゐる粘菌の總數は、本種變種の二つを併せて(以下同じ)二百九十七種であるが、此の中で南方氏が獨力で發見報告した數は實に百三十七種に達し、氏の指導を受けてゐる小畔氏が五十二種、同じ上松氏が五種、外には理學博士草野俊助氏が十七種を報告してゐるだけで、他は世界各國の諸學者の報告である。多くを言ふを要しない。纔に此の一事から見るも氏の貢献の如何に重きをなしてゐるかゞ窺はれやう。氏が英國で發表した『燕石考』が、今や十二ケ國の國語に飜譯されてゐるとか、更に『神跡考』が内外學者の驚異となつてゐるとかと云ふことは、氏の名譽には相違ないが、然し氏にとつては全く餘技である。これを以て氏を測らうとするのは、未だ廬山の總てを盡くさぬ人の管見である。

私も敢て氏の總てを知つてゐるとは言はぬが、如上の書信を通じ、更に氏を知る方々のお話を承り、それへ私が大正十一年五月から八月まで、前後九十日間親しく氏の口から聽いたことを綜合して、その輪廓だけでも明かにしたいと思ふ。聽き違へ覺え違ひも澤山あらうが、それは總て私の罪であることは言ふまでもない。
(以下略)

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出典 以下の書籍の「解説」
『南方随筆』 1926年 岡書院 国会図書館デジタルコレクション(下の画像も)


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今日もネタ探しを続けた。
即興詩人の口語翻訳版の序文と鷗外の序文。宮沢賢治本の序文など、やってみたい。






2019年3月29日金曜日

読むべきものはたまり続けるが自分の時間は有限(T_T)

月間ALL REVIEWS友の会の予習、今日は、以下の二冊を借りてきた。『シュルレアリスムとは何か』、『幻想植物園』。どちらも、ゲストの巖谷國士さんの本。


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シュルレアリスムやプラハのことを考えていると、突然子供の頃読んだワルシャワのゲットーの本が思い出され、読みたくなった。本の名前が思い出せない。『ワルシャワ・ゲットー―捕囚1940‐42のノート』と言う本が最近の話題だが、これかどうかわからない。来月、ALL REVIEWSサポートスタッフ神奈川支部の発足会が、中華街であるが、そのついでに県立図書館に行って借りてきてもよいかなと考えた。返すのが億劫になりそうだが。

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OLD REVIEWS関連のネタ探し。こんなのはどうだろうか。南方熊楠から中山太郎と柳田國男へのルート。いくつか国会図書館デジタルで探した。

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これも読まなくては…

2019年3月28日木曜日

漢字入力は面倒なところが楽しい

古い記事をOCRでデジタルテキスト化すると、旧字体の変換がほとんどされない。これを校正時に旧字に直すのだが、ここが一筋縄ではいかず、面白い。

まず、「正漢字正かなづかひ辭書」というのを、いつも使っているGoogle日本語変換に追加した。これで旧字体の漢字が変換候補としてだいぶ出てくるようになった。普通にメールなどを打っている時には不便なので、デフォルトの日本語変換を使う。これはこれで使いづらいので何か手が必要。必要に応じ辞書を切り離せるとよいのだが…

変換で出てこない場合には、個別に漢字を探さないといけない。新字一字をそのままGoogleで検索し、漢字ペディアなどで出てくる、旧字をコピペする。

見つからない場合は、漢字辞典のお世話になる。部首を考え、部首以外の画数を数えて、辞書を引く。紙の辞書でやっていたが、見つかってもコピペできない。通常は「よみ」で変換すると出てくることが多い。

そもそも「よみ」がわからないケースも有る。漢字そのそのを手書き入力できればいい。Mac上で手(マウス)書き入力ができるが、超絶に使いにくい。iPadに手書き入力(Mazec)を入れてあるので、これを使うこともある。うまく出てきたら、メモアプリを介してコピペする。

今日、『インターネットで文献検索』という本をめくっていたら、こんなサイトが紹介されていた。
(1)《Unicode/CJK統合漢字》漢字検索
(2)漢字変換ツール [JavaScript版]
これは便利そうだ。明日から校正のとき使ってみよう。

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Twitterでこのサイトを再発見。内容(オモシロイ)やサイトの作り方が参考になる。大久保さんのサイト。
The Baker Street Bakery

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月間ALL REVIEWS友の会の予習で、プラハのことを調べているが、『カフカの世界』(辻瑆(この字の検索でさっきの(1)が役に立った(*^^*) )1971年 荒地出版社)がよさそう。玄関わきの本棚から発掘。


2019年3月27日水曜日

高丘親王の旅は今も続いているか…

3月31日の月間ALL REVIEWSのゲストは巖谷國士さん。この方は、澁澤龍彦全集の編者だと、やっと今朝思い出した。『滞欧日記』という全集の一冊を出してきて少し読むと、今度の月間ALL REVIEWSのテーマの舞台プラハに滞在したときのことが書いてある。解説は巖谷國士さんが書いている。ちょうどいいので、この本を持参してサインしていただこう。


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澁澤龍彦といえば、絶筆となったのが『高岳親王航海記』でかなり昔に読んで感激した。高丘親王のことを調べたいと思って、国会図書館に相談してみた。以下の新村出の文章が見つかった。

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眞如法親王の記念碑を新嘉坡に建つるの議

平城天皇の皇太子であらせられた高岳親王、卽ち弘法大師の高弟であらせられた眞如親王の御事蹟は、明治以來しばしば學者並に佛教家の考證を盡くし、顯彰を重ね時には遺跡の探檢をも試みたことさへあつて今更私がこゝに後ればせに紹述し奉る必要はない。唯親王が御少年時代の御悲運は、申すも畏こき事であるからそれはさて措いて、私たちがいつも想出す每に感激に堪へないのは、七十有餘歳の御高齡を以て、唐土から更に印度に向はせられた其の壯擧の、而も遂げたまはずして空しく南國の一角に玉體を埋めさせられたことである。日本人として貴賤のいづれを問はず渡天の雄圖を敢てした第一人者として、又近世以往にあつては空前絶後の業を企てた佛教徒とも云はるべき御方として、一千有餘年の後に於て國民を興起せしめ、佛教徒を感奮せしめずにはおかぬ事どもであるにも拘はらず、未だ如何なる方面に於ても何等大規模の記念事業を立案し計劃したことあるを聞かぬのは、私の甚だ遺憾に思つてゐる所である。

眞如親王が入唐の勅許を得られて奈良の超昇寺を發せられたのは清和天皇の貞觀三年でいよいよ九州を出發して唐に到着されたのは、其翌年の九月であつたが、それらは唐では懿宗の咸通二年三年で、西暦紀元八六一年八六二年に當るのである。而して親王が唐の皇帝の認可を受けて印度に向ふべく廣東を出發されたのは、貞觀七八年、卽ち咸通六七年の春正月二十七日の事であつた。この二年のうちの春で、その年次は前後兩樣に考へられるけれども、多分は貞觀八年卽ち唐の咸通七年、西紀八六六年のことゝすべき樣である。されば今大正十四年から遡ると、大凡そ千六十年目になるわけである。それゆゑ當今を以て正に千年とか千百年とかいふ遠忌に達してをると云ふことは出來ない。然しながら全く別の機縁により、私は親王を追慕し奉るあまり、此の千六十年忌ぐらゐを起點として、親王の記念事業を計劃したい痛切な希望を、懷いてをる。

親王を記念し奉るべき場所は、奈良及び其西郊を始め、高野なり東寺なり御遺蹟の地に求めることは固より當然であるが、私が一層熱烈なる情を以て計劃したいと思ふのは、新嘉坡の適當なる地域に於て雄大にして崇嚴なる記念碑を建立する事である。何故に特に新嘉坡を選定しようとするのか、それは次の理由に基くのである。

親王が渡天の徑路は、古來より明治末期に至るまでは、學者も佛教家も同樣に陸路を取られたと考へ流沙を渡るといふ常套の修辭に拘泥し、又御落命の地たる羅越ラオスと誤解したがため、誰も南海の航路に依られたと考へ及ばなかつた所が、夙に東洋史學の先進たる桑原博士は、奮來の謬説を打破して親王の渡天は、義淨等幾多の先從もあつて唐代には頗る開けてゐた南海路を選ばれたものに相違なく、尚羅越は馬來半島の一角、大體今の新嘉坡附近と見てよからうとの斷案を下された。それ以來この新説は學界の定論となり、私もこれまで度々之に據って説を立て來つたのである。尤も桑原博士の世間への發表以前佛國の東洋學者ペリオー氏も羅越國の所在を該半島に想定したことがあつたが、私は考證に於ては、桑原氏の方がペリオー氏に先んじてゐたことを信じ得る理由を持つてゐる。なほ私も驥尾に附して聊か考究を進めたが、羅越といふは、馬來半島及び附近の大小諸島嶼に見ゆるラウツト何々といふ地名の音譯ではないかと思ふのである。ラウツトと云ふのは馬来語で海のことを意味する通用語であるから、羅越といふのは、半島の東南に寄つた海岸の一地方から出でた地名で今の新嘉坡附近だなどと精密に極めることは無論出來ないけれども或は寧ろ反對の方面海岸かも知れず、卽ち暹羅灣の方面の沿岸であるか或は外洋に面する方の濱海地方かも知れないけれども、ともかくも半島の東南端に近いことだけは、間違ひないと信ずる。それ故に後世日本人の發展地として、又我々の印度及び歐洲への航路として、往來頻繁なる重要貿易港たる新嘉坡を以て、眞如親王薨去の羅越國に比較的接近せる由緒地と擬定することを容るされるであらうと思ふ。

私は此の際新嘉坡の新興以前遠く足利時代及び德川時代初期卽ち明朝の時分に馬來半島の南北沿岸の奧地に日本人の足跡を印した事を取立てゝ筆にしたくはない。勇敢なる日本人が、所謂ろゴーレス人として貿易のために西下し、或は倭寇として強行南征し、或は山田長政の徒として背面の六坤を進略しためした雄圖は、畢竟侵略主義的な、帝國主義的な奮時代の一夢と追想し去ることにしやう。ともかく此際はさう考へておきたいのである。寧ろ私は、フランシスコ・サベリヨ上人が、薩摩の青年彌二郎なるものをマラツカの港より印度に伴ひ行き、それが日本に於ける西教流行の機縁となつたことを以て、馬來半島と日本との平和なる又榮光ある史的關係の一面を飾りたい氣がする。

眞如親主が、求法の爲に印度に航せられて其途中羅越國に薨去あそばされてから凡そ一千六十年の昨今に、當つて、印度を領有する大英國は、國内に於ける種々の公義公論の末、また日本に於ける朝野さまざまの批評杷憂の聲をも馬耳東風と聞流しつゝ、將に新嘉坡に軍港を建設し、或は印度を護るためとか或は濠州を庇ふためとか稱して日本に備へんとする由である。軍國外交の事に門外漢たる私は、かゝる事件に對しては風馬牛であつて、眞如親王の求法の精神たる平和的宗教的動機からして、英國が軍港を建つる共同一領域の附近に、親王追慕の爲め、平和の押へとして、平和主義宣揚の象徴として、記念碑を立てたいと思ふのである。日本人の求むる所は、印度古聖の法であつて其穢土ではない。佛教の精神から云つても無論同樣である。あの瀬戸からして一歩も侵入させまいと思ふのは、お互樣であるが、英國が特にあゝいふ軍國的態度に出ようとするのに對して、日本が冷然平和的精神を固執しようとするのであるとも云へば云へる。然し私の提唱するのは主として對英關係からするのではなくて、眞如親王を顯彰し奉りたいといふ國民の衷情の一端から出づるに外ならないのである。

尤も他國の領土に記念碑を建つるといふが如き事が許されることか如何かは考へて見ないのではない。無論多少の困難はあらう、又永遠に之を保護するについても覺悟は必要であるが、その困難に打勝つこと、その覺悟を固くすることは、日本人が皇室を尊崇し歴災を敬重し佛法を擁護し平和を愛好する精紳よりしては、何でもなからうと信ずるのである。而して建碑事業の遂行に關しては其組織や方法を考究する周到確實なる國民的大規模の計畫を興す必要があらうと思ふ。

少し話が一躍して進みすぎる嫌があるが、若し碑を立てる場合には、眞如親王の御事蹟の要略、殊に其御最期の事を、極印象的な文句に綴つて、日本文と漢文と梵文と英文との四體とし、碑の表裏兩側の四面に彫刻して、建とえば日本領事館の域内とか、或は寧ろ公園や博物館などの衆目を惹く地帶とかに建てる樣に致したいと云ふ案を持つてゐる。

今大正十四年西暦千九百二十五年の新春を迎ふるに方りて、先づ之を日本の宗教家諸賢に檄して御一考を希望する次第である。(『中外日報』大正十四年一月一日)
*出典 『史伝叢考』 1934年 楽浪書院
国会図書館デジタルコレクション(下の画像も)



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なかなかいい話だが、戦時中だし、本当に石碑が建立されたのかと調べたら、こんな記事が見つかった。スゴイ。平和になってから、本当に建てたひとがいたのだ。

「高岳親王と羅越国 1100年の時を結ぶ不思議な縁 /野村亨  [1997年10月21日 東京夕刊] 」

2019年3月26日火曜日

MAKING OF OLD REVIEWS 3/26/2019

「OLD REVIEWS」試作作業の中間報告です。

今までの記事のインデックス。(含むリンク)
(1)「巴里にてのツルゲーネフと島崎藤村」 正宗白鳥
  (2)「羅生門の後に」  芥川龍之介
(3)序に代へて (戸坂潤)
(4)鷗外の『秀麿もの』 辰野隆
(5)芥川龍之介と詩 室生犀星
(6)永井荷風氏の「紅茶の後」(安倍能成)

作成方法。
(1)国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開されている書籍をキーワード検索し、記事を探す。
(2)国会図書館デジタルコレクションの機能を使いPDFファイルを作ってダウンロード。画像調整も同時にする。
(3)ONLINE OCRでデジタルテキスト化。
(4)デジタルテキストを手作業で校正する。古い記事なので旧字旧仮名に注意する。旧字のチェックは校閲君にお願いする。迷ったら現行の字体を尊重する。
(5)ブログにアップし、出典とあとがきを追加する。
(6)ブログ読者の方に指摘されたミスは即刻修正。

今後の課題。
(1)記事を探すのは楽しいが、大変。大量の書籍があるのだが、個別に見つけた記事を熟読し、その記事に関連した記事を探すという地道な作業が必要。時間が重要な資源となる。これを毎日の生活の中で続けるためのモチベーション維持ができるか。
(2)品質の良い(OCR効率の高い)原稿画像を得ることが、校正の能率を左右する。ところが古い書籍から取得できる画像の品質は一般的に悪い。より鮮明な画像の取得が必要。

感想。
この作業は非常にオモシロイ。ブログに上げるまでに記事を何度か精読できるから。

数十件くらいまでは今のやり方で続けていく。そのなかでなにか新しいアイディアも生まれるだろう。

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『終戦後日記』(徳富蘇峰)は第一巻を読み終えた。この日記は荷風や百鬼園の戦後日記とまったくちがうオモシロサなので第二巻も借りてきた。他に『自伝』も借りてある。新聞記者としての訓練が出来ているらしく、文章が読みやすい。しばらくは興味を持って読み続けられるだろう。

2019年3月25日月曜日

春は花粉症がなければもっと楽しい

校正のオシゴト一件。他の方の校正済み原稿のチェック。正確に校正していただいたので、私のやることはほとんどなかった。

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朝空はすっかり春。



昼前に近所の桜を観察した。



やはり、(昨夜の予測同様に)咲き始めたので、「開花宣言」を出した。



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夜、久々に3人集まっての寿司屋でのカラオケ飲み会(例によってカラオケはしない)。話のネタは健康第一。

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徳富蘇峰の『終戦後日記』は、第1巻の終わり近くに来た。第2巻を図書館にて予約した。

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眠い。午前中に考えていた面白そうなことは、すべて忘却の彼方に。
昼前に仕事仲間に教わった、「UDトーク」はなかなか良い。

2019年3月24日日曜日

OLD REVIEWS試作版第六弾…永井荷風氏の「紅茶の後」(安倍能成)

永井荷風氏の「紅茶の後」(安倍能成)

三田文學を手にした時には、いつも先づ荷風氏の「紅茶の後」を讀むのが常であつた。今度一册に纒められた「紅茶の後」には、雜誌にはその名で出なかつた者も四五篇あるが、大方は皆一度讀んだ者ばかりである。それで居てやッぱり繰返して讀むだけの興味を感じさせる。材料が肩のこらぬ者だからでもあるけれど、氏の文章と見方とが人を引付けるによるのだと思ふ。

この書を讀んでも先づ感じたことは、荷風氏が詩人だといふことである。――荷風氏自身も詩人を以て任じては居るが――荷風氏の觀察も批評も詩人の觀察批評である。そしてそれを裏付けて居る者は、常に咏歎と哀愁の調子である。叙情詩的な氣分である。氏を以て藝術的天分の高い人と言へなくても、藝術的氣分のたつぷりある人だとは言ふことが出來る。

「新歸朝者の日記」などには、西洋文明の崇拜と共に、我國の文明の呪詛が大分烈しかつたが、この頃は大分あきらめの氣分が勝つて來て、現代の日本に對する不滿足を主として過去殊に江戸時代の爛熟した文朋の追慕に慰めて居る。現代に對する嫌惡と不滿とは、氏を驅って、過去を理想化し美化し詩化し誇張して、その憧憬に殆ど全心のやるせなさを託するまでにさして居る。この點に於て氏は明かにロマンチストであるけれども、そのローマンスは常に前になくて後にある。氏の文章の底には常に「昔を今になすよしもがな」とかこつ哀調が流れて居る。氏のあこがれの對象は、新しい未見の人生でなく、知らざる神でなく、寧ろ理想化された過去の傳説歴史である。氏は決して人生の曙を仰望する革命の詩人ではなくて、西に入る夕日の影を惜む追懷の詩人である。だから自由と放縱を願ふ心も嵐の樣に吹き荒れずに、末は一種のあきらめに收められてひそやかにさびしい心持を樂む樣になる。犬の樣に吼えずに秋の蟲の樣に喞ちたいとは、氏の僞らざる願であらう。氏は急進突飛の人でなく寧ろ保守溫和な點を備へて居る。靈廟の美を讃へては過去を重んぜよといひ、老い衰へた昔の巴里人ベルナールの貴族的靜肅を喜んで居るのにもそれは分る。かくて進取と新興とを厭つて靜止と滿足と衰頽とを喜ぶ心は、氏を一種の溫和なデカダンとした。氏の人生には未來がない、峻險を凌いで前へ進まうとする雄々しさがない。絶望的の態度にしても倦怠の氣分にしても、やつぱり極端に徹し得ない我が民族の程のよさを分有して居る。氏の書いた者をよんで物の底に衝き當たった樣な痛快は得られない。この點に於て氏はやつぱり一種の都會人なのであらう。都會人に對する物足らなさはやッぱり氏にも備はつて居る。故の樗牛氏なぞは晩年に美的生活論を唱へたり、平家の滅亡を讚美したりしたが、永井氏に比べると男性的な田舍者らしい骨の固い所が取れなかつた。然しその心持に於ては到底永井氏の比較的純粹なのに如かなかつた。永井氏は都會人の複雜した精鍊された趣味を解する人であらうが、其心持は割合にオツトリとして純一に近い所がある。殊に自分の心持好く思ふのは氏の世間の野心功名を賤しむ一種の貴族的な上品な點である。氏の言説にはーつも自ら爲めにする樣な陋劣な分子が見えない。それから又人前に自分の氣分を僞り裝ふといふ所がない。この點は一晩の内に新しい果實から餒えた果實に早變りする忙はしい現代の文學者に乏しい所である。

氏が自分の趣味を持って居ることは、例へば默阿彌の白浪物の美點を認めた鮎や、又徳川時代の戲作者に對して同情ある見方をして居る點などにも見える。こんな見方に贊成するといふのではない、唯だ氏の世俗に雷同せぬことを喜ぶのである。

自分は「紅茶の後」に表はれた氏一流の文明批評ともいふべき者を興味を以て讀んだ。氏の文明批評にはやッぱり不秩序無禮儀亂雜殺風景なミリタリズムの成金的現代を歎き、秩序と禮儀との整つた純粹な江戸時代を慕ふ心が到る處に見える。芝の靈廟の中から、玉垣の外なる明治時代の亂雜と玉垣の中なる秩序の世界とを思ふ感慨は、氏の文明批評の基調をなして居る。氏一流の觀察には時々頗る穿つたと思ふ者もある。徳川の三味線藝術を以て最も不自然な人工の極に達した不健全の藝術と見る如きは、恐らく多くの人の首肯する處だらうと思ふが、其外にも我國に於て常にどの時代にも外國崇拜の絶えなかつたといふ觀察の如き、又日本人には西洋人が黄禍論を唱へる以上に強い排他思想があるといふ觀察の如き、其の儘には承認せられないにしても、兎に角問題とするに足る所の示唆であるといつてよい。自分は中にも「銀座界隈」の一篇に、動いて居る現代生活や文明の中に、「淋しい心を漂はせて」一流の觀察眼を放つて居る荷風氏を見得たことを喜ぶ。「蟲干」の中に見えた明治初代の文明に對する觀察も、同情のある面自い觀察であつた。

氏の感覺は別に新しいとも鋭いとも思はない。然し和かで暖かである。これは氏の文章に一種のチヤームを與へる原因であらう。氏の文章を一言に評すれぱ、和かで華やかな文章といふべきであらう。氏は序文の中に自分で、魚河岸の阿兄の樣に氣の利いたことを言へるか言へないかゞ關心の問題だといつて居る。氏の文章は固より氣の利かない者ではない。然し氏の文章には寧ろ程がよくて穩やかなオツトリした若旦那らしい所の方が多い。序文の意味がさうだといふのではないが、向ふいきの強い魚河岸の阿兄に擬することは、寧ろ柄にないことゝいつてよからう。
氏の文章で思出したのは六七年前に讀んだ中野逍遙氏の「逍遙遺稿」である。逍遙氏の漢詩や漢文には、普通の漢詩人に無い華やかな自由な處があつた。これは固より逍遙氏の詩人的性格になることだけれども、其後逍遙氏が支那小説や脚本を耽讀した人だといふこを聽いて、スタイルの方では定めて其邊の影響が多かつたことゝ獨りぎめに首肯いた。荷風氏の文章は決して無傳統な新しい文章ではない。恐らく氏の文章には江戸時代から明治へかけての戲作者の文章や漢文漢詩の素養があるのだらうと思はれる。何事にも蕪雜を厭ふ氏の文章には、老手の腕の冴えはまだないけれども、頗る整つて居る。從って又大膽な突飛な表出法が少い。比較的多く使はれてる漢字の使方にも、靑年文學者中の華やかな文字を好んで使ふ人の樣な不妥當な所が見えない。歐文脈もあまり露骨に調和を破る樣には挿まれてない。しかし自分は「浮世繪」の樣な文章は好まない。

氏の文章は他面に於て又素人好きのする、そして比較的模し易い文章である。自分は氏の模倣者の生煮えの咏歎を得意がつたり、半可通の都會趣味を鼻の先きにぶらさげないことを望む。(一九一二、一)

***
出典 『予の世界』 安倍能成 大正2年 東亜堂書房

国会図書館デジタルコレクション
(下の画像も)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/951786

あとがき
『紅茶の後』(永井荷風)も国会図書館デジタルコレクションで読める。「三田文學」の連載を元に一冊にまとめたものらしい。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/889041


2019年3月23日土曜日

物忘れはブログで解消できる

昨日のドライブ疲れで、今日はシゴトする意欲なし。そんな時よくやる、「OLD REVIEWS」のネタ探しも不調に終わった。いま、一昨日のブログを読み返したら、面白そうなネタが1つあったので、明日はその記事のブログ化をしようと思う。

こうして過去の思考を思い出せるのが、ブログの良いところだろう。「博士」(*)もブログではないがメモを書いていたのを思い出した。記憶力減退の対策に良いだろう。ブログ検索をもっとうまくできるような仕掛けを考えれば鬼に金棒、ひょうたんから駒だ。

(*)え、誰?と思ったかたは、「博士の愛した数式」をプライム・ビデオで観てください。「博士」が博士らしくないところが気に入ってます。



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夜、7時前に買い物に出たが、すでに外猫二匹が寝る準備をしていた。寒い時よく行く、秘密の隠れ場所、通信設備の格納箱の上だ。機器の熱で、ほんのり暖かいらしい。猫に直接聞いたわけではないが。


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もう一つ思い出した。「メモ」アプリは超絶便利。今朝考えたことをメモっておくと夕方にまた思い出せる。iOSとMacで共通に使えるのも便利。

2019年3月22日金曜日

常磐道SA今昔

5時起き。風呂に入って目を覚まし、7時過ぎに出かける。当家恒例のお墓参り。墓は東海村にある。

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渋滞を乗り越えて、常磐道へ。どうしても行き帰りに守谷SAと友部SA両方に寄って、用を足し、食事もし、土産も買う。

今朝の守谷SA。下り線。ここで休憩。


昼前の友部SA。納豆定食をいただく。


お寺(浄土宗)に立ち寄り、卒塔婆を受け取って、墓地へ。去年から参加の新メンバーによると、浄土真宗では卒塔婆を立てる習慣はなかったとのこと。いろいろあるもんだ。
お参りを済ませて、集まった家族全員で会食。にぎやかだった。

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帰りにまた友部SAに立ち寄る。納豆他のお土産を購入。刻んだ漬物が入ったそぼろ納豆が好みだ。これは自家用。

渋滞直前の守谷SAに寄り、休憩してから、首都高での戦いに臨む。ひところは古ぼけていた守谷SAはこのごろ改装されてとても奇麗になった。


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夜の9時過ぎに帰宅。花粉症が悪化して大変だ。眠れないかも…

2019年3月21日木曜日

「ひよっこ」は何度見ても泣ける

テレビをよく観た一日。まず、午前と午後の「ひよっこ 総集編」。前半後半ともにフルで観た。何回も観たシーンでもうるうるする。特に、集団就職で働きに出て苦労するシーン。朝ドラの中でも特に好きな作品だ。来週、続編を短期連続でやるらしい。もちろん、これも観るつもりだ。

夕食時には『遙かなる山の呼び声』。山田洋次原作の映画を今回テレビドラマ化した。やはりこの主人公には高倉健が向いていると思ったが、今回のもなかなか良くできていた。どちらにせよ、『シェーン』にはかなわないけれど。

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『徳富蘇峰 終戦後日記』(2006年 講談社)を借りてあったのを半分まで読む。日記と言っても身辺のことはほとんど書いていない。もっぱら戦争責任の意見の開陳。全部納得はできないが、うなづくところもある。そしてなによりスゴイのが、文章の魅力。すべての文章が、読むものを引きつける。この秘訣を会得したいものだ。80すぎまで書き続ければできるのだろうか。



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OLD REVIEWSブログは今日はお休み。だが、次の原稿候補を見つけた。安倍能成の『予の世界』中の「永井荷風氏の『紅茶の後』」。アップできるのは明後日以降になるだろう。

2019年3月20日水曜日

OLD REVIEWS試作版第五弾…「芥川龍之介と詩」(室生犀星)

芥川龍之介と詩 室生犀星

初めて芥川君をたづねた折に僕は自費出版をした「愛の詩集」を携つて行つたが、二三日後に七八行の詩を書いて送つて寄越した。原稿は紛失して見當らないが、何んでも田端の高臺から茫乎たる下町あたりの烟をかいた詩で、ちよつと立體的な格調があつた。手紙には君の眞似をしてかいた詩だとしてあつたが、その組立てががつしりしてゐた。詩の話をよくしてゐたが佐藤惣之助君の詩や、萩原朔太郎君の詩を好いてゐるやうであつた。時々、僕の部屋でちよつと紙と筆とをかしてくれと云ひ、ちかごろ作つた詩だと示すことがあつたが、さういふ時の芥川君はそれが十行くらゐのものでも、すらすらと覺えてゐて書き下してゐた。晩年の春だつたかに漂然とたづねて來た芥川君は例によつて紙と筆とをかしてくれといひ、一篇の詩を書いて、それを僕の手にわたすと、

――、この詩はどうかね。

と、例の鋭いとげとげしい筆蹟の詩を眺める僕を、彼はまじまじと見てゐた。芥川といふ人は對手の眼を放さずに見つめるくせのある人だつた。あの人ほど他人の眼を見て物をいふ人はない。女の人にもああいふ眼付をして物を話した人であらうか。ああいふ眼付をして靜かに眼を眺め込まれたら、ちよつと嘘をつくことが出來ないかも知れない。

芥川君はたいへんに長い睫毛をもつてゐて、その瞼が合ふと睫毛が深々と眼を覆ふことがあつた、睫毛の長い人は短命だといふが、あるひはそれがさうであつたのかも知れない。話の途中によく眼をしばたたくほど泪もろいところもあつた。

山吹
あはれ、あはれ、旅びとは
いつかはこころやすらはん。
垣ほを見れば、「山吹や
笠にさすべき枝のなり。」

かういふ詩は古いほど感じが深いね、と鑑定家のやうに僕は頸をかしげながら云つた。

――、かういふ全體が前がきのやうな詩には、なにか曰くがあるのかね。
――、ただ書いたのだよ。詩としてはどういふものかな。
――、「山吹や笠にさすべき枝のなり」をうまく點出したのはいいね。こんな念入りな詩は僕にはかけんね。
――、うむ。

芥川君はちよつとうなるやうに嘆息した。そのころ芥川君は返辭をするかはりによく唸るやうな溜息のやうなものをつくくせがあつた。僕はしかしそのとき山吹やの句が誰の發句だつたか思ひ出せずにゐたが、あるひは芭蕉の句かとも思うた。芥川君にさういふと芭蕉の句だよとこたへた。

だが、間もなくその詩のことを忘れてしまつたが、亡くなつてから僕はその詩を慌てて見たくなり、讀むと何も彼もわかつて良い哀れ深い詩だと思うた。あの時に充分に意味がわかりかねてゐたが、僕でなくても誰も突然にあの詩を示されても、わからなかつたであらう。

僕はこの詩の旅びといふ言葉や、山吹の枝を笠にさす心持が永い間頭にのこつて、ふと口ずさんで見て哀しみを感じることがあつた。詩としても非常にうまい。芥川君の生涯に二つとない秀れた詩であらう。まるで旨い墨繪のやうであつて、字句のあひだに一字のたるみなぞがない。

一たいに芥川君の詩は發句ほどうまくない。發句なぞよりも些か馬鹿にして書いた思ひつきふうなところがある。しかし遺珠なぞはさまざまに置きかへて苦心してゐるが、あれは苦心といふよりも口調とか韻律にあまへたところがあるのである。

芥川君の詩は發句とおなじい苦心をしてゐるやうであるが、發句にはひどく打身になつてゐても、詩は大抵悲しみ嘆くといふ情をあらはしても、それに身を委してゐるやうなところがある。つまり歌ひながら書きつづツた詩がたくさんにある。詩中にもだえてゐるところがあつても何處かで遊んでゐるやうなところがあるのだ。大ていの詩は人に與へて書かれたものであり相聞風な趣きの作品である。小説のなかに悶えてゐた彼は時々にしばしば机をあらためて、詩をかいて疲れを醫やすといふときが多かつたにちがひない。さういふ悲しい閑日月を弄することは忙しい生活にあつては、一そう樂しいやうな氣がするものである。芥川君の書齋は本やら骨董で一杯であつたから、一入、詩中にはいり込んで心を遣るといふことに、自らも好んでゐた哀れ深さを樂しんだことであらう。

相聞一
あひ見ざりせばなかなかに
そらに忘れてやまんとや。
野べのけむりも一すぢに
立ちての後はさびしとよ。

相聞二
風にまひたるすげ笠の
なにかは路に落ちざらん。
わが名はいかで惜しむべき。
惜しむは君が名のみとよ。

相聞三
また立ちかへる水無月の
歎きを誰にかたるべき。
沙羅のみづ枝に花さけば、
かなしき人の目ぞ見ゆる。

これらの詩はことごとく口調のよい、詩にあまへた人のくり言ばかりである。そのほか旋頭歌「越びと」二十五首ことごとく人にあたへ、人をおもひ、人を哀しんだ歌の數々である。

元來芥川君は小説家であるよりも、詩人風な人がらであり、好んで詩人たることを喜んでゐた人かも知れなかつた。詩人的であることは小説家であるよりも私なぞには親しいのである。小説ばかり書いてゐる人間は、實際、小説くさくてその作品にあぶらがなく、かすかすな氣がして讀めないのである。

芥川君は迭られる大ていの詩集をよんでゐたが、それが無名詩人の場合でもさうであつた。僕なぞよまない詩集でも、ちやんと迭られるとよんでゐて、かういふ詩人がゐるが、ちよつと旨いぢやないかといふことが屢々であつた。「小學讀本」のなかに編む詩についても、かれは大ていの詩人の詩をよみつくし、それを克明に書き取つて撰んでゐたが、その撰み方にはさすがに眼が行きとどいてゐて、そつのない詩が多かつた。誰々の詩をよんで見たが、まるで佳い詩がないとか、誰々のやうな拙い作品をかく人がどうして詩人になれたのかとか云つて鋭い詩人論を爲すことがあつた。

***
出典
『慈眼山随筆』 昭和10年 竹村書房
国会図書館デジタルコレクション
(下の画像も)

***
あとがき 
芥川龍之介の詩はたいていの全集で読めるだろう。例えば『芥川龍之介全集 2』(春陽堂 1967年)の502ページ以降。国会図書館デジタルコレクションではまだインターネット公開されていない。残念!

2019年3月19日火曜日

OLD REVIEWS試作版第四弾…「鷗外の『秀麿もの』」(辰野隆)

鷗外の『秀麿もの』 辰野隆

夏休みの徒然に、鷗外全集(著作篇)第三卷を書架から取り出して、「かのやうに」、「吃逆」、「藤棚」、「鎚一下」を久しぶりで讀みなほして見た。嘗て愛讀した佳什を時を隔てゝ再讀三讀するのは如何にも樂しいものである。この四つの短篇は明治四十五年一月から大正二年七月まで一年半の間に「藤棚」は太陽に、他の三篇は中央公論に發表された。何れも獨逸で史學を修めて歸朝した五條秀麿といふ若き貴族學徒の人生觀、社會觀を述べた知的な短篇だが、主人公秀麿の思想は當年の鷗外の思想と認めて大體誤りないやうである。
     *
この『秀麿もの』とも呼ぶ可き短篇中の「かのやうに」の中に、ヰルヘルム二世と神學者アドルフ・ハルナックとの君臣の間を論じて、人主が學者を信用し、學者が獻身的態度を以て學術界に貢獻しながら、同時に君國の用をなす點を褒た一節がある。

『‥‥政治は多數を相手にした爲事である。それだから政治をするには、今でも多數を動かしてゐる宗教に重きを置かなくてはならない。ドイツは内治の上では、全く宗数を異にしてゐる北と南とを擣きくるめて、人心の歸嚮を操つて行かなくてはならないし、外交の上でも、いかに勢力を失墜してゐるとは云へ、まだ深い根柢を持つてゐるロオマ法王を計算の外に置くことは出來ない。それだからドイツの政治は舊教の南ドイツを逆はないやうに抑へてゐて、北ドイツの新教の精神で、文化の進歩を謀つて行かなくてはならない。それには君主が宗教上の、しつかりした基礎を持つてゐなくてはならない。その基礎が新教神學に置いてある。その新教神學を現に代表してるる學者は、ハルナックである。さう云ふ意味のある地位に置かれたハルナックが、少しでも政治の都合の好いやうに、神學上の意見を曲げてゐるかと云ふに、そんな事はしてゐない。君主もそんな事をさせようとはしてゐない。そこにドイツの強みがある。それでドイツは世界に羽をのして、息張つてゐることが出來る。それで今のやうな、社會民政黨の跋扈してゐる時代になつても、ヰルヘルム第二世は護衞兵も連れずに、侍從武官と自動車に相乘をして、ぷつぷと喇叭を吹かせてベルリン中を駈け歩いて、出し抜に展覧會を見物しに行つたり、店へ買物をしに行つたりすることが出来るのである。
ロシアとでも比べて見るが好い。グレシア正教の寺院を沈滞の儘に委せて、上邊を眞綿にくるむやうにして、そつとして置いて、黔首を愚にするとでも云ひ度い政治をしてみる。その愚にせられた黔首が少しでも目を覺ますと、極端な無政府主義者になる。だからツアアルは平服を著た警察官が垣を結つたやうに立つてゐる間でなくては歩かれないのである。』
     *
僕は右の一節を讀んで、鷗外の視たドイツもそれほど安定したものでもなかつた事を歴史が證明したと思つた。觀察も豫言もあまり當てにはならない。「かのやうに」は明治四十五年の發表であるから一九一二年で、カイゼルの全盛期でもあり、ドイツが世界征服を、夢みてゐた時代であつた。然るに二年後には歐洲第一次大戦となり、ドイツは聯合國から袋だゝきの憂き目に會つて、手も足も出ぬ非運を嘗めた。カイゼルとハルナックとの君臣の理想的關係も崩壞してしまつた。獨露の帝政は倒れ、やがて歐羅巴は民主閥と獨裁國とに別れて對立抗爭し、今や獨裁國は民主國を脚下に蹂躙せんとしてゐる。ヒットラアに依る復讐戰が平和への工作なりや、更に新しき戰亂の準備なりやは未だ何人も見極め得ない。
     *
鷗外はカイゼルとハルナックとの間を人主と學者との模範的な契合と見做したが、十八世期のフリイドリッヒ大王とヴォルテエルとの關係は、一君主と外國の文豪との一層模範的な親睦ではなかつたらうか。餘計な推測だが、カイゼルとハルナックとの關係は寧ろ伊藤博文と末松謙澄、山縣有朋と鷗外との關係をいささか想ひ出させぬでもない。
     *
鷗外が豫言者でなかつたことは文豪鷗外の價値を増減するものではない。現に『秀麿もの』四篇と雖も、今に至るまで生きた問題を提供して潑剌たる興味をそゝるのである。「かのやうに」には國體と修史、「吃逆」には國家と宗教、「藤棚」には社會と秩序、「鎚ー下」には峻嚴なる勞働の意義が極めて冷靜な態度と冷徹な行文とに據つて解説されてゐる。左に「藤棚」から更に一節を引いて、今なほ生命のある言辭を味ひ度い。

『‥‥話は又一轉して、近頃多く出る、道徳を看板に懸けた新聞や小册子の事になつた。‥‥書く人は誠實に世の爲、人の爲と思つて書いても、大抵自分々々の狹い見解から、無遠慮に他を排して、どうかすると信数の自由などと云ふものの無かつた時代に後戻りをしたやうに、自分の迷信までを人に強ひやうとする。それを聽かないものに、片端から亂臣賊子の極印を打つ。これも矢張毒に對する恐怖に支配せられてゐるのである。幸な事にはさう云ふ運動は一時頭を擡げても、大した勢を得ずにましまふから好いが、若しそれが地盤を作つてしまふと、氣の利いたものは面從腹誹の人になる。人に僞りを教えるのである。人を毒するのである。毒に對する恐怖が却て毒を釀し出すことになる。』

この感想は明治四十五年代の赤い思想やアンデパンダンな思想の人士からは最もなまぬるい、妥協的見解として、鼻であしらはれる患いひがないではなかつた。が然し、今はさうではない。
(昭和十五年夏)
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出典 『印象と追憶』(辰野隆) 昭和15年 弘文堂刊

国会図書館デジタルコレクション

(下の画像も)


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(あとがき)
OCRの原稿作成には画面キャプチャーでなく、国会図書館デジタルのPDF作成機能を使うのが良い。トリミングと、(場合いによって)画質調整が必要。

2019年3月18日月曜日

HTMLでルビ振りできた←遅い>自分

今日の校正関連のオシゴト。先日行った書誌編集のチェック作業。そして、OCRを一件。

OCRは原稿がきれいだと楽だ、と痛感。

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国会図書館デジタルからの原稿も、できるだけきれいにする方法を考えたほうがいい。その後の校正の能率がぜんぜん違う。拡大、コントラスト、ガンマ値…

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HTMLでルビをそれらしく表示する方法(ruby)を学習した。たとえば…


漢字これがルビ


できたからどうってことはないが…ちょっと嬉しい。

まあ、役に立つこともあろう。

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『読書法』(徳富蘇峰)を読み続ける。良い本を探して世界中をかけ歩くバイタリティーが素晴らしい。

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2016年の今日の香港、セントラル。

2019年3月17日日曜日

ちょっと暗礁に乗り上げた…

ともかく、徳富蘇峰の全部ルビ付き文章の写真をOCRにかけてみた。


結果はこれ。

*** ***
慈費大師の入唐求法巡酪行記 悪畳大師の人物
封しか静WWや費儒価彫のか蹴昨肥が、航旺に脅雌Jいれたならば、離めて藤架
のr柵が、審似ぜらる\であらう。紺た弧灘蛭師や、総靖町の臓償訟にて叱彫
構苓慨に弧町は柳席の暇催も母く、rの卿鵬の穿風も蹴ー、耐してWの
排ヂも鉛かつたなれば、rの)舞を器するや・瞬虻であら1鮎もrの るものは、Wだ耳発恕航り紀にが曹ない。rれは虻伊にも雌誠糾柳だ。
*** ***

ひどい。これでは使えない。

別の手段がないか、考える。とりあえずは、もっとクリーンな原稿を入手したい。ざっと探したが、うまく見つからない。気分を変えて、少し徳富蘇峰の本を入手してゆっくり読んでみようと図書館を探した。三冊ほど選んで予約してみた。『読書法』というのが相模大野の図書館にある。内容が面白そうなので直接借りに行くことにした。



久しぶりに相模大野へ。この図書館は雰囲気がアットホームで、カウンターにいる人達の応対が親切だ。本を借りたので、ついでに国会図書館のデジタル資料転送サービスが可能か確認した。すぐできますとのこと。端末数は少ない。1つだけ。利用者が多ければ、近くにある端末も使わせてくれるだろう。

***
借りてきた『読書法』はなかなかオモシロイ。目をつけておいた記事、「紫式部…」や「入唐巡禮行記…」は残念ながら収録されてない。


ちなみにこの本は新字新かな表記。

***
川澄選手の小学から高校までのサッカー仲間佐藤さんの、高校卒業以降のデフサッカーへの取り組みを、たまたまTVで観て、うるうるしてしまった。

2019年3月16日土曜日

ルビの効用は文章の理解を助けること

昨日の疲れが抜けないので今日は天文学会(年会)に顔出しするのは諦める。雨が降るという予報もでていたので余計にそう思ったのだが、結局ほとんど雨は降らなかった。

***
例によって、ボーッとしながら国会図書館(デジタル)で、書評記事探しをした。

徳富蘇峰の二編が目についた。
「紫式部と清少納言」



「慈覺大師の入唐求法巡禮行記」


これらをWeb上の記事にしようとすると、ルビをどうするか決めないといけない。
(1)原文通りにする。(ほぼすべての漢字にルビが振られている。)
(2)一部だけにする。(どう選ぶのか?)
(3)まったく振らない。

ルビの形態も問題だ。横書きなので通常は漢字の上にするが、面倒なのでカッコにくるんで漢字の後ろに置くか。後者にするのが簡単だが、(1)のように全てに振ろうとすると、読む側は煩わしい。

***
徳富蘇峰はたぶんより多くの人に呼んで理解してもらいたくて総ルビにしていると思う。それを考えると(1)にしたい。確かに総ルビだと理解しやすいのは確かだ。

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なにか、自動か半自動でルビを振るソフトが必要だろう。昨日電車の中で読んだ『インターネットで文献検索』(伊藤民雄 2016年 日本図書協会)を参考にソフトを探し始めた。「ひらひらのひらがなめがね」というサイトを見つけた。URLを与えると、ルビを追加したページを生成してくれる。これはヒントになりそうだ。ためしに数日前のブログでやってみた。


なかなか頑張ってくれているが、いくつか振り間違えたルビもある。旧字旧かなだと苦しいのかもしれない。要研究。
ところで、ルビが間違っていると思ったら、原文の校正ミスというところがあった。すぐ直しました。怪我の功名?

***
あらためて、考えるとふりがな(ルビ)は大切だ。子供のころ取ってもらっていた『朝日小学生新聞』には漢字にふりがなが振ってあって、どうもこれで漢字の読み方を覚えた気がする。

2019年3月15日金曜日

学会に遅刻したがおこられなかった(*^^*)

天文学会年会の2日目。昨日と違い、午前中のセッションもあるので、少し早起きした。ぎりぎりだが間に合う計算ででかけ、もうじき電車を降りようとしたときに、会場を確認しようとプログラムをiPhoneで見た。すると、9時半に開始と書いてある。自分勝手に10時開始と思い込んでいた。駅についたのが9時40分。ゆっくりしか歩けないので、大学についたのが10時過ぎ。遅刻だ。

***
今日の午前中は宇宙論・銀河形成の講演たち。重力レンズによる映像のノイズをディープラーニングで除去するという話が興味を引いた。ロジックはよくわからなかった。

昼食。昨日同様学食に行き、ラーメンを食べる。356円なり。


法政水90円


午後は星・惑星のセッションに行く。ALMA(電波望遠鏡)ができ、この分野の観測は飛躍的に改善された。他銀河の惑星の生成も観測できてしまう。スゴイ。この分野は昔から女性研究者が多い。今日は子供(三歳だそうだ)連れの両親で来て、母親が講演するという場面もあった。素晴らしい。その間子供は父親があやしていたらしい。

***
終わって、すぐ帰宅。今日は小田急線が正常だったので新宿で乗り換えた。疲れたなあ。

2019年3月14日木曜日

天文学会2019春期年会に「顔出し」

天文学会春期年会へ顔を出してきた。場所は東小金井駅から15分の、法政大学小金井キャンパス。



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結構遠い。今日は初日で13時始まりなのだが、10時半に出発したのにギリギリに到着。受付を済まし、空腹になったので学食でカレーライスを食べる。259円なり。安い。




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講演会場はテーマごとにたくさんあるのだが、何しろ素人なので、選ぶことができない。入りやすそうな(!)会場を探して潜り込んだ。食事をしていたので、開始に間に合わず、おかげで目立たない席は空いてなくて、前の方の偉い先生のそばに座ってしまった。居眠りできない(T_T)

「コンパクト天体」がテーマ。コンパクト天体ってなんだろう。帰ってから調べたら、白色矮星、中性子星、エキゾチック密度星とブラックホールの総称らしい。そいつらから来るX線を観測して、その構造を探ろうとしているヒトビトのお話を10個ぐらい伺った。1つもわからなかったが、これでいいのだ。学会の雰囲気を楽しみに行くのだから。

後ろの席におられたのは、東工大の河合先生だったらしい。iPhoneを途中で鳴らしてしまい、失礼しました。「通知」のサウンドは全部オフにしました。

帰りに岡村先生にもお会いした。と言っても岡村先生は私を認識していないのだが。

***
新宿で電車を乗り換えて、小田急線で座って帰ろうと横着なことを考えた。でも事故で電車が止まっており、またJRに乗り直して、逓減料金がパー(T_T)

***
昨日、図書館で次回のALL REVIEWS友の会の課題図書を借りた。なんと700ページ以上。当日までに読めるか?読めない方に一票。



でも今日は『砂の惑星』全三冊を読み上げた。

2019年3月13日水曜日

OLD REVIEWS試作版第三弾…『讀書法』(ブック・レビューの本)の自序

序に代へて (戸坂潤)

「讀書法」といふ題は、本當を云ふとあまり適切なものとは思はれない。「ブック・レヴュー」といふ題にしたかつたのだけれども、三笠書房主人の意見を容れて、この題にしたのである。私はこの本が、讀書術の精神を教訓する本ででもあるかのやうに受け取られはしないかと心配してゐる。内容は全く、色々の形と意味とに於けるブック・レヴューと、之に關係した少しばかりのエセイとからなつてゐる。

ではなぜ、こんなやゝ風變りな書物を出版するのか。簡單に云つて了へば、ブック・レヴューといふものゝ意義が可なり高いものでなければならぬといふことを、宣傳するために、特にブック・レヴューを主な内容とするかういふ單行本を少し重々しい態度で、出版して見る氣になつたのである。ブック・レヴューは之までわが國などではあまり重大視されてはゐなかつた。評論雜誌は云ふまでもなく、學術雜誌に於てさへ、卷末のどこかに、ごく小さく雜録風に載せられてゐるに過ぎなかつた。それもごく偶然に取り上げられたものが多くて、ブック・レヴューといふことの、評論としての價値を、高く評價してゐるとはどうも考へられなかつたのである。

これはどう考へても間違つたことだと思ふ。現に外國の學術雜誌では、ブック・レヴューに權威を集中したやうに思はれるものが多く、澤山のスペースを割くとか、或ひは卷頭へ持つて行くとかいふ例さへある。學術雜誌でなくても、ブック・レヴューのジャーナリズムの上に於ける眞劍な意義は、高い價値を認められてゐるやうに見える。それに又、文藝評論家や一般の評論家達の登龍門が、ブック・レヴューであるといふこと、現代の有名な評論家の多くがブック・レヴューの筆者としてまづ世に出たといふ例、これは相當著しい事實なのである。それから又、わが國でも實際上さうなのだが、ブック・レヴューは同じ雜誌記事の内でも、特に好んで讀まれるものであるといふ現實がある。

 かういふ事實を前に、ブック・レヴューの文化上に於ける大きな意義を自覺しないといふことは、どうしても變なことだと考へられる。ブック・レヴューをもう少し重大視し、尊敬しなければならない、といふのが私の氣持である。處が偶々、東京の大新聞の若干が、しばらく前ブック・レヴューに或る程度の力點を置くやうになつた。スペースや囘數を增した新聞もあれば、ブック・レヴューの囑託メンバーを發表した新聞もある。その他一二、ブック・レヴューを主な仕事とする小新聞の企ても始まつた。この原因については色々研究しなければならないが、一つは所謂際物出版物に對する反感から、本當に讀める書物を、といふ氣持が與つて力があつたらう。讀書が一般に教養といふものと結びつけられるやうな一時期が來たからでもあるだらう。尤もこの氣運とは別に、最近の戰時的センセーショナリズムは、新聞紙の學藝欄を壓迫すると共に、ブック・レヴューへの尊敬は編輯上著しく衰えたのではあるが。

「ブック・レヴュー」を意識的に尊重し始めたのは、一年半程前からの雜誌「唯物論研究」である。實は之は私たちの提案によるのだ。まづ評論される本の數を、毎月(毎號)相當多數に維持することが、最も實質的なやり方だと吾々は考へた。少くとも十四五册についてブック・レヴューを掲げるべきだとして、そのためには、紙數の關係から云つて、一つ一つのブック・レヴューはごく短かくならざるを得ないが、誰も知つてゐるやうに、原稿用紙三四枚に見解をまとめることは、實は原稿用紙數十枚の努力をさへ必要とすることである。それだけ質は高いものともなるだらう。

 とに角、分量の上で多いといふことは、ブック・レヴューに壓力を附與するための最も實質的な手段である。之が實施された上で、質の向上を望むことも困難ではない。それに、或る程度以上に數が多いといふことは、ブック・レヴューの對象となる本の選擇から、その偶然性を取り除く點で、甚だ必要なことなのだ。思ひつきのやうに、ポツリポツリと載るのでは、なぜ之が選ばれたのか、またなぜ他の本が撰ばれなかつたのか、問題にする氣にもならないだらう。注目すべき本は、或る程度、又或る方針の下に、やゝ網羅的にのるといふことが、ブック・レヴューの權威を高める所以だ。之にはどうしても、少くとも數の上で盛り澤山でなくてはならぬ。

以上のやうな見解の下に、今日に到るまで雜誌「唯物論研究」は「ブック・レヴュー」尊重主義を引き續き實行してゐる。その内容は別の問題として、編輯上の精紳は注目されていゝ。現に「文學界」は多少之に類似したブック・レヴューを試みるやうになつたし、「新潮」と「文藝」とも亦、ブック・レヴューを正面に押し出すやうになつた。「科學ペン」亦さうである。文化雜誌としては當然なことであるが、わが意を得たものと云はねばならぬ。

ではブック・レヴューとは何か、といふやうな抑々の問題になると、本書の「ブック・レヴュー論」といふ文章もあつて、今こゝに評説する餘裕はないと思ふが、要するにブック・レヴューなるものは、クリティシズム(批評・評論)の一つの分野か、一つのジャンル、であると思はれるのである。出版物としての本を紹介批評するわけであるが、問題はその本が出版されることの文化上の意義、その本に含まれてゐる思想や見解や研究成果の文化上の意義、といふやうなことを評論することの内に、横はるのである。つまり出版された本を手段として、その背景をなす文化的實質を評論する、といふことがブック・レヴューの意味で、さういふ評論のジャンルや領野が、「ブック・レヴュー」といふーつのクリティシズムなのである。決して單に本を紹介するだけが目的ではない。紹介・案内・そして廣告・推薦、といふことも目的の一部分でなくはないが、最後の目的はもつと廣く深い處にあるだらう。だからブック・レヴューを本式にやると、いつの間にか、その本が文藝の本ならば、最も具體的で且つ時事的な文藝評論にもなつて來るのだ。時とするとブック・レヴューだと云ひながら、その本はそつち除けになつて、本とは直接關係のないエセイになつたりする場合も、例が多い。又逆に大抵の多少は文獻的な粉飾󠄁を有つた評論やエセイは、要するにブック・レヴューみたいなものであるとも考へられる。

 で私は、「ブック・レヴュー」といふものがクリティシズムのーつの重大なジャンルであり、一分野であるといふこと。そしてわが國では之まであまりその點が世間的に自覺されてはゐなかつたらしいといふこと、このニつの條件に基いて、かういふ風變りな本を出版することにしたのである。私が右に述べたやうなことは、勿論澤山の人が嫌ほど知つてゐることだ。ブック・レヴューが評論の入口であるといふやうなことは、クリティシズムに關する常識だらう。(本多顯彰氏などいつも之を説いてゐる。)併し個々の文學者や評論家の常識であるといふことゝ、世間が之を自覺してゐるといふこととは、勿論別だ。世間は之を自覺すること決して充分でなかつたといふのが、事實ではないだらうか。

さて、本書を世に送る所以は、右のやうな次第であるか、併し私が決してブック・レヴューの模範を示さうといふやうな心算でないのは、斷るまでもあるまい。もし萬一之が模範にでもなるとしたら、ブック・レヴューを今日の水準から高めるよりも、寧ろ却つて低める作用をしないとも限りない・私がこゝに登録したブック・レヴューは、私の力自身から計つても、決して滿足なものではなく、又世間の水準から云えば愈々貧弱なものだといふことを、卒直に認めざるを得ない。それにも拘らずかういふ貧弱な内容のものを敢えて出版するのは、つまり一種の宣傳(「ブック・レヴュー」のための)であり、このまづいものを以て宣傳することが、やや滑稽に見えるとすれば、結局私はこの宣傳のための犧牲者になるわけなのである。私はこの位ゐの犧牲は忍ぶことが出來る。さういふ圖々しさを必要な道徳だとさへ思つてゐるから。ただ恐れるのは、之によつて逆効果を來たしはしないかといふ點だけだ。この本のおかげで、ブック・レヴューといふもの一般の信用を傷けることになりはしないかゞ、心配だ。

模範を示すことは出來ないが、「ブック・レヴュー」といふもののサンプルの若干を示すことは出來たかも知れない。『讀書法日記』とか「論議」とか『ブック・レヴュー』とか「書評」とかいふ類別が、夫々サンプルであり、さうしたサンプルを集めたこの本は、云はばカタローグみたいなものでもあらう。たゞ大抵のサンプルは實物よりも良くて他處行きに出來てゐるものであるが、このサンプルだけは、云はば實物よりも劣つてゐるやうに思ふ。つまりブック・レヴューの外交であるこの筆者が、相當の犧牲者である所以である。


『讀書法日記』は「日本學藝新聞」にその名で連載したものであり、『ブック・レヴュー』は「唯物論研究」の同欄に載せたものである。「書評」は主に新聞や雜誌に所謂書評として發表されたもの。いづれも特になるべく樣式の原型をそのまゝ保存することにした。サンプルとするためである。「論議」はブック・レヴューに準じたエセイであり、「餘論」はブック・レヴューそのものに關する若干の考察からなつてゐる。

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出典 『讀書法』(戸坂潤) 昭和13年1月 三笠書房刊
国会図書館デジタルコレクション
(下の画像も)


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(あとがき)戸坂潤はこれまで知らなかった。国会図書館デジタルコレクションを見ているうちに偶然見つけた。この序文でも一部紹介されているが、盛りだくさんの『讀書法』である。「目次」を見ていると猛然と読みたくなってきた。これを読めば「ブック・レビュー」のなんたるかがわかりそうだ。

戸坂潤の本は図書館にあまりおいてない。古本は意外に安く出回っているのに…

2019年3月12日火曜日

のんびりと(ボランティア)仕事と読書ができた良い一日

「羅生門の後に」(芥川龍之介)を、昨日のブログに掲載してみた。友人に校正漏れを見つけてもらった。感謝して修正した。

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他にも考えるべきことがある。原文は段落の開始時に「一字下げ」が行われている。これを、Web上の横書き文書でどう扱うか。少し検索してみてもいろいろ意見がある。
(1)同様に一字下げるべき
(2)短い段落が続くと読みにくくなるので下げない
(3)字下げでなく行の間隔をあけるべき

私のブログでは今まで、一字下げて、かつ改行や「***」と言う文字を入れてきた。これをそのまま踏襲するべきか迷い始めた。今日は字下げはやめてみた。そして昨日のブログには改行を一つずつ入れてみた。これで様子を見よう。

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もう一つ考えたこと。旧字・旧かな対応のOCRソフトはないか?国会図書館の方が書いたペーパーを眺めたが、直接の答えは出てこない。OCRの内蔵辞書を対応するものにかえたらしい。そこまでやるのは素人には難しい。原版の品質の問題もあり、認識率が9割以上なら良い方という認識らしい。8年ほど前のペーパーなので、最新情報をこれからも探してみたい。

書きながらググってみたが、GoogleドキュメントのOCR機能も明日試してみよう。

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オシゴト再開。今日は書誌編集をやった。ここでも迷いが生じる。「アーサー・C・クラーク」という表記を自分ではしてきたが、関係するサイトの表記ルールでは、「アーサー・C. クラーク」となる。「A. C. クラーク」の場合もある。見た目は「アーサー・C・クラーク」が良い(と自分で思っている)。リーダーに相談中だがもちろんルールに従うべしとなるだろう。

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『砂の惑星』は中巻を読み終え、下巻に突入。ひさびさの快適なスピード読書。

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お彼岸の墓参のために、卒塔婆をお寺に注文。電子メールを受け付ける住職なので便利。考えてみたら、私よりかなり、お若い。彼のメールアドレスの一部が「Angie」なので、お寺の飼い猫を私達は勝手にアンジーと呼んでいる(*^^*)

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2年前に見つかった胆嚢結石。何回見ても小粒で凶悪な形だ。

2019年3月11日月曜日

OLD REVIEWS試作版第二弾:「羅生門の後に」(芥川龍之介)

「羅生門の後に」  芥川龍之介

この集にはいつてゐる短篇は、「羅生門」「貉」「忠義」を除いて、大抵過去一年間――數え年にして、自分が二十五歳の時に書いたものである。さうして半は、自分たちが經營してゐる雜誌「新思潮」に、一度揭載されたものである。

この期間の自分は東京帝國文科大學の怠惰なる學生であつた。講義は一週間に六七時間しか、聽きに行かない。試驗は何時も、甚だ曖昧な答案を書いて通過する。卒業論文の如きは、一週間で匆忙の中に作成した。その自分がこれらの餘戲に耽り乍ら、とにかく卒業する事の出來たのは、一に同大學教授の雅量に負ふ所が少くない。唯偏狹なる自分が衷心から其雅量に感謝する事の出來ないのは、遺憾である。

自分は「羅生門」以前にも、幾つかの短篇を書いてゐた。恐らく未完成の作をも加へたら、この集に入れたものの二倍には、上つてゐた事であらう。當時、發表する意志も、發表する機關もなかつた自分は、作家と讀者と批評家とを一身に兼ねて、それで格別不滿にも思はなかつた。尤も、途中で三代目の「新思潮」の同人になつて、短篇を一つ發表した事がある。が、間もなく「新思潮」が廢刊すると共に、自分は又元の通り文壇とは緣のない人間になつてしまつた。

それが彼是一年ばかり續く中に、一度「帝國文學」の新年號へ原稿を持ちこんで、返された覺えがあるが、間もなく二度目のがやつと同じ雜誌で活字になり、三度目のが又、半年ばかり經って、どうにか日の目を見るやうな運びになつた。その三度目が、この中に入れた「羅生門」である。その發表後間もなく、自分は人傳に加藤武雄君が、自分の小説を讀んだと云ふ事を聞いた。 斷つて置くが、讀んだと云ふ事を聞いたので、褒めたと云ふ事を開いたのではない、けれども自分はそれだけで滿足であつた。これが、自分の小説も友人以外に讀者がある、さうして又同時に あり得ると云ふ事を知つた始めである。

次いで、四代目の「新思潮」が久米、松岡、菊池、成瀬、自分の五人の手で、發刊された。さうして、その初號に載つた「鼻」を、夏目先生に、手紙で褒めて頂いた。これが、自分の小説を友人以外の人に批評された、さうして又同時に、褒めて貰つた始めである。

 爾來程なく、鈴木三重吉氏の推薦によつて「芋粥」を「新小説」に發表したが、「新思潮」以外の維誌に寄稿したのは、寧ろ「希望」に掃げられた、「虱」を以て始めとするのである。

自分が、以上の事をこの集の後に記したのは、これらの作品を書いた時の自分を幾分でも自分に記念したかつたからに外ならない。自分の創作に對する所見、態度の如きは、自ら他に發表する機曾があるであらう。唯、自分は近来ますます自分らしい道を、自分らしく歩くことによつてのみ、多少なりとも成長し得る事を感じてゐる。從つて、屢々自分の頂戴する新理智派と云ひ、 新技巧派と云ふ名稱の如きは、何れも自分にとつては寧ろ迷惑な貼札たるに過ぎない。それらの名稱によつて概括される程、自分の作品の特色が鮮明で單純だとは、到底自信する勇氣がないからである。

最後に自分は、常に自分を刺戟し鼓舞してくれる「新思潮」の同人に對して、改めて感謝の意を表したいと思ふ。この集の如きも、或は諸君の名によつて――同人の一人の著作として、覺束ない存在を未來に保つやうなことがあるかも知れない。さうなれば勿論自分は滿足である。が、さうならなくとも、亦必ずしも滿足でないことはない。敢て同人に語を寄せる所以である。

 大正五年六月

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 <出典> 
羅生門:外一二篇』(160ページ〜) 昭和8年 新潮文庫 (この文章はこの本の巻末の著者による「あとがき」的なもの)
 …「国立国会図書館デジタルコレクションより」 下の画像も。




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あとがき(私の)

今日の発見:
国会図書館デジタルの画像は、コントラストや輝度、ガンマ値を変更できる。うまく調整するとOCRソフトでの文字認識精度があがる。

この文章は、春陽堂版の「芥川龍之介全集2」には新字新かなで収録されている。