2020年10月31日土曜日

『トーマス・マン日記』と『アシモフ自伝』を読み比べると面白いだろう

『アシモフ自伝 1下』をもう一度読み返すことにする。1950年前後のアメリカ内部のことが少しわかるだろう。兵役をおえたところから始めよう。

1946年9月23日。
兵役を予定の3分の1の8ヶ月でなんとか終わらせ、コロンビア大学に戻る、またはもぐりこむ。研究をすることができそう。

有機化学はポーリングの共鳴理論を取り込んで様変りしていたので、勉強し直す必要がある。

ところで、アシモフの著作一覧はこれでいいのかな。http://www.asimovonline.com/oldsite/asimov_big_list.html

たとえば、朝日新聞金曜夕刊の「ガリバー旅行記」を読むたびに、Internet Archiveで参照している本はこれ。

222  H  The Annotated "Gulliver's Travels"                   Clarkson N. Potter        1980        298  PR3724.G7       823.5   0-517-53949-7  80-15032 

***

『トーマス・マン日記』の続き。

1950年9月14日。
フィッシャー書店のベルマンから手紙。マンの政治的態度によりドイツで著書が売行き不振であると。

9月15日。
来春にスイスへ引っ越すことについてKと話し合う。アメリカにはうんざりしてきた。

チューリヒから送った旅行カバンにフランツの手紙が入っているのを見つける。ヴィリラム・ティンペ(『魔の山』のヒッぺのモデル)のちびた鉛筆のように大切。

この日記帳はいずれ焼却処分にすることを考えている。

9月16日。
チェコの出版社から4,000ドルの支払。「向こう側から」だ。

9月18日。
パリから『ファウストゥス』の印税1,000ドル。

9月19日。

エーリカの異常なほどの喫煙と拒食が心配。

9月20日。
『選ばれし人』の第28章の執筆をどうにか完了。

9月26日。
アメリカを去りたいという願望がしだいに高じてくるが、まず長篇を仕上げるのが先決だ。

9月27日。
昨晩日本論を聴かせてくれたクラウス・プリングスハイムと朝食。イギリスは統一自由朝鮮を強硬に主張。

2020年10月30日金曜日

悩みつつ米国に戻るトーマス・マンはロンドンからボーイング377ストラトクルーザーに搭乗

『トーマス・マン日記』を読み続ける。

1950年8月4日。
眠れない。友人アドルノは手紙で仕事を続けるにはカリフォルニアの生活基盤を守れと言う。

8月5日。
ヘッセと会おうとしても彼は病気。心臓が悪いと。Kは長時間歩かねば大丈夫。

8月6日。
(窓から?)下のテニス・コートを見ると若いアルゼンチン人が、トレーナーと練習をしている。「ヘルメスの足」。

マンの記述は狂気じみているが、もしかするとこれが『詐欺師フェーリクス・クルル』に生かされているのではないかと思う。日記には何を書いてもいい。

8月12日。
ホテルを出発、途中インスブルックでグレート、フリードと会う。フリードは結局カリフォルニアには行かず、オーストリアの両親のもとにとどまることになった。チューリヒへ。シカゴのメーディからアメリカへ戻らないようにと忠告の手紙。アメリカに戻るとやはりエーリカに身近かにいて欲しいが、エーリカも警察権力にいやがらせされたらどうするか。

8月13日。
イタリア一時訪問中のトスカニーニも戻るのをいやがっている。

8月14日。
四分の三まで戦争状態。その終りを私(トーマス・マン)は見ることがないだろう。弱気、憂鬱。

8月15日。
ホテル・ドルダーまでヒルマン・ミンクスで最後のドライブ。フランツに再会。

8月17日。
空路、ロンドンへ。ランチ付き。

8月18日。
エーリカと今後のことを話しあう。『選ばれし人』を完成させるため、落ち着いた環境が欲しい。

8月20日。8月22日。
ニューヨークヘ飛ぶ。パン・アメリカン航空プレジデント便。Kと2人。

多分この型のボーイング377
出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

8月25日。
シカゴへ。娘メーディと会う。

8月29日。
カリフォルニア着、パシフィック・パリセーズ。夢のような気分で自宅に座っている。

8月30日。
旅行中は味わえなかった気ままな私生活を楽しむ。

8月31日。
久しぶりにぐっすり眠ったあと、Kがコーヒーをいれてくれた。

9月1日。
エーリカがニューヨークから電報をくれた。

9月2日。
Kが膀胱カタル。医者を予約。エーリカが着いた。

9月3日。
アメリカは朝鮮で後退中。朝鮮軍は僅かな装備で戦車に立ち向かっている。

セザール・フランクのヴァイオリン・ソナタを聴く。 

2020年10月29日木曜日

1950年75歳のトーマス・マンは2つ年下のヘッセが歳をとったと嘆いた

『トーマス・マン日記』を読み続けた。

1950年7月12日。
Kの退院で安心したのだろう、やっと良く眠れた。手紙を読んだり、手直し程度の執筆。

K、息子ゴー口と昼食。例のボーイが給仕してくれた。フランツェルと呼んでみる。(フランツちゃんというところかしら?)

ディナーの前に会ったときは、彼は冷たい態度。また落ち込む。さっきチップを5フランくらい渡せばよかった?

これはまるで少年の恋物語ではないか。わざとそう書いているのか。

一方、よく考えると『詐欺師フェーリクス・クルル』(第3部)の材料となったと思う。クルルとイギリスの老貴族キルマノックス卿とのやりとりに似ている。第3部は新潮社版「トーマス・マン全集 第7巻』の後記によると、1951年1月8日以降に書かれたという事になっている。

7月13日。
クノップの精算書に悩んでいることをKにうちあける。誤解で、本来の金額は数千ドルだろう、ともかく悩んでないで問い合わせなさいと言われたのだろう。すぐ、安心している。やはりKが母親でマンは子供。

そうなると、また給仕の一挙一動に関心が向く。

7月16日。
チューリヒからジルス・マリーアへ移動。フランツとの別れはつらかった。

7月17日。
ザンクト・モーリツに移る。

7月18日。
アメリカの情勢と自分たちの将来についてK、エーリカと話し合う。再亡命すべきなのか。ゴーロはアメリカに戻るべきでないと言ったとエーリカが。アメリカに戻ったら再び出国することはできないだろうか。ハーパーズ書店から『私が生きた時代』が出版されるかどうかで判断しよう。1933年アローザの苦い思い出がよみがえる。

7月21日。
ヘッセ邸でお茶。ヘッセは歳をとり、顔がほっそりしている。

1946年のヘッセ
出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

7月24日。
Kの67歳の誕生日。ヘッセ夫妻も呼び、お祝い。

7月26日。
ハーパーズから『私が生きた時代』の校正刷りが届いた。朝鮮に関する小さな変更のみだった。

このため、アメリカに戻る決心がついただろう。それが正しかったかどうかは今になってもわからない。

2020年10月28日水曜日

ノーベル賞作家のトーマス・マンも妻がいないとおろおろするだけ

『トーマス・マン日記』の続きを読み続ける。

1950年戦後二度目のヨーロッパ旅行でのチューリヒ滞在中に75歳の誕生日(6月6日)を迎えるトーマス・マンは、お祝い気分の中に、世界と自分の将来についての不安を覚える。

1950年6月7日。
Kが「旅先」にもかかわらず手術を受けたいとうちあける。

旅立つ前から症状はあったと思うが、米国の病院が気に入らなかったのだろう。トーマス・マンの肺の手術時の経験からくるのか。そしてチューリヒの病院の担当医は亡命ドイツ人で、言葉も通じやすい。

6月9日。
Kが病院へ入院。エーリカが付き添う。

6月12日。
病院で婦人科医のトラウゴット教授から話を聞く。フランクフルトを追われ1935年にチューリヒで診療所を開いたという経歴の持ち主。(注による。)

6月13日。
7日後の手術の予定が決まり、Kは上機嫌。ドイツ人からの「粗野な」手紙をエーリカが始末してくれた。

6月16日。
奇妙な生活。落ち着かない。

やはり、文筆以外の面ではトーマス・マンはお坊ちゃんで、処世能力はあまりない。しっかりした妻のKとの二人三脚でないとやっていけない。

トーマス・マンと妻カトーヤ 1929年ノーベル賞受賞時
From Wikimedia Commons, the free media repository

6月20日。
手術成功。痛みはある。

6月23日。
エーリカの「手助け」でホテルを移る。観劇。

7月3日。
ホテルのボーイ、フランツ・ヴェスターマイアー(1931年テーゲルンゼー出身、その後ニューヨーク。で宴会ボーイ長)に好意を持つ。

7月5日。
新しい第27章を書きはじめる。

7月8日。
27章を書きすすむ。

「エーリカはKを見舞う。二人して青年と私の偏愛とを茶化すように話題にしていたのだろう。」

7月10日。
米国の出版社クノップから届いたこの年の精算書は9ドル!?であるという知らせ。

K、退院。9ドルの件はまだうちあけない。早く打ち明けたほうが経済的苦境の打開策を考えてくれるはずだが、身体を気遣った?

7月11日。
ボーイの青年につれない態度をとられ、落胆。

ヒッペやハンス・ハンゼンのモデルである元学友を思い出す。

***

昨日、WiFiのアクセスポイントを新しくしたが、効果は絶大。接続は36時間経っても一度も切れない。MacbookのCPUの負荷も半分くらいになっている。ストリーミングで聴く音楽のダイナミックレンジも上がっている(ような気がする)。つながっているときも回線エラーのリカバリを繰り返していたのではないだろうか。3000円の投資でこの効果を得られるのはありがたい。

2020年10月27日火曜日

トーマス・マンの戦後二度目のヨーロッパ講演旅行。ヒルマン・ミンクスで移動していた。

メモに毎朝日付を書き込む。この頃は、昨日の新聞を見ないと、今日が何日か思い出せない。曜日はわかる。ゴミ出しをしているから。

***

『トーマス・マン日記』また、続きを読む。

1950年3月31日。
旅行のための講演「私の時代」はニューヨークで翻訳中。ドイツ語原稿はエーリカが短縮中。

マンは『選ばれし人』を書きすすむ。トルーマンがマッカーシーを批判。

4月2日。
肌寒いが、テラスで食事。(# この習慣も仕事のため目をさます役割がある?)

4月3日。
まちがえて8時でなく7時に起床。「早起きすると一日が傷つく。」とはどういう意味だろう。神経質すぎるのか?

政治から遠ざかれとマイアーから愚かな手紙。

4月6日。
胃が疲れている。旅行前の緊張か政治的緊張か両方?

執筆はつづける。

4月9日。
剃刀でひげを剃る。旅行には電気カミソリを持っていきたくないのかしら。

4月16日。
夜、モントゥー・コンサート(ラジオ?)を聴いていると、ゴーロがいとま乞いに来た。

4月19日。
出発の日。散髪。

4月23日。
シカゴで講演会。1000人収容のホールは満席。マイクを使って話す。

マンはこの講演「私の時代」で、「西欧の民主主義が自己の生命を守るためにロシアの共産主義とともに立ってナチ=ファシズムと戦ったのはつい昨日のことでした。・・・私は、両者の共同戦線が存続してこそ・・・人類にとって偉大な、いいものが生れ得るのだと考えています。」(新潮社版全集 第10巻、365頁。)と述べた。

4月25日。
ワシントンでの講演が取りやめになったのはうれしい。?

4月30日。
国会図書館でなくカウフマン講堂で講演。

5月4日。
ストックホルム。出発は1日。空路20時間。3日に講演。終了後ビールを飲んだ。

5月17日。
パリの講演と滞在は終り、車(ヒルマン・ミンクス)でチューリヒへ。

From Wikimedia Commons, the free media repository 
この写真はいすゞが1953年に国産化したものだが、これにちかいものだろうと推測。
Jump to navigationJump to search

5月23日。
ルガーノ者は昨日。湖の見える5階のホテルの部屋。

ところで車はやはりKが運転したのだろうなあ。ともかく車でヘッセ邸へ。昼食を一緒にとった。ヘッセ邸にはこの滞在中何度も遊びに行った。

亡命前ルガーノにいたのは1933年だった。

『イワン・イリーチの死』を読む。

5月31日。
車でルガーノを発つ。3人?、K、エーリカと。途中名物の鱒料理。チューリヒ着。

6月1日。
フリードと再会。彼は懐かしい『ドリトル先生』を持ってきた。

***

午後一時。昨夕注文しておいたBUFFALOのWiFiアクセスポイントが届いた。早速設置。WiFiの接続不良は解消した!気が晴れた。速度計測したが最速約50メガで前と変わらない。まあ、そもそも100メガ回線なのでしかたない。古いマンションなのだが、ギガの回線引けないかなあ。

2020年10月26日月曜日

無線LANがらみのトラブル対処の一日

一昨日ころから、頻繁に無線LANが切れるようになった。かなり以前から、ストリーミング・ビデオを観ているときなどにまれに勝手にPCやiPadが切断・接続をすることがあった。今回は、それが頻発。PCでもiOS機器でも、発生し、ビデオを観るどころの話ではなくなった。Twitterで「接続不良」とか「WiFi」とかのキーワードで検索してみると多種多様なことが書いてある。早く正常な状態に戻したいとあせると、かえって原因が追求できなくなる。

たとえば、これが原因かしら?と思わせる記事が見つかった。

「Apple、iOS 14/iPadOS 14やwatchOS 7で採用されるWi-Fiネットワークに対するランダム化されたMACアドレスについてサポートページを公開。」 この記事の中の方法をもとに「ランダム化されたMACアドレス」をやめて昔ながらの方法に戻す設定を試みてみた。症状は改善しない。違ったようだ。ルーターとアクセスポイントを結ぶLANケーブルも疑って、入れ替えてみる。これでもだめ。いきあたりばったりはここまで。

問題のあるのが回線系なのか、大分古めのアクセスポイントなのかを切り分けようと、有線LANを試してみる。今のメイン機MacbookProにはLANケーブル端子がない。そこで息子の古いWindows機を持ち出し、LANケーブルに繋ぎ、ビデオを映してみた。3時間くらいHD画像を流したが、切れない。モデムも含めた向こう側は、プロバイダの回線・サーバー共に大丈夫そうだ。

この問、iPadでのビデオは相変わらず接続切れで見るにたえない。

やはりWi-Fiルーターじゃなくて、WiFiアクセスポイントが悪いのだろう。アクセスポイントの換えは持ち合わせてないので、思いきって、安目のものを買うことにする。

Amazonで3000円強のがあった。配達は明日。なので、今回はauひかりのサービス品でなく購入で行く。ギガビット対応でないが、どうせ100メガMaxの光マンション回線なので型落ち品でかまわない。3時間ほど調べたのちポチった。明日到着する。

話変わるが、このマンションの回線をギガビット回線にしたい。でも30年以上経過した建物なので、可能かどうかわからない。まだ末調査なので、調査から始めると、組合員の説得、業者との交渉を含め、導入できるとしても数年はかかるだろう。気が遠くなりそうな話。いつまでここに住んでいるかもわからない。

***

全然読書できず、そして疲れたので昼寝する。

腰は、昨日の湖南料理のおかげか、調子良い。大量の唐辛子で血行が良くなったのだろう。

出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)



2020年10月25日日曜日

愛犬ニーコがいなくなった、が一ヶ月後に新しいプードルがやってきた。トーマス・マンは内田百閒より諦めが早い。

『トーマス・マン日記』の続きを読む。

1950年1月2日。
この日の注によるとアインシュタインの意見はマンの立場を明らかにするうえで重要な要因。

1月6日。
納税申告書をKが書いている。

イギリスが中国政府を承認した。米は台湾をあきらめた。ロシアがアジアで制御目的の核実験。

1月7日。
Kが税理士との相談結果を報告。今年の所得税は16,000ドル。

1月9日。
老犬のニーコがいなくなっており、警察と新聞に(捜索)依頼を出す。大いに心配。

1月20日。
ニーコは11歳。

1月27日。
耳の状態は変わらず悪い。体中の皮膚はかゆい。口も荒れて、喫煙禁止(これには反抗)。
ひげは6日問剃っていない。

こんな中でも『選ばれし人』の仕上げは休まない。

1月30日。
電気カミソリを買う。

夜素晴らしい響きのLPレコード。『三重協奏曲』。

2月8日。
生後8週のプードルの子犬がやってくる。アルガーと名付ける。6週間調教師に出す。

2月24日。
エーリカと相談。小説はほぼ完成したが出版は春以降。講演(旅行)のテーマはショーペンハウアーより『私の時代』。5月にはニューヨークを発つ。

再生装置の名前は「クロスワード・オヴ・メロディーズ」だそうだ。(?)

3月12日。
兄、ハインリヒ死亡。

3月14日。
同、葬儀。

***

昼前から、三軒茶屋に行き、掃除の仕上げ。夕方、3人でJの誕生会。湖南料理店。



2020年10月24日土曜日

『HAPPY DEATH DAY』、『HAPPY DEATH DAY 2U』はストーリー展開が早く、あかるくてホロリとさせるホラー映画

昨夜は、寝る前に映画『HAPPY DEATH DAY』を観た。この映画に関するファンジンをAR友の会の友人の編集長から送ってもらったので、読む前の予習のつもりで観た。単なるホラー映画かと思っていたが、味わい深い作品で驚いた。続編『HAPPY DEATH DAY 2U』も観ることにする。寝不足は美容の大敵なので、まずは就寝した。この後のお楽しみだ。




この石を撒いた。腰が痛い。

午前中は、マンション管理組合の仕事をしたので、午後『HAPPY DEATH DAY 2U』を観た。パラレル・ワールドのアイデアが使われている。主人公が暗記した数式はよくわからない。ともかく、第一作同様、軽快なテンポで、陰惨さがないホラー映画だ。面白い。

ファンジンは明日朝読むことにする。

***

朝読書。『トーマス・マン日記』。

1949年10月26日。
出かけた後の疲労なのか、耳の状態が悪化。好きな音楽を聴く気になれないのは気の毒。

11月2日。
10月31日にサンフランシスコへ飛び、ネールと会談した。

『選ばれし人』19章執筆。読書もたくさん。

11月7日。
「ロシアが、アメリカ帝国主義はドイツと日本の帝国主義を併せたものを大きく凌駕すると語っている。」を書いている……

ミュンヒェンからたくさん本が届いたが読書意欲が湧かない日だ。
昔の蔵書か。

11月19日。
食欲のないエーリカと、我が家の装置のすばらしい音を堪能。
マンはもちろん、ずっと19章の執筆に取り組んでいる。難航。

11月13日。
耳のアルコール治療をすると胸やふとももの皮膚に痒みが出るのに気付く。

仕事への意欲を掻き立てるために音楽を聴く。

11月17日。
こんな時期の、暑熱!

11月22日。
書評や手紙の処理など雑事がイヤになり、グレゴーリウスの完成や、『フェーリクス・クルル』の執筆のことだけ考えたい。

12月26日。
またLPレコードへの不満。
(# LPレコードのことを少し調べよう。この時期の技術水準など?)

***

今日作ったブリの照焼はうまくできた。小麦粉を薄く均等にふり、やや強火で表面を焼くのがいいらしい。照り焼きのタレが良く絡むように余分な油は事前に拭き取る。



2020年10月23日金曜日

16年ぶりの一時帰国で疲れて耳が悪くなったトーマス・マンだが音楽は毎晩聴く

6時起きして『トーマス・マン日記』の続きを読む。

昨日書きもらしたが、1949年8月13日の項の注によると、今回の重要な旅行に関するマンの英語版「報告」が「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」9月25日付けに掲載されたらしい。本文はこの巻の補遺にあるが、図版つきの紙面を見たいものだ。あとで、トライする。補遺を見ると、フランクフルトだけでなく、シュトゥットガルト、ニュルンベルク、カッセル、そしてミュンヒェンにも行ったらしい。ヴァイマルとチューリンゲンにも。

ヴァイマルのマン 
From Wikimedia Commons, the free media repository


8月19日。
パシフィック・パリセーズに帰った。帰路、上記の「報告」を書きはじめる。夜、前から好きなメンデルスゾーンの『夏の夜の夢』を聴く。(# 多分トスカニーニのレコードを書斎の電蓄で聴いたのだろう。NAXOSでそれらしい曲を探して聴いてみた。)

8月25日。
「報告」を書きあげる。Kとエーリカに読みきかせ、意見を聞き、翌日は訂正。

8月27日。
『選ばれし人』執筆を再開。

8月29日。
耳の状態は良くないが、好きな音楽は聴く。「新しい長時間録音レコード」を試し聞き。フランクのヴァイオリン・ソナタ。耳ざわりなところがあると。LPレコードだろう。評価が良くないのは耳が弱っているせいではないのか。あるいは器械の調整不足。

9月8日。
ボンで西ドイツ国家樹立。

9月12日。
『選ばれし人』執筆は16章に入った。

9月13日。
入浴しながら考える、体調は悪いが75歳までは生きたい。その時スイスにいるのかはおぼつかない。(# 弱気になっている。朝の入浴は私も定年以降真似している。)

「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」に写真を送る。

9月23日。
ロシアが原爆を保有していると騒動になった。

10月16日。
うっかり9時まで寝てしまい、11時から執筆開始。

10月17日。
7時半起床。マニキュア、コーヒー、入浴。


2020年10月22日木曜日

16年にわたる亡命生活を経て、ドイツへ一時帰国したトーマス・マンは74歳病弱

管理組合のお仕事、午前中は駐車場脇に泥跳ね防止で敷く砕石を100キロ購入。午後は北側部屋出窓の水漏れ状況の聞き取り調査。結構疲れた。

『トーマス・マン日記』のつづきを読む。朝と夕方。


1949年3月22日。
「フィラデルフィアで演奏会場がショスタコーヴィチを拒否。」

3月26日。
午前中は講演旅行用の講演原稿を書く。眼科医ヘ。スルファ剤の治療続ける。気分が悪く読書はできない。晩に『コジ・ファン・トゥッテ』を聴く。

4月7日。
不眠。咳。前日の耳の炎症。目の不調。# 近づくドイツヘの旅がうまくいくのかという不安のせいだろう。

4月25日。
K、エーリカと共に出発。

シカゴへの車中でコンラッド『黄金の矢』を読む。

4月28日。
シカゴで講演会。

4月29日。
大学病院で診察と検査。以前肺の手術を受けた病院だろう。

5月3日。
ワシントン着。講演会。

5月4日。
ニューヨーク。

初めての航空便でイギリスへ。イギリス内講演旅行、オクスフォード大での名誉博士号授与(5月13日)。…

(# すると私の生まれた日にはスコットランドに着陸したころか?)

5月19日。
ロンドン。フランクフルトからは正式な知らせがない。

ストックホルムへ飛ぶ。

5月22日。
息子のクラウス、カンヌで危篤の一報。そして死亡の知らせ。

K、エーリカと相談し、とりあえず講演旅行は最小限続けることにする。

5月29日。
コペンハーゲンへ。

講演。

6月2日。
チューリヒへ。家族再会。

6月3日。
講演会。

6月6日。
74歳の誕生日。喫茶店でお祝い。

6月11日。
マッカーシーよりの報道をするライフ誌と協力した友人を怒るエーリカ。

142頁。6月14日。
朗読会。執筆中の作品の一部をマンはよく読み聞かせて、聴衆の反応をみる。こんな執筆方法が作品の出来映えにどう関係するか考えてみたい。

6月15日。
キュスナハトへ行き旧居に住む昔の家主と昼食。懐かしい。帰りのタクシーの運転手も顔見知り。

6月18日。
フリードが母方の祖父によくなついていて、「本気で嫉妬」。

7月23日。
チューリヒを出発。「戦争にでも出かける気分。」で。日記には略されているが、24日。フランクフルトに入り、記者会見をした。「16年にわたる亡命生活を経て、・・・ドイツへの帰路をたどる。」と地元の報道。その後アムステルダムへ。

8月6日。
ロッテルダムで「ニュー・アムステルダム号」に乗船。

8月13日。
ニューヨーク着。

8月15日。
シカゴ。

8月19日。
パシフィック・パリセーズに帰る。

2020年10月21日水曜日

『トーマス・マン日記』の詳細な注釈にあらためて驚く

『トーマス・マン日記』のつづきを読む。


1949年1月23日。
短い日記と長い注を読むと、マンの日常が透けて見えてくる。書き、孫と散歩し、読書する毎日。政治のニュースにも注意を払う。

1月27日。溺愛の対象、8歳の孫フリードにアンデルセンを読んでやる。この冬から春までフリードとその弟を両親(ビービとグレート)から預かっている。大変だっただろう。

2月1日。
映画『魔の山』構想をコルダ監督と協議。『魔の山』で主人公の「幼馴染」として重要な役割を夢想のなかで果たす、プリービスラフ・ヒッペはシナリオから落とすしかない。(# マンはずいぶん落胆しているようだ。)

編者の詳細な注(# 詳細すぎて本の厚みが2倍以上に膨れ上がっている。たしかにコンピュータの助けとトーマス・マン研究が進んだことにより注が大量になるのだろう )によると1950年7月11日の日記にもヴィルリ(本名)としてヒッペに関する記述があるという。そちらの注を見ると、リューベック時代の学友でヴィリラム・ティンベといい、マンが下宿していた高校教師の家の息子。

同じ注に、『トニオ・クレーゲル』の幼馴染ハンス・ハンゼンのモデルはやはり学友アルミン・マルテンスだとのこと。

同性の幼馴染たちを詳細に記述することによりトーマス・マンは、彼らへの愛情を香り高い文学に昇華させている。

3月12日。
いつも膨大な量の手紙が届く。中には答えなくてはならないものもあるが、手紙書きで、午前中の仕事を邪魔されるのはイヤだ。(# 電子メールのある世界を教えてあげたいものだ。)

***

明日はマンション管理組合の仕事で一日忙しくなりそうだ。

2020年10月20日火曜日

マン家の人々の生涯も小説以上に小説的

『トーマス・マン日記 1949-1950』を読み続ける。

1949年1月5日。『ゲーテと民主主議』講演原稿を書きはじめる。5月にワシントンの国会図書館で講演するため。このあと、「風邪」もひきながら、苦労して書いていくことになる。

トルストイの『主人と下僕』を読んでいる。忙しいのにあるいは忙しいからこそ本も読む。何を書き何を読んでいるかを表にしてみると面白いだろう。

1月18日。
ニューヨークの連邦裁判所で「共産主義者トップ12人」の裁判がはじまる。フリードに「旅の道連れ」(アンデルセン)を読みきかせる。

孫のうち、フリードを溺愛するトーマス・マン。なにか理由があるのかもしれない。

ということで、以下に寄り道するつもりだ。フリードは1940年生まれでご存命。



その前にこれを読む。『Unwritten memories』by Mann, Katia, 1883-1980,Publication date 1975,Language English,Translation of Meine ungeschriebenen Mem


『トーマス・マン日記』の1918年−21年の記述も調べたい。フリードの父ミヒャエル・マンの生まれたときの記述。

***

午後、『ダウントン・アビー(劇場版)』を観た。TVシリーズと違い、喜劇的な展開。国王一家は、ダウントン・アビーの一家ほど、高貴に見えない。トムに新しいロマンス。

2020年10月19日月曜日

『トーマス・マン日記 1949-1950』(紀伊國屋書店)を読み始める。いよいよ私の時代に。

昨日、三軒茶屋まで行き、世田谷区立図書館のカウンターで借りてきた『トーマス・マン日記 1949-1950』を読みはじめる。

インゲ・イェンスの書いた編者序文が秀逸。この巻に納められた1949年から1950年の日記の主題は2つ、トーマス・マンの青年への愛と、政治情況の悪化への対応。前者については日記本文に語らせ、後者については編者注でできるだけ補足すると言う。またかすかに見られる、マンの日記記述上の乱れについても述べられる。老いが忍び寄っている。

日記本文と索引も含めた編集上の苦労についても少し触れられている。コンピュータとインターネットが駆使されたらしい。

1949年1月1日。
新しいスイス製ノートブックに日記を書きはじめる。5月にはまたチューリヒに行く予定なのでまた同じノートブックが買えるであろう。

元日だが『選ばれし人』の執筆を再開、Kが風邪で寝ているせいもある。

1月3日。
「若いプリングスハイム」によると日本ではマンの本が人気。日本円で100万円の預金ができそうだが、円は間もなく暴落するだろうと書いている。

「訳者あとがき」も先に読んでおこう。この間のマンの動静がまとめてある。翻訳原稿の難しい校正についても、感謝の言葉がある。苦労がしのばれる。

定価14,000円はこれらを思えば安い。でも年金生活者には買えないのには変わりない。清水の舞台をとびおりてこそ、浮かぶ瀬もあるのだが……

2020年10月18日日曜日

『アシモフ自伝 1上』を読み終えた後、『トーマス・マン日記 1949−1950』を借りてきた



『アシモフ自伝 1上』を読み終えた。

371頁。
1941年夏。珍しく休暇をとり、シュペルヴィルへ。(手がき入力でルの書き方のコツがつかめた。というより入力システムの方が学習してくれたのか。)

周囲の客はユダヤ移民。皆ナチへの憎悪。しかし白人の黒人への差別は容認。歴史を学んでいないからと結論付ける。6月22日、ナチス・ドイツがソ連を侵略したニュースを聞き帰宅。

378頁。
1941年8月1日、キャンベルのところに行く途中、地下鉄で読書中に『銀河帝国・・・』のアイデアを、連想で思いついた。キャンベルに話すと乗ってきた。まず概要を書いて来いとアシモフを帰した。ハインラインは未来史の精密な概要を書いたが、アシモフはそんなことはしない。すぐ書きはじめた。

379頁。
1941年8月15日。大学院の物理化学集中講義「相律」の最終日。アスタウンディング誌に「夜来たる」が載り、アシモフは表紙と占領。ハインラインは「メトセラの子ら」。21歳にして一流作家と認められた。

381頁。
9月8日、「ファウンデーション」採用。126ドル。割増金はつかなかったが、シリーズものになる。

382頁。
9月18日、ニューヨークでオーロラが見えた。

392頁。
12月7日、日本軍が真珠湾を爆撃。海軍艦艇ほぼ壊滅。

394頁。
1941年の文筆収入は1060ドル!

397頁。
修士修了試験に合格。博士課程へ。

409頁。
ハインラインの口ききで、フィラデルフィアの海軍工廠に勤務することになった。徴兵のがれのため。日本との戦況は悪化したまま。

***

読書後、午前中はマンションの理事会。

午後は、かたづけのために、三茶に向かいますです。予約している『トーマス・マン日記 1949−1950』も借りてくる。



2020年10月17日土曜日

二十歳前のアシモフは書き始めてから2年ほどでSF作家としての地位を確立



『アシモフ自伝 1上』続きを読む。親の希望はアシモフを医者にすることだが、アシモフ本人はそれほど医師になることへの愛着はない。好きなSFを書くことにすくない暇を費やしている。

279頁。
18歳のアシモフは医学部進学のためいろいろな大学の面接を受けるが、落ちた。彼がユダヤ人のせいもあるが、理由はそれだけではない。容貌、実力、そして・・・

父は悲しんだ。

280頁。
1939年1月5日木曜日、キャンベルは「アド・アストラ」を書き直すように言った。

281頁。
1月10日、「真空漂流」がアメージング誌に出た。プロ作家デビュー。19歳になったばかり。

282頁。
1月31日、キャンベルから小切手が届く。69ドル。6900語だったから。だまって採用作に小切手だけ送るのがキャンベル流。

2月4日。「サイエンス・フィクション」誌に、「太陽に覆いを」が採用された。1語半セント。掲載時支払い。

283頁。~
友人でもある代理人フレッド・ポールに声をかけられたが断る。

2月6日。アメージング誌で「使うのも怖しい武器」採用。64ドル小切手。でもこの雑誌は質が悪い。昔のパルプ雑誌。

285頁。
12,600語の「巡礼」をキャンベルへ。没だが、アイデアは悪くない。

286頁。
「巡礼」を何度も書き直すがキャンベルは採用しない。

アングロサクソン系の名前の作家の方がキャンベルには受け入れやすく、改名を求められた者もいたが、アイザック・アシモフは受け入れられた。

294頁。
カレッジ卒業にまつわる、いろいろな差別。

295頁。
化学の修士号をめざすことにした。しかたない。

297頁。
「アド・アストラ」は「趨勢」(Trends)という名で檜舞台アスタウンディング誌1939年7月号に掲載された。この号は1940年代SF黄金時代のはじまりとされている。他にヴォクトやハインラインなど。

299頁。
1939年7月2日。第一回世界SF大会。最後の頃、スピーチをさせられた。新進作家としては喜ぶべきだった。

304頁。
1939年9月1日、ヒトラーがポーランドに侵入。第二次世界大戦はじまる。

9月2日「アンモニウム」がサイエンス誌に売れた。

310頁。
やっと大学院に入った。勉学の場であり交際の場にはならない。ますます作家への道に傾いて行く。

312頁。
友人のフレッド・ポールが雑誌編集長となり、2編採用してくれた。1語0.5セン卜、計77.5ドル。これで息をつく。

315頁。
1939年末。教室で才媛アイリーンと出会う。21歳、少し年上。しばらく付き合う。

317頁。
1939年の売上は総額210ドル50セント。

322頁。
ポールが35ドルで「ロビイ」を貿ってくれた。

1940年4月12日、「地球種族」をキャンベルが採用。やっと2作目がキャンベルに売れた。アングロサクソン優位の物語だからか。

323頁。
物理化学の成績はA。他は平均B。物理学の単位は落とした。コロンビア大学院の正式な学生として認められた。なお、メディカルスクールへの入学は正式に断られた。内心喜ぶ。

キャンベルがアシモフの作品を断る理由として、ハインラインの作品と競合してその場合はインラインの作品の方が好みだったということがあった。ハインラインの1938年頃、も調べたい。

***

『鬼滅の刃』のアニメを見始めた。なかなか面白い。



2020年10月16日金曜日

1938年、作家としての道を歩き始めたアシモフの年間売上は64ドルだった

予想より晴れた。日光をたのしむ外猫Amちゃんを発見した。


猫を横目に見ながら床屋に行ってきた。

***

『アシモフ自伝 1上』続きを読む。移民としての生活も大変だが、その悩みはかなり抑えて書いているようだ。一方、ナチズムとユダヤ人排斥の動きはヨーロッパに暗雲のようにたれこめる。そんな中だが、アシモフ青年はSF小説を書くことに人生を賭けようとしている。

262頁。
1938年9月18日。SFファングループに初参加。

263頁。
クリフォード・シマックの文体を学ぶ。きっかけはシマックの作品の批評を書いたこと。

266頁。
大学の「積分学」が理解できず、数学をこれ以上深くやるのは断念。

父親と政治の話をする。

ヨーロッパでヒトラーと対決できる国はない。アメリカが対抗しないと、アシモフ。父はソビィエトがナチズムを打倒できると父。

日本への怒り。日本のせいでドイツ打倒が困難になるとアシモフ。

271頁。
アメージング・ストーリーズに「真空漂流」が売れた。64ドル。バイト代の4ヶ月分。このことで父親に尊敬されはじめる。

277頁。
重苦しいヨーロッパ情勢下。小説を書いては没にされる連続。父親の病気(心筋症)のため医学部進学はあきらめるのだ、と考える自分にほっとするのに気付く。

良い小説は書けないと自己不信が生じるが、それを「作家の領域」に踏み込ませない。つまりダメならすぐ別のを書きはじめるべきと悟る。

278頁。
1938年の統計。没15編。採用1編。年間収益64ドル。アシモフはこの統計を生涯続けることになる。

***

ソロモン・ヴォルコフ編『ショスタコーヴィチの証言』(中央公論社)を読み始める。編者がショスタコーヴィチの話を聞き書きしたものらしい。ショスタコーヴィチはまず、周囲の人の印象や評価から話し始め、周囲の人が自分をどう見ていたのかを語り、自分をくっきり浮き上がらせる。以前読んだ中村真一郎さんの「文学としての評伝」の方法に近い話しの進め方と言える。ショスタコーヴィチも編者もすごい手腕といえよう。なじみのない世界の話がするすると頭に入ってくる。

2020年10月15日木曜日

未来の大作家アシモフを見いだし、指導した編集者キャンベルの功績は大きい

1938年の米国事情を知ろうと、『アシモフ自伝 1上』(早川書房)を読み直す。1920年生まれのアシモフは、1938年にはコロンビア大学に属するカレッジに在学し、SFを書き始めたところだ。そこにいたる道筋も読んでみた。ロシアからのユダヤ系移民の暮らしがわかる。

93頁。
ロシアからの亡命後の父も、アシモフも信仰からは「自由」。

98頁。
キャンディーストアで粗悪なペーパーバックを読みたがる小学生のアシモフに、図書館の貸出券を与える父。本を買うことは(貧しくて)できなかった!

102頁。
一度わかったことは、二度と忘れ(られ)ない。一種の病気だろう。

103頁。
飛び級で小学三年生になるまで、ニューヨークが世界と思っていた。教室で笑われたので、地理の教科書を一晩で読み、すべて頭に入れた。

109頁。
1928年。父親が市民権をとる。8歳のアシモフも成年時に市民権をとる有資格者となった。

110頁。
イディッシュ語をもとにヘブライ語を読めるようになった。父の影響。

114頁。
引っ越し。その際前の住民のタイプライターを垣間見る。

118頁。
キャンディーストアで週7日、日に10時間働く。この働く習慣は死ぬまで続く。

119頁。
図書館で本を借りてひたすら読む。イリアス、オデュッセイア、デュマ、ディケンズ、オールコット、ネズビット、パイル、マクドナルド、シュー。借りられる二冊のうち一冊は小説で、一冊はノンフィクションでなければならない!アガサ・クリスティー、ウッドハウス。

120頁。
キャンディーストアのパルプ雑誌も読む。

そしてSF雑誌。アメージング・ストーリーズ。創刊1926年4月号。

121頁。
ドリトル先生を読むことを教えてくれたマーティン先生。

132頁。
新聞を読みはじめる。大統領選でニューヨーカーでないフーヴァーが当選。世界大恐慌。1929年おわる。

136頁。
飛び級で「高校生」あつかいになる。図書館で借りることができるのは相変わらず二冊だけ。

141頁。
読みたい物語は自分で5セントのノートに「創作」することにした。1931年秋。

143頁。
1932年版の『ワールド年鑑』を父親にプレゼントしてもらう。さまざまな統計から多数のグラフを描いてみた。

149頁。
男子校高校生になる。標準は15歳だがアシモフは13歳。

当時のユダヤ人社会では、子供を医者にすることが夢。

151頁。
ローズヴェルト大統領になる。学校新聞の仕事をしたかったが手伝いのため時間がない。

計算は得意だったが数学そのものの才能はないとわかった。

178頁。
高校卒業。

1935年4月10日。マンハッタンにあったエリート校コロンビア・カレッジの面接で不合格。同じコロンビア大学の中のセス・ロウ・ジュニアカレッジ(ブルックリン)に合格。こちらの方がユダヤ人が多い。

184頁。
父がアンダーウッド五号(中古タイプライター、10ドル)を買ってくれた。

188頁。
(1936年。)SFを書きはじめた。文体無視で書きなぐる。

193頁。
学費がなかったが奨学金100ドルと月15ドルのアルバイトを学校から紹介される。最年少の学生になる。

197頁。
外国語、単語を覚えるのはいいが文法不得意。

201ページ。
1936年9月、大学2年目。ブルックリン外の(モー二ング・ハイツ)校舎に通う。歩いて一時間。

202頁。
化学の講義を聞き、気に入る。先に教科書を読んだことがあったの原因。一方、解剖が不得意で医学部への進学に疑問を持った。

208頁。
キャンディーストアの周囲の住民はアイルランド系が多い。保守的。反ユダヤ感情。売っていた新聞には、カトリック系が多い。そしてタブレット紙。これらは反ローズヴェルト、反ユダヤ。反共産主義。ヒトラーには無関心。

209頁。
周囲はドジャーズファンたがアシモフは以前同様ジャイアンツファン。

219頁。
19世紀文学ファンで、ヘミングウェイなど20世紀文学は(今でも)読まない。サバティーニの歴史小説やJ.C.リンカーンのケープコッド小説を全部むさぼり読む。

ノンフィクション好き。ウェルズの『世界文化史大系』、『生命の科学』も。ギリシャ史。フランス史。

ジーンズ。エディントンの天体物理学書。入門書だろうか?

他。ロバート・ベンチリー。オグデン・ナッシュ。

211頁。
政治や世界情勢への興味。1936年11月3日、大統領選でローズヴェルト勝利。12月、蒋介石が張学良に監禁さる。中日戦争の導火線。

213頁。

読んだSF作品の情報を索引カードにし、詳価もつけた。

214頁。

1937年5月29日。発表を意識した小説を書きはじめた。「宇宙のコルク抜き」(Cosmic Corkscrew)

19世紀小説やパルプ雑誌の影響で、形容詞と副詞がたっぷり!ただしSFの基本はしっかりしていた。科学的な仮定を考え、その上に小説を組みたてる。

221頁。
1938年1月1日から日記をつけた。毎日。細大もらさず。除々に簡単になって行くが、文筆と交際のみの記録は書き続ける。個人的な感情などは書いてないので、しまっておく必要がない。

243頁。
1938年6月21日。父親に促されて原稿を持ち込む。編集長J. キャンベルは28歳。若造だったがアシモフ19歳からみたら世故たけた大人だっただろう。初めてだが投稿者としてのアシモフを覚えていて、1時間も話をしてくれた。「宇宙のコルク抜き」の原稿もしっかり読んでくれたが、もちろん没。しかしこの会見のおかげでアシモフは著作を続ける勇気を得たので、編集者としてのキャンベルの有能さは大したものと言わなければならない。

246頁。
この頃から日記は簡潔になる。出版のための執筆に力をそそぐためだ。

SF雑誌をよむというエデンの園から、出版のための執筆という別のエデンの園へ。どちらもエデンの園というのがアシモフらしいところか。

248頁。
最初の2作品は時間をかけて修正しながら書いたが、1語1セントという相場ではそれではやっていけない。その後ずっとタイプ原稿は二度以上作らない。うまくいかないときは新たに書き直す。

250頁。
1940年代の有名SF作家はほとんどキャンベルが育てた。特に1938年のアシモフとキャンベルの邂逅はSFの世界をゆるがす大事件と言っていいだろう。

キャンベルの回想をアシモフが綴った文も収めたこのアンソロジーは読んでおくべきか。



2020年10月14日水曜日

エイモア・トールズの『賢者たちの街』と『モスクワの伯爵』(どちらも早川書房刊、宇佐川晶子訳)読後感

メルマガ週刊ALL REVIEWS Vol.70 (2020/10/05-2020/10/11)の巻頭言です。エイモア・トールズの著作二篇(*)につき、書いてみました。

(*)『賢者たちの街』、『モスクワの伯爵』。どちらも早川書房刊、翻訳は宇佐川晶子さんです。


***

週刊ALL REVIEWS第68号の巻頭言で紹介された『賢者たちの街』を読んだ。ブルックリン出身の編集者が語る、もの悲しく美しい1930年代ニューヨークでの立身出世と恋愛談。編集者がカーラジオで聴いて感動した『ニューヨークの秋』は多くのアーチストが手掛けたスタンダードナンバーだが、編集者が聴いたときに歌っていたのがマイノリティーのビリー・ホリディであるという設定が重要だ。ちなみに編集者は若いときから本の虫。

あまりに面白かったので、同一著者の『モスクワの伯爵』も続けて読むことにした。1920年代のホテルでの軟禁生活を語る前半はエンターテインメントとして楽しめた。1930年代の後半はスターリニズムの圧迫への伯爵のしたたかな抵抗が痛快。テーマは本当は非常に重たいのだが、「チャーミングな小説」(アメリカの某編集者評であると本書あとがきで訳者に教わった)として、全体を一気に読ませる凄腕の著者エイモア・トールズ。素人目にはこれが長編の二作目とは思えない。

『モスクワの伯爵』は2016年刊で、著者の公式Webサイトを見ると次回作は2021年に出す予定らしい。勝手な内容予測として、モスクワから「自由の国」への亡命物語と考えてみた。亡命先で伯爵または娘またはパートナーの辿る道は、『賢者たちの街』と似たものになるだろう。「自由の国」での生活をなんとか始められたとして、その先にきっとある差別をエイモア・トールズはどうとらえて、いかに『賢者たちの街』のように小粋に、瀟洒にかつ酷薄に描くだろうか。

ともかく二冊とも面白く読めた。物語に没入するときのあのわくわくする気持ちを味わうことができた。宇佐川晶子さんの翻訳も素晴らしい。二冊のストーリーの社会背景を重ね合わせて考えるのも興味深いし、現在の世界の閉塞状況を救う道を考えるときの参考にもなりそうだ。エイモア・トールズの出自も気になってくるが、インターネットで調べても表面的なものしかわからない。

良い本に出会えたのはALL REVIEWSのおかげだ、そして巻頭言執筆仲間のおかげだ。今週も楽しい読書を求めてALL REVIEWSを巡回したい。(hiro)

***

週刊ALL REVIEWSメルマガ。まだの方はぜひご購読ください。このリンクから手続きできます。無料。

https://allreviews.jp/news/3395

2020年10月13日火曜日

1938年に皆はどう暮らしていたか

「1938年」をキーワードにして、手元の本を拾い読みしてみた。

***

エイモア・トールズ『賢者たちの街』一章は1937年12月31日からはじまる。以下この物語は1938年が主な舞台。

二十章は秋。失恋した主人公はアガサ・クリスティーをしこたま読む。ポアロ、マープル、『ナイルに死す』、『スタイルズ荘の怪事件』。ゴルフ場に牧師館にオリエント急行。

エピローグは1940年12月31日など。ラストは1955年。序章は1966年10月4日。

『モスクワの伯爵』1938年、ニーナ(夫につきそいシベリア行き)からソフィアを預かる。孫みたいなものだ。伯爵は48歳。まだスクワット20回できる。そろそろ軟禁生活からの脱出を具体的に考え始めたかもしれない。

***

トーマス・マンの1938年。『トーマス・マン日記』(紀伊國屋書店)より

1月1日。スイス、キュスナハトの亡命先自宅。1月11日アローザのホテルへ。一家の冬休み(本人は仕事ばかり)。1月31日キュスナハトに戻る。2月16日出発、クイーン・メリー号。2月22日ニューヨーク。6月末まで米国横断講演旅行。6月29日ワシントン号でニューヨークを発つ。7月7日キュスナハト着。9月14日、5年間住んだキュスナハトを発つ。ニーウェ・アムステルダム号で9月18日米国へ向かう。9月24日、ニューヨーク着。9月29日プリンストンへ。1939年6月6日(64歳)まで滞在。イル・ド・フランス号で欧州へ。ワシントンへ戻り、(9月18日)プリンストンに戻る。ここで二度目のクリスマス。

***

アシモフの1938年。『アシモフ自伝』(早川書房)より

1938年1月1日、ブルックリンの父親の家に住む18歳のアイザック・アシモフ青年は日記を付けはじめる。母とイディッシュ語のショーを見に行く。コロンビア・カレッジ3年生。

1938年春、アスタウンディング・ストーリーズの編集長にキャンベルが就任。誌名をアスタウンディング・サイエンス・フィクションに変更した。アシモフは投書を今までより熱心に再開。タイピングはアルバイトのおかげで上手い。

6月21日、キャンベル編集長に会いに行く。7月18日も。原稿は没だが感触は良い。他の雑誌からも没。8月4日、アンダーウッド5号故障。スミス・コロナポータブルを買う。SFを書いて雑誌に売り込もうというこの年の苦闘は翌年まで続く。秋。ナチスののさばる欧州情勢を知る。

***

アーサー・C・クラークの1938年。『楽園の日々』(早川書房)

ロンドンの狭い部屋で、ロケットに対する誤解を解こうとアスタウンディング誌に投書を書いていた。受け取るのはキャンベル。21歳の若気のいたりの投書はこれ。


***

ロシアから米国への移民という観点でもう少し追求(って読書するだけだが)してみる。

***

夜、週刊ALL REVIEWSが出た。今週の巻頭言は私。エイモア・トールズの二冊について書いた。

2020年10月12日月曜日

1930年代後半のアメリカの中のニューヨークの状況を知りたい

ル・コルビュジェ『伽藍が白かったとき』(岩波文庫)をかなりの部分拾い読み。この本は『賢者たちの街』381頁で引用されている。この時期(1935年から1936年)に、ル・コルビュジェがニューヨークを訪れたときの感想を交えた著作。


73頁。
ノルマンディー号でアメリカへ。

アメリカの伽藍は白いのか?

83頁。
仕事に麻痺し、地下鉄や高架鉄道の金属音に呆けてしまった男たち女たち、子供。

92頁。
パリの居酒屋は古い。

アメリカはご清潔。

94頁。
ニューヨークの街は碁盤目。パリと違う。

106頁。
ニューヨークの摩天楼は小さすぎ、そして多すぎる。もっと大きいのを提案したい。

111頁。
この十年間に、ニューヨークは空に伸び、モスクワは摩天楼を「資本主義的」であるといって告発した。

150頁。
「ニューヨークはアメリカではない」アメリカとは、ニューイングランドや、ボストン、シカゴ、そしてもっと広い部分だ。

151頁。

外から来た人はニューヨーク人になれてもアメリカ人になるとはかぎらない。

155頁。
アメリカ人は黒人に関すること以外は非常に民主的に見える。

163頁。
ニューヨークはパリに一番近い大都市である。(ル・アーブルで船にのるとすぐに着く。)

177頁。
すべての金銭は労働時問をあらわす

200頁。
中世伽藍が白かったとき、精神は勝ち誇っていた。だが現在のフランスの伽藍は黒ずんで、精神は傷ついている。

エイモア・トールズは、この本を引用することで、白い伽藍を上り詰めようとする主人公に警告を発しているのだろうか。


***


1936年前後の『アシモフ自伝 1上』を調べてみたい。ロシアからの移民でブルックリンに住んでいた若きアシモフは何を考えていたか。本を探し出してきた。

2020年10月11日日曜日

『賢者の街』を読んで疲れたら、エンターテインメントとしてのアガサ・クリスティーと『モヒカン族の最後』をよむべし

先日読み終えた『賢者たちの街』を何箇所か、あとがきも含めて読み直してみた。この本のなかで「本」は重要な役割を果たしている。後に雑誌の編集者になる主人公は、子供のころからの本の虫だ。待ち合わせの前に時間があると(時間をわざと作ってかもしれないが)、ヴィレッジの古本屋で本を捜して買ったりする。旅行に出るときに本を持つが、足りなくなるのを恐れて、駅の売店で他の雑本よりはマシだろうといままで読んでいなかったアガサ・クリスティーを買ったりする。そしてアガサ・クリスティーにはまり、その後数ヶ月でほぼ全作品を読む。

全作品と言っても、主なストーリーは1937年から38年なので、『ポワロのクリスマス』までを読んだということだろう。アガサ・クリスティーの生涯の著作の半分くらいまでは出ていたのだろうし、人気抜群の流行作家とみなされていたと思える。

実は私は、いままでほとんど読んでいないので、この機会に読もうかと考えている。著作リストを片手に片端から読んでやろうと思っている。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AC%E3%82%B5%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%81%AE%E8%91%97%E4%BD%9C%E4%B8%80%E8%A6%A7

不実なボーイフレンドとの会話に出てくるのは、子供時代に二人共読んだフェニモア・クーパーの『モヒカン族の最後』。この題名には、私もかすかな思い出がある。小学生の頃読んだ。原作をInternet Archiveでさがして眺めたが、ピンとこない。数時間潜在意識に脳内を探索させたら、どうも漫画化されたものだったと思い出した。杉浦茂の画だった。キーワードが見つかったので、しばらくInternetで捜し、BOOK☆WALKERというところで電子版を見つけた。画像の品質はあまりよくないがほぼ読めるし、なにより330円なので安い。

さっそく読み、昔の面白さが蘇った。ただし、内容は今考えると問題無しとしない。『賢者たちの街』の著者もそれはわかった上で引用していると思う。『モヒカン族…』は映画化も何回もされている。こちらも時間があれば……

2020年10月10日土曜日

『プルーストによる人生改善法』を読み終えた、またプルーストを読み直すきっかけになりそう


『プルーストによる人生改善法』を読み終えた。私にとっては、この最後の部分がこの本の肝だと思った。

172頁。
貧しさが不満な青年のために、ルーブルのシャルダンを紹介するプルースト。

平凡なものを描いただけなのに何故シャルダンの絵は人を楽しませるのか。幸福感すら覚えさせるのか。

178頁。
いま一度よく見ることから出現するかもしれない幸せ・・・

179頁。
『失われた時を求めて』の語り手はマドレーヌを食べようとして、心の奥底の美しい記憶を見いだす。

プルースト的瞬間。

181頁。
凡庸だったのは人生でなく、記憶中のイメージ。

183頁。
意識的に思い出せるイメージでなく、無意識的に思い出せ。

ものの真価を認識する瞬間。

187頁。
古い本(や絵)にたよらず、自分自身のイメージを見いだせ。

188頁。
美は自分自身で発見するもの。

192頁。
貴族とリッツでつきあうより、自宅でのんびりする方が幸せとプルーストは気付いた。

196頁。
アルベルチーヌはフェルメールを知らないが純真だ。

230頁。
「本をやめる方法」は、以下の危険性を知ること。

「作家を神託と間違える」

「いい本を読むと、書けなくなる」
(プルーストを読んだヴァージニア・ウルフ。なんとか、プルーストをやめて「ダロウェイ夫人」を書き終える。)

「芸術を偶像視する者になってしまう」

「『見出された料理』に投資したくなる」

「イリエ=コンブレーを訪れてみたくなる」
(偶像崇拝はやめよう。)

この本は、ご近所の図書館にはなかったので、世田谷区立図書館で借りた。

***


午後は、『トーマス・マン日記』の1937年分に目を通し、『ワイマールのロッテ』を書きながら、坐骨神経痛に苦しむマンの姿を想像してみた。名作の産みの苦しみがもちろんあるし、ミュンヒェンを追われた後のスイスでの生活のストレスも原因としてあったのだろう。この年の前半は脚の痛みで苦しんだ。でもすごいのは眠れなくても執筆を続けたこと。睡眠薬の助けも借りた。

書かないと余計苦しんだことだろう。年の後半はビタミン剤投与でしのぐ。

2020年10月9日金曜日

出版は20世紀初頭のフランスでも、江戸時代の日本でも、なかなか儲からない

5時半起きで『プルーストによる人生改善法』を読む。

138頁。
プルーストは気前が良かった。友人にも、給仕にも。友人への好奇心。友人の話を聞く謙虚さ。そして話し上手。

140頁。
でも内心では友情の価値を認めてない。

142頁。
粗野な振る舞いのジョイスとはそりが合わない。

146頁。
非論理的な会話より執筆が好き。

147頁。
書き直しがすごい。しかも戦争の四年間という時間があり原稿をほとんど書き直してしまう。写真あり。

148頁。
書き直す(修正)とは複数のプルーストが書いたということと考えられる。文殊の知恵。

155頁。
おバカな若者と話している時には、デカルトを持ち出すべきでないと思っていた。

157頁。
「プルーストする」とは心よい気取り。

161頁。
モリエールも好き。本心は生身の劇作家よりも製本されている方がもっと好き。

164頁。
嘲りの手紙は書いても出さなかった。かわりに「賞賛」の手紙を。

165頁。
『失われた時を求めて』は、長い、出されなかった手紙。

***


続いて、『和本のすすめ』(岩波新書)を読む。リビングの肘掛け椅子で読む。

12頁。
レイアウトまで忠実に翻字したテキストで変体かなの読み方を勉強せよ。

「変体仮名ビューアー」
http://mojilabo.com/viewer/
で読み方を練習するという手がある。

16頁。
写本と刊本(板本)とがある。江戸期はその中間。

22頁。
近世出版史の沿革図。これはわかりやすい。

27頁。
『改訂増補近世書林版元総覧』には6569の板元が収録されている。多数。本の取引。市、店頭。

32頁。
本は高価だった。なぜかは後述。

34頁。
京都。出版教は年間200点。17世紀。

35頁。
こんな書肆があった。今でも残っている!

http://www.teramachi-senmontenkai.jp/shop/s06/s06btm.html

52頁の例。
出版にかかった費用現在の価値に直して、計68万円。固定費。

53頁。
500部で用紙代は100万円近くになる。他製本代を加えると総経費800匁、250万位。1冊6000円で全部売れても850匁。300万。もうからない(T_T)

『続和本入門』橋口候之介3章。

55頁。
版権・著作権。

2020年10月8日木曜日

創造する人は、病にも苦しむのかも


朝の読書。『プルーストによる人生改善法』の続きを読む。

92頁。
プルーストは医者を信じない。当時の医学も。

108頁。
プルーストは率直。『カラマーゾフの兄弟』を書いたのは誰かと質問するくらいに。

115頁。
物事にふさわしい言葉を探す。失敗だらけになるが、あきらめない。

116頁。
使い古された言い回しに異議を唱える。決まり文句だけじゃダメ。

120頁。
名文の下手な模倣を嫌う。

128頁。
1872年(プルースト生年の翌年)モネは『印象―日の出』を出品。

130頁。
「自分たちが感じることに、現実と大きく異なる表現形式を与えておいて、そのくせしばらくすると、それを現実そのものだと思ってしまうこと。」は万人共通と見なしていた。

131頁。
バルベックにも「印象派画家」を一人登場させた。エルスチール。

132頁。
私たちのなかに未知のまま眠るものに気付き、驚くべきだ!

***

昼の読書。

『日本人の知性 19 辰野隆』(学術出版会)を拾い読み。

167頁。
辰野隆も書斎で炬燵を愛用していた。眠気を誘う所が良い。発狂しないから。


同じく、昼。

夏樹静子『椅子がこわい 私の腰痛放浪記』(文藝春秋)を一気読み。

105頁。
河合隼雄の助言。あなたの「腰痛」は、新しい境地への生みの苦しみだ。

#これはトーマス・マンが、『ファウストゥス博士』を書いている間に大病したのと似ている。

最終的には、断食をもちいた入院心理療法で快癒。新境地に達したかはわからないが、一年間休筆し世界や日本を旅行した。めでたい。



2020年10月7日水曜日

「伯爵ロス」を癒やすには別の読書計画を考えるのが一番

『プルーストによる人生改善法』をもう少し読む。

33頁。
引用 『実際、あらゆる読者は本を読むあいだ、自分自身の読者なのだ。』

良い意味でも、悪い意味でもこれはあたっている。

43頁から44頁。
非常に長い文章の例。なんのために……

60頁。
引用 「これはプルースト的スローガンたりうる。『急がないで』。急がないことの利点のひとつは、世界がますますおもしろくなる可能性が生まれることだ。」

プルーストは、新聞や雑誌に載っている短信を好んだ。#簡潔な文章の裏に潜んだ、当事者たちの長い長い物語を想像して、楽しんでいたと思える。

鷗外の『椋鳥通信』を思い出した。まるで、Twitterの文章のような短い欧米の出来事を延々と、雑誌に発表した。これは楽しみというより、興味があったというのが正解だろう。留学中に垣間見てきた世界を、もっと理解したいという欲望。『椋鳥通信』は岩波文庫で3冊。まだ上巻しか読んでいない。索引があるかと『鴎外全集』の該当巻を借りようとしたが、まだ果たしていない。近いうちに借りたい。

『椋鳥通信』にはトーマス・マンも顔を出す。たとえば、岩波文庫版(上巻)の181頁。ベルリンでマンの「フィオレンツァ」が1909年12月9日に上演された。これを書きながら、鷗外は何を思っていたか。調べたい。日記と対照しよう。

などと考えた後、『文学こそ最高の教養である』をめくっていたら、フィッシャー書店でトーマス・マン全集の「批判的校訂版」を出しつつあると書いてあった。229頁。1974年のフィッシャー版の全集は新潮社版と同じく13巻だったそうだが、今回は大量の批判的校訂が一冊ずつ追加されて、しかも日記も追加されるので、三倍近くになるそうだ。作業量も膨大なので、2030年ごろまでかかりそうだという。すごい、欲しい。翻訳はまず出ないだろうし、出るとしても10年は余計にかかるだろう。2040年に出揃うという超楽観的憶測でも、私は90歳位になる。読めるかどうかかなり疑問。ドイツ語を習ってフィッシャーの「批判的校訂版」を読むほうが早道なのかもしれない。前向きに検討する。既刊の「フェーリクス・クルル」の現物をすぐ入手したい。


***

朝、ARのしごと絡みで早起き。窓を開けたら、金星が輝いていた。それで思い立って、SFアンソロジー『スターシップ』のなかのブラッドベリ、「すべての夏をこの一日に」を思い出して読んでみた。金星の輝きはそれを覆う雲のせいだが、その下はいつも大雨で、7年に一時間しか太陽を見ることが出来ない。そこで暮らす子どもたちは……という話。金星の雲の下は大雨という発想はよく使われるようだ。たとえば、『金星の謎』も。

2020年10月6日火曜日

『モスクワの伯爵』読了、いま伯爵ロス状態

『モスクワの伯爵』、早くも読了。本当なら「モスクワの伯爵」ロスを避けるために、もっとゆっくり読めばいいのだが、それを許さない面白さ。著者エイモア・トールズは、この本の最後を完全な結末にしていないので、続編を書く気はあるのだと思う。アメリカに亡命するかもしれない。全くの私見なので本気にしないで欲しい。

とりあえず……

340頁。
まかされた子供の世話に戸惑う伯爵に裁縫師マリーナが助言。

もし迷ったら、「大人と違って、子供は楽しくありたいんだってことを思い出して。」と。

347頁。
党幹部のオシプに、仏、英のことだけでなく、トクヴィル『アメリカのデモクラシー』を教える、筈だったが子供の世話で準備できなかった。その後、アメリカ研究には映画を観るという手段が選ばれる。

370頁。
1946年ヘスキップ。このころまでに行列国家になった。その数年前ナポレオンについでドイツ国防軍がロシアの冬に敗退。

375頁。
スクワット15回!年か?

380頁。
60代にならんとする(伯爵)

386頁。
強制収容所から(一時的に)戻った友人。

394頁。
政治局員はトクヴィルをあきらめ、映画でアメリカを研究した。ボガードがお気に入り。『カサブランカ』は別。

「娘」が怪我をし、病院に行くため、はじめてホテルを出る。政治局員に助けられる。戻って米国人のプレゼント、カーネギーホールでのホロヴィッツのチャイコフスキー1番を聴く。

中略

583頁。
1954年。
すったもんだを一応片付けた後、猫(亡霊)に会う。

584頁。
朝、スクワット5回。まあ許せるね。

終わった。映画『カサブランカ』的な終焉。

次作書いて欲しい。書くとしたら、どうなるのだろう!Nを探しに行くと推察するが。

この本を読みながら、いろいろな曲を聴いていたが、今日はいままでま聴いたことがなかったショスタコーヴィチをBGMにしてみた。ちょっとおもしろそうなので、『ショスタコーヴィチの証言』(水野忠夫訳 中央公論社、1980年)を図書館で借りることにした。

ショスタコーヴィチで思い出すのは、『河岸忘日抄』(新潮文庫)で、「弦楽四重奏曲第四番&第八番」のLPが重要な役割を果たす。ボロディン弦楽四重奏団、マーキュリー・レコーズ。
それはこれのことか……
https://youtu.be/yavWK8tViZI

***


午後、アラン・ド・ボトンの『プルーストによる人生改善法』(白水社)を読み始める。

20頁。
プルーストは、「職業への抱負をひとつも抱いたことがなかった。」
当初、司書になれるか、試しにやってみたが「埃っぽ過ぎる」ので断念。まだ金持ちぼんぼん。

2020年10月5日月曜日

『モスクワの伯爵』、最高です

ブログの下書きをiOSの「メモ」に書くことにする。今までは手書きしていたが、あとで読めない(*^^*)ことが多いので。ブログ化する場合は、Writer(インターネット・タイプライター)にコピーして、修正してからとしよう。


『モスクワの伯爵』、読書快調。実に面白い小説だと思う。最初はお気楽な感じだったが、時代が進むにつれて、スターリニズムの影響が濃くなり、楽しい軟禁生活でもなくなっていく。そのなかで、常に明るく振る舞おうとする伯爵が「偉い人」に見えてくる。

170頁。
朝帰りして帰り、エレベーターで猫に叱られた。

182頁。
いつの間にか1924年。軟禁(?)開始は1922年6月21日。

素数を探求する友人の指導をする。

※ところで昔住んでいた部屋はスイーツ🍡じゃなくてスイートだ。

188頁。
晩餐会の席の配置が上手な主人公。

194頁。
ラベルを剥ぎ取られた10万本のワイン。

ロシアの痕跡が根こそぎにされつつある。

226頁。
ニジノ・ノヴゴロドの林檎の木々が蜜蜂を使って、危機を救う!

232頁。
時代進む。朝食のコーヒーを沸かしながら、スクワット30回。私71歳と同じ回数。50回やりなさい。ビスケットと林檎の朝食。

274頁。
金がなくなったのか、あるいはみずからなのか、レストランで働いている。極めて有能。292頁。

クラシックの方が好きだが、素朴で、頭にうかんだことをすぐ口にするようなジャズも許す。お気楽なアメリカ特派員みたいなジャズ。

305頁。
マヤコフスキーのピストル自殺。

308頁。
8年スキップ。1938年。

315頁。
旧知の友人の5歳の子を預かる。友人はシベリア送りの夫を追って出かけるのだ。数ヶ月で引き取りに来ると言って。

322頁。
スクワットの回数が20回に減っている。しっかりして欲しい。年季がたてば、回数が多くなるのが普通だ。

***

今夜は思い立って、エビ入りシュウマイを作ってみた。形は悪いが美味い。

2020年10月4日日曜日

軟禁された『モスクワの伯爵』の友達は猫と子供


エイモア・トールズの『モスクワの伯爵』(早川書房)を読み始める。

昨日まで読んでいた『賢者たちの街』にくらべて、語り口が軽い。したがってこの本の方が売れたらしい。たしかに読んでいて楽しい。

革命後、銃殺はまぬがれたが軟禁ときまり、モスクワのホテル(それまでも住んでいた)の、スイーツから従業員部屋に移される。

35頁。
ロシアンブルー登場。この猫や子供が友だちになる。(カバーの絵を参照。)

37頁。
この狭い小部屋にふさわしい読物は、モンテーニュ、としゃれる。

45頁。
モンテ・クリスト伯。セルヴァンテス。ナポレオン。偉いところは、境遇の主人であること。奴隷ではない。

この主人公の方法はロビンソン・クルーソー。(なんでも自分でやる。部屋を「拡張」し、秘密の書斎を作る。)

50頁。
でも、モンテーニュを読んでいると眠くなる。

56頁。
立派だった口ひげ、「きれいさっぱり剃ってしまってくれ」彼は(ホテルの)理髪師にそう告げた。

68頁。
決闘名物。『オネーギン』、『戦争と平和』、『父と子』、『カラマーゾフの兄弟』

142頁。
クリスマス。例の猫のドロッセルマイヤーが片目で見守る中、プレゼントを…その後、『クリスマス・キャロル』を読む。

151頁。
ロビーで例の猫のクトゥーゾフ陸軍元帥の冒険を目撃。

165頁。
生まれ故郷ニジノ・ノブゴロドは林檎の産地と、仲直りした犬を連れた女優に打ち明ける。女優は漁村の出身。

2020年10月3日土曜日

『賢者たちの街』を読むと1938年のニューヨークに行きたくなる、言及されている多くの本を読んでみたい

『賢者たちの街』続きを読み出したら止まらず、午前中に読みおえてしまった。

277頁。
かつて1917年 米国第一次世界大戦参戦。物語の年、1938年 スペイン内戦 に義勇兵として参加する主人公の金持友人はクイーン・メアリー号の一等に乗って行く。彼は結局戦死するが、主人公に贈り物を残してくれた。

293頁。
送られる車の中でビリー・ホリディの「ニューヨークの秋」を聴く。ベラルーシからの移民ヴァーノン・デュークの作った曲。この時送ってくれたヴァルと後に・・・

ニューヨークの秋は、不思議な雰囲気なのだ。

296頁。
敏腕編集長からテストされ、ある作家の原稿への文体的な感想を求められる。ヘンリー・ジェイムズ風でなく、ヘミングウェイ風にすべきと答えて、合格。

303頁。
安らかに眠る友人を眺めながら、自分の寝姿をみたいと思う。このころはスマホがないのだ。

313頁。
1938年1月から始まったこの物語。まだ1年経っていない。もっと長く感じる。

320頁。
ソローを読む若者たち。

324頁。
子供の頃読んだ冒険紛語たち。『モヒカン族の最後』から『ロビンソンクルーソー』まで。

326頁。
「内に冷静さを秘めている」主人公。

328頁。
相手の読んでいる本にカードに書いた手紙をはさんでおく。

330頁。
ハリウッド俳優の恋愛事情にも詳しくなった編集者の主人公。

333頁。
ヴィレッジの古本屋、カリプソへ。恋人との待合せまでの暇潰し。

ジョージ・ワシントンの金言集を買う。

381頁。
コルビュジュの『伽藍が白かったとき』を読むとニューヨークがもっと好きになる。この本注文した。植草甚一のニューヨーク本も出して読んでみた。

404頁。
『大いなる遺産』も読み返すか。『自分だけの部屋』は最近読んだばかり。

悲しい物語は終ったが、差別に苦しむ若物の哀しみは続く。一部、映画『追憶』に通じるところもあった。ニューヨークも傷つきながら、存続を続けている。

同一著者の『モスクワの伯爵』(早川書房)も、明日読むことにしよう。そして、この本について、ネタバレOKの友人と語りあいたい。

書評はこちらに。

https://allreviews.jp/review/4980

***

幸せな寝姿を見たいという話が出てきたが、孫の写真を見るとたしかに幸せそうだ。いつまでも見飽きない。

2020年10月2日金曜日

『賢者たちの街』は読書好きにはこたえられない小説

今朝の林檎は「秋映」、青森産。すこし小ぶりだが、非常に甘い。秋が来たと感じさせる。


***

トーマス・マンと鷗外の、同一年の日記を比べてみるというアイディアを考えた。トーマス・マンが日記を破棄した年があるので、比べられる年は少ない。かろうじて、1918年から1921年の分が捨てられずに残っていたので、これと委蛇録(1918年=大正7年から1923年=大正11年)の一部を比べればよいか。まずは、トーマス・マン日記の該当のものを入手する必要がある。

鷗外の「小倉日記」を読んで見る。明治34年1月15日に、「即興詩人」を訳し畢るとある。小倉赴任直後は生活を軌道に乗せるので、読書や書籍の購入は少ない。そのかわり、家政上の細々としたことの処理に時間を費やしている。しかも、それらを決していやいややるのでなく、着実に、多分少し面白がりながらやっている。これは鷗外らしいところだ。10年くらい後に、小倉での生活を「鶏」や「独身」という小説にしている。こちらを読むと、やはり日記に書かれたことを材料にして小説を書いているのがよく分かる。

***

昨日借りてきた『賢者たちの街』を読み始める。前評判通り、とてもおもしろい小説。「狂言回し」は、「本」である。読書好きの主人公がついに、出版社に勤め、有名編集者や敏腕編集者に目をかけられる所まで来た。450頁以上の長い小説だが、あと残りは半分。



2020年10月1日木曜日

出口裕弘『辰野隆 日仏の円形劇場』(新潮社)は読み物としても面白い

出口裕弘『辰野隆 日仏の円形広場』(新潮社)を、昨日夕方から読み始め、今日の午後読み終えた。出口裕弘の辰野隆への敬意に溢れた本。面白い。

明治維新で幕府側を応援したフランスが、新政府を応援した英国などの日本への影響下で、失った失地を文化的な面で回復する過程を、東大仏文科の歴史の中の辰野隆の評伝として描くという新機軸の展開の一冊。あまり正確でない引用を交えて読書の印象を紹介してみる。


明治初期の親仏派は、たとえば大山巌、西園寺公望、栗本鋤雲、成島柳北など。その後は、たくさんいるのだが、永井荷風や山内義雄など。

辰野隆は荷風の作品はきちんと読んでいるが、人間としては嫌いだった。(こういう人は多いだろう。)

辰野隆は仏文学の泰斗や作家をめざすというより、30年間ひたすらフランスの文学を読み続けて、「一流の読者」を目指したという。父辰野金吾の遺産があり、その死後すぐにフランスに留学したが、贅沢な生活を送れたようだ。もちろん、読書量は凄い。かれは、留学前にもどんどん雑誌や書籍を取り寄せて、外国文学の紹介をたっぷりした。「信天翁の眼玉」というフランス文学通信の連載があるそうだ。(読んでみたい。でも国会図書館DCで非公開。)

東大仏文科もそのころ、だんだん入学者が増えてくる。渡辺一夫もその一人だが、フランス語を精密に読んでいくやり方は、辰野隆のとは違っている。

江川太郎左衛門の子孫の久子と結婚。博士論文は「ボオドレエル研究序説」はきちんとした論文だが、その後の著述は洒脱な物が多い。

留学で一緒だったのが山田珠樹(森鷗外の長女茉莉の夫だ)で、二人でやりたい放題。大正10年(1921年)6月から、大正12年3月までの留学。この時期、円が強かった。なので専門など掲げずにすみ、「すごい強気の」留学記も書くことが出来たという。

大正14年、仏文科には23歳の小林秀雄が入学。本を貸すとひどく汚して返してよこす、講義中の辰野隆に金を貸せと迫る(10円貸した)など手がつけられないが、その才能を愛して可愛がる。

その後、中村真一郎が入学してくるが、彼は仏文科の中で弟子にしたかったのだろう、講師に任命する。中村はその後助教授への誘いは断り、作家への道を歩むことになる。

このあたりで、東大仏文科と「文学の実践」との美しい蜜月は終わりをつげ、真面目なフランス文学研究のみが幅を効かせるようになることになったらしい。「豪傑」の時代は終わりを告げた。