2019年5月31日金曜日

『植草甚一スクラップ・ブック』(全40巻)の個人用「索引カード」を作るつもり

『ユリイカ』で読んだ高山宏先生の文章に触発されて、『植草甚一スクラップ・ブック』の個人用「索引カード」を作ることにした。材料はもちろん保有する書籍の内容だが、インターネット上で誰でも見られる公開情報も作業効率をあげるために使う。
たとえばここ。
https://bookwalker.jp/series/192060/

どちらにせよ、最近知ったOCR」ソフト(無料)が重要なツールとなる。

植草甚一スクラップ・ブックの一覧(Wikipediaより)

1.『いい映画を見に行こう』 晶文社、1976、新装版2004.9。各・以下略
2.『ヒッチコック万歳!』 1976、2004.10 
3.『ぼくの大好きな俳優たち』 1977、2005.2 
4.『ハリウッドのことを話そう』 1976、2004.11 
5.『サスペンス映画の研究』 1977、2005.3 
6.『ぼくの読書法』 1976、2004.9 
7.『J・Jおじさんの千夜一夜物語』 1976、2004.12 
8.『江戸川乱歩と私』 1976、2004.12 
9.『ポーノグラフィー始末記』 1977、2005.1 
10.『J・J氏の男子専科』 1977、2004.11 
11.『カトマンズでLSDを一服』 1976、2004.10 
12.『モダン・ジャズのたのしみ』 1976、2004.9 
13.『バードとかれの仲間たち』 1976、2004.11
14.『僕たちにはミンガスが必要なんだ』 1976、2005.1 
15.『マイルスとコルトレーンの日々』 1977、2004.10 
16.『映画はどんどん新しくなってゆく』 1977、2005.5 
17.『アメリカ小説を読んでみよう』 1977、2005.4 
18.『クライム・クラブへようこそ』 1978、2005.5 
19.『ぼくの東京案内』 1977、2005.1 
20.『ハーレムの黒人たち』 1978、2005.5 
21.『ニュー・ロックの真実の世界』 1978、2005.2
22.『ぼくの好きな外国の漫画家たち』 1978、2005.3
23.『コーヒー一杯のジャズ』 1978、2004.12
24.『ファンキー・ジャズの勉強』 1977、2005.6
25.『ジャズの十月革命』 1977、2005.4
26.『ジャズは海を渡る』 1978、2005.7
27.『シネマディクトJの映画散歩 <イタリア・イギリス編>』 1978、2005.7
28.『シネマディクトJの映画散歩 <アメリカ編>』 1978、2005.4
29.『シネマディクトJの映画散歩 <フランス編>』 1978、2005.7
30.『シネマディクトJの誕生』 1979、2005.9
31.『探偵小説のたのしみ』 1979、2005.9
32.『小説は電車で読もう』 1979、2005.6
33.『ぼくのニューヨーク案内』 1978、2005.2
34.『アンクルJの雑学百科』 1980、2005.8
35.『ジャズ・ファンの手帖』 1979、2005.3
36.『JJ氏のディスコグラフィー』 1978、2005.6
37.『フリー・ジャズの勉強』 1979、2005.8
38.『「ジャズ・マガジン」を読みながら』 1980、2005.9
39.『植草甚一日記』 1980、2005.8
40.『植草甚一自伝』 1979、2005.10
別巻.『植草甚一の研究』 1980、2005.10。知人たちの回想記

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索引カード内容の一例

植草甚一自伝(植草甚一スクラップ・ブック40) 文芸・小説
著: 植草甚一 
823円(税込)



ぼくは下町の不良だった――つねに新しいことに興味を持ち、過去を振り返るのは年寄りの証拠というJ・J氏も、読者の強い期待に答えて、子供時代のことを書かないではすまされなくなった。甚一少年の青春を育んだ下町の情緒を伝える、自伝抄を一冊にする。

目次
1 植草甚一自伝
1 最初は商人の息子という題にしよう
2 小網町の電信柱に大坂甚兵衛はも料理とかいてあった
3 こうしてぼくは嘘つきになった
4 下町の不良少女と小学校のきれいな先生
5 こうしてぼくは与太者にされた
6 遠足のとき十国峠でヘビが出た
7 ジャック・ロンドンの「野生の呼び声」と明治三十三年十月のニューョークを想像してみた話
8 ウォルター・スコットは学校で一番になれなかったけれど、ぼくはねえ、いつも一番だった
9 大火事とボヤと友だちと遊ばなくなった中学生のころ10 「ムッシュ・ブルー」という喫茶店かバーをやると喜ぶだろうなあ
11 臨時雇の先生と黒板にぶつかるチョークの音
12 こんどいいものを見せるよとニューヨークで約束したんだ
2 それでも自分が見つかった

解説 自在に楽しむことの文明批判 鈴木志郎康

次の「カーリル・ウィジェット」を、全部につけるかどうかは未定。

カーリルで開く
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植草さんの文章はほぼすべてリアルタイムで読み、その後の生き方や、文章の書き方に大きな影響を受けた。大袈裟に言うと、人生が変わった。
また、植草さんの取り上げた話題は、当時の文化を知るための貴重なものが揃っていると思う。

2019年5月30日木曜日

索引は大切と学魔高山宏先生もおっしゃっている

『ユリイカ6月臨時増刊号 総特集*書店の未来』掲載の、高山宏先生の「ヴンダーシュランクに書店の未来」を読んだ。索引の重要性と良い索引がないので、自分で作る話が書いてある。東大助手をされていた時代に、駒場の英文科書庫にこもって、レミントンの電動タイプライターで、5万冊の書籍の索引を作成した話。「索引」は場合によっては、リアル書店の書棚そのものかも知れないという。

素晴らしい「なるほど話」だが、私のこのブログも本を読んで自分の心に響くところを、書き込んであるので、「索引」と言えなくもない。そして、最近本の検索手段や索引などにこだわっているが、これはやはり自分で作らなくてはならないという、当たり前の話になってきて、とにかくこまめに読んで、こまめに書かなくてはいけないと、改めて思った。



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ここ数日、ビデオの「ROME」を見ている。チョーがつく大衆娯楽作品だが、シーザーやアントニウスやオクタヴィアヌスの言動が、いかにもそれらしいと思わせる作りで飽きない。本題とは関係ないが、「ダウントンアビー」のトム・ブランソン役の役者もアグリッパ役で出ている。

影響で、『プルターク英雄伝』やモンテスキューの『ローマ人盛衰原因論』などを国会図書館デジタルで拾い読みする。なかなかこちらも面白い。

『虞美人草』の最初の方に、クレオパトラの死の話が出てくるが、これは『プルターク英雄伝』から引いているという註釈が、岩波文庫本に載っている。プロジェクト・グーテンベルグで見るとたしかに、それらしい節がある。「アントニーウス」の第84節。漱石の蔵書目録を見ると確かにプルタークの英訳版を持っていたようだ。



このあたりで、ピンときて、原二郎先生の先生の河野与一の著作を調べた。本邦初の、プルタークのギリシャ語からの翻訳が、やはり岩波から出ている。図書館で2冊ほど借りる手続きをした。「索引」は頭の中にできているらしいが、これを外化したいものだ。

2019年5月29日水曜日

『ユリイカ6月臨時増刊号 総特集*書店の未来』掲載の、由井緑郎さんの「絶望からはじめよう」を読んだ



昨夜注文しておいた『ユリイカ6月臨時増刊号 総特集*書店の未来』が午前中に届いた。12時間かからないうちに手にすることが出来た。Amazon恐るべし。駅の書店に行ったら見つからなかったので、一層Amazonの実力が目立ってしまう。

この『ユリイカ』の特集は上記のような、書店の行末を案ずる内容だ。ALL REVIEWSを一手に運営されている由井緑郎(yui696)さんの文章「絶望からはじめよう」が掲載されている。既存の書店の「絶望的」な状況を正しく認識した上で、今後の生き残り策を考えようという趣旨。ALL REVIEWSで今考えられている、ALL REVIEWS Unlimited(本を売るために有効な有名書評家の書評を定額で書店に提供するシステム)も言及の対象となっている。他にも高山宏さんの文章など盛りだくさんで、昨夜はAmazonでこの分野(雑誌・逐次刊行物)のベストセラーとなっていた。1600円なら安い。

新刊書が売れないというのが、現在の定説だが、自分の立場でいうと原因は収入が少ないから…につきる。現役で働いているときは毎月何冊か本を買っていたが、年金のみが収入となった今は、図書館で借りて読書するというのが普通になった。財布の紐が緩むのは、今回のようにどうしても読みたくなる本に対してだけだ。

そもそも良い本が作られることがポイントだが、良い本を知らせてくれるシステムが無いといけない。苦しい中でも本を買うことに意味を見いだせるような仕組み作り…ALL REVIEWSはそのための重要なツールと成りうる。と、考えてボランティアでお手伝いをしているわけである。

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先日、おめにかかった、泉麻人さんの本を一冊「借りて」きた。ノスタルジックでかつ面白そう。


2019年5月28日火曜日

OLD REVIEWS試作版第十八弾…内田魯庵『貘の舌』より「クリストチヤーチのトルストイ村」

クリストチヤーチのトルストイ村

▲トルストイと云へば、日本で一番廣まつた英譯本は英國のクリストチヤーチで出版された『フリー・エージ・プレス』といふ綠表紙の假綴本の三六版大の杜翁叢書だが、此のクリストチヤーチのトルストイ村の頭目はチエルトコフといふ露西亞人で、此の一群のトルストイヤンの英國移住に就ては面白い話がある、今から三十五六年前莫須科市にボスレドニツクといふ出版會社があつた。ピルコフ及びチエルトコフ夫妻の共同經營で、創業後忽ち成功して露國一流の出版書肆となった。然るにチエルトコフ夫人の妹はトルストイの子息と結婚して姻戚となった。其關係からしてトルストイ全集を出版した上にトルストイ宗の熱心な歸依者となって、盛んにトルストイ主義を宣傳すゐ目的で極めて安價な、前後に類の無い五錢とか三錢とか、甚だしきは二錢、一錢、五厘といふやうな、怎んな貧乏人にでも買へる低價でトルストイの小著を賣出した。其結果トルストイ主義は瞬く中に露國の隅から隅まで傳播したので、露西亞政府の驚くまい事か、周章狼狽して種々の手段を講じて百方妨碍した。が、少しも效が無いので、到頭トルストイの著述を一切出版する事を禁止して了つた。其飛沫がドストエフスキイやガルシンやポテーキンの著書にまで及んで、擧句の果は恐怖の餘りに脱線して露西亞正敎會の聖人と尊󠄁ばれているザドンスキーの說敎集は魯か聖書抄錄の山上垂訓の小册子まで禁止する滑稽沙汰となった。露西亞政府の神經的な眼からは神の言葉ですらが危險と見えたのであらう。恁うなると、チエルトコフ一派は手も足も出なくなって、寧そ外國へ移住しやうかと思ふ矢先にヅホポール事件が起つて露西亞政府の人道上の罪悪に對するトルストイの大彈劾となった。處が政府は肝腎の本尊󠄁のトルストイには手を着けないで、其思想を宣傳した門下のチエルトコフを初め一同を拿捕して國外退去を命じた。そこでチエルトコフ以下は皆英國へ逃げてクリストチヤーチに居住し、同志の露人十五名と謀って印刷業を初め、其の手初めに故國で禁止されたトルストイの小著を出版した。處が誰云ふとなく、露國の無政府黨目が集團してダイナマイトを密造してゐると云ふ風說を立てたので、一時英國官憲の嫌疑を招いたが、まもなく素性が明かになってダイナマイトの製造でなくて平和な福音の印刷頒布であるといふ事が解つて來た。然るにチエルトコフはトルストイと姻戚である關係上、露西亞を退散する時杜翁の草稿を一切揃へて、未刋の原稿までも盡く携へて來た。此噂を傳聞して世界の各所から讓受けを申込み、中には莫大な報酬を以て釣らうとするものもあつた。が、チェルトコフは算盤を彈く普通の出版人で無い上に、杜翁の著書の出版の爲めに故國を追放されたのだから本國政府に反抗する意地にも自から出版して主義を宣傳する決心を固くし、算盤づくの相談は斷然拒絶して應じなかつた。渠は先づ、トルストイの禁書を露文で印刷して本國に密輸󠄁入する傍らトルストイ全書を英譯し、トルストイ主義の雜誌をも刊行して世界の隅々までトルストイ主義を傳道しやうとした。クリストチヤーチは一時トルストイ思想宜傅の根據地となって、其刊行物は洽く世界に廣布された。日本に輸入された部數だけでも、恐らく數萬を下らないだらう。トルストイの思想が日本の邊土にまで傳播したのは德富蘆花の力でも松井須磨子の藝術の爲めでもなくて、全く此のチエルトコフの刊行物のお庇である。

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出典
内田魯庵 『貘の舌』 大正14年 春秋社
国会図書館デジタルコレクション(下の画像も)


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あとがき
内田魯庵と丸善の事を調べているうちに発見した本。これも面白い。版面もきれいに画像化されているので、読みやすい。「莫須科」はモスクワのことか。

ところで、丸善の社史である『丸善百年史』の全文がここに公開されている。
素晴らしい。
http://pub.maruzen.co.jp/index/100nenshi/index.html

2019年5月27日月曜日

OLD REVIEWS試作版第十七弾…内田魯庵『蠧魚之自傅』の自序

内田魯庵『蠧魚之自傅』の自序

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一 『蠧魚の自傅』は大震後十ヶ月、偶然日々紙の囑に應じて寄稿連揭したもので、極めて愚劣な無用の饒舌であるが多少慮かる處が有つたのである。實は大震の爲めの文献の滅亡に鑑みて平生書籍を取扱ふ關係から文献の保存上心得べき事を克明に書いて見やうと思ったのだが、每日の新聞では恐らく誰も讀んで吳れまいと、生じつか讀んで貰うツモリの下心があった爲め半熟の粥とも糊ともつかない變挺なものとなつた。誰かに讀んで貰うツモリのが結局は誰も讀んで吳れさうも無いものとなつた。だが、之を主として以下數篇、總て大震の爲めの典籍禍に深く慮かる處があつて筆を操つたのである。

一 淀橋長者傳說以下四篇は總て舊稿、多少字句の妥當ならざるものを更めたが大凡舊稿の儘である。顧愷之、ポスター、インカ古陶、總て不穿鑿な研究の足らないものであるが、各々自分の趣味の過󠄁程を記念するものである。

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出典 内田魯庵『蠧魚之自傅』(昭和4年 春秋社)
国会図書館デジタルコレクション(下の画像も)


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あとがき
『蠧魚之自傅』の最初の文章が「蠧魚の自傳」である。書籍保管の苦労と注意点を「紙魚」の立場から語った作品だ。蘆庵はこれを校正しているうちになくなったらしい。丸善に勤めているときに、関東大震災に遭つた蘆庵がその経験を語った作品が後に続く。

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あとがきのあとがき
鹿島先生の『東京時間旅行』を読んでいたら、丸善と内田魯庵の話が出てた。内田魯庵のことを読んでみたいと思って、国会図書館デジタルコレクションでこの本を探しあてた。ぜひ最後まで読んでみたい本だ。

丸善には予備校生時代と就職直後によく通った。ここで本を眺めて余裕があれば本を買い、ボーナスが出たときには東京駅方面の「十勝」という店でステーキを食べるのが楽しみだった。本を買うといつも腹が減った。少し方角を変えて「ブリジストン美術館」(只今建て替え工事中で来年2020年1月に完成らしい…楽しみだ)で常設展を見るのも楽しみだった。

ところで、紙魚には我が家でもときどきお目にかかる。本を食い荒らされては困るので、退治するが、なんとなく惻隠の情を催すこともある。少なくとも不潔な感じはしない。これからは、蘆庵の教えに従ってなるべく紙魚の発生しないような環境を作りたい。

2019年5月26日日曜日

OLD REVIEWS試作版第十六弾…『禿木遺響文学界前後』(平田禿木)より「一高入学前」

昨日の「月刊ALL REVIEWS友の会」の課題図書は『ふたつのオリンピック』で、ホワイティングさんの「猥雜都市東京」の描写が面白い作品だった。

東京の昔を語ると言えば、私は植草甚一を思い出す。だから、『植草甚一自伝』(1979年 晶文社)を引っ張り出して読んだ。その143ページに平田禿木訳の『虚栄の市』を読んで感心する話が載っている。平田禿木のお墓は回向院の、植草家の墓と背中合わせにあるのだそうだ。知らなかったので少し調べたら、偉い英文学者だったらしい。そこで、人となりがわかりそうな本を国会図書館で探した。次の本がよさそうだ。絶筆も収められたエッセイ集だ。少しデジタル化してみた。

『禿木遺響文学界前後』の第一部「絶筆 文學界前後」より「一高入學前」(平田禿木)

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一高入學前

指折り數へれば今から半󠄁百年以上の昔、明治十八年(一八八五)の今頃であった。その夏は今年も同じやうに、とても怖るべき暑さであつた。十三歲の少年であつた自分は、眞田編み廣緣の海水帽󠄁を被つて小倉の袴をはき、江戶橋の家を出て、その頃あつた鐵道馬車へも乘らず、室町の大通󠄁りを颯爽と神田の方へ步いてゐた。淡路町にあった豫備校共立學校(今の開成中學の前身)へ通ふ爲めである。七月二十日に前學期が終󠄁つて、八月一日にはもう新學期の開始である。校長は高橋是清氏であつたが、校務一切は敎頭の鈴木友雄氏が取りしきつてやつてゐた。先生であつた法科大學の學生連その他も、暑い中を皆さつさと徒步でやつて來た。ミッドル・テムプル法學院の業を卒へて歸ったばかりの土方寧氏などはいつもブライヤー・パイプを啣へて敎壇の上へ兩足を投げ出してふんぞり返つてゐたが、呼び賣りの氷屋から氷の大塊を買ひ取つて、それを他の教室へも分け、自分はそれを頭上へ載せて平氣で講義をしてゐた。先生始め、一面そんな亂暴なとこもあつたが、敎場は實に靜かなもので、學生は皆熱心に傾聽してゐた。多くは山の手の官吏の子弟で、地方から來てゐる者もあつたが、下町から通ってゐる者は極めて少なかつた。自分の家の近くからは瀨戶物町の鰹節問屋にんべんの若主人高津伊兵衞氏が來てゐた。二子縞の對を着て、角帶に前掛をかけ、着流して半靴ばきといふいでたちであつた。伊兵衞氏はぢき退學して店の方へ出られたが、その弟の、六平さんといって、後同家の地所掛になった人はしばらく通學してゐ、自分と一緒によくあの室町から神田への大通りを步いたものだ。少しく隔つた馬喰町からは、それから少し後に、花王石鹸の平尾賛平氏が來てゐ、これも高津氏同樣、着流し靴ばきであった。が、共立學校に限らず、近處から學校へ行つてゐる者は至つて少なかつた。後に知つたことであるが、本町四丁目角の砂糖問屋(*)の次男息子星野愼之輔氏(後の天知氏)は駒場農科大學の林學科にゐた。その弟の男三郞氏は當時東京で唯一の府立であった日比谷の一中へ通󠄁つてゐた。同三丁目書肆瑞穗屋清水卯三郞氏の一人息子連(むらじ)氏も同様で、二人は非常に親しくしてゐた。これは又ずっと後になって、「帝國文學」が出てから初めて知つたことであるが、例の「みすゞ高かや」の詠で名高い羽衣武島又次郎氏は、自分と同じ伊勢町通りの、が、ずつと西寄りの手拭問屋の息子さんで、何處かの豫備校へ通󠄁つてゐたらしい。近くのインテリ子弟といつては、ざつと先づそんなものだつたのである。


(*)にはこんな屋号が挟み込んであった。「ヤマニ」とでも読ませるのか?


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出典 『禿木遺響文学界前後』(平田禿木)昭和18年 四方木書房
国会図書館デジタルコレクション(下の画像も)



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あとがき
当時(明治10年から20年)ころの学生の風俗がわかって面白い。禿木のエッセイはこの後が面白くなりそうだ。
なお、青空文庫に平田禿木のエントリーがある。

***
昨夜の記念写真を貼っておく。左は泉麻人さん。お話がとてもおもしろく、ファンになった。何冊か著書を借りて(図書館で)読んでみたい。



2019年5月25日土曜日

「ALL REVIEWS友の会例会第二回」への参加記

五月雨式に集合し、最終的にはたしか13名参加です。含む鹿島先生。



エスペリアは、神保町駅近(A2出口出て10秒)の昭和を感じるお洒落なパーティースペースです。残念ながら個室がとれず(yuiさん談)、カーテン区切りの席、かなり周囲の声がもれてくるが、立食でなく着席だしat homeな雰囲気です。




まずは恒例、自己紹介。私は耳が遠く良く聞こえなかったが、Facebookで参加者リストが見えたので、お名前は把握できました。

友の会新規企画求むというyuiさんのきっかけ発言に応じ、皆ビール(と烏龍茶とワインと焼酎)を飲みながらいろいろ考えました。その中でわたくしが把握できて覚えているものはものは以下の通り…(企画ばかりではないが…)

(1)そもそも企画を出すには合宿(又は昼間のミーティング)&ブレインストーミングが必要かもしれない。
(2)収益第一である必要はなく、自由な発想が欲しい。
(3)高橋源一郎さんを呼ぶ企画はどうか、良さそうです。
(4)かごともさんの江戸川乱歩Tweetがおおいに好評だった。拍手。
(5)ALL REVIEWSスタッフの活動の全体像が不明なので、それを知らせる記事が必要。

ところで、鹿島御大は大相撲観戦より直接のご参加でした。
私の質問への回答ですが、朝の山に惜敗した栃の心の足のかかとが出ていたかは不明、なにしろお尻しか見えなかった、東の砂かぶりにおられたからとのこと。テレビには写りにくかったかしら。
誰かからの質問へのお答え。パリのおすすめスポットはシルク・ド・イヴェール(直訳:冬のサーカス)だそうです。冬季限定ですけど。多分ここ…
https://www.cirquedhiver.com/

これからもこのような会をやりたいと最後におっしゃって、速攻で御帰宅、たぶん原稿書きと推察。

10時20分頃のお開きでした。
私の懸案の腰は大丈夫だったが、大事を取って二次会は遠慮しました。こちらも盛り上がったらしいが、皆帰れたのかしらん。

個人的には、SさんとKさんににそそのかされて、大学図書館に入りこみたい気持が強まった。なんとかしたい。ぜひ。

2019年5月24日金曜日

新聞で紹介された本の一覧サイト発見、そしてiPadとK480の組み合わせでの特殊文字入力に手こずる

立ち机上のiPadで仕事してみる。BluetoothでK480も接続した。

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トイレで新聞を読みながら考えたこと、新聞の書籍広告は役に立つ、この書籍新聞広告を集めたデータベースはないのか…、今ググったらすぐ見つかった。最近3日、他のページでは過去1年分が見られる。朝日、毎日、読売、日本経済の各紙朝刊の広告。書店員が顧客からの質問に答えるのにも便利だろう。

新聞で紹介された本:オンライン書店Honya Club com

広告以外、例えば「折々のことば」朝日新聞、の記事に引用された書籍も載っている。たとえば昨日の分は、伊丹十三の「ヨーロッパ退屈日記」。旅行中の限られた見聞を不用意に普遍化する旅行者の悪癖を揶揄する…これは読みたくなる。でも、昔読んだ気もする。本棚をすこし見渡したが見つからない。記憶が定かでない(T . T)

仕方なく、図書館に予約入れる。鹿島さんの「東京時間旅行」が届いている。取りに行かなくてはならぬ。

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腰が張ってきた。立ち机の高さが不足で、前かがみになるせいかもしれないと考えて、5センチほどキーボードの位置を高くしてみた。iPadの画面も縦にしてみよう。


画面だけ、もっと高くしたい。そこで…


こんな感じ。姿勢が良くなった。とりあえず本を重ねたので少し不安定だ。iPadのホルダーが欲しい。調べたが、帯に短し襷に長しの製品ばかり。なによりも、高い(T . T)

金で解決するのは、素人さんだ。玄人は自分の手持ちの材料で工夫する。格子状のゴムの滑り止めをかましてあるのが、ポイントだ。


ほぼ理想の環境が整ったが、腰がまた張ってきたので(T . T)、ごろ寝して考えることにした。

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K480(キーボード)とiPadの相性が気に入らない。特殊文字が入れにくい。調べよう。

特殊文字に関してははキートップの右側に小さく表示があるの気づいた。老眼には見にくい。自分で書き直そう。昼食時間が来たので午後やってみる。

()+_『』「」:’”“”“‘*@

これらのキーの右側に油性ペンで文字を記入した。見栄えは悪いが、入力はしやすい、と思う。

***

ここまで、iPadとK480の組み合わせで、全て書いてみた。今夜はALL REVIEWS友の会の総会なので、もうブログにアップする。ここはPCでやろう。

2019年5月23日木曜日

フランス語能力と、腰の耐久力を鍛えたい

ALL REVIEWSのオシゴトを久しぶりにやった。OCRを一件だけ。レイアウトがなるべく単純な画像をさがして、実施したらなんとかやり方も思い出せた。せっかく思い出したので明日もOCRをやろう。本当は毎日コツコツやるのがいいのだけれど、つい他のことが優先してしまう。たとえば…

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三脚を持ち出して、iPhoneを取り付け、床においた本を撮影。ミレイユ・マチューの自伝とされる『OUI JE CROIS』だ。



最初のページをOCRにかけて、デジタル化して(修正数件だけ…これはすごい)、Macのスピーチ機能で、何回か聴く。(「設定」、「アクセシビリティ」で、フランス語の「システムの声」をダウンロードする必要があった。)



だいたい解る。どうしても気になる単語だけ、「辞書」機能(仏英だが)で意味を調べる…アビニョン出身の少女がパリに出て来てすぐ、テレビの唄のコンクールで優勝する。

大学生時代からの彼女のファンなので、蓄えたトリビアな知識で、おぼつかないフランス語力だけでも内容は推測しやすいのだろう。しばらくこの方式を続けてみよう。飽きるまでは。飽きる前に腰が張ってきた。

***
立ち机(と言っても整理箪笥の上なのだが)でMacをいじっていたが、やはり長く続けると、腰に来る。寝転がってKindleで『トニオ・クレーゲル』を読む。それにも飽きると、駐車場に行ってホコリをかぶった車の手入れをする。

***
友人から、インナーマッスルを鍛える腰痛対策の記事を送ってもらった。参考になる。ありがたい。

2019年5月22日水曜日

鹿島茂先生の「深掘り『稀書探訪』」第3回【焼失したノートルダム大聖堂の屋根について】後編を視聴

旬刊「深掘り『稀書探訪』」第3回【焼失したノートルダム大聖堂の屋根について】後編…というビデオを視聴した。(「ALL REVIEWS友の会」の会員限定。)

石造りの部分やステンドグラスは残ったが、焼失した木造の屋根と天井部分が、いかに貴重なものだったかを教えてもらった。古代風のロマネスク様式でなく、当時の現代風のゴシック様式。ローマからみて野蛮な人々が、文明化の中で失った「森」を教会の形式に託す。そして、その中のキリスト磔刑像は、生贄としての意味が込められる…ここはしっかり勉強しておきたいところだ。

10年前から数度訪ねた、ノートルダム大聖堂に入り、天井を見上げたときに感じた荘厳さのようなものの、正体が少し見え始めたかもしれない。

「深掘り『稀書探訪』」シリーズは、書籍の形にできれば素晴らしい。なにか手伝うことがないか考えたい。とりあえず、文字起こしかな。

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しばらくほったらかしてあったKindle端末のホコリを払って、充電してみた。きちんと使える。使い心地は悪くない。少しづつUIも改善されているようだ。青空文庫からいくつか作品をダウンロードし、読んでみた。たとえば、『トニオ・クレーゲル』、『ファウスト』…



引用ツイートもできるように設定を変更して、一件やってみた。

2019年5月21日火曜日

OLD REVIEWS試作版第十五弾…「読書遍歴」より(三木清)

昨日に続いて、三木清の『読書と人生』から

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讀書遍󠄁歴 二

私がほんとに讀書に興味をもつやうになつたのは、現在滿洲國で教科書編纂の主任をしてをられる寺田喜治郎先生の影響である。この先生に會つたことは私の一生の幸福であった。確か中學三年の時であったと思ふ、先生は東京高師を出て初めて私どもの龍野中學に國語の教師として赴任して來られた。何でも以前文學を志して島崎藤村に師事されたことがあるといふ噂であった。當時すでに先生は國語教育についてずるぶん新しい意見を持つてをられたやうである。私どもは教科書のほかに副讀本として德富蘆花の『自然と人生』を與へられ、それを學校でも讀み、家へ歸ってからも讀んだ。先生は字句の解釋などは一切教へないで、ただ幾度も繰返して讀むやうに命ぜられた。私は蘆花が好きになり、この本のいくつかの文章は暗誦することができた。そして自分で更に『靑山白雲』とか『靑蘆集』とかを求めて、同じやうに熱心に讀んだ。冬の夜、炬燵の中で、暗いランプの光で、母にいぶかられながら夜を徹して、『思ひ出の記』を讀み耽ったことがあるが、これが小說といふものを讀んだ初めである。かやうにして私は蘆花から最初の大きな影響を受けることになったのである。

私が蘆花から影響されたのは、それがその時まで殆ど本らしいものを讀んだことのなかつた私の初めて接したものであること、そして當時一年ほどの間は殆どただ蘆花だけを繰返して讀んでゐたといふ事情󠄁に依るところが多い。このやうな讀晝の仕方は、嘗て先づ四書五經の素讀から學問に入るといふ一般的な慣習󠄁が廢れて以後、今日では稀なことになつてしまった。今日の子供の多くは容易に種々の本を見ることができる幸福をもつてゐるのであるが、そのために自然、手當り次第のものを讀んで捨ててゆくといふ習󠄁慣になり易い弊がある。これは不幸なことであると思ふ。もちろん教科書だけに止まるのは善くない。教科書といふものは、どのやうな教科書でも、何等か功利的に出來てゐる。教科書だけを勉強してきた人間は、そのことだけからも、功利主義者になってしまふ。

もし讀書における邂逅といふものがあるなら、私にとって蘆花はひとつの邂逅であった。私の鄕里の龍野は近年は阪神地方からの遊覽者も多い山水明媚の地であるが、その風物は武藏野などとはまるで違つてゐる。その土地で大きくなった私が武藏野を愛するやうになつたのは、蘆花の影響である。一高時代、私は殆ど每日曜日、寮の辨當を持って、ところ定めず武藏野を歩き廻つたことがある。それはその頃讀んでゐた芭蕉などに對する靑年らしい憧憬でもあつたが、根本はやはり『奧の細道』でなくて『自然と人生』であつた。蘆花を訪ねたことは終になかつたが、彼の住んでゐた粕谷のあたりをさまよつたことは一再ではない。利根川べりの息栖とか小見川とかの名も蘆花を通して記憶してゐて、その土地を探ねて旅したこともある。彼によつて先づ私は自然と人生に對する眼を開かれた。もし私がヒューマニストであるなら、それは早く蘆花の影響で知らず識らずの間に私のうちに育つたものである。彼のヒューマニズムが染み込んだのは、田舎者であった私にとって自然のことであつた。今も私の心を惹くのは土である。名所としての自然でなくて土としての自然である。それは風景としての自然でさへない。芭蕉でさへも私には風流に過ぎる。風流の傳統よりも農民の傳統を私は尊󠄁いものに考へるのである。尤も、蘆花の文學は農民の文學とはいへないであらう。私は今彼を讀み直してみようとは思はない。昔深く影響されたもので、その思ひ出を完全にしておくために、後に再び讀んでみることを欲しないやうな本があるものである。

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出典
『読書と人生』 三木清 昭和17年 小山書店

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物心つく頃の読書を、良い指導者の示唆のもとに出来たのは、三木清の幸運だった。ここで触れられている徳富蘆花の本はみな国会図書館デジタルで読める。明日、目を通してみよう。

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『金栗四三 消えたオリンピック走者』(佐山和夫 2017年 潮出版社)を一日で読了。なかなかおもしろい。金栗四三の晩年を大河ドラマでこれからどう扱うのか、楽しみだ。

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前線通過で荒れ模樣の一日。

2019年5月20日月曜日

OLD REVIEWS試作版第十四弾…「ハイデッゲル教授の想ひ出」(三木清)

三木清『読書と人生』より「ハイデッゲル教授の想ひ出」

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私がハイデルベルクからマールブルクへ移つたのとちやうど同じ頃にハイデッゲル氏はフライブルクからマールブルクへ移って來られた。私は氏の講義を聽くためにマールブルクへ行ったのである。

マールブルクに著いてから間もなく私は誰の紹介狀も持たずにハイデッゲル氏を訪問した。學校もまだ始まらず、來任早々のことでもあつて、ハイデッゲル氏は自分一人或る家に間借りをしてをられたが、そこへ私は訪ねて行ったのである。何を勉強するつもりかときかれたので、私は、アリストテレスを勉强したいと思ふが、自分の興味は日本にゐた時分から歷史哲學にあるのでその方面の研究も續けてゆきたいと述べ、それにはどんなもの
を讀むのが好いかと問ふてみた。そこでハイデッゲル敎授は、君はアリストテレスを勉強したいと云つてゐるが、アリストテレスを勉强することがつまり歴史哲學を勉强することになるのだ、と答へられた。そのとき私には氏の言葉の意味がよくわからなかつたのであるが、後に氏の講義を聽くやうになって初めてその意味を理解することができた。卽ち氏に依れば、歷史哲學は解釋學にほかならないので、解釋學がどのやうなものであるかは自分で古典の解釋に從事することを通じておのづから習󠄁得することができるのである。大學での氏の講義もテキストの解釋を中心としたもので、アリストテレスとか、アウグスティヌスとか、トマスとか、デカルトとかの厚い全集本の一册を教室へ持って來て、それを開いてその一節を極めて創意的に解釋しながら講義を進められた。私は本の讀み方をハイデッゲル教授から學んだやうに思ふ。

シュワン・アレーに定められた教授の宅へは私も時々伺ったが、そこにドイツ文學の古典の全集がぎっしり竝んでゐたのが特に私の注意を惹いた。それを私はいささか奇異の感をもって眺めたのであるが、昨年『ヘルデルリンと詩の本質』といふ氏の論文を讀むに至つてその關係が明瞭になった。最近氏の講義には藝術論が多いといふことである。氏は一度フライブルク大學の總長になられ、あの『ドイツ大學の自己主張』にあるやうな思想を述べられたこともあるが、ナチスとの關係が十分うまく行かなかつたためか、總長の職は間もなく退いてこの頃では主として藝術哲學の講義をしてゐられるやうにいはれてゐる。日本でもマルクス主義に對する彈壓が激しくなつた頃多くの人が藝術論に逃れたことのあつたのを私は想ひ起し、ハイデッゲル教授の現在の心境を察し、一般に哲學と政治との關係について考へさせられるのである。

マールブルクのハイデッゲル教授の書齋で私の目に留つたのはもう一つ、室の中央にあつた教會の說教机に似て立ちながら本を讀んだりものを書いたりすることのできる高い机である。あんな机が欲しいものだと時に想ひ出すのであるが、私はいまだそれを造󠄁らないでゐる。

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出典 『読書と人生』 三木清 昭和17年 小山書店
国会図書館デジタルコレクション(下の画像も)



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あとがき
ハイデガーは全く読んだことがないが、この文章を読むとなんとなく読んでみたくなる。それが三木清のこの文章の魅力だろう。そして、「立ち机」がまた欲しくなるし、「立ち机」を使っていた『魔の山』のゼテムブリーニ師の冗舌が懐かしくなる。



2019年5月19日日曜日

『ふたつのオリンピック』は約600ページあるが、さわやかな文章と訳のおかげで一度も飽きずに読めた


『ふたつのオリンピック』(ロバート・ホワイティング 玉木正之訳 2018年 株式会社KADOKAWA)読了。前回に続き、今回の東京オリンピック開催をもその開催後を危ぶむ筆致だ。ホワイティングさんは長年東京で暮らし、東京を愛している。「日本的」野球や、ヤクザの世界、裏町の生活を実地に体験し、それを日本論に昇華させている。世界に類のない、(褒めているわけでなく、その反対の)「記者クラブ」とは徹底的に対決する。読者に事実を報告するジャーナリストとしては当然なのだが、それを「記者クラブ」は問題視する。題材だけを読み取って考えていくと、気が滅入りそうになるが、彼の明るい文体がそれを救っている。玉木さんはそこをうまく訳したと思う。

最後になって、鎌倉を出た、ホワイティング夫妻(奥様は日本人)が住み着くのは豊洲の高層マンション。近くに「ビバホーム」(DIY の大型スーパー)があると書いてあるので、十数年前まで勤めに通っていた場所だ。ここで東日本大震災に出会う。

来年のオリンピックが、予定通り行われたと仮定して、彼はなんというか、楽しみだ。行われなくてもその内幕を調べて書いてくれると思う。

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『漱石全集』の第二十七巻を借りてきた。1997年に出たもの。蔵書への書き込みや蔵書目録が、改訂されて掲載されている。調べ物には役に立ちそうだ。全集をどんどん買える身分ではないので、取り揃えてくれる図書館には大感謝だ。他に『『サピエンス全史』をどう読むか』も、6月の「月刊ALL REVIEWS友の会 ノンフィクション回」の参考に借りてきた。

高遠弘美先生の「『失われた時を求めて』を読む、語る」というイベントがあったので、行ってきた

南青山の「本の場所」という会場で、高遠弘美先生の「『失われた時を求めて』を読む、語る」というイベントがあったので、行ってきた。

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17時開場、18時開始だが、例によって早く着いたので表参道付近を散策。立派なマンションなど拝見してから、小腹がすいたので、駅に戻り、パンと紅茶をいただいた。割と美味しかった。


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18時開始。思ったより狭い会場だが、アットホームな雰囲気。先生もすぐにリラックスした様子で、朗読と詳細な解説をしてくださった。マドレーヌの表す意味など、まったく思いもつかぬ話題で盛り上がる。これだけ内容を読み解くには大変なご努力があったのだろうと推察した。早く、続刊の翻訳が読みたいなどと軽々には言えなくなった。他の方の翻訳に浮気するのでなく、もう一度、一巻から読み直すのがよかろう。

原書の初版本や、古い訳書、先生の兄上から「賜与」された訳本など、貴重な本も回覧して、見せていただいた。

終了後の質疑で、豊崎由美さん(主催側)が、プルースト以外のお薦め作家はと質問、その答えは「ロミ」(!)と「大デュマ」。ロミの翻訳はすでにあるが、もっとしてみたいし、大デュマの「モンテ・クリスト伯」も訳したいとのこと。プルーストの創作集(「模作と雑録」?)も訳したいともおっしゃった。

一応、楽しみに待つことにしたい。その前に「失われた時を求めて」を完訳いただいてからだが。

聴衆のなかに、古屋美登里さんや、佐藤亜紀さんがいらした。高遠先生に、おっしゃっていただいてわかった。

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最後に、会場の外の看板に先生がサインするのを見物して終了。個別にサインしていただくのより、洒落ている。


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楽しかった。すぐに帰途についたが、電車の中で、パーティー帰りらしい女性が、髪飾りとしてあざやかな生花をたっぷりつけているのを見て、おかしくなった。

2019年5月17日金曜日

ベンジャミン・キッドなんて知らなかったなあ、これはOLD REVIEWSのネタにしよう

昨日のブログに書いたが、「東北大学附属図書館「漱石文庫」について」という論文に紹介された、漱石が倫敦で「研究」した本の例、

(1)イタリアの精神病理学者ロンブローゾの『天才論』
(2)ドイツの評論家マックス・ノルダ ウの『退化論』
(3)イギリスの評論家べンジャミン・キッドの『社会の進化』

を調べてみる気になった。するとどれも、邦訳本が、国会図書館デジタルコレクションで見つかった。



しかし、これを眺めていると、かなり読みにくい文章だと思い始めた。

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漱石は当然倫敦で、原書を買って読んでいるはずだ。そこで試しに、(3)をInternet Archiveで探してみた。すると、あっけなく見つかった。



少し、読んでみると、どうも古い邦訳よりは読みやすいような気がしてきた。(あくまでも「気がした」だけだが…。)
これも試しに、Internet Archiveの画像(下の画像)を切り取って、ONLINE OCRにかけてみた。


最初の一ページだけだが、なんと認識ミスはゼロ。ただし、civilisation(civilizationの英国形?)について、認識結果を「メモ」アプリに貼り付けたら、スペルミスとして警告を出してくれた。これは無視。他に、2−3箇所、行をまたがった単語につけられた「-(ハイフン)」をOCRがそのまま認識したのを、スペルミスとして警告してくれた。結果として(ハイフンを取るだけで)、3分くらいで校正が終わってしまった。

以前にも気づいたが、ラテン文字のアルファベットの認識率の高さには脱帽だ。これならやろうと思えば、すぐに自動化することができるだろう。羨ましい限りだ。

全部読むのはやはり大変だが、少なくとも本の概要は勉強したい。漱石がなにを目指して研究したのかを知るためにも、これらの本のイントロなどを、OLD REVIEWSの対象としようと思う。著作権の問題はこれらに関してはなさそうだが、確認はしておきたい。

面白くなってきた\(^o^)/

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『社会の進化』は、ダーウィンの進化論を社会に応用した「社会進化論」の入門書なのだろう。スペンサーなども勉強項目になりそうだ。

2019年5月16日木曜日

「漱石文庫」を調べ、『ふたつのオリンピック』、『失われた時を求めて』を同時に読むのは…良い事ですよね

「東北大学附属図書館「漱石文庫」について」という論文を参照すると、漱石が倫敦で「研究」した本として、以下が例として挙げられていた。
(1)イタリアの精神病理学者ロンブローゾの『天才論』
(2)ドイツの評論家マックス・ノルダ ウの『退化論』
(3)イギリスの評論家べンジャミン・キッドの『社会の進化』
上記の本の概要は調べたい。

漱石は全部で400冊くらい、倫敦で本を買ったらしい。江戸東京博物館で2007年にあった展覧会では、これが全部展観されたらしい。見に行けばよかった。

仕方ないので、とりあえず、漱石文庫デジタルで我慢しよう。今日は一九三三年の手帳の画像を見たが、全部読むのは至難のわざ。無理する必要もないので、眺めておいた。

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『ふたつのオリンピック』は残すところ数十ページ。内容はだいぶ辛口になってきた。いわゆる「記者クラブ」が、どこにいっても、自由な報道を妨げていると有る。例えば、巨人軍の取材においてもそうであるらしい。これは彼には考えられない、そして許されないことだと書かれている。

来週土曜日の「月刊ALL REVIEWS」の課題本なので、読み始めたが、翻訳(玉木正之さん)も素晴らしい事もあり、グイグイ読ませる本だ。私の最近には珍しく、身を入れて読んでしまった。

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それ以前に高遠先生訳の『失われた時を求めて』を読んでおきたいのだが、明後日の夕方までに間に合うかどうか?


2019年5月15日水曜日

「文学論」を書くにあたって、漱石が何を調べたかを知りたい

漱石の「文学論」を読みたいと思ったが、その目的は、漱石自身が生涯の仕事として「英文学」を選んだ理由を知りたいからだ。本人は留学まえから、本当に「英文学」でいいのか悩んだらしい。悩みつつもそれを、大学で教えなければならない、留学中に突き詰めて考え、そしてある覚悟を持って、文学以外の、心理学や社会学も含めた多様な本を買い込んで遮二無二学んだ。そこには苦しさとともに、ある種の開放感、高揚感もあったと思う。それも含めて理解したい。

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「文学論」をよく読めばわかるかとも、思ったが、それだけでは足りない気がしてきた。そこで、当時、どんな本を読んで、どんな感想を持ったのかを調べたくなった。

これは、誰しもおもったことらしく、最初の全集から、蔵書への書き込みが、収録されている。これを全集を買った時に知っていたはずだが、今回、思い出せなかった。なので、図書館を調べて、1990年代の全集の該当巻を借りる手続きをしてしまった。自分の持っている全集を掘り出せばいいのだが、手抜かりだった。



まあ、調べたら増補改訂されているらしいので、よしとしたい。もちろん、「発掘」も明日行う。

なお、「東北大学附属図書館では、夏目漱石の旧蔵書および自筆資料からなる「漱石文庫」を所蔵しています」ということなので、蔵書の全体については、ここを参照したい。場合によっては、実際に見せてもらいに行きたい。



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『ふたつのオリンピック』は300ページの手前まで、読んだ。そろそろ日本を一時脱出し、『菊とバット』を書き始めるところまでやってきた。それ以前にブリタニカ百科事典をセールスした話とか、ヤクザと付き合った話が面白い。彼なりの日本裏面史。

2019年5月14日火曜日

「文学論」学習開始、その前の予習と『ふたつのオリンピック』読書で時間がすぎる

小宮豊隆 「文學論」からの抜粋

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序文にもあるやうに、漱石の「文學論」の根本問題とする所は、「心理的に文學は如何なる必要あって、此世に生れ、發達し、頽廢するか……社會的に文學は如何なる必要あって、存在し、隆興し衰滅するか」を明らかにする點にあつた。然しこの『文學論』では、それよりも文藝を旣に與へられたものと見て、それをどうすれば有力に運用する事が出來るかの問題が取り扱はれる。――その爲め漱石は、文藝を形成する單位內容から出發した。文藝の單位内容とはどういふものであるか。それを分類すれば凡そ幾つの群に纏める事が出來るか。さうしてその分類された群の內、どの群とどの群とが文藝の內容としてより有力なものであるか。然もそれらの群は時代の推移とともに增加して行くものであるか、それとも減退して行くものであるか。さういふ事を明らかにした後、漱石は、その文藝の單位內容に伴隨する情緖の性質の解剖に進み、更に一般的に文藝の內容とされるものの特質を明らかにする爲に、科學と文藝、科學者と文藝家、科學上の眞と文藝上の眞とを、比較對照する。次いで文藝的內容の相互關係と、それらのものをどういふ態度でどういふ風に組み合はせれば、最も有力な感動を將來し得るものであるかが問題にされる。最後は集合意識の問題である。集合意識の上に影響する文藝と文藝の上に影響する集合意識との問題は、文藝の社會的方面の研究に屬するが、漱石は此所で、集合意識と文藝家との關係を說き、摸擬的意識、能才的意識、天才的意識の差別から、集合意識推移の原則に及び、天才的意識はそれ自身獨特な推移の原則に支配されるから、屡集合意識とその推移を共にする事がなく、從つて天才は多くの場合、時世に容れられない所以を說明する。――一口に言へば、漱石の『文學論』は、文藝に於いて、その内容をなすものはどういふものであるか、それをどう組み合はせてどう表現すれば、讀者に十分な幻惑を與へる事が出來るか、然も1つの作品が讀者の意識の波のどういふ點に觸れる時、その作品は讀者を最も强く動かし得るのであるか、さうしてその事と眞の天才的な文藝上の仕事とは、どういふ關係に立つものであるか――さういふ事を、大部分英文學からの例證によって、客觀的に、科學的に、闡明しようとしたものである。

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出典 『漱石の芸術』 小宮豊隆著 昭和17年 岩波書店
国会図書館デジタルコレクション
(下の画像も)



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あとがき
小宮豊隆の見方は上記の通りだが、自分の見方で読まないといけない。

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次回(5月25日)の「月刊ALL REVIEWS友の会 ノンフィクション回」の課題図書は、『ふたつのオリンピック』(ロバート・ホワイティング)だ。例によって図書館で借りてきたが、昨日読み始めたら、引き込まれ、今日までに185ページ読んだ。500ページを超える本だが、期日前に読み終えそうな勢い。ホワイティングさんは、私より7つほど年上だが、ほぼ同時代の感じがする。東京オリンピック前後の猥雜で魅力的な東京と日本人を軽快に描写してくれる。1960年代の神保町の町並も目に見えるように…。

次回(5月25日)の「月刊ALL REVIEWS友の会 ノンフィクション回」は一般公募もしています。有料。

2019年5月13日月曜日

OLD REVIEWS試作版第十三弾…『蒹葭堂小傳』緖論(高梨光司)

緖論

德川時代に於ける大阪の文化を代表する者としては、國學に契冲阿闍梨があり、院本に近松門左衞門、浮世草紙に井原西鶴がある。この三人の學間並に文藝上に於ける巧績の偉大なことは、改めていふ迄もないことであって、啻に大阪のみといはず、全日本を席捲し、日本文化史のあらん限り、その名は不朽であるが、大阪にはまた別の意味に於て、一の代表的人物があり、日本はおろか海外にまで、その名を馳せたことを忘れてはならない。

即ち木村蒹葭堂巽齋がその人である。蒹葭堂は、德川中葉の大阪の文化が生んだ一大好事者として、その名は全國に知られ、當時に於ける浪華の名物であった。凡そ安永、天明、寬政、享和にかけて、上は諸侯の大より、下は一庶人に至るまで、苟くも文雅風流の士にして、足一度浪華を過るに於ては蒹葭堂を訪はざるはなかつた。從つて彼の交友は、天下に普ねく、その名は全國に籍甚した。

抑も蒹葭堂とは、如何なる人物であらう。彼の名は、何故に爾く有名となったか。この問に答へるには、種々の方面から觀察せねばならぬ。即ち蒹葭堂の人物、學問、趣味、性行の全部を解剖して始めて分る問題であるが、そは本書の各章の記事に讓るとして、先づ開卷第一に述べて置きたいことは、彼が前後に比類なき趣味の人、好事の人であったといふことである。

凡そ德川二百五十年間には、我大阪からも、種々雜多の學者文人が輩出したが、蒹葭堂程學問趣味の複雜で、多方面であった漢はない。彼は天地のありとあらゆるものを取って、己が趣味好事の對象とした。所謂森羅萬象は、悉く彼にとっては、趣味の世界好事の領域であった。彼が趣味眼に映ずる奇物珍卉蒐集の手は、恰かも千手觀音の如く、四方八方に擴がつて行った。彼の眼の觸るところ、耳の囁くところ、趣味好事の天地は、際涯なく開拓されて行つたのである。

此處に蒹葭堂の本領がある。彼は極めて博學多通であった。一通り和漢の學に通ぜるはいふまでもなく、本草物産の學にも詳しく、詩文の才にも長じ、繪畵も亦巧みであった。一言以て蔽へば、極めて多趣多能の人であった。而も一事一藝に秀づるの點に於ては、到底彼の先輩並に同輩の敵ではなかった。彼はその經學に於ては、その師片山北海にすら遠く及ばぬ。况んや寛政の三博士(精里、栗山、二洲)をや。詩文の才に於ても、賴春水、杏坪兩兄弟には勿論、葛子琴にすら讓るところ多い。繪畵に至っては、その師柳里恭、池大雅の脚下を出づる能はなかった。本草物産の學は、彼の最も得意としたところであったが、それすら中年以後に師事した小野蘭山に比すれば、大關と褌擔ぎの相違がある。

唯、蒹葭堂には、尋常人の所有し得ない趣味性があった。天地間のありとあらゆる物を、悉く取つて以て、己が趣味の熔爐に入れ、これを融化し醇化して、そこに蒹葭堂獨特の趣味の世界を打出した。この藝當は、蒹葭堂ならでは、到底出來ることではない。此處に蒹葭堂の本領があり、その價値がある。而して當年彼が浪華の一名物として、その名天下に喧傅された所以も、亦主としてこの點に存する。

畢竟彼は趣味の權化であった。彼在世の六十七年間は、我大阪は趣味の世界、好事の壇場といってもよかった。近松、西鶴を有することに於て、近代文藝の先驅を誇り、契冲阿闍梨を有することに依って、近世國學の復興を誇る我大阪市民は、またこの德川中葉の一大好事者蒹葭堂を有することを、誇りとしなければならない。

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出典 
『蒹葭堂小傳』 高梨光司著 1926年 高島屋呉服店蒹葭堂會

国会図書館デジタルコレクション
(下の画像も)

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あとがき 
中村真一郎の『木村兼葭堂のサロン』は、蒹葭堂の飄々としながらも精神的に豊かな隠居生活を描き、それを描いた中村真一郎の心も癒やした名作だ。しかし、長いのが玉に瑕で、なかなか人に勧めにくい。この『蒹葭堂小傳』は蒹葭堂のことだけを知るだけなら、手軽でお薦めだと思う。今朝全く偶然『木村兼葭堂のサロン』をめくっていてこの本のあることを発見した。虫の知らせ…

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TwitterTLに流れていた情報、『ケルズの書』がインターネット上で公開されたとのこと。早速眺める。素晴らしい。

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昨日借りてきた、『中国思想のフランス西漸』と、『ふたつのオリンピック』はどちらも面白く、読み始めたらやめられなくなる。家事を行うために、中断せざるを得ないが、かえってそのおかげで。のめり込みを防いで、落ち着いて読んでいけるだろう。

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昨年から参加したALL REVIEWSのオシゴトは、すっかり私の生活の質を改善してくれた。ありがたい限り。


2019年5月12日日曜日

漱石「文学論 序」のブログ掲載は完了、これから本文精読にかかる

「文学論 序」(続き)

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倫敦に住み暮らしたる二年は最も不愉󠄁快の二年なり。余は英國紳士の間にあって狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を營みたり。倫敦の人口は五百萬と聞く。五百萬粒の油のなかに、一滴の水となって辛うじて露命を繫げるは余が當時の狀態なりといふ事を斷言して憚らず。清らかに洗ひ濯げる白シャツに一點の墨汁を落としたる時、持主は定めて心よからざらん。墨汁に比すべき余が乞食の如き有樣にてヱストミンスターあたりを徘徊して、人工的に煤烟の雲を漲らしつゝある此大都會の空氣の何千立方尺かを二年間に吐呑したるは、英國紳士の為に大いに氣の毒なる心地なり。謹んで紳士の模範を以て目せらるゝ英國人に告ぐ。余は物數奇なる醉興
にて倫敦迄踏み出したるにあらず。個人の意志よりもより大なる意志に支配せられて、氣の毒ながら此歳月を君等の麺麭の恩澤に浴して累々と送りたるのみ、二年の後期滿ちて去るは、春來つて雁北に歸るが如し。滯在の當時君等を手本として萬事君等の意の如くする能はざりしのみならず、今日に至る迄者等が東洋の豎子に豫期したる程の模範的人物となる能はざるを悲しむ。去れど官命なるが故に行きたる者は、自己の意志を以て行きたるにあらず、自己の意志を以てすれば、余は生涯英國の地に一步も吾足を踏み入るゝ事なかるべし。從つて、かくの如く君等の御世話になりたる余は遂󠄂に再び君等の御世話を蒙るの期なかるべし。余は君等の親切心に對して、其親切を感銘する機を再びする能はざるを憾みとす。

歸朝後の三年有半も亦不愉󠄁快の三年有半なら。去れども余は日本の臣民なり。不愉󠄁快なるが故に日本を去るの理由を認め得ず。日本の臣民たる光榮と權利を有する余は、五千萬人中に生息して、少なくとも五千萬分一の光榮と權利を支持せんと欲す。此光榮と權利を五千萬分一以下に切り詰められたる時、余は余が存在を否定し、若しくは余が本國を去るの舉に出づる能はず、寧ろ力の續く限り、之を五千萬分一に囘復せん事を努むべし。是れ余が微小なる意志にあらず、余が意志以上の意志なり。余が意志以上の意志は、余の意志を以て如何ともする能はざるなり。余の意志以上の意志は余に命じて、日本臣民たるの光榮と權利を支持する爲に、如何なる不愉快をも避くるなかれと云ふ。

著者の心情󠄁を容赦なく學術上の作物に冠して其序中に詳敍するは妥當を缺くに似たり。去れど此學術上の作物が、如何に不愉快のうちに胚胎し、如何に不愉快のうちに組織せられ、如何に不愉快のうちに講述󠄁せられて、最後に如何に不愉快のうちに出版せられたるかを思へば、他の學者の著作として毫も重きをなすに足らざるにも關せず、余に取つては是程の仕事を成就したる丈にて多大の滿足なり。讀者にはそこばくの同情󠄁あらん。
英國人は余を目して神經衰弱と云へり。ある日本人は書を本國に致して余を狂氣なりと云へる由。賢明なる人々の言ふ所には偽りなかるべし。たゞ不敏にして、是等の人々に對し感謝の意を表する能はざるを遺憾とするのみ。

歸朝後の余も依然として神經衰弱にして兼󠄁狂人のよしなり。親戚のものすら、之を是認するに似たり。親戚のものすら、之を是認する以上は本人たる余の辯解を費やす餘地なきを知る。たゞ神經衰弱にして狂人なるが爲、「猫」を草し「漾虚集」を出だし、又「鶉籠」を公にするを得たりと思へば、余は此神經衰弱と狂氣とに對して深く感謝の意を表するの至當なるを信ず。

余が身邊の狀況にして變化せざる限りは、余の神經衰弱と狂氣とは命のあらん程永續すべし。永續する以上は幾多の「猫」と、幾多の「漾虚集」と、幾多の「鶉籠」を出版するの希望を有するが爲に、余は長しへに此神經衰弱と狂氣の余を見棄てざるを祈念す。

たゞ此神經衰弱と狂氣とは否應なく余を驅つて創作の方面に向はしむるが故に、向後此「文學論」の如き學理的閑文字を弄するの餘裕を與へざるに至るやも計りがたし。果して然らば此一篇は余が此種の著作に指を染めたる唯一の記念として、價值の乏しきにも關せず、著作者たる余に取つては活版屋を煩はすに足る仕事なるべし。併せて其由を附記す。

明治三十九年十一月
夏目金之助

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出典 
『漱石全集 第八巻』大正9年 漱石全集刊行会

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あとがき
倫敦の留学生活と帰国後の教授生活を、散々罵っているが、100パーセントそう思っていたわけではないと感じる。何より、この後の漱石の生き方を決めたのは、この数年間なのだから。ところで、この「文学論」の元になった講義は「英文学概説」というものだったらしい。

「序」はこうして、ブログに掲載することにより、じっくり読むことが出来た。これから本文を「読む」ことにする。そのなかで漱石が倫敦で何を考えたのかを知りたい。「読む」には、「紙の本」と「電子図書」を併用して行きたい。「紙の本」としては、50年前から持っている全集本を使う。「電子図書」としては、国会図書館デジタルコレクションの1937年版を使いたい。Kindle版(有料)は必要そうなら購入を検討する。草稿(下の写真)も見つけたがこれは眺めるだけになるだろう。



どうでもいいあとがき
「序」の日付が「明治三十九年十一月」となっている。この年、私の父が生まれている。と思うと、そんなに昔の話ではないと感じる。

2019年5月11日土曜日

なんとか「文学論」がまとまった…めでたい

漱石 「文学論 序」の続き…

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留學中に余が蒐めたるノートは蠅頭の細字にて五六寸の高さに達したり。余は此ノートを唯一の財産として歸朝したり。歸朝するや否や余は突然講師として東京大學にて英文學を講ずべき依囑を受けたり。余は固よりかゝる目的を以て洋行せるにあらず、又かゝる目的を以て歸朝せるにあらず。大學にて英文學を擔任教授する程の學力あるにあらざる上、余の目的はかねての文學論を大成するに在りしを以て、教授の爲に自己の宿志を害せらるゝを好まず。依つて一應は之を辭せんと思ひしが、留學中書信にて東京奉職の希望を洩らしたる友人(大塚保治氏)の取計らひにて、殆ど余の歸朝前に定まりたるが如き有樣なるを以て、遂󠄂に淺學を顧ず、依托を引き受くる事となれり。

講義を開く前には如何なる問題を擇ばんかと苦心せるが、余は今日文學を研究する學生に取っては、余が文學論を紹介するの、最も興味多く、且時機に適せるを感じたり。余は田舍に教師となり、田舍から洋行し、洋行から突然東京に舞ひ戾つたる人間なり。當時わが中央文壇の潮流が如何なる方面に動きつゝあるかは、殆ど知るべくもあらず。去れど摯實なる勞力に因って得たる結果を最も高等なる學問を修めて、未來の文運を支配する靑年の前に披瀝するは余の最も光榮とする所なるを以て、先づ此問題を選󠄁んで學生諸子の批判を仰がんと決意せり。

不幸にして余の文學論は十年計畫にて企てられたる大事業の上、重に心理學社會學の方面より根本的に文學の活動力を論ずるが主意なれば、學生諸子に向つて講ずべき程體を具せず。のみならず文學の講義としては餘りに理路に傾き過󠄁ぎて、純文學の區域を離れたるの感あり。余の勞力はこゝに於て二途に出でたり。一は纒まらぬものを既に蒐集せる材料にて、ある程度迄具體的に組織する事なり。二は略系統的に出來上がりたる議論を可成純文學の方面に引き附けて講說する事なり。

身心の健康及び使用時間の許さぬうちに在って、此兩者を能くし得たり、とは決して思はず。されども其企てが如何なる事實となってあらはれたるかは、此書の内容の證明する所なり。講義は每週三時間にて、明治三十六年九月に始まつて三十八年六月に渡り、前後二學年にして終る。講義の當時は余が豫期せる程の刺激を學生諸子に與へざりしに似たり。

第三學年にも此講義の稿を續くべかりしを種々の事情󠄁に遮られて果たさず。已に講述󠄁せる部分の意に滿たぬ所、足らざる所を書き直さんとして又果たさず、約二年の間其儘にて筐底に橫たはりしを、書肆の乞ひに應じて公にする事となれり。

公にする事を諾したる後も、身邊の事情󠄁に束縛せられて、わが舊稿を自身に淨寫する暇さへ見出だし得ず。已むを得ず、友人中川芳太郎氏に章節の區分目錄の編纂其他一切の整理を委托す。

中川氏は此講義のある部分に出席したる上、博洽の學と篤實の質をかねたれば、余の知人中にて、かゝる事を處理するに於て最も適當の人なり。余は深く氏の好意を德とす。苟も此書の存せん限り、氏の名を忘れざるを期す。氏の親切によらずんば、現在の余は遂󠄂に此書を出版するの運びに至らざりしならん。況や中川氏他日若し文界に名を成さば、此書或は氏の名によって、世に記憶せらるゝに至るも計るべからざるをや。

以上述べたる通り、此書は余の熱心なる勞力によって組織せられたるものなり。但十年の計畫を二年につゞめたる爲(名は二年なるも出版の際修正に費やしたる時間を除いて實際に使用せるは二夏なり)、又純文學學生の所期に應ぜんとして、本來の組織を變じたる為、今に至って未成品にして、又未完品なるを免れず。去れども學界は多忙なり。多忙なる學界に於て、余は他より一倍多忙なり。足らざるを補ひ、正すべきを正し、繼ぐべきを繼いで、然る後、世に問はんとすれば、余が身邊の狀況にして一變せざるよりは、生涯の日月を費やすとも遂󠄂に世に問ふの期はあるべからず。是れ余が此未定稿を版行する所以なり。

既に未定稿なるが故に現代の學徒を教へて、文學の何物たるかを知らしむるの意にあらず。世の此書を讀む者、讀み終りたる後に、何等かの問題に逢着し、何等かの疑義を提供し、或は書中云へるものよりも一步を進め二步を拓きて向上に路を示すを得ば、余の目的は達したりと云ふべし。學問の堂を作るは一朝の事にあらず、又一人の事にあらず、われは只自己が其建立に幾分の勞力を寄附したるを、義務を果たしたる如くに思ふのみ。

(続く)
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出典 
『漱石全集 第八巻』大正9年 漱石全集刊行会

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あとがき
未完成ながらも、「文学論」を出版したいきさつ(悪くいうと弁解)が書いてある。結果としてはこの機会(本人は嫌だと言う大学での講義)がなければ、「文学論」は出来なかっただろうから、良かったということになる。「義務を果たした」という感想はもっともであろう。

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昨夜Twitterで紹介していただいた、「青空文庫作業マニュアル【校正編】」は参考になる。チェックするポイントがまとまっている。
ただし、青空文庫ではストイックに機種依存文字を排除しているが、私は読み易さを考えてUTF-8でいいことにする。

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昨夜のケーキを今日も食べた。

2019年5月10日金曜日

漱石いや金之助くん、頑張れ!

漱石 「文学論 序」の続き…

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オクスフオードはケムブリツヂと異なる所なきを信じたれば行かず。北の方蘇國に行かんか、又は海を渡りて愛蘭土に赴かんかと迄考へたれど、雙方とも英語を練習する地としては甚だ不適當なるを以て思ひ留まる。同時に語學を稽古する場所としては倫敦の最も優れるを認めたり。是に於て此地に笈を卸ろす。

倫敦は語學練習の地としては最も便宜なりと云へり。其理由は語るの要なし。只余はしかく信じたるのみならず、今に於てもしかく信じて疑はず。去れど、余は單に語學に上達するの目的を以て英國に來れるにあらず。官命は官命なり、余の意志は余の意志なり。上田局長の言に背かざる範圍内に於て、余は余の意志を滿足せしむるの自由を有す。語學を熟達せしむるの傍余が文學の研究に從事したるは、單に余の好奇心に出でたりと云はんよりは、半ばは上田局長の言を服膺せるの結果なるを信ず。

誤解を防ぐが爲に一言す。余が二年の日月を舉げて語學のみに用ゐざりしは、語學を輕蔑して、學ぶに足らずと思惟せるが爲にあらず。却て之を重く視過󠄁ごしたるの結果のみ。發音にせよ、會話にせよ、文章にせよ、たゞ語學の一部門のみを練習するも二年の歳月は決して長しとは云はず。況や其全般に渉つて、自ら許す底の手腕を養ひ來るをや。余は指を折って、余が留學期の長短を考へ、又余の菲才を以て期限內に如何程か上達し得べきかを考へたり。篤と考へたる後、余は到底、余の豫想通りの善果を豫定の日限内に收め難きを悟れり。余の研究の方法が、半ば文部省の命じたる條項を脱出せるは當時の狀態として蓋し巳むを得ざるに出づ。

文學を研究せば如何なる方法を以て、如何なる部門を修得すべきかは次に起󠄁る問題なり。囘顧すれば、余の淺薄なる、自ら此問題を提起して、遂󠄂に何等の斷案に逢着せざりしを悲しむ。余が取れる方針は遂󠄂に機械的ならざるを得ず。余は先づ走って大學に赴き、現代文學史の講義を聞きたり。又個人として、私に教師を探り得て隨意に不審を質すの便を開けり。

大學の聽講は三四ヶ月にして巳めたり。豫期の興味も知識をも得る能はざりしが爲なり。私宅教師の方へは約一年程通ひたりと記憶す。此間余は英文學に關する書籍を手に任せて讀破せり。無論論文の材料とする考もなく歸朝の後教授上の便に供するが爲にもあらず、只漫然と出來得る限り多くの頁を飜し去りたるに過ぎず。事實を云へば余は英文學卒業の學士たるの故を以て選拔の上留學を命ぜらるゝ程、斯道に精通せるものにあらず。卒業の後東西に徂徠して、日に中央の文壇に遠ざかれるのみならず、一身一家の事情の爲、擅に讀書に耽るの機會なかりしが故、有名にして人口に膾炙せる典籍も大方は名のみ聞きて、眼を通󠄁さゞるもの十中六七を占めたるを平常遺󠄁憾に思ひたれば、此機を利用して一册も餘計に讀み終らんとの目的以外には何等の方針も立つる能はざりしなり。かくして一年餘を經過󠄁したる後、余が讀了せる書册の數を點檢するに、吾が未だ讀了せざる書册の數に比例して、其の甚だ僅少なるに驚き、殘る一年を舉げて、同じき意味に費やすの頗る迁濶なるを悟れり。余が講學の態度はこゝに於て一變せざるを得ず。

(靑年の學生につぐ。春秋に富めるうちは自己が專門の學業に於て何者をか貢獻せんとする前、先づ全般に通󠄁ずるの必要ありとし、古今上下數千年の書籍を讀破せんと企つる事あり。かくの如くせば白頭に至るも遂に全般に通ずるの期はあるべからず。余の如きものは未だに英文學の全體に通せず。今より二三十年の後に至るも依然として通ぜざる可しと思ふ。)

時日の逼れると、檢束なき讀書法が、當時の余をして茫然と自失せしめたる外に、余を促して、在來の軌道外に逸せしめたる他の原因あり。余は少時好んで漢籍を學びたり。之を學ぶ事短かきにも關らず、文學は斯の如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左國史漢より得たり。ひそかに思ふに英文學も亦かくの如きものなるべし、斯の如きものならば生涯を擧げて之を學ぶも、あながちに悔ゆることなかるべしと。余が單身流行せざる英文學科に入りたるは、全く此幼稚にして單純なる理由に支配せられたるなり。在學三年の間は物にならざる羅甸語に苦しめられ、物にならざる獨逸語に窮し、同じく物にならざる佛語さへうろ覺えに覺えて、肝心の專門の書は殆ど讀む遑もなきうちに、既に文學士と成り上がりたる時は、此光榮ある肩書を頂戴しながら、心中は甚だ寂寞の感を催したり。

春秋は十を連ねて吾前にあり。學ぶに餘暇なしとは云はず。學んで徹せざるを恨みとするのみ。卒業せる余の腦裏には何となく英文學に欺かれたるが如き不安の念あり。余は此の不安の念を抱󠄁いて西の方松山に赴き、一年にして、又西の方熊本にゆけり。熊本に住する事數年未だ此の不安の念の消えぬうち倫敦に來れり。偷敦に來てさへ此の不安の念を解く事が出來ぬなら、官命を帶びて遠く海を渡れる主意の立つべき所以なし。去れど過去十年に於てすら、解き難き疑團を、來る一年のうちに晴らし去るは全く絶望ならざるにもせよ、殆ど覺朿なき限りなり。

是に於て讀書を廢して又前途を考ふるに、資性愚鈍にして外國文學を專攻するも學力の不充分なる爲會心の域に達せざるは、遺憾の極なり。去れど余の學力は之を過去に徵して、是より以後左程上達すべくもあらず。學力の上達せぬ以上は學力以外に之を味はふ力を養はざる可からず。而してかゝる方法は遂に余の發見し得ざる所なり。飜って思ふに余は漢籍に於て左程根柢ある學力あるにあらず、然も余は充分之を味はひ得るものと自信す。余が英語に於ける知識は無論深しと云ふ可からざるも、漢籍に於けるそれに劣れりとは思はず。學力は同程度として好惡のかく迄に岐かるゝは兩者の性質のそれ程に異なるが爲ならずんばあらず、換言すれば漢學に所謂文學と英語に所謂文學とは到底同定義の下に一括し得べからざる異種類のものたらざる可からず。

大學を卒業して數年の後、遠き倫敦の孤燈の下に、余が思想は始めて此局所に出會せり。人は余を目して幼稚なりと云ふやも計りがたし。余自身も幼稚なりと思ふ。斯程見易き事を遙々倫敦の果に行きて考へ得たりと云ふは留學生の恥辱なるやも知れず。去れど事實は事實なり。余が此時始めて、こゝに氣が附きたるは恥辱ながら事實なり。余はこゝに於て根本的に文學とは如何なるものぞと云へる問題を解釋せんと決心したり。同時に餘る一年を擧げて此問題の研究の第一期に利用せんとの念を生じたり。

余は下宿に立て籠もりたり。一切の文學書を行李の底に收めたり。文學書を讀んで文學の如何なるものなるかを知らんとするは血を以て血を洗ふが如き手段たるを信じたればなり。余は心理的に文學は如何なる必要あって、此世に生れ、發達し、頹廢するかを極めんと誓へり。余は社會的に文學は如何なる必要あつて、存在し、隆興し、衰滅するかを究めんと誓へり。

余は余の提起せる問題が頗る大にして且新しきが故に、何人も一二年の間に解釋し得べき性質のものにあらざるを信じたるを以て、余が使用する一切の時を舉げて、あらゆる方面の材料を蒐集するに力め、余が消費し得る凡ての費用を割いて參考書を購へり。此一念を起󠄁してより六七ヶ月の間は余が生涯のうちに於て最も銳意に最も誠實に研究を持續せる時期なり。而も報告書の不充分なる爲文部省より譴責を受けたるの時期なり。

余は余の有する限りの精力を舉げて、購へる書を片端より讀み、讀みたる箇所に傍註を施し、必要に逢ふ毎にノートを取れり。 始めは茫乎として際涯のなかりしもののうちに何となくある正體のある樣に感ぜられる程になりたるは五六ヶ月の後なり。余は固より大學の教授にあらず。從って之を講義の材料に用ゐるの必要を認めず。又急に之を書物に纒むるの要なき身なり。當時余の豫算にては歸朝後十年を期して、充分なる研鑽の結果を大成し、然る後世に問ふ心得なりし。

(続く)
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出典 
『漱石全集 第八巻』大正9年 漱石全集刊行会

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あとがき
いい年だったのに真面目な漱石は、全力で留学の目的を果たそうとしてしまったようだ。そしてこのときの彼の悩みは、大学在学中に私が悩んだことに酷似している。(偉そうでスミマセン。)そして、真面目な漱石の取った対策がすごい。私も今でもこのような本質的なコトをやろうとして、無理だとあきらめ続けている。漱石がこのあと、どうするかが楽しみになってきた。(結末は知っているにもかかわらずだ。)


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どうでも良いあとがき
今日もらった、誕生祝いの花束。紫が古稀の定番だそうだ。



2019年5月9日木曜日

OLD REVIEWS試作版第十二弾…漱石の「文学論 序」

漱石「文学論 序」を始める気になりました。
 iPhoneカメラで本(全集 第八巻)を直接撮り、OCRにかけました。
これの校正(約十箇所修正)にかかった時間は、30分で、私としてはかなり速い方です。

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余は此書を公にするにあたって、此書が如何なる動機のもとに萌芽し、如何なる機緣のもとに講義となり、今又如何なる事故の爲に出版せらるゝかを述󠄁ぶるの必要あるを信ず。

余が英國に留學を命ぜられたるは明治三十三年にて余が第五高等學校教授たるの時なり。當時余は特に洋行の希望を抱かず、且他に余よりも適當なる人あるべきを信じたれば、一應其旨を時の校長及び教頭に申し出でたり。校長及び教頭は云ふ、他に適當の人あるや否やは足下の議論すべき所にあらず、本校は只足下を文部省に推薦して、文部省は其推薦を容れて、足下を留學生に指定したるに過ぎず、足下にして異議あらば格別、左もなくば命の如くせらるゝを穩當とすと。余は特に洋行の希望を抱かずと云ふ迄にて、固より他に固辭すべき理由あるなきを以て、承諾の旨を答へて退けり。

余の命令せられたる研究の題目は英語にして英文學にあらず。余は此點に就いて其範圍及び細目を知るの必要ありしを以て時の專門學務局長上田萬年氏を文部省に訪うて委細を質したり。上田氏の答には、別段窮屈なる束縛を置くの必要を認めず、只歸朝後高等學校もしくは大學にて教授すべき課目を專修せられたき希望なりとありたり。是に於て命令せられたる題目に英語とあるは、多少自家の意見にて變更し得るの餘地ある事を認め得たり。かくして余は同年九月西征の途󠄁に上り、十一月目的地に着せり。

着後第一に定むべきは留學地なり。オクスフオード、ケムブリツヂは學問の府として遠く吾邦にも聞こえたれば、其のいづれにか赴かんと心を煩はすうち、幸いケムブリツヂに在る知人の許に招かるゝの機會を得たれば、觀光かたがた彼地へ下る。

こゝにて尋ねたる男の外、二三の日本人に逢へり。彼等は皆紳商の子弟にして所謂ゼントルマンたるの資格を作る爲、年々數千金を費やす事を確め得たり。余が政府より受くる學費は年に千八百圓に過ぎざれば、此金額にては、凡てが金力に支配せらるゝ地に在つて、彼等と同等に振舞はん事は思ひも寄らず。振舞はねば彼土の靑年に接觸して、所謂紳士の氣風を窺ふ事さへ叶はず、假令交際を謝して、唯適宜の講義を聞く丈にても給與の金額にては支ヘ難きを知る。よしや、萬事に意を用ゐて、此難關を切り拔けたりとて、余が目的の一たる書籍は歸期迄に一卷も購ひ得ざるべし。且思ふ。余が留學は紳商子弟の吞氣なる留學と異なり。英國の紳士は學ばざる可からざる程、結構な性格を具へたる模範人物の集合體なるやも知るべからず。去れど余の如き東洋流に靑年の時期を經過󠄁せるものが、余よりも年少なる英國紳士に就いて其一舉一動を學ぶ事は骨格の出來上がりたる大人が急に角兵衞獅子の巧妙なる技術を學ばんとあせるが如く、如何に感服し、如何に崇拜し、如何に欣慕して、三度の食事を二度に減ずるの苦痛を敢てするの覺悟を定むるも遂󠄂に不可能の事に屬す。之を聞く彼等は午前に一二時間の講義に出席し、晝食後は戸外の運動に二三時を消し、茶の刻限には相互を訪問し、夕食にはコレヂに行きて大衆と會食すと。余は費用の點に於て、又性格の點に於て到底此等紳士の擧動を學ぶ能はざるを知って彼地に留まるの念を永久に斷てり。

(續く)

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出典 
『漱石全集 第八巻』大正9年 漱石全集刊行会



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あとがき
涙ぐましい。年を取ってから行った日本人は、こういう思いだったかもしれません。辻邦生や原二郎先生を思い出す。また、南方熊楠や西脇順三郎の凄さにも思い至る。
「時の專門學務局長上田萬年氏」も調べると面白い方ですね。

どうでもいいあとがき
この漱石全集は昭和44年に仙台で買ったものです。50年前です。この巻が刊行された大正9年は1920年ですから、100年前です。そして、私は明日古稀を迎える(*^^*)

2019年5月8日水曜日

漱石「文学論 序」をアプリ「OCR」にかけてみる、その方法は…

「OCR」アプリの使い勝手をもっと試すことにした。

前々からやりたかった、漱石の「文学論」のデジタル化をやってみた。「序」を少しだけ直接手入力してみたが、面倒で挫折した経験がある。

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国会図書館デジタルコレクションを、「帝國圖書館」(これはiOS上の閲覧アプリ)を使って、iPadで表示しスクリーン・ショットを撮り、できた写真をトリミングしたもの。


これを「OCR」にかけると、こうなった。(結果をメモに貼り付けてある。)


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次は、iPadのカメラでほぼ同時代の(1920年)『漱石全集 八巻』の該当ページを撮った。そしてやはりトリミング。


これを「OCR」にかけたものは…

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比べてみると、iPadのカメラで直接撮ったものからの方が品質がよさそうだ。照明や、ページの開き具合の調整がうまくできればこちらがいいのかもしれない。ただし、大量ページの操作に耐えきれるかは、問題となろう。とりあえず、カメラを使う方法で、序文をデジタル化してみよう。じっくり読むのも兼ねて…

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日常読んでいる種々の文書の内容をメモに取る際に、「OCR」を使うのは、便利かもしれない。「OCR」から、直接カメラを起動できる。この場合はiPadを振り回すより、iPhoneを使うだろう。

2019年5月7日火曜日

OLD REVIEWS用に、「OCR」アプリを本格的に使い始めよう

昨日「発見」したOCRアプリの使い勝手をためした。

4月24日に途中までやっておいた、谷崎源氏の多分初版本の訳者序文の残り6ページほどをデジタル化してみた。結果は上々、つまり今までは校正特に、旧字の入力にかかっていた時間が大幅に短縮された。2時間以上かかり、途中で休憩もしていたのが、1時間連続でできた。ストレスも軽減できたのだろう。



改めて、校正をしてみた感想、
(1)「OCR」は旧字の認識率が良い。おかげで、校正時の文字変換そのものが殆ど不要になった。
(2)旧仮名の「ゐ」を認識してくれるので、これも校正時の作業効率を上げてくれる。

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OLD REVIEWSの記事作成手順は次の通り。

(1)対象記事を、主に国会図書館デジタルコレクションで探す。ここはMac上のブラウザでやるほうが効率が良い。

(2)記事にするページを、画像化する。今回はiPadのアプリ「帝國圖書館」で拡大表示してスナップショットを撮る。複数ページになることが多い。「写真」アプリで、スクリーンショット中の日付時刻など余分な情報をカットする。

(3)iPadのアプリ「OCR」でスナップショットを文字化する。

(4)文字化されたものを「メモ」に貼り付ける。

(5)MacにiCloudで「自動転送」された「メモ」を開き、「テキストエディット」に記事をコピー後、「半角スペース」を一括消去する。

(6)Webアプリ「Writer」に記事をコピー。(エディターなら何でもいいが、私はWriterが好み。)

(7)国会図書館デジタルコレクションの元画像を参照しながら、記事を校正する。

(8)校正が一旦終わったら「校閲君」のWebページを利用して、旧字に関して校正結果の確認をする。必要に応じて「Writer」上で修正。なるべく元の版面の字を尊重する。

(9)ブログ記事に仕立てる。

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この手順でいうと、(7)に最も時間がかかっていたが、そこが手早くできるようになった。

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OCRソフトの内部構造にも興味が出てきた。文字認識に関する学習機能が付けばいいと思ったからで、そんなソフトを今後も探していきたい。「OCR」アプリをもっと使いこなす工夫はもちろんやっていく。

2019年5月6日月曜日

旧字旧かなを認識できる、iOSアプリ「OCR」が気に入った

iPad上に「OCR」というアプリがある。数週間ほど前にダウンロードしておいた無償のもの。試していなかったので、今朝、やってみた。同じiPad上の「帝國圖書館」で後藤末雄の『日本・支那・西洋』と言う本を読んでいたので、その序文の前半をスクリーンショットで画像化し、「OCR」にかけてみた。結果は、思ったより、いや、素晴らしく良好。なにしろ、旧字旧かなをそのままほとんど認識してくれる。

飛び起きて、(寝どこでやっていたので、)Macで校正してみた。従来のOCRの結果よりも、三分の一くらいの時間でできた。このOCRは偶然見つけたが、良い拾いものだった。

OCRでよくある「半角スペース」ゴミが皆無な少ないのも助かる。PDFは認識しないが、jpgを使えば問題ない。PC用のソフトがないのが残念。有償版もあるが、違いは、広告が出ないだけ。

私の目指しているOLD REVIEWSは、ほとんどが旧字旧かなの原稿なので、このアプリが使えればすごく助かる。しばらく使って様子を見よう。継続使用したくなったら有償版に切り替える。

以下は今朝やってみた結果。短時間でストレスなく完成した。

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序言 (後藤末雄)

學者のうちには自分の研究した專門知識を神棚に祭り上げて、ひとりで隨喜の涙をこぼしてゐる者が少くない。私は斯ういふ態度に賛成できないのである。專門知識の社會化もしくは通俗化は學者に課された半面の義務だと信じてゐるからである。實際、學者が專門知識を一般人の教養寶庫に移管しなければ、一國の文化は勿論のこと、世界の文化が進歩し、昂揚する理由はない。併し文化富財を社會化するに當って、最も注意すべきは、知識を低下せずに、これを通俗化することである。そのためには「六づかしいことを、やさしく言ふ」技術が必要なのである。然らずんば、折角の意圖も、あたら目的を逸してしまふのである。

學者の末席に列する私は、大膽にも、かういふ心構へを以て「日本・支那・西洋」の一篇を書き上げたのである。この嘗試が成功したとは信じてゐない。

「日本・支那・西洋」とは、要するに此の三者の文化交流の跡をたづねて、その相互影響を摘要したものに他ならない。東西の文化が接觸すると、この兩文化が如何なる側面に於て、牽引し、或は反撥するに至つたか、言ひ換れば日本人、支那人、西洋人の考へ方、見方、感じ方の差異を指摘して、その特質を闡明しようと試みたのである。主題の內容が極めて廣汎に亙ってゐるから、多種多樣の知識を必要とし、從つて記述も亦多量にのぼる可きことは言ふまでもない。併し時局の關係上、著者には十分の紙幅が與へられてゐない。それ故、遺憾ながら割愛した事實が多いのである。ただ、重點主義を奉じて、日本文化の發達過󠄁程を一瞥しただけに止る。この點に就いては讀者諸君の御諒承を切望するものである。


日本人が海外文化を研究するのは、畢竟、よりよく日本の國情を知り、その文化の本質を知らんがために他ならない。決して我々、日本人は西洋文化その者を知らんがために、西洋文化を研究するものではない。また我々が探求に從事するのも、「物を識る樂しみ」のためにのみ研究を續けるものではない。學問研究の目的は人問を啓發し、啓導することにあると思ふ。まつたく文化科學の價值は「何物かを人間に敎へる」ことにあると私は確信してゐる。(以下略)

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出典 『日本・支那・西洋』 後藤末雄 昭和18年 生活社
国立国会図書館デジタルコレクション(下の画像も)

あとがき この序言には、後藤末雄の考え方が良く現れていると思える。