2017年1月31日火曜日

いつまでも修行の人生だなや

 一年近く、原因不明の消化不良に悩まされている。胃カメラ飲んだり、肝臓・胆管などのCT、MRI検査などを実施した。
 格別の異常は見つからない。こういう病気(?)を「機能性ディスペプシア」と呼ぶのだという説もインターネットを飛び交う。要するに原因不明の消化不良。

 それなら、日々の生活を変えて直そうと思ったりもします。

 少し具合がいいと(#朝は具合がよいことが多い。寝ている間は絶食状態だから当たり前だ。)そろそろ治ってきたかと誤解する。

 治りかけの気持ちよさから連想して、思いついたので、青空文庫で堀辰雄先生の『恢復記』を読みなおしてみた。ついでに同じく青空文庫にある神西清さんの同名の小説も。
 病後の、頼りないが、爽やかな気持ちがうまく表現されている。

 こうなるとトーマス・マンの『魔の山』も当然読むべきだが・・・。病気にあこがれる主人公にお灸をすえる人文学者の先生のくだり。ここに深入りすると時間がかかるので、踏みとどまる。

 不調の原因には、精神的な要因が多そうな気もする。家族や友人の病気への心配など。経済的不安もあるかも。

 とりあえずの対策案) ゆっくり、正確・確実に生きる。自分のリズムでやりたい事だけをする。
 好みに合わない他の人や物に対して、癇癪をおこさない。批判は直接的にせず、相手が悟るように促す。

 いまいち、具体的でない。も少しじっくりと考え直すことにする。

 トーマス・マン日記は日本語版が高すぎるので、ドイツ語版で読んでみようと思いつく。日記なら簡単な文章しか書かないだろう。

 トーマス・マンの小説はやめておいたほうがいいと言われてますね。一つの文が1ページ以上になることがザラらしい。小塩節先生は、マン夫人に、区切って訳しなさいと助言を受けたとか。(『トーマス・マンとドイツの時代』中公新書 1992年 178ページ)

 でもなかなか原書がみつからない。やめよかな。やめるのよそうかな。

 よせばいいのに、カラオケ仲間の新年会に出かけた。ウーロン茶としらすおろしとあん肝しか摂れなかったが、まあ、楽しかった。飲み会だけでカラオケは中止。病人が多い。上記の精神的な病気の克服の話をする。帰りは寒かった。



 会がはじまるまえに、仕入れた本。眺めながら寝ます。

2017年1月30日月曜日

あさイチではときどきよい気づきをもらう

 今朝もNHKTVで朝ドラのあと、あさイチを見る。
 
 「ピピピ」というオノマトペを発声したときの面白い感覚をひきがねにして、園児が複数のアイテム(たとえば、明日の持ち物)の記憶・思い出しを容易にできるようにした幼稚園の例が興味深かった。

 最近興味を持っている記憶想起の話題に近い。
 脳の中の感動の回路(?)と記憶・想起の回路がつながっている。そんなものがあるとしての話。

 プルーストの書いた「お茶に浸したマドレーヌの味」のような効果。

 まだ体調悪く、このあと昼寝しながら、ファイマン先生の本を読み、ピアノ・ジャズを聴く。



 ファインマン先生は、晩年に、物理学の知識を教えることより、愛することが大切と言ったらしい。
 また、彼の講義を聞いた学生は、彼の物理現象へのあくなき好奇心や、子供のように面白がる様子に感銘を受けたと言っているようだ。
 知識の上位にはこのような事がある。すべての領域で。

 会社に入ったばかりの人の研修では、自分のやる仕事への愛情を喚起する必要がある。そうでないと、知識の詰め込みになる。今の人には通じない。
 
 この人もいいなあ\(^o^)/
Fats Waller - Ain't Misbehavin' - Stormy Weather (1943)

 ファインマン先生の本をもう一冊注文しました。

2017年1月29日日曜日

Youtubeを見て過ごす日曜日

 新年会で少し羽目を外したので、今日は寝床で謹慎中。活字を読むのが億劫なので、Youtube三昧。

 以前途中まで観た、有名ピアニストがたくさん出てくるドキュメンタリー。解説付きで各ピアニストの演奏を聴くと、ちがいがわかってくるような気になる。(たぶん美しい誤解。)スバラシイビデオです。

 ファインマン先生の生涯を取り上げたビデオ。改めて、先生の人間としての魅力を感じた。ビデオなのにオーラがスゴイ。

 乗ったことはないが先人の渡航記など読んでるので、懐かしい乗りものOcean Liners。米国には船で移民が大量に渡ったのだが。別の言い方をすると、先住民を除くと、米国民は全部移民の出身。彼らが求めて、なんとか得たとされる「自由」はいま危機にひんしている。
BBC - Ocean Queens: The Story of Cunard (2015)


ところで寝床で使ってるiT機器。iPad Air、iPhone6P、iPhone4S、MacBook、Android(HTL22)、iPod Classic、Kindle無印。(写真はごく一部ですね)
これだけあると後宮の美姫たちのように公平に扱い、充電するのにすばらしく手がかかる。なおiOS系はすべてお下がりかプレゼント(^o^)/

2017年1月28日土曜日

新年会にも小説にもドラマにも人間の哀しさがあらわれる

 「昭和酒場研究会」の新年会に出席。パンを手作りにしたものをオミヤゲに呉れる友人やバレンタインチョコを先取りして配る友人も。病気が思わしくない友人もいる。皆それぞれ懸命に生きている。ホスト格の友人(先輩)から紹介された本、『日々我人間』が面白そう。

 昨夜、眠れずにいる時に紐解いた、吉川英治の『小説のタネ』(青空文庫)にこんな意味の記述があった。
 宮本武蔵は「たけぞう」時代(若い時)、豊臣秀吉も若い無名の時代を書くのが楽しかった。
 
 なお且つ、最後まで書き続けるのが文豪の凄さだと思う。


 大河ドラマを見続けていると、主人公が歴史上の人物の場合(が多い)が、晩年の部分は辛くて見なくなる事が、私は多い。朝ドラも、主人公が成功した後の描写を観ていると物悲しくなる事がある。

 盛者必衰と言えばそれまでだが。小人の戯言とも言える。

 新年会の後、悪酔いして寝込んでいるので、気分が消極的になっている。早く寝てしまおう。

2017年1月27日金曜日

盲目的な共産主義憎悪は危険とあの微温的なトーマス・マンも言っている

 「寛容」という言葉が大切であることは、学生時代に渡辺一夫先生に教えられた。著書で。

 ナチ・ドイツから亡命した先の米国から、また「亡命」をしなければならなかったトーマス・マン先生も

 「ヒステリックな、非合理的な、盲目の共産主義憎悪は危険を意味しており、この国共産主義よりもはるかに恐ろしい...早く正気に返らねば、よい結果を何一つ招きえないばかりか、最悪の事態に通じうる...」

と1951年4月に雑誌社の編集長との論争で述べている。(トーマス・マン全集別巻 728ページ 新潮社 1972年)

 同じ間違いををより広く深く繰り返していくのが人間の世界か?

 いや、一見無力に見える「寛容」の力を我々は信じていかなくてはいけない。歴史や政治を勉強するならここに気づかなくてはならないよ。クラウス・Jr君と思いながら、『Man of the World』の続きを読んでいきます。特に面白いことを見つけたら、またこのブログで報告します。

 今朝は「ディープネットワークを用いた大域特徴と局所特徴の学習による白黒写真の自動色付け」なる研究の成果を試してみた。

 要するに、昔の豪華客船の白黒写真をよりリアルにして見たいのです。手元の『世界の船 ’75』(83ページ 朝日新聞社)(白黒写真ばっかり!)のなかから、オリンピック号の写真をお借りして彩色してみました。なかなかいいです。もっとやってみます。


2017年1月26日木曜日

自分の出生の秘密を知り、トーマス・マンも亡くなり、欧州旅行はてんやわんや



 『Man of the World』(Klaus H. Pringsheim)の続き

 朝鮮戦争中に米国の兵役を勤めたので、奨学金と、他に生活費月110$を貰えて、カリフォルニア大学ではラッキーな学生生活を送れた。
 歴史や政治学を学んだ。バイトをしていたダグラス社でも、勤務中の勉強が許された。

 入学後2年の1955年に休暇をとり、欧州に友人と出かけた。
 S.S. United States に乗船。ツーリストクラスだが豪華な船旅ができた。サザンプトンで車を借り、まず英国内を旅した。
 パリに行き、その2日目に、キオスクで「トーマス・マン死す」と書かれた新聞見出しを発見した!

 ホテルに戻り、マン夫人に電話した。「明日お葬式だけど、間に合わないでしょう。予定通りの日にチューリヒにいらっしゃい」。いつもの通り落ち着いた声だった。
 予定通りに先に、16年ぶりに会うミュンヒェンの母を訪ねた。まだ若さも残る母も連れて、かねて念願のベニス方面へ向かった。

 車の中で母から、写真を渡された。
 なんと、これが本当の父親だという。
 オペラ歌手のハンスおじさん(昔、知っていた)だった。
 写真をみると自分とそっくりだ。
 プラハのオペラハウスで、父クラウス・Srと一緒に仕事をしていた時の事らしい。
 その後はこの件は母とは話し合わずに旅を続けた。

 母をミュンヒェンに送り届けたあと、キルヒベルグのマン夫人を訪ねた。
 米国から戻ってからは、地元の「歓迎」もあり、トーマス・マンは割と元気にしていたという。
 右脚に軽い痛みが出たので旅先から戻り、病院で診察を受けた。
 軽症と皆思っていたが、数日の入院の後、血栓で静かに息を引き取った。解剖で脳以外の広範な血管の石灰沈着が見つかった。

 墓参りを済ませたクラウス・Jr. 君は、マン夫人に自分の出生の悩みを打ち明けた。
 「でも、あなたはいまでもプリングスハイム家とマン家の一員に変わりない。それどころかトーマスはあなたをすごく可愛がっていたのよ。」、夫人に諭されて気分が落ち着いた。(170ページ)

 20年後、マンの日記が公刊されることに成った。初めてカリフォルニアに到着した日の、マンの日記に「bogus son」という記述があり、悩んだ末、「bogus」という単語を抹消してもらった。

 

2017年1月25日水曜日

読書再開したがトーマス・マンが亡くなってしまいました(T_T)

 『Man of the World』は、そろそろ、クラウス・Jr君のやり放題記になりつつあります。

 1952年、トーマス・マン夫妻は失意のうちに加州を後にして欧州へ戻る。マッカーシズムの嵐の中で77歳を過ぎ、肺癌手術後に弱った体は耐えられないとの判断だ。
 アイクでなくスティーブンソンが選挙で勝てば、大丈夫と言うクラウス・Jr君の説得も効かない。「もしそうなったら戻るよ。」というトーマス・マンの言葉も力がありません。

 FBIが目を光らせているので、クラウス・Jr君の友人のつてで秘密裏にKLMの航空券を入手し、トーマス・マン夫婦は逃げるように欧州に向かった。
 家財の管理と整理を手伝う。マン夫人からはその手数料月60ドルが送られて来る。
 数千冊の蔵書は一冊5¢で業者に引き取られた。トラックに積むときシャベルが使われた。😢

 60ドルでは生活には足りない。家電セールスやダグラス社の助手などやったが詰まらない。ただし学費は貯まった。マンの邸宅が買値で売れた。2万5千ドル。マン夫人に小切手を送った。なお、後には300万ドルの値がついたそうだが。あとの祭り。

 カリフォルニア大学で勉強して、将来は歴史や政治学を教えたい。という目標が定まった。
 高校の既習課程では、数学の単位が不足だ。数学をやり直す気はさらさらないので、大学の学生部長を説得し、初年度オールAをとるという条件で入学追認してもらう約束をさせた。もちろん、すでに知っているような科目を選んだのは言うまでもない(^_-)

 30歳になるまで世間の荒波に揉まれてきたクラウス・Jr君の生活能力と交渉能力は大したものだ!
 やっと、「自由の国」での大学生活が始まる。

(昨日の夢に出てきたS先輩たちと、『自由からの逃走』の読書会をやったのを思い出しました。どこかに本があるか、発掘してみたい。)

 少し後、母親の招きで欧州に旅して1 6年ぶりに邂逅。そして母親から自分の出生についての衝撃的な事実を知らされる。
 また、その旅行中にトーマス・マンの訃報に接する。
これらは次回以降。

マカオで買った「無実を証明する」鳥のお守り

2017年1月24日火曜日

読書はお休みして今朝の夢を書いてみた



 疲れていても聴けるピアノJazzを捜した。ビル・エバンスもいいが、聴き飽きた。キース・ジャレットは少し重苦しく感じる。そこで、油井正一先生の本を参考にし、アート・テイタムを聴いてみた。これはビンゴ!たとえば、これ。「倍速」といわれるピアノの音の流れが心地よい。あれこれ考える必要がなく、気楽で楽しい。

 聴いているうちに居眠りしてしまった。こんな夢をみた。



 S先輩の家にいる。暫く滞在することになったらしい。先輩は不在。学生時代にもよく留守中の下宿に上がりこんで昼寝したりしていた(*^o^*)

 先輩は国文学者なので、本がいっぱいあるはずなのに、何もない。

 形見で貰うはずだった、諸橋の大漢和辞典もない。まあこの年ではもう不要かもしれぬ。

 古い箪笥が置いてあるので、もってきた少しばかりの着物を空いた引き出しに入れた。
 奥の引戸をあけると、コンクリートの流しやたたきがある。生活用品は何もない。部屋の中に綱がはってあり、洗濯物が少し干してある。

 かなり広い部屋で十疊ぐらいある。

 部屋代はどうすればいいのか、よくわからない。そもそもこの部屋は、先輩が借りているのかどうかもよくわからない。

 暇だなと思っていたら、S先輩が帰って来た。にっこりしたが何も言わない。 

 喉が乾いたが水道栓があるだけでコップも薬缶もないので、我慢していた。
 S君が訪ねてきた。

 S先輩とS君は名字が同じ。紛らわしい。私は先輩をSさんと呼んだ。S君は昔からの親友で、必要な時はあだ名で呼ぶ。他人の前では、悪いからあだ名を使わない。ファーストネームで呼ぶ。

 S君は仕事で来たのだろうか。コッへルを持ってきたので、急に元気になって、コーヒーを頼んだ。

 先輩に部屋代のことを聞いてみようと思ったがまだ言い出せない。
 さっき、箪笥に勝手に衣類を入れたのも良くないなと思ったが、黙っていた。

 先輩はアルバイトで女子高の講師をしている。その女子高生たちが遊びに来たらしい。
 コーヒーは入れられるとして、茶器がないのは困るだろう。



 目が覚めてから、これは過去の思い出の抽象か、それとも将来の予知かと考えた。やはりわからない。
 ともかく悲しくはなく、楽しくもない、淡々とした良い夢だった。

 この夢の内容と、聴いていたアート・テイタムの音楽に関連性はあるのか、それを知るにはまた寝るのがいいだろう。こんどは、何を聴くか?

2017年1月23日月曜日

学歴の壁に悩んでいるうちに、伯父トーマス・マンに呼ばれたぞ

 『Man of the World』の続きを読んでいたら、また胃が痛んできた。稀勢の里の優勝祝で食べすぎたらしい。

 クラウス・Jr君の手記は続く。軍曹にはなれたが、このあとの昇進の見込みはなさそうなので、リッチモンドで除隊することにした。軍での勤務成績はまずまずだったので、推薦状をもらって、米国市民権をとることにした。しかし、役所で判事にきびしい質問をされた。朝鮮でのマッカーサーの作戦は間違っていると批判したそうではないか。他にも政治的思想が偏っているという情報もあるぞ。

 このような場面では、クラウス・Jr君の物怖じしない性格が役立つ。米国は自由の国と聞いています。それに、マッカーサーは結局中国軍を戦争に引っ張り込んだので、トルーマンによって解任されたではないですか。
 これを聞いて、判事はしばらく考えた末、わかったと言い、市民権をもらえることになった。

 晴れて市民権も手に入り、除隊して自由の身になったので、ワシントンに行き、政府関係で日本語を活かせる仕事を捜すことにした。日本との通商関係もできつつあるではないか。
 まず国務省に行った。申請書を描いて受付の若い女性に渡した。書類をみながら、彼女は、名誉除隊なのですね何年軍隊にいたのですかと聞いた。答えた。4年ですか、どういった教育を受けてきましたか。東京で高校を出、そのあと日本語と日本文化の学校に通い優等で卒業したと答える。そのあとは、軍隊内で語学の先生をやっていました。

 学位はあるんですか。と彼女は畳み掛けてきた。最低でも学士でないと駄目です。専門的な仕事だと修士や博士号が必要です。クラウス・Jr君は申請書をふたつに破いて、さよならと言った。
 FBIに行っても駄目、他の省庁も同じだった。

 ニューヨークに行きマン伯父の知人などを訪ねたが、仕事はない。やむをえず、新聞広告で見つけた、あやしげな輸入品の運送業者(ドイツ系)に直接交渉し、採用してもらった。週給48ドルでなんとか雇ってもらう。輸入された物品を米国内のいろいろな場所に鉄道で送るための伝票を作る仕事だ。iヶ月ほど勤めて、週給も55ドルになったが、どうも面白くない。軍隊内でもそうだったが、クラウス・Jr君は事務作業は嫌いなようだ。
 
 叔母のマン夫人から手紙が来た。知人のフランクの指揮するオペラ「魔笛」を気晴らしに見てきなさい。そして、これは大事なことだけれど、トーマスと私は欧州に帰ろうと思っています。どうも米国の政治事情が思わしくないから。スイスで休暇を取るふりをして、そのまま欧州に留まるつもりです。だから、カリフォルニアに来て、私達の邸宅の管理をして欲しい。すぐに車をとばして帰ってきなさい。

 クラウス・Jr君はさっそくヒルマンを飛ばしてカリフォルニアに行った。
 トーマス・マンは「ハリウッド10」を擁護するスピーチを公刊していた。密告者のひとりは俳優組合の議長のロナルド・レーガン(後の大統領)だった。ナチス時代にヒトラーの配下がやっていたようなことが米国でも始まっていたわけだ。

 マンはすでに77歳。肺の病気もあり弱っていた。(147ページ)



 ここで、私も力尽きて寝ることにしたので、続きはまた次回。ともかく、稀勢の里優勝は良かった。多くの人に努力は報われることがあるという勇気を与えた\(^o^)/

2017年1月22日日曜日

トーマス・マン夫人の甥は相当お茶目だったが、時代の雰囲気は重苦しい



 今年の目標の一つにJazzをもっと聴く、ということを挙げた。
 そう意識していると、『村上春樹 雑文集』(2015年 新潮文庫)が、本箱の中で目に止まった。163ページに「ビル・クロウとの会話」なる文章があり、この「渋い」ベーシストの書いた本も、村上さんは訳しているのに気づいた。物好きだなあ。

 トーマス・マンはクソ真面目なので、ウエストコーストJazzなど無視していただろうが、今回読んでいるクラウス・プリングスハイム・Jr君は、Jazzも大いに楽しんだだろう。多分ダンスしながら。

 『Man of the World』によると、チャップリンの『伯爵夫人』の私的試写会に、トーマス・マンもクラウス・Jrも出席しているが、当然この行動は、米国当局のマークするところとなっただろう。

 クラウス・Jr君と父親は、実は裕福でないマン家の内情がわかったので、マンの邸宅を出て、自活の道を探る。父親は高名な指揮者だったので、大学の音楽学科(?)の講師に就職。クラウス・Jr君は、日本で習い覚えた日本語を活かそうと、大学の図書館に行き、就職口を捜す。図書館では、大量の日本語図書が手に入っていたが未整理だったので、整理係に雇うことにした。時給30セント。安いが背に腹は変えられない。

 しばらく、本を整理してみると、どうも料理や庭仕事など、実用書ばかりが多い。実は、これらの本は大戦中に収容所に入れられた、日本人入植者たちが家に残さざるを得なかった本だったらしい。あまり価値のある本はないし、何より給料が安くて、暮らしていけない。ダメ元で申し込んだ昇給も断られたので、それを機会にクラウス・Jr君は、やめてしまった。

 次の就職口は、タクシーの運転手。勤務はきついが、給料の同額か、それ以上のチップが手に入る。週に数十ドルから100ドルくらいは手に入る。
 ここで一つ問題がある。クラウス・Jr君は日本から来て間もないので、ロスアンゼルスの地理をまったく知らない。あわてて地図を買って勉強した。付け焼き刃の知識で運転していたが、乗客に、「近道を知っているなら、教えてね」と言うと、大抵の客は、ナビゲーションをしてくれる。ので、ほとんど困らなかった。と彼は書いている。大した度胸だ。

 有名人・スターなどを乗せたこともある。一度は、ハワード・ヒューズが裁判所から出てきたところをのせた。どうも非米活動委員会の取り調べの帰りだったらしい。でも彼は非常に冷静で礼儀正しく、降りるときには料金(数十ドル)以外に、チップだと100ドルくれた。これには助かった。

 タクシー運転手には誘惑も多い。料金代わりと言って自宅に連れ込もうとする女性もおり、数ヶ月で運転手はやめた。

 そもそも彼には、日本にのこしてきた恋人(NAOKO)がいる。会いたいので、日本に行けるような就職口を考えた。軍人(軍属)になるしかない。そこで、なんと徴兵検査を受けて、新兵訓練を受けようとする。さすがにマン夫婦に相談したが、お前のすきにしろと言う返事。訓練を数ヶ月受けて、兵隊になった。配属希望は、日本語をいかした日本である。朝鮮戦争が始まろうとしていたが、朝鮮に行ったとしても、休暇は日本でとれると聞いている。

 ところが、残念ながら、なぜか前線には出されず、米国で兵士に日本語を教えるようにと言われる。持ち前の器用さで、うまく日本語を教えて、昇進もした。下士官待遇になり、食堂にいくと、良いビフテキを選んで、振る舞ってもらえる。もう一度、日本に行きたいと上司に相談したが、断られる。

 理由は、彼の出身(ユダヤ系)にあった。そして、お前のおじ(トーマス・マン)はコミュニストの手先だから、とも言われた。チャップリンの映画試写会に出たのも裏目に出たのかもしれない。

 彼はNAOKOに手紙を出し、日本には当分行けないと打ち明けた。短い手紙が返ってきて、二人は別れることにした。

 彼は、このあと一時的に軍の資材管理システム(!)のオペレーターをやらされたが、つまらないので軍をやめた。

 コミュニズムへの米国の神経質な対応が、なんとなく伝わってくる。今日はここまで。

 ピアノJazzがやはり良い。ビル・エバンスを始めとして、クロード・ウィリアムソンやバド・パウエルやエロール・ガーナーやオスカー・ピーターソンなどを聴きまくる。

2017年1月21日土曜日

若者の目から見たトーマス・マンの日常は非カリフォルニア的

 ルカーチに触発されて、トーマス・マンの晩年の政治思想を探りたくなったが、思いつく資料のうちでもっとも重要そうな『トーマス・マン日記』は1946年3月分までしかない。このあとの巻は、高価なのでまだ入手できずにいる。

 トーマス・マンの義理の甥、つまりカーチャ夫人の双子の兄の息子のクラウス・プリングスハイム・Jr(1923年生まれ)の書いた手記のペーパーバックが先日手に入った。『Man of the World』(19995年 モザイク・プレス)


 クラウスという名は平凡な名前らしくマン家にもプリングスハイム家にもたくさんいてまぎらわしい。父親の方のクラウスさんはナチスから逃れ日本に来ていた高名な指揮者である。息子のクラウス・Jrとともに、1946年10月に苦しいい生活を送っていた日本を出て、米国カリフォルニアに向かう。身元引受人はトーマス・マンである。

 10月末にシアトルに着き、バスを乗り継いで、トーマス・マンの住んでいたカリフォルニア州パシフィック・パリセーズ(サンタモニカの近く)を目指す。

 広壮な住宅を建てて住んでいたトーマス・マンだが、台所事情は苦しかったらしい。印税5万ドルの手取り分が半分でそれをほとんど住宅の維持に費やしていた。クラウス・Jrは身元引受人のトーマス・マンの銀行口座残高と入金予定まで、入国書類を見て知っていた。
 
 マンは住宅だけでなく身仕舞いにも気を使っていた、ベッドルーム以外では365日ネクタイをしていたとクラウス・Jrは書いている。来客も多かったが、父親に似て生真面目な性格だったのだろう。

 通常マンぐらいの生活を送るなら、午餐や夕食にはワインを飲むのが普通だろう。クラウス・Jrもカーチャ夫人に頼まれて、ワインを買ってくることがあった。気を使って「いくらのワインにするか」をきくと1ドル強のワインをといわれたらしい。カーチャ夫人は、一人で家政を受け持ち、買い出しもしたらしいが、クラウス・Jrに運転を教え、アッシー君をやらせたらしい。マンはもちろん運転などしない。運転手がいるのが当然という考えなのだろう。

 マンは、時計のような規則正しい生活を送っていた。これは有名な話だが、改めて、若者の目から見た記述を見ると、可笑しい。

 朝は8時に起きる。ずれても2・3分のちがい。

 9時まで時間をかけて身仕舞いをする。

 9時に朝食。トースト、シリアル、卵、ジャム、バター、紅茶またはコーヒーそしてオレンジジュース。ロサンゼルス・タイムス紙を同時に読む。

 9時40分。じゃ、仕事するよと書斎に向かう。書斎にはこの間誰も入らない。(ということはその前にメイドが掃除はしておくのだろう。)

 11時15分。イタリアン・ベルモットに卵黄を混ぜた飲み物を、クラウス・Jrがそっと書斎に届ける。マンは書斎机ではなく、ソファの端に座り、書物用の板(60センチくらい)を膝に載せ、黄色のリーガルパッドにモンブラン万年筆で、しきりに書きものをしている。
 語句の手直し以外、ほとんど書き直しをしなかったマンだが、そのかわり極端な遅筆。一日(といっても午前中半日だが)に1ページしか書かない。

 1時半、散歩に行く。余計な会話はしたくないと、犬を連れて、徒歩で歩きに行く。たいていは夫人が車で追いかけ、歩き疲れたマンを連れ帰ってくる。

 2時15分。午餐を告げるゴングが鳴らされる。来客があればワインが出るが、それ以外は簡素な食事。午餐のあとは神聖な煙草の時間である。

 このあと、書斎で読書と全世界から届く手紙の処理。マンは筆まめだった。
 
 5時にお茶。人に(依頼されて)会うのはこの時間。

 7時45分。ディナーの時間。家族・親族間で猛烈な勢いで議論をしながらの食事である。

 ディナーのあとは音楽の時間。Hi-Fiセットを手に入れたばかりのマンは、ゆっくりと音楽を楽しむ。「小説家でなかったら、私は作曲家になっていただろう。セザール・フランクみたいな!」とクラウス・Jrに語ったことがあるらしい。

 もちろん、外出することもあった。

 このあと、チャップリンに招かれて、ディズニーのスタジオ(借り切り)で、多くのスターと「Monsieur Verdoux」(「殺人狂時代」)の試写を見たという記述が続く。(115ページ)

 なかなか、赤狩りの記述にたどり着かないが、もう少し頑張ってみます。それにしても、『トーマス・マン日記』安く手に入らないかな? もちろん古本で。

2017年1月20日金曜日

ルカーチ『ロマンの魔術師』でトーマス・マンはいつまでも一人前と認められない?



 午前中に歯医者に行ってきた。右下奥から二番目の大臼歯の金属冠が取れたので治してもらいに行っているが、そこ以外の歯をあれこれ治すので、なかなか終わらない。毎度のことだが。

 ルカーチの論文集『ロマンの魔術師』。4番目の論文は「遊戯的なものとその背景」。これは以前読んだことがある。「詐欺師フェーリクス・クルル」の詐欺師としてのふるまいと、芸術家(トーマス・マン)の振る舞いは。現実生活に対する遊戯性ということで、似ているという論旨だった。今回読み直してみて、他に心に残ったところ。

 210ページ。
「彼(クルル)ののぞむものは、勝利と勝利の快感なのであって、金と社会的地位は、自分の能力をそれにふさわしい状況のもとで発展させるための、当然の(もちろん、たぶらかしで手にいれるのであるが)前提なのである。この条件をつくりだすために、クルルは詐欺術を必要とするのである。」
 これが、小説家と一緒ではないかとルカーチは言っている。もちろんトーマス・マン自身もいろいろな著作で同様なことを述べている。

 213ページ。 
(貴族を詐称する)「クルルは、原型よりも、ずっと(本物)なのである。」
 清水ミチコやコロッケの真似する様子は、真似されているスターよりも、スターらしい。すると、トーマス・マンは、米国や欧州で民主主義者の真似をしているが、実は社会主義国にいる者よりも、民主主義者らしいのかもしれない。もちろん、ルカーチは紳士なので、こんなことは言っていない。

 この論文はトーマス・マン80歳の記念の論文だ。トーマス・マンはもうあきらめて「詐欺師フェーリクス・クルル」を未完のまま。出版する。リスボンから南米に向かって旅立ったクルルの化けの皮はまだはがれない。トーマス・マンもこの後すぐ黄泉の国に旅立つ。小説家の化けの皮もやはりはがれなかった。ルカーチはこの論文においてすら、もっとトーマス・マンに書かせたかったようだ。私もそう思うが、仕方ない。

 トーマス・マンの晩年の日記をみると、歯医者に通うという記述が多く見られる。お坊ちゃま育ちで歯性は悪かったのだろう。ブデンブローク家の当主も歯医者で無理に抜歯をしようとして心臓発作で亡くなった。気をつけなくてはならない。

2017年1月19日木曜日

冬休みの宿題 読書感想文『ロマンの魔術師』(その2) 付録『戯作三昧』つき

 ルカーチの『ロマンの魔術師』を読み続ける。2番めの「太閤殿下」は読み飛ばす。1と論旨は同じかと。

 3番目の論文は「現代芸術の悲劇」で80ページ近い。長い。

78ページ。「トーマス・マンの発展のおよその足どりは、ゲーテのそれと興味ある並行性と、同時に対照性を見せている。」

 ゲーテはフランス革命を経験した、そしてマンはもちろんナチズムと連合国との抗争をそして共産主義の台頭も体験した。ルカーチはゲーテがその経験を活かして成長したのに対し、マンは体験を活かしきれず中途半端な状態を続けざるを得なかったと言っている。


 90ページ。「ヨゼフの教育とは、まさにこういう態度の克服なのである。」
 こういう態度とは、ドイツ国民にもある独善性のことと思う。そしてそれを「教育」するのは、ヨゼフに対してはエジプトなのだが、エジプト自体がその当時、健全な状態ではなく、「教育」は不十分に終わる。

 これは、亡命してきたマンに対する、米国の状態に通じるような気がした。ナチズムを倒し、日本を倒しても、共産主義の「脅威」をも倒すまでは、米国人は「教育」ができない。

 共産全体主義のソビエトを倒しても、他の共産主義国は残っているし、新たにISの「テロ集団」も倒さなければならない。米国はいつまでも、亡命民そして自国民の「教育」に苦慮する。が、これはあとの話だ。

 ともかく、論文執筆当時のルカーチにとってはトーマス・マンの態度は歯がゆいが、本人の状況を考えると同情の余地が十分ある、と考えたのではないか。
 このあと、4番目の論文は未完の小説「詐欺師フェーリクス・クルル」に関するものだが、ここでなんらかの思想的発展を、ルカーチが認めてくれるかが、興味深い。

(i読書を使用中のスクリーンショットです)


 ここまで読んで夜中になった。花粉症のかかりはじめで、体にアレルギー性の発疹がでていて、かゆい。眠れないので、導眠剤として、青空文庫を利用する。iOSのアプリで「青空文庫 i読書」というのがある。これで、「日替わりランダム100」という機能(上記のスクリーンショットご参考)を使って、なにか読むというのが今のお気に入り。

 今回は芥川の「戯作三昧」を推薦してきたので、読んでみた。滝沢馬琴が南総里見八犬伝を書いているときの挿話で、非常に面白いし、創作の醍醐味も伝わってくる。創作の苦しさもだが。
 八犬伝も読みたくなるが、我慢しないとここにもドロ沼が口を開けている。くわばらくわばら。

 よく寝られたので、今朝は花粉症の具合はかなり良い\(^o^)/

2017年1月18日水曜日

ルカーチ『ロマンの魔術師』の読書感想文(その1)



 冬休みの読書感想文です。今年はルカーチさんの『ロマンの魔術師』にします。トーマス・マンに関する論文集だそうです。(片岡啓治訳、1971年、立風書房)

 序文でルカーチは2つの論文と言っているが、出版時に2冊にまとめたことがあるのでそう言っているだけ。実際には5つの論文が掲載されている。序文と訳者解説をひっくり返しているうちにわかった。ややこしいことだ。まず第1番目の論文「市民を求めて」に関してです。

 トーマス・マンの70歳誕生日(1945年!)を記念してこれは書かれた。トーマス・マンはかならずしもルカーチが好きとは言えなかったようだが、認めては居たらしい。(序文による)

 12ページに(トーマス・マンは)「ドイツ市民階級のなかでも最良の、しかも目の前にみることのできる象徴である」と書いてあります。象徴という意味深長なことを書いていますが、トーマス・マンの貴族性を軽く揶揄しながらも、市民としてふるまおうとする態度や行動(特に亡命中の)を評価していると思われます。

 54ページ以降。「フランス人は、ブルジョワに対比してシトワイヤンといい、ロシア人はグラジダニンというのに、ドイツ語にはそれにあたる言葉がない。」とあります。
 日本語ではどうか? 「市民」という言葉には深い意味付がまだされていないような気がします。自発的な「革命」を経験していないせいか?
 
 60ページ。「彼は現在でもまだ市民を求めている。...自分の魂のなかに。」 つまり絶えざる追求が必要だし、トーマス・マンならそうするだろうと注文を付けている。
 トーマス・マンはその15年後、85歳でスイスで亡くなるのだが、その時点でのルカーチの評価も調べてみたいと思います。

 特に1946年の赤狩りに時代をトーマス・マンはどうくぐり抜けたのか、結局米国の生活を続けられなかったのはなぜか、またこの苦しい時代を通じて書き続けられたのは何故かなどがなどがテーマとなりそう。

2017年1月17日火曜日

ウディ・アレンの「自伝映画」を観て考えたり、ルカーチ本を読み始めたり

 昨日の命題
(1)何を目的にウディ・アレンは映画を作っているのか。
(2)ユダヤ人であることとそれはどう関係するか?
(3)ベスト作品を3つ選べ。出演俳優と、作品評価の関係は?

の一応の答え。

(1)映画によって違う。(あたりまえ!) 一部の映画監督は一貫したテーマを追求するだろうが、ウディ・アレンはそうではない。映画ごとに異なるテーマを述べている。

(2)直接はない。しかし、様々なテーマのもとに作られた映画の底流にながれる哀愁感や感傷性に彼の出自が影響していることはもちろんだ。たとえば、トランプ支持者ならウディ・アレンの映画は見ようともしないだろう。また、テロの横行する世界を悲しんでいることは間違いない。

(3)マンハッタン、ミッドナイト・イン・パリ、映画と恋とウディ・アレン。
ただし、このベストスリーは今後多くの作品を観ていけば変わること間違い無し。出演女優と良好な関係を保つことが作品評価に大きく変わる(^_-)

 なにしろ作品が多すぎて、なかなか観きれない。なんとか頑張ります。

 アシモフ自伝にウディー・アレンのことが書いてある(『アシモフ自伝2(下)』 早川書房、1985年 261ページ)。1972年の12月にアレンから連絡があり、翌年封切りの映画『スリーパー』の監修をしてくれと頼まれたが、会って意見をいうだけでお茶を濁したそうだ。
 なお、アレンは、アシモフ高校(卒業校がこのように改名!)の後輩だった。
 この節のソースはこちらですm(_ _)m

 昨夕、この本が届いた。



 3つエッセイが収められている。フェーリクス・クルルの分はトーマス・マン全集別巻で読んだので残り2つ。ルカーチがトーマス・マンの「俗物性」をどう弁護するのか気になります。

 ますます忙しくなるが、忙しさを克服する方法をかんがえないといけないな。

2017年1月16日月曜日

ウディ・アレンの勉強を始めたり、プラモデル作りを再開するか悩んだり



 まず、Wikipedeaを見て、ウディ・アレンの概要を頭に入れる。(大きくて入らないが…。)1935年12月1日生まれ、81歳。ほほう。身長160センチと書いてあるのが泣かせる。誰かと一緒だ\(^o^)/

 映画の世界へのデビューは、1960年台後半。有名になりだしたのは1970年頃からだろう。さっき、植草先生の本の目次を数冊調べたが、ウディ・アレンは出てこない。すると必然的に私の守備範囲ではなかったことになる。ただし、植草先生は1970年台にニューヨークに行っているから、当然映画は見ているだろうと思う。今度、日記を調べてみなければ。

 つぎに、代表作と仮定した作品(映画)を一本改めて観る。今回はこれを先にやってしまったが、『マンハッタン』。Amazon Primeビデオ。ありがとう。とにかく、しびれた\(^o^)/

 伝記を読んでおきたいが、適切な本が見つからない。
 発想を変えて、(これは大事と昨夜の大人気大河ドラマで教わった(^_-))、彼に関する映像ドキュメンタリーを捜した。普通はYoutubeでやる。いくつかはあるが、物足りない。

 すると、Primeビデオで、ピッタリの作品が見つかった。スバラシイ。やはりウディ・アレン先生、自伝を映画で取っておいたわけですね。『映画と恋とウディ・アレン』(原題はWOODY ALLEN: A DOCUMENTARY)。

 この映画を観ながら、主要作品や人物が出るたびに、調べていく。このような映画の活用法は映画館ではやりにくい。デジタル時代に生きるヒトの特権である。淀川長治さんも羨ましがるだろう。

 ウディ・アレンは売れっ子芸人から、抜擢されて映画『何かいいことないか子猫チャン』に出演。ギャグ場面の脚本を書いたが、ほとんどドタバタに変えられてむくれたらしい。1965年のこの映画もYoutubeで捜して観たが、昔の印象通りで面白くない。戦前の映画みたい。

 そこで、自分で監督をやらないと駄目と、『泥棒野郎』(Take the Money and Run)を撮ることにした。もちろん主演もした。この映画も捜してYoutubeで観ている。←イマココ。

 このあとの勉強の予定。『映画と恋とウディ・アレン』を観ながら、関連作品や俳優や事物を調べていく。今回はこれをほとんど映像で行っていく。資料としてはなにか本も欲しいところではあるが。

 漫然と観ていても得るものはないので、知るべきテーマを決めておく。
(1)何を目的にウディ・アレンは映画を作っているのか。
(2)ユダヤ人であることとそれはどう関係するか?
(3)ベスト作品を3つ選べ。出演俳優と、作品評価の関係は?

 さて、どうなりますか。お楽しみ。(お楽しみは自分だけだろう?)

 ところで、Youtubeを事典代わりに使っていると、おまけとして、全く関係ない面白いモノを見つけてしまう。今回は俳優石坂浩二(私に似ているといわれたヒト)の、プラモデル趣味のビデオが見つかり、見入ってしまった。先日買っておいた氷川丸のプラモを作ろうかと思い始めた。泥沼化しそうでこわいので今のところこらえています。石坂浩二さんは死ぬまで楽しめますと太鼓判をおしていた。

2017年1月15日日曜日

ウディ・アレンの「マンハッタン」はいい映画だが...


 残ったAmazonポイントで、LEDスタンドを買った。充電式で便利そう。食堂テーブルで仕事するときと、枕元で読書するとき使います。2,000円で安い。

 今日はあまり仕事はしないで、ウディ・アレンの映画を観ていた。
「マンハッタン」。モノクロームの映像、とくにニューヨークの夜景や街角の風景が美しいが、室内の場面なども計算しつくされており、息を呑む。

 ウディ・アレンは最近もパリやローマの美しさを讃える映画を作っている。どうも20世紀の墓碑銘を描いているとしか思えない(T_T)
 ヘミングウェイの孫が出ている。ちょっと大根。まわりがうますぎるのでしょう。

 大相撲を見る。稀勢の里がなんとか土俵際逆転で八戦全勝。ほっとして、このブログを書いていたら、白鵬が荒鷲に敗れる番狂わせ。面白くなってきた。明日からも茨城県出身の稀勢の里を応援しなければなりません。

2017年1月14日土曜日

『獄中記』はおしまいにして、掃除機買いました

 『獄中記』(佐藤優)、はやっと読み終えました。600ページ弱だけれど、獄中の手記のごく一部を書き直したらしいです。勉強家なのは認めるが、こんな人が一緒の部屋に居たらいやだろうなあ。彼は幸い独房だった。当局のいろいろな配慮があったのでしょう。

 479ページに、鈴木宗男が外務政務次官のときリトアニアの高官と会談し、杉原千畝の名誉回復に尽力したとある。これも調べたい。
 日露の領土問題の議論はデリケートすぎて、理解できない。詳細に解説してある(と言っている)のですが。
 この本は「国策捜査」の対象者の、ハウツー本の役割も果たしているらしい。呵々。

 ルカーチについて勉強しようと、どんな資料(まず本)が手に入れられるかを、調べた。まだ、著作権は切れていないので、無料で読めるものは少ない。日本語では皆無。以前から持っている、トーマス・マン全集の別巻のルカーチの評論を読むしか無い。もっと捜したら、古本で『ロマンの魔術師―トーマス・マン論』がみつかり、600円なので、購入手続きをしておいた。Amazonのポイントが使えたので、無料\(^o^)/

 文学評論だけでは物足りないので、英語版をあたる。いくつかの著作を読めるサイトが見つかった。ここです。「Georg Lukács Archive」

 まだ、気分が晴れないので、服部之総さんの「船物」を青空文庫で読む。楽しくなってきました。これを機会にまた、天文学者リービットさんの休暇時の謎の船旅の詮索を再開しようかとも思います。

 ところで、Amazonのポイントは、某有名カード会社(頭文字U)でたまったポイントを、交換したもの。もともとのカード会社も、ポイントを商品と引き換えてくれるのだが、商品の品ぞろえの貧弱さとレートがまるで悪いので貯めておいたのを、最近制度を知って交換。
 レートで言うと6倍くらい。U社のはひどいサービスだ。



 おかげさまで、この掃除機(紙パック式、ヘッドはモーター自走)が手に入った。今までのものよりすごく軽くて助かります。毎日使うものなので、使いやすいのが一番\(^o^)/

 これから掃除始めます!

2017年1月13日金曜日

『獄中記』による勉強が楽しい、まだ読み終えてないが

 
(ベランダで元気なのはシャコバサボテン)

 佐藤優『獄中記』を読み進める。

 9月14日の記述
 「小泉政権の誕生以降、強く感じ、今回、僕自身が当事者になって体験したことだが、日本人(政治エリート、学術エリートの大多数を含め)は、いつの間にか物事の論理や構造や意味をよく理解できない人たちになってしまった。」

 文意には同意する。ただし、「理解できない」理由については、佐藤優氏と私は意見が違う。彼は自分は宗教的人間だといっているとおり、物事の論理や構造を先験的に理解し、信ずるところに従って解決しようとする。絶対に正しいものが何処かにあり、それに従うのが本来あるべきことと考える。もちろん、政略というものの重要性も認めた上で。

 私は。「理解できない」理由は、科学的・技術的訓練の不足だと思っている。そして、初めから正しいものは存在せず、仮説検証の(科学的)プロセスをたどって、いま「より正しい」ものに近づくべきだと思っている。

 9月20日の記述
 「持続的経済成長がハイエク型新自由主義モデルで国民全体が裨益するための大前提であるのだが...この大前提が満たされなければ、今後3年で日本社会内の貧富の差がかつてなく拡大する。」

 持続的経済成長、別の言い方をすると2%の経済成長は、その後10年程度の経過を見ると、全く無理とわかってしまった。事態の打開策として多民族国家への道を佐藤優氏は示しているが、9.11テロ後そしてトランプ以降の世界は、まったくこれに反した動きを示した。

 死んだと『獄中記』に書かれた社会主義を再度作り直すのが道の一つと私は考えている。ただし佐藤氏も言っているような共産全体主義に帰結するようなすでに破綻した社会主義ではなく、英国の初期の社会主義的ななにかが。ここは、これから考えをめぐらしたい。
 
 このあとの記述で佐藤優氏は、カレル・チャペックやルカーチの紹介もしている。

 了解!ということで、今後読む本のなかにチャペックやルカーチを入れたい。
 ルカーチについてはトーマス・マン(のフェーリクス・クルルについて)の論文で、明快な論旨に私はしびれたことがあるが、佐藤氏は文章が難解だと書いている。先程書いた、佐藤氏と私の立場のちがいが原因だろう。

 歯医者に行く時間なので、この続きはまた明日(^_-)

 

2017年1月12日木曜日

出獄が近い、社会の状況にも目を向けていく

 『獄中記』もそろそろ終りに近い。昨日、ブログを書いたあと、獄中で読書や勉強をした事例を考えてみた。

 (1)「花燃ゆ」で紹介された吉田松陰の「野山獄」での読書(『野山獄読書記』)と、同獄の人への「教育」(『講孟余話』)。
 (2)モンテ・クリスト伯で、エドモン・ダンテスが、ファリャ神父から受けた全人的教育。(これは小説だが、それだけに教育内容がスゴイ。)
 (3)大杉栄、彼の『獄中記』(青空文庫にある)によると、「一獄一語」。一回入獄すると(1年位で)一つの外国語をマスターする。
 
 不自由な中で、その不自由さに負けず、自分を鍛える偉人の精神力には参る。自分だったら絶対にできそうもない。

 佐藤優さんの『獄中記』にもどる、さすがに一年をすぎると、体力が衰えてきているようだ。精神力はそれほどでもないが、ひところの覇気はやはり見られない。でも筆は冴える。

 2003年1月1日の記述
 「元旦の配給品 ○紅白まんじゅう ○折り詰め...」
 の他に朝食、昼食、夕食も盛り沢山。配給品にようかんもあるのが、羨ましい。(酒の代わりだろう。他の刑務所などでも元日にようかんをはじめとする甘いものはつきものと聞いた。)

 2月13日の記述
 「(...フロマートカが、ルターの極端な主観主義にまでさかのぼらないとナチズムを解明できないと考えました。ちなみにヒトラーはルターを崇拝していました)」 
 ここは目から鱗。

  7月5日の記述
 「ソ連崩壊後、資本主義に対抗する有力なシステムはなくなった...資本主義と社会主義は対抗イデオロギーとして議論がかみ合っていたが...」
 なるほど、日本でも同じことは起きていますな。

 8月8日の記述
 「『はじめての唯識』は実によくできた入門書だ。」
 この前後を読んでいると、フロイトやユングやカントなどますたーしたくなってしまう。「唯識論」はちょっと歯がたたないかも。

 などなど。
 巻末に獄中で読んだ書籍の一覧があるが、それを見るまでもなく、(見ると大変なことになりそうだが)勉強のヒントがたくさん発見できた。



 ところで、これも紹介があったが、『監獄の誕生』(フーコー)という本があり、どこかで見たなと思いちょっと捜したら、玄関のそばの廊下の本棚にあった。これも息子の蔵書。後世おそるべしとはこのことだ。ありがたく、借りてよむことにします\(^o^)/
 

2017年1月11日水曜日

『獄中記』を読み続ける、「乱読」も再開

 隠居して、体力も衰えて世間との付き合いが少ない、今の状態は、インターネットを除くと、拘置所の中の佐藤優氏に近いと思いつつ『獄中記』を読みふける。

 彼の行動には全面的に賛成ではないが、囚人としての勉強ぶりには、教えられることが多い。

 2002年10月4日の記述。
「書くことにより、世界が確実に広がります。」

 2002年10月13日の記述。
「永山則夫氏が、ノート、書籍と向かい合い、知的空間を作り上げていった過程が拘置所生活をしているとよくわかります。外界から遮断された状況に置かれると人間の知的営為が深みをます...」

 これを読んで、義父の蔵書に『無知の涙』(永山則夫、1973年、角川文庫)があったのを思い出し、発掘してきた。年末に一部だが棚卸ししておいてよかった(^o^)



 10月16日の記述。
「(速読は難しくはない)ただし、対象についての知識のない本については不可能です。...まずは背景となる知識(「教養」)がどの程度あるかが問題になります。この「教養」をつけるという作業が本当にたいへんです。だから今回は拘置所において「教養」の幅を広げることを目論んでいるのです。」

 金にならないと、教養課程をなくしたがっている大学関係者は耳が痛いだろうと思う。そして、大学だけでなく、小中高教育の関係者も。(ひょっとすると企業内の教育担当者も?)

 このあとの鈴木宗男に関する話題を読むと、彼に関することも調べたくなる。もちろん北方領土問題もソ連の崩壊についてもしらべなくてはならない。

 疲れたので、青空文庫のなかからランダムに100作品を選んでくれるスマフォアプリで、『汽船が太平洋を横断するまで』(服部 之総 著)を読む。面白い。マルクスが汽船による貿易の予測をして、当たっている。

 
 今朝の朝日新聞の一面トップは、天皇退位に伴う元号変更に関するニュース。政府からの意図的リークをそのまま載せているのだろうと推測。

 元号は必要な人がかってに付けていただいて結構。ただし、われわれ(役所も含めた実務に邁進したい機関)は、もう無意味で使いにくい元号使用を、こちらもかってにやめる方向にしたい。

2017年1月10日火曜日

乱読は、わかっちゃいるけどやめられない

本題とは関係なしだが、重機の動くのは面白い(^o^)

 『獄中記』(佐藤優さん)を読んで、いきあたりばったりの読書を反省し、自分のやるべきことに専心することの魅力も改めて知った。

 しかし、ちょうど(うまく?)体調を崩して、一日半ほど寝ていたので、その間体系的なコトはできない。一冊の本を読み続けることはもちろん、電子図書でさえいくつかを拾い読みする程度。

 やはり、没後五〇年たった、深瀬基寛先生(英文学)の『悦しき知識』という定年講義を読む。(青空文庫、ありがとうございますm(_ _)m)

 当然、そこで紹介されている英語の詩の評論などを読みたくなったが、そもそも詩をあまり読まないのに、評論を読むのは不遜だと思い、やめる。ディラン・トーマスは英国生まれだとも初めて知った。けれどたしかどこかにあった詩集を捜すのも、止めておく。

 インターネットに転がっている、無料の朗読をいくつか聴いてみる。俳優の近石さんが『猫」の10章を朗読したものが、NHKのストーリーミングであった。面白かった。漱石は弟子に優しくした分、家族には辛く当たったというが本当かしら。

 朗読というジャンルのコンテンツは、英語圏にくらべ日本には少ない気がする。Youtubeには名作と呼ばれるものなら英語の作品は多数あるが、日本語ではあまりない。有料のコンテンツも調べたが、やはり内容がまだ貧弱だ。将来、目が弱ったときを考えると、ここが心配。まあ、あと数年くらいで事情は好転するだろう。期待し、なにか出来ることがあれば、手伝いたい。

 今朝、ひさしぶりに、といっても2日ぶりだが、机に向かってみて、あらためてなにか(天文学)ひとつに、興味の対象をしぼろうかとも考えたが、他のもろもろの魅力が多すぎるので、当面はこのままにする。凡人はしょうがないなあ。

2017年1月9日月曜日

没後50年の亀井勝一郎と75才誕生日のホーキング博士と

 昨夕からまた体調が悪くなり、好きな大相撲のTV観戦をパス。
 今朝も、朝ドラを観に起きる気力がない。寝床でゴロゴロ。

 体調が悪くなると、
(1)紙の本
(2)電子書籍
(3)朗読された作品
の順で読めなくなっていくのを発見。

 ラジオ(NHK第2)で、文芸番組を聴く。亀井勝一郎さんは今年で没後50年たったらしい。
 青空文庫に作品がアップされはじめた。「馬鈴薯の花」。

 体調により読めなくなるのは、作品の種類や文体にも依りそうだ。これは研究の価値がありそう。
体の弱い人でも読める文章を書くべきだ。
 論文でも同じ事が言えるのだろう。

 今日は、ホーキング博士の誕生日。
余命いくばくもないと医者に宣告されながら、最先端の研究を続け、良い論文とわかりやすい講演を生み出している。

 人間の精神力は素晴らしい!

2017年1月8日日曜日

獄中記はなぜか面白い、ジョブズの新伝記よみたいぜ


 佐藤優さんの『獄中記』(岩波現代文庫、2009年)を読み始めた。900円だが、息子様の蔵書なのでこちらの腹はいたまない。

 ホリエモンの監獄本もそうだが、なぜかこの種の本は興味をそそる。モンテ・クリスト伯も冒頭の監獄の描写が秀逸だし、詐欺師フェーリクス・クルルも手記仕立てだが監獄で書いたことになっている。赤と黒も最後の監獄中のところで盛り上がる。

 ただし、佐藤優さんのはユーモアのセンスと、折角の機会なのでよく勉強しちゃおうという姿勢がスバラシイ。ホリエモンはマンガが多かったけど。

 ユーモアを持って、実は大変な生活を、なんとか生き延びようとするのは、先生の影響らしい。先生は京都大学の和田洋一さん。治安維持法違反(京都人民戦線事件)で1938年に逮捕され、538日間獄中暮らしをしたと、『獄中記』(4ページ)にある。和田さんの著書『灰色のユーモア』にはそこの経緯が書かれているとも。
 これでまた、読む本が増えたのだが、『獄中記』を読んでいくとそれじゃだめと言われている気がした。

 いっときに所持できる本の数は少数に限られる。数冊程度。筆記は紙とボールペンか鉛筆。インターネットはもちろんご法度。このような修道院的環境の中だが、この環境でこそ、深い勉強ができるとのこと。たとえば辞書を全部読んでしまうなど。語学をやり直そうともしている。そして彼の収監のきっかけである北方領土問題の歴史的意味を知るための世界史の勉強も、深く進行していく。

 そういえば、大杉栄も獄中に語学書を差し入れさせていたと聞く。昆虫記も一部は獄中で訳したか?

 素人は、こんな話を見聞きすると、自分も禁固刑で、入獄したいなどと思ってしまう。冗談です。

 ともかく、乱読状態に陥りがちな私には、参考になる話が満載の『獄中記』。楽しんで(もとい、謹んで)読んでみたい。

 インターネットのわるいところ。「『獄中記』読んでる」とTweetした際に、スティーブ・ジョブズの新しい伝記が出ているとのTweetを見つけてしまった。前の伝記を読んで、ジョブズの悪辣さに辟易した、そして映画を観て浅薄さにあきれた(これは脚本が悪いと思うが)、ので今度はもっと同情的らしいこの伝記を読んでみたくなった。

 日本語版はおそろしく高く、普通の人は手を出さないか古本屋さんで安くなるまで待つだろう。でもどうしても読みたいので、英語版を物色。ペーパーバックやKindle版は安い。Kindle版のサンプルをダウンロードしてみたら、なんとか、Kindleの辞書の助けで読めそうだ。ここにKindleの良さがいくつか発見された。

 ともかく英語版を買って読んでみようという意志は、一晩過ぎた今もあるので、大蔵大臣に相談の上購入したい。

 ともかく、じっくり勉強するには時間がたりないなあ。フルタイムで働いているヒトは相当な努力をしていることだろう。(隠居の戯言!とおしかりの声が聞こえた。)

2017年1月7日土曜日

リルケと森有正そして田部井淳子さんとブログ




 朝、食事(サラダ、ハム、トースト、紅茶、りんご)をしながら、NHK-TVを観ていたら、田部井淳子さんが最後に福島県の高校生を、富士登山に連れて行った件のドキュメントをやっていた。3,000メートルを越して自分は登れなくなったが、笑顔を作って高校生たちを励ます。
 自分の心に叶うことなら最後の最後までやり通せるだろう、とTVを観ている人までを励ます人だった。

 そうじをしながら、定年後ずっと使って、一昨年隠居したMacbookを復活させ、クラシック音楽専用機としてセットアップ。仕事中のBGMは、これとやはりお古のiPhone4SのJazz専用機を使い分けることにする。古くて小回りがきかないマシンも、使いようでなんとか役に立つ。(自分もそうかも。)

 ブログの内容はこれでいいのか、考え始めたが、結論はこれでよい。何でも書くべきだと思い始めた。

 しかし、このようなことを狙いたいという希望は、常に更新していきたい。たとえば...

 光文社文庫の『マルテの手記』が、Kindle Unlimitedでまた読めるようになったので、拾い読みする。パリという大都会に上京したリルケの、戸惑いと、芸術への憧憬、幼児の思い出などを、「マルテ」という人物の独白的日記や架空の友人への手紙などという形で、緊密なストーリー性はなしで、覚書風に書き綴る。

 森有正先生の『バビロンの流れのほとりにて』も、同じような形態を取っていることに気づいた。

 彼らの場合、このようなものを書くことが、仕事いや、生きるということだった。

 「都市の空気は自由にする」というドイツのことわざを、高校の世界史の先生にならったが、(お名前が記憶の底に沈んでまだ出てきません。数日これ関係のことを考えているうちに思い出したいもの)、この時代の、特にパリは、本当に仕事をする人間を自由にしたのだと思う。

 ただし、その自由は、森有正先生のおっしゃるように、恐ろしい「孤独」のなかに得られる。しがらみのなかに安住し(それは必ずしも楽しいだけの安住ではない)ているより、寂しくもあり、孤独でもあるなかで「仕事」をしなければならない。

 なお、ここで言っている「仕事」とは、賃金を得るための労働ではない。

 隠居の身で太平楽を並べるなと言われそうだが、ともかく物質的には貧しいなかで、精神的には豪奢に考え、それをブログに書いていかなければならない。

 田部井さんは死の直前まで、エベレストの稜線らしきものを紙に描いていた。

2017年1月6日金曜日

三谷さんと池上さんに妙な親近感、ブログ書きの基本をみる




 朝日新聞木曜夕刊に連載されている三谷幸喜さんのエッセイ「ありふれた生活」は愛読している。たまに読み忘れるけれど、それでも読者に後ろめたさを感じさせないという、ユルさ。名人芸だ。

 1月5日掲載回には、17年間の連載の苦労話が載っている。()私の補足
(1)400字詰めにすると2,600枚(どーだ) 16冊の本になっている(買ってよ! 電子書籍になったら買います−私)
(2)話の重複は、このコラムに関しては編集者がチェック(どーだ)
(3)他の雑誌等の原稿との重複(どーだ)は、狐狸庵先生だってやってるので勘弁して
(4)和田誠さんにずっと挿絵をお願いしてる(どーだどーだ)
(5)和田誠さんの画も字もかきかたが好きで真似している(みーだ)ので今回は自分も描いてみた(どーだ)

 これを読むと、連載エッセイもブログ書きも似たようなものとワカル。(勝手に一緒にするなといわれそう。)

 このブログも現在のペースで10年くらい続けると(その保証はどこにもないが)、1日400字としても、トータル3,650枚となる。堂々たる長編になる。

 話の重複は大いにあるが編集者が居ないのでチェックできない。ブログの検索機能(右上にあります)で自己チェックするしかない。年寄りのことなので同じ話が出てくるのは勘弁して欲しい。

 遠藤周作先生も、「沈黙」みたいな力作では推敲に力をいれたろうが、狐狸庵名義のエッセイはそんなことはしないで、書き飛ばしたのだろう。

 唯一羨ましいのは、挿絵の件。やむをえずブログでは写真を使うのだが、上手なポンチ絵ならいうことはない。これは、頑張ってマンガを習って自分で描くしか無い。今年はこれを目標の一つにしました。
 
 今朝の「あさイチ」で、(こう書くと「おじん」と言われるのを最近発見。若い人はあさイチなんか見ていない。仕事している。)池上彰さんが出てきて、ニュース解説に模型(システム屋さんのいう「モデル」ですね)を使うときの苦労を述べていた。どうしてもアイディアがでないと風呂に入っちゃうというところが、自分としては受けた。

 こういう模型(図解)で、話題の本質を切り取るのは、良い修行になったということだったが、全面的に賛成だった。

 そこで私もマンガの修行をして、ブログに添えたい。以上、希望を述べましたm(_ _)m 



 なお、ブログの内容に関しては、最近リルケの著作を参考にできることに気づいた。もちょっと勉強して報告いたします。

2017年1月5日木曜日

散歩先生でなくて、漆山終吉先生(ミスターウー)がなつかしい

 胃が少し悪くなったので、軽い娯楽ということで「続・男はつらいよ」をiPhone6Pで観た。シリーズの第2作目で、最高峰ともいわれている。佐藤オリエ演じるマドンナが寅さんと息ピッタリ。スバラシイ三条大橋のラストシーン!

 商業高校時代の恩師で(坪内)散歩先生がでてくる。東野英治郎がこれまたスバラシイ演技をする。その散歩先生はもう隠居して、子供向けの英語塾をやっている。その娘が坪内夏子(佐藤オリエ)。寅さんは英語でなくて人生の師として、散歩先生を慕っている。


 夜、布団を敷きながら、何の気なしに押し入れの横の書棚をみたら、文庫本の一冊が目に止まった。『笹舟日記』。同郷の先輩、三浦哲郎さんのエッセイ集だ(新潮文庫、1975年)。

(呼び水効果で見つけた本。手前は八高の綱領)

 日記には目がないので、久しぶりに読み返そうと、枕元でぱらぱらページを繰ってみた。158ページに三浦哲郎が旧制中学(八戸)時代に「漆山さんというユニークな先生に恵まれて、一年生の時から英語に興味を持つようになった。」とある。頭でっかちで、スケート(多分長根リンク?)をしたら転んで脳震盪を起こしたが、教室では歌うようななめらかな発音とウィットに富んだ講義で、生徒たちを魅了した、とも書いている。

 散歩先生→引退した英語塾の先生→漆山先生という連想が無意識ではたらいて、この本を手に取らせたらしい。『笹舟日記』に漆山先生のことが書いて有ることは、読んだとき(1975年)には意識したが、その後40年近く忘れていた。これを思い出させてくれたのが「続・男はつらいよ」を観た感動だろう。

 過去の記憶を蘇らせる「呼び水」効果について、最近考えているが、「呼び水」には、感動という「エッセンス」が含まれている必要がありそうだ。脳のベータ波だけでなく、感動で出たアルファ波が混ざると複雑な振動が起きて、深層から、記憶が浮かび上がる。

 「漆山先生」は、その後新制の八戸高校の校長を経たあと、散歩先生のように、子供向けの英語塾を開いていた。私の教えていただいたのは、その時代になってからだ。フルネームは「漆山終吉」。珍しいので記憶している。

 昨夜ここまで思い出し、なつかしい幾つかのことをTweetしてみた。少し加筆修正したが、ほぼ以下の通り。

 (1)漆山先生の塾の名前は、たしか「アルビオン英学校」。事務担当の方は中島さん(こっちは自信なし)。当時全員が使っていたのは研究社の英和中辞典。引いた単語と語釈に赤鉛筆で線を引く。ほとんどの頁が赤くなった。50年以上経過して少しだけ英語がわかるような気がするが、漆山先生のおかげだ。

(2)漆山先生は私の習った時は相当ご高齢で、英語塾をやっておられた。細い文法は教えず、英文を何度も音読させるやり方。時々は英語の唄を先生も含め全員一緒に大声で歌う。授業の最後にいつも、長い英文を訳してわら半紙に書かせる。それには次回までに大雑把な赤入れをしてくれる。たまに誉められると嬉しかった。われわれはミスターウーと呼んでいた。

(3)塾が終わると、小学生だった我々には、ドロップスをご褒美にくれた。暗い坂道を漕いで登る先生の自転車を後ろから、交替で押して帰った。塾のまわりの田んぼのカエルの声が、あたりをつつむ。何の悩みもない幸せな時代だった。

 「漆山終吉」でGoogleをひく。昭和9年頃の台灣総督府の資料がヒットし、教諭のなかに「漆山終吉」の名前が見える。先生から聞いたことはないが、年齢的にはありうる。他には何もヒットしない。先日発掘した、八中八高記念誌「大杉平の青春」を調べることにしよう。

2017年1月4日水曜日

体調不良でもブログは書きたい



 
 年末年始の疲れで(要するに暴飲暴食のつけ)、今日は休んでいるが、こんな時はよく知った人の、かつわかり易い文章の作品を読むにかぎる。それがこれ
寺田寅彦の「野球時代」(青空文庫)

 (こんなTweetを書いたが、ブログ書きは休みたくない。普段は机上のMBPで仕事するが、寝床でiPadで書いてみます。)
 
 体調が良くない場合、複雑な事は億劫なので考えられなくなる。したがって読み物は、上記のTweetのように勝手しったる作家の、しかも読んだことのある文章が適当のようだ。

 想像したくないが、自分がボケた場合、このような状態になるのは間違いないだろう。今のうちに、親しい作家や事柄を増やしておかないといけない。ひょっとすると、もう遅いのかも知れないという危惧はあるが、そうは考えないことにしている。

 物を書くことや、(もっと大変な)人にまとまった考えを述べて納得させる(例えば研修)ことは、より多くの体力を要する。
 なので、鼻カゼ程度でもばかにはできない。人に話が通じないと思ったら、自分の体調を疑って見るべきである。

 ブログを書くには、文章を綴るだけでなく、PCやタブレットを、使いこなす能力が要る。写真を撮って文面中に貼り付けたり、ある話題に関するWebページを思い出して表示し、そのアドレスを貼り付けたり等々。

 ともかくおとなしく体力回復を待つべきだが、できる範囲で最善をつくしたい。

 昨日は昼にギョーザとハイボール、夜は手製のキムチ鍋を我ながら旨いと言いつつビールと共に食べた。あきらかに食べすぎ(T_T)
 七草まではおとなしくお粥を食べます。

2017年1月3日火曜日

くやしきは、飲めぬ車の、初詣

 人並に、初詣に、車ででかけた。あさイチでいけばいいのだが、身支度もありそうもいかない。たいていは昼過ぎか夕方になる。その時間までは、三が日なのに、酒が飲めないのが悔しい。

 なんとか近場の神社二箇所のお参りをすませた。ついでにお守りも頂いてきた。家庭用の開運お守りと子供の縁結び守り(^_-)




 三が日くらいは、ブログも酔っ払って書きたいものだ。

 それはいいが、年賀状を少しだがいただく。お返事をしなければいけない。用意が悪いし、年が明けないと「おめでとうございます」と書けない偏屈な性格。初詣が2日。今日は3日なので、そろそろ年賀状に向けて腰を上げたい。

 初詣がないので、今朝は少し日本酒をいただきました。(*^^*)酔をさまして、これから図案を考えるところから作業します。Bye.

2017年1月2日月曜日

私のJazz聴き創世記、そしてお古のiPhone4sをJazzを聴くための専用機にした

 お年玉にもらったお古のiPhone6P(au版)は、格安SIMを差すのがムツカシイ。イニシャライズのあとのアクティベーションがSIMなしだと出来ない(泣)かわいそうだと思ったらしく、息子殿が相当古いSIMフリーのiPhone4sをくれた。(いくつiPhoneを持ってるのだ??)

 iPhone4sは香港で買ったらしい。iOS9.3.5にアップデートして、音楽を聴くだけに使うことにした。今年研究予定のJazzだけを聴いてみよう。クラシック専用機とか歌謡曲専用機とか別々にあると格好いいかも。

 Jazz音楽には1970年前後に「文学的」な入りかたをしている。楽器がひけないし、そもそも音符が読めない。
 学生時代に読んだ植草甚一先生の文章が、好きになるきっかけ。

 仙台市にいた頃だ。
 K町のMalというJazz喫茶に通い、レコードのライナーノーツを読み、雑誌を読み、タバコを吸い、コーラを飲む。こんな事を続けていた。Malとはもちろん当時はやったMal Waldronのことだ。
 勿論、学校の講義には顔を出さない。学食には行っていた。安いから(^^)
 三島由紀夫の事件も、学食で友人から聞いた。

 植草甚一先生のJazzの好みは、少し変わっていると気づいた。要するに前衛的すぎる。私は「新しい」Jazzは、ウェザーリポートくらいまでしか、受け付けなかった。
 クリフォード・ブラウン!が好きと思っていた。今考えると.困ったものである。命日(6月26日)にはMalでクリフォード・ブラウンのレコードをかけてもらって聴いた。



 今朝未明に奇跡的な発掘盤だとかいうやつを夜中にJazz専用機で聴いた。ビル・エヴァンスの「Some Other Time: The Lost Session from the Black Forest」

2017年1月1日日曜日

あけましておめでとうございます 今年の本ブログの行末を占ってみました

  良い天気の元日でした。
  今年は、いつもの宅食配達さんに、老人用のおせちも注文してみました。


 これです。意外といける。
 注文は秋に行うのですが、そのころは胃を壊していたので、これにしてみました。その後治ったので、弱ったなと思っていたのですが、先週右下の大臼歯が一本だめになり、固いものは控えようとしていた矢先なので、大助かりです。

 将来は、このようなおせちが流行りそうな予感。

 おせちと酒を楽しみながら、今年の計画を立てました。このブログも連続して書く予定にし、夕方、時間が出来たので、最近興味をもちだした、易占いをして見ることにしました。



 占いで出たのは「天水訟」。黄先生の著書を参考に、自分で考えた結果は次の通り。
 「現在運気はおとろえている。無理(自我自説を無理やり通す)は禁物。人と協調しながら、しかも独立独歩やっていくべし。」

 うん、なかなか当たっていそうです(^^)

 他の計画は
・クラシック音楽はかなり聴き込んだので、Jazzを再び追求する。
・トーマス・マン日記の続刊を手に入れて読みたい。高価なので一年では無理だが、少しづつ。
・民主戦線につき調べる。
・マンガを描いて自説を説明できるようにする。
などです。

 どうなりますか。楽しみです。

 ともかく、今年もよろしくお願いします。