2011年6月24日金曜日

小塩節先生の「トーマス・マンとドイツの時代」を読んで



190ページを読んではっとしました。
「トーマス・マン文庫」(ここも行ってみたいところだが、私のドイツ語能力では...)にいれてもらい、過去のメモを調べていたら、1900年代のはじめの4-50センチの大きな束があり、付箋の一つに「銀河系宇宙」と書いてあったそうです。
どんな記事やメモがファイリングされていたのかは記述がありませんでしたが、これはぜひ見てみたいです。
後に書かれた「フェーリクス・クルル」の後半部に、この資料で得られた知識が使われたのでしょう。もっとも1900年代前半には「銀河系宇宙」に関する人類の知識は大幅に拡大されたので、この資料だけでなく、常にトーマス・マンはこの分野の新しい発見の記述を追い求めたのだろうと思います。苦しい亡命生活のなかでも。
何事かを成し遂げる人は、どんな悪い環境下でも、知的生活を続けるのでしょうね。それがまた心の支えともなるのでしょう。

2011年6月22日水曜日

H.Shapley Leavittをめぐる人たち(5)

Harlow Shapley 1885年生ー1972年没。1919年にE.C.Pickeringが亡くなって数年後にHarvard天文台長になる。そのときにはもうLeavittさんも亡くなっているわけだが。
それまでの通説の天の川銀河の大きさを飛躍的にひろげた。広げすぎて、今では他の銀河とされているアンドロメダ銀河他を天の川銀河の中のものと考えてしまったが。太陽系は銀河の中心でなく端の方にあるとしたのも彼である。この銀河のサイズの推定や太陽系の位置の推定に、Leavittさんの変光星の変光周期・光度関係が大いに役立つ。
E.C.Pickeringに手紙を出してLeavittさんの変光星研究の推進を依頼し、なかなか進まないのはE.C.Pickeringが余計な仕事をさせてるからだろうと書いて、不興を買っている。
若いので、血気盛んというか新人類というか。
ミズーリ大学の学生の時、ジャーナリストを目指したが、まだ講座ができておらず、*とりあえず*選んだのが天文学、それにはまったわけだ。このあたりはハッブルに似ていなくもない。
アリの研究も好きだったらしく、アリの歩くスピードでその時の気温がわかったという。面白い人物である。

2011年6月20日月曜日

トーマス・マンとジーンズ卿の宇宙論

書簡集(新潮社版全集12巻)をめくっていたら、538ページにトーマス・マンは「ジーンズの本は以前夢中になって読んだことがあります。」と書いている。1952年にカリフォルニアからスイスの知人に書いた手紙の一節である。年代から見てこれはJ.ジーンズ卿の宇宙論の通俗本であろう。もちろんトーマス・マンのことだから本気になったら論文まで読んだだろうが。
1929年のリタイア以降ジーンズはいくつかの一般向けの紹介本を書いている。この材料をもとにして「フェーリクス・クルル」の食堂車のなかのK教授のお話を書いたのだろう。当時F.ホイルとともにジーンズも定常宇宙論を支持していたと思うがもちろんこれは「フェーリクス・クルル」にははっきりとは反映されていない。

2011年6月12日日曜日

地球・火星・金星の気象モデルの講義を聞いて思うこと

今朝の放送大学講義は、地球の気象環境モデルに関して。大きなファクターは太陽からのエネルギー放射(の受け取り)と地球からの惑星放射のバランス、そして大気の温室効果と大気中の気流や海洋中の海流の対流効果。明快なお話だった。
もちろんこれは現在分かっていること(データが取れていること)をまとめて、ストーリーとして描かれた科学的なモデルである。理論の科学性は単にそれが誰かの主観で正しいか判断できることではなく、その反証可能性による。異なるデータが出てくればモデルは(つまり理論は)造り直さねばならない。
火星については地球に比べて、データが少ないのでまだまだモデルは地球のそれに比べ不完全である。新しい宇宙船が火星に到達するたびにモデルは大幅に書きなおされる。金星に関してはモデルの相対的不完全さがもっと大きく実はほとんど判っていないとも言える。
われわれがビジネスおよびビジネスシステムに関して作るモデルに関しても同じようなことが言えそうだ。人によってはどこかに正解があって、それを直感で理解し書き下ろそうと考える、これが失敗のもとなのではないか。
せめて火星レベルぐらいまでデータを集める努力をして、モデルを慎重に組み立てる必要がある。金星レベルのデータ理解のもとに無理やりモデルを作ってしまうケースが多そうだ。この場合、地球モデルを下敷きにしてしまうのが世の常だろうが、多分使い物にならない。地球と金星はまったく条件が異なるし、地球モデルがいかに組み立てられているかを理解していないからである。
ところで講義された今村先生ってすごい秀才タイプの風貌でした。(勝手なこと言ってすみません。)

2011年6月9日木曜日

W.Fleming Leavittをめぐる人たち(4)

Williamina Paton Fleming 1857生-1911没 初めてE.C.Pickeringの「人間コンピュータ」として雇われた。1881年には正式雇用。もともとはE.C.Pickeringの家の女中さんでスコットランドからの移民。ご亭主に捨てられてE.C.Pickeringに雇ってもらったのを感謝して彼の名前を息子につけたとか。
給料が安いと文句を言いながらも、持ち前の才能と気力を活かして、H.Draperカタログ作成の基礎を作る。A.J.Cannonは彼女の後輩。
給料の話は別として「人間コンピュータ」達は仕事には愛着をもっていたらしい。E.C.Pickeringのマネジメントもうまかったのだろう。

2011年6月3日金曜日

S.Bailey Leavittをめぐる人たち(3)

S.Bailey 1854生-1931没 先輩であり、Pickeringの後、短期間天文台長を務めShapleyに後を譲る。44年間Harvard 天文台に勤務。Pickeringの仕事を助ける。アレキパ(ペルー)の天文台にもたびたび赴任し南天の星の写真を多数撮影した。(A.J.Cannonの追悼文による。)
Leavittさんとも仕事の上で親しかったし、彼女の亡くなったときには非常に好意的な追悼文を書いている。この文章が彼女の人となりを知るための唯一と言っても良い資料で、多くのWebページで引用されている。
彼の書いた”The History And Work Of Harvard Observatory 1839-1927"は基本的な資料で幸いインターネットで入手できた。他のスタッフと共にLeavittさんの記事も1ページほどある。彼女の業績については非常に控えめな表現しかしていないが、この時点では仕方ないことか?

2011年6月2日木曜日

A.J.Cannon Leavittをめぐる人たち(2)

A.J.Cannon(1863年生-1941年没) 5歳年上の先輩女性。E.C.Pickeringに先に「人間コンピュータ」として雇われた。
OBAFGKMという恒星のスペクトル型の論理的な分類を完成、驚異的な速度で写真乾板上の星々のスペクトル型を読み取ったという。
彼女の父親は造船業者で州議会議員だったらしい。上流家庭の子女。子供の頃、母親に星座の見方を教わったそうだ。やはり大学時代に耳を悪くした。
Wellesley大学卒業後、新規流行のカメラを持参でヨーロッパに旅行し、スペインの写真集も作ったそうだ。
女性初のHenry Draper Medalや1925年にオックスフォード大学から 名誉博士号を貰っている。
Leavittさんももう少し長生きしていれば、こうした栄誉やノーベル賞ももらえただろう。しかし、A.J.Cannonの明るい性格とは違うので有名になっても嬉しくはなかっただろう。好きな研究を続けるには金がいるがそれを研究に影響しない形で入手するのは今も昔も難しい。ちょっとキュリー夫妻のことも脳裏をよぎる。
死の直前のLeavittさんの病床にバラの花束を届る、といった日記も書いているとのこと。

2011年6月1日水曜日

E.C.Pickering Leavittをめぐる人たち(1)

1846年生まれ。1919年没。彼女の上司であり、かつ指導者でもあった。おそらく、Leavittさんの研究生活に最も影響力を持った人物だろう。
Leavittさん側からの視点で調べ始めると、時給30セントで雇って自分のプロジェクトの仕事に彼女をこき使った感が強く、この人のせいで彼女は研究者としての業績が思ったほど上がらなかったし、病気で早死してしまったのではないかと思い込んでしまう。
でも、公平に見ると、女性を手広く雇用して仕事を与えたし、彼女たちからは好かれていたこともありそうだ。なにより、勃興してきた写真術を天体観測に応用し、広範な星のカタログを作ったという業績は高く評価できる。目視中心だった観測から、現代の写真中心の観測にするための基礎を作った。弟のW.H.Pickeringよりも円満な人物像が浮かび上がってくる。
W.H.Pickeringは天文学者・観測者としてはいろいろ「優秀」だったが、飛行機の発展を予測し損なって後にA.C.クラークに皮肉られてます・(「未来のプロフィル」ハヤカワ文庫版18ページ)
E.C.Pickeringに関してはもっと伝記的事実を収集していきたい。ハーバードの図書館にいきたいなー。