2017年5月31日水曜日

「高安関、大関昇進おめでとう」とマイルスやスティーブ・ジョブスが言った夢をみ鯛

 気負わない、良い昇進の記者会見でした。体に気をつけて頑張って欲しい。

 昨夜の年上の友人との飲み会でも、高安の話題が出て評判は良かった。気持ちよく飲めた。帰って、久しぶりに(ストリーミングでなく)CDで、マイルスの「TUTU」を聴いた。優しい曲調だと感じた。酔っていたせいだけでもなさそう。

 1987年のグラミー賞をとっている。「ハード」なジャズではないので、Jazz批評家の評価はあまり高くなかったらしい。
マーカス・ミラーを中心にして、マルチレコーディング手法を駆使して作らせた。と、『マイルス・デイビス自叙伝2』には書いてある。(1999年 Jicc出版 P208)

 妥協の嫌いなマイルスが、部下を信頼して、最小の指示で作らせた、そして自分はソロで参加したアルバムなので、上記の感覚が生まれたのだろう。

 これは、なかなか難しい問題で、スティーブ・ジョブス亡き後のiPhoneの評判の良し悪しにも通じる。もちろん、「TUTU」が好きだからと言って、最近のiPhoneのほうが良いという単純な話をしているわけではない。集団で作られるモノの商品価値を決めるのは、複雑な、つまりリゾーム的要因群がからみあったものだろうと言うこと。

 単純な分析的思考では(つまりトップダウン、ウォーターフォールでは)良い商品はつくれないことのひとつの表れでも有る。

 高安が記者会見の前に持ち上げていた、祝い鯛は大きく重かった。さすがの高安もしばらく持っていると手が震えるくらいに。大関や横綱の地位を長く保つのもこのように難しかろう。

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2017年5月30日火曜日

植草甚一先生はやはりサイコー

 三島由紀夫の自殺が隅のTVで報じられている大学の学食で、クラスの皆が驚いて騒いでいたが、私は冷静に『僕は散歩と雑学が好き』を読んでいた。

 なので50年近く、植草甚一さんの本を読み続けていることになる。刊行された著書は99%持っているし、全部読んだ。

 最近(昨日ですが)、1960年台の米国文化について調べていたが、植草さんの『カトマンズでLSDを一服』を参考書にした。もっとも、植草さんは一回もLSDなぞ飲んだことはないだろう。にもかかわらず、迫真の記事を書いてしまう。

 ニューヨークに行ったことがなかったのに、誰よりも街の情報に詳しかったし、晩年に本当に行ったときには、案内がいらなかった。

 雑誌や本に頼るだけで、マニア顔負けの情報を手に入れて、ものを書く。森鴎外(『椋鳥通信』)よりこの点では勝っている。

 昨夜、ついでに読んだ『植草甚一の研究』(1980年 晶文社)にも、おもしろい日記風のエッセイが掲載されている。

 「シドニーの本屋を覗いた九日間」は、2000豪ドルを握りしめて、シドニーに行き、観光はそっちのけで、古本を買い漁るおはなし。そういえば、ニューヨークに行ったときも、本屋さんに入り浸っていたようだ。

 「昭和二〇年に買ったり読んだりした本」は、新宿文化劇場の主任をやりながら、空襲のさなか、やはりまめに古本屋通いを続けるお話。ドサクサの中洋書も交え、生活の役には立たない本を買いまくる人も凄いが、商売とはいえそれを売っている古本屋さんも凄い。文化の層の厚さを感じない訳にはいかない。

 生き方として、この姿を若いときに学んでしまったので、もう治らない。小遣いはすべて本につぎ込む覚悟。

 ところで、この『研究』にも、植草さんの手書きの日記が掲載されている。會津八一先生のおっしゃるような、技巧を凝らさず読みやすい、大きめの正方形の字が印象的。これも見習うべきだろう。

 お許し願って、一部の画像を、掲載してみよう。


2017年5月29日月曜日

ヒッピーの日々は遠いようで近い

 良い本の定義は、別の本をよむ気にさせること、と思っている。良い映画を観た後も、またすぐに映画を観たくなる。映画館での予告編の大切さがここにある。

 要するに私にとっては本も、映画も麻薬的な魅力を持っているということだろう。「好き」の定義もここにありそうだ。

 最近、Amazonビデオで映画を幾つか観た。昨日は家人が外出していたので、暇に任せて、2本。寝転びながらiPadで観てしまった。そして2本につきTweetした。


そして




 一本目は、どうも世の中で駄作と言われることがあるらしい。たしかにどこかで観た映画に似ている(「ある愛の詩」とか)ので、観ていても飽きるところがある。ただし、楓の黄葉と、主演のヒロイン、ウィノナ・ライダーは美しい。

 ウィノナ・ライダーは後に万引きで捕まったことが有る。てなことをWikipediaで読んでいたら、後見人がティモシー・リアリーだったとも書いてある。

 そこで、ティモシー・リアリーについても、知ってるつもりで済ませないで、少し当たってみた。松岡先生にも伺った。すごい量の本のリストを示された(T_T)

 チベットの死者の書を読みたくなったが、手元にないし困っていたが、『チベット密教の本』(1994年 学習研究社)に紹介が載っていた。いまから20年前、旧職場(藤が丘)の一部の人の間で、チベットがブームになった。ダライ・ラマのドキュメント映画など連れ立って見に行ったが、その前後に買ったもの。

 中有のころ(日本だと49日まで)に魂がさまよう話がチベット死者の書には書かれているが、ティモシー・リアリーは、LSDと魂の離脱について、そしてその時の心の状態について調べたようだ。「幽体離脱」も研修時に例え話で使ったことが有る。平静心でとらわれずに自分を見つめる。
 
 LSDやヒッピーの話は、植草先生に聞くのがよさげなので、また納戸の本棚から『カトマンズでLSDを一服』(1976年 晶文社)を引っ張り出してきた。



 それによると、ティモシー先生よりAndrew Weil博士の『The Natural Mind』を読みなさい(マトモだから)とある。高くて困ったが、一章だけならテキストがWebに転がっていた。これと、植草先生の解説で我慢することにした。

***

 ところで、上記の映画の2本めは、2004年のいわゆるロード・ムービー+男の友情もの。カリフォルニアのワインバレーが舞台である。ワインが飲みたくなるが、酔っても運転しちゃうのが行けないと思った(嘘)。

 『イージー★ライダー』だと、最後には南部でうちころされてしまうが、カリフォルニアはさすがに開けているらしく、最後がハッピーエンド。

 『イージー★ライダー』はAmazonビデオでは無料対象でないので、『俺達に明日はない』か『モーターサイクリストダイアリー』でも今度観ることにする(*^^*)

 長姉の49日はもうじきだが、彼女は心がけが良かったのでもう天国に行って遊んでいることと思う。合掌。

2017年5月28日日曜日

「『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』続巻内容予測」プロジェクト開始しました

 未完に終わったトーマス・マンの『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』の続きを読みたいのはファンとしての切なる願いです。お願いしても誰も書いてくれないので、自分で書く、のは難しいので内容を想像して楽しみたい。プロジェクトの顧問(って何だ?)としては、クルル先生とトーマス・マン先生をお招きする予定(^_-)
 
 まず、自分の過去のブログ記事をまとめて読んでみます。プロジェクトで行うべき項目は入っているでしょう。2011年2月以降、14個ある。

 よく書いたもんだと自画自賛。題名をクリックすると記事が読めます。 > 自分。

 以下のとおりです…

1. 「詐欺師フェーリクス・クルルの告白」執筆にもペルソナ手法が用いられていた

   この記事はこのプロジェクトのきっかけです。重要。 > 自分(*^^*)

2. トーマス・マンとジーンズ卿の宇宙論

3. 小塩節先生の「トーマス・マンとドイツの時代」を読んで

4. 詐欺師フェーリクス・クルル、リーヴィット、そしてトーマス・マンの乗ったOcean Liners

5. 年金生活者ならではの楽しい読書生活のノウハウ 6.ヴァーチャル旅行中の読書

6. 書かれなかった作品を想像し鑑賞する楽しみ   

7. 読んで調べて読んでまた読んで〜♫

8. 獄中記はなぜか面白い、ジョブズの新伝記よみたいぜ

9. 『獄中記』による勉強が楽しい、まだ読み終えてないが

10. ウディ・アレンの「自伝映画」を観て考えたり、ルカーチ本を読み始めたり

11. 冬休みの宿題 読書感想文『ロマンの魔術師』(その2) 付録『戯作三昧』つき

12. ルカーチ『ロマンの魔術師』でトーマス・マンはいつまでも一人前と認められない?

13. 雨降りなので宇宙論を勉強しよう
    宇宙論史のサブプロジェクトも必要なのだが…顧問はリービットさんね。

14. クックック教授の宇宙論、命題2について 

  我が集合住宅の花壇。綺麗です。


2017年5月27日土曜日

昨夜、映画2本観ましたので寝不足です

 船越英一郎と美保純が出演するNHKTVの午後のバラエティを観た。一昨日。




 早速、本屋に駆け込んだが、滝口悠生さんの本(『愛と人生』)はなかった。Amazonでも在庫なし状態。Kindleで入手するしか無いかな。

 寅さんは観ることにした。




 ついでに、これも観た。




 おかげさまで、今日は三日酔いでなくて、寝不足でふらふら。

 『會津八一書論集』も少しだけ、読み続けた。篆書は「ぼーっと」書くのがいいらしい。私がやるとただの下手くそと思われそうだ(^_-)


2017年5月26日金曜日

二日酔いの戯言

 昨夜は、大先輩たちと三軒茶屋で半年ぶりの飲み会。健康回復したので喜んで飲みすぎました。おかげで今日は二日酔い気味。胃腸は普通に働いており、朝食も普通に食べた。でもアタマはぼーっとしている。

 実は二日酔いでなく、老化現象ではないのか?というギモンは振り捨てて、PCに向かう。

 昨夜はすぐ寝たので、本を読んだりビデオを見たりはできなかった。今朝は、Twitterで宣言して置いたとおり、「男はつらいよ 寅次郎相合い傘 (第15作)」を見ようとしていたら、別件のオシゴトがはいり、ビデオ鑑賞は果たせなかった。

 オシゴトに関する愚痴のツイートは以下の通り。




 ついでにもう一つ、呟いた。




 「お役所仕事」に対応するための、年寄り向け、AIシステムが、必要かもしれない。ロボット君が相手してくれる方がよさそうだ。誰かクラウドファンディングしてやりませんか?

2017年5月25日木曜日

『猫のゆりかご』の読中記

 要するにまだ、読み始めたばかりです。例によって、というかこの本は、まったく内容を覚えていない。ひょっとして読まなかったのではないか。昨日に続き、自分の記憶(想起)能力に深刻な疑いを持たせる現象です。ともかく、古い本でも新しい本と同様に楽しめるのは得だ。

 原爆が広島に落ちされた日に、それを開発した科学者たちは何をしていたのか、というレポート本を書こうとする主人公(多分作者KVJの分身)が、仕事をはじめました。

 ある、科学者(ハニカー博士=故人)の息子(たまたま主人公と同窓生だった)に問い合わせの手紙を出し、情報を得て、裏を取りに、ハニカー博士の上司の管理職科学者の職場にインタビューに行く。そして科学に関する無知さをなじられるところまで読みました。

 まだ、序の口ですが主人公(KVJの分身)は、広島の惨事に関する「正しい」認識を持っていない。ただし、マッドサイエンティストに対する怒りだけは持っているようです。これでは、KVJの放射能症への認識はゼロと言えそうだ。

 しかし、ここまでに伏線らしき記述があります。このあと主人公は新興宗教「ボコノン教」に染まるらしく、そのほのめかしがあります。「ボコノン教」の教えに従う形で、原爆開発への怒りを表現するかもしれません。

 邦題「猫のゆりかご」はCat's Cradleの訳で、あやとりの意味らしい。猫はあやとりが好きなんでしょうか?文庫本表紙カバーのイラストは和田誠さん。


2017年5月24日水曜日

カート・ヴォネガット(・ジュニア)は、拾い読みでは済まなくなってきた

 偶然、潜在意識を考慮すると必然、再会したKV(J)の本。『屠殺場5号』だけで許してもらおうとしたが、やはりそうはいかない。

 昨日午後、駅前のマクドナルドで最後の部分と訳者後書きを読む。

 人生にはいろいろな局面がある。幸福な瞬間に意識を集中し、不幸な場面は無視せよ、とKVJは言う。永劫は幸福な瞬間にあるそうだ。スバラシイ。
 もっとも、主人公ビリーは人生のいろいろな瞬間を行ったり来たりできるので、上記の教訓を楽しめる。

 後書きには、ドレスデン爆撃と広島(長崎)を死者の人数で比較している作者は、広島(長崎)の放射能症を考慮したかという訳者(伊藤典夫さん)のコメントが含まれる。

 この件はやはり追求しなければいけない。

 KV(J)の著作はたくさんある。手元には1970年前後に出た邦訳本が数冊有るだけだ。全部読まないと気が済まないが、なにから読んでいけばいいのか。

 慶応出身の永野文香さんの論文(の査読記録)など参考にすると、まず『猫のゆりかご』(1979年 ハヤカワ文庫)から始めるといいようだ。幸い手元にあるし。広島に原爆が落ちた日に原爆を作ったひとは何をしていたのか主人公が調べて本を書こうとするというのが、この本の発端である。



 『屠殺場5号』以上に『猫のゆりかご』に関しては記憶が薄い。というか、まったく記憶にない。気合を入れて読むには好都合だ。

 脱線する。これほど記憶力が悪いと、心配になってくる。生きていく上で大切なことを、実はもう忘れ果てているのではないか。大丈夫なのか。前頭葉とか理性とかいう言葉が浮かんできたが、なんとなくぼんやりとして…

2017年5月23日火曜日

『屠殺場5号』を読んで色々考えた

 良い本の条件は以前考えた。「他の本を一冊以上紹介してくれること」である。直接書名を言及してあってもいいし、挟み込んだ広告に紹介があってもいい。潜在意識に働きかけて、連想で他の本を想起させてもいい。

 これを拡大解釈してもよかろう。『屠殺場5号』は広い意味での良書である。カート・ヴォネガット・ジュニア(KVJ)の『SLAUGHTERHOUSE-FIVE』(1969)を伊藤典夫さんが訳し、1973年に早川書房が出版した。



 KVJは1945年のドレスデン空爆のとき、捕虜として現地に居たのだろう。その前後の恐怖体験を20年以上経って、やっと小説にした。直接的には書けなかったので、SF小説仕立てにしたと思われる。

 ドレスデンには10年以上前に観光で行ったことが有る。爆撃でバラバラにされたマリーエン教会の復興はほとんど未完成だった。崩れ落ちた石のかけらが拾い集められ、番号をつけて棚に並べられていた。その後、原型に近く修復されたと聞く。

 無差別爆撃はその後、東京などにも行われ、広島長崎は原爆でやられ、ベトナムもやられ、イスラム諸国も…

 KVJと略したが、1976年以降はジュニアはとったので、KVだ。



 本の裏扉に「1976.2.22 渋谷大盛堂」とメモ書きがある。このようなメモは私としては珍しい。
 40年前に読んだはずで、たしかに全体の雰囲気と、断片的な記述の記憶はある。しかし、細部のプロットや言い回しやジョークはまったく覚えていない。なので、結構楽しめる。

 こうなると、昔購入した本を、改めて読み直すのも悪くないと思えてきた。経済的理由で新本はなかなか買えないが、買えなくても困らない。昔の本を引っ張り出して読めばいい。自分の好みに合った本を選ぶのは難しいが、昔の自分に選んでもらえれば確実だ。

 良い本の定義をまたひとつ考えた。
 「読み直しても再発見がある本。」

2017年5月22日月曜日

YMOを聴き、カート・ヴォネガット・ジュニアを読んだ遠い日々。

 いつの間にかYMOがAmazonプライムにもAppleミュージックにも降りてきている。のに気づいたので、今朝からBGMとして流している。発売当時はワクワクしながら聞いていたが、今はのんびり仕事の片手間に聴けるのはなぜ?音楽は直接に脳に作用するので、慣れると感覚の麻痺性が薄れるからか。

 話題の映画や展覧会にからむ、要するに映画の原作や絵のテーマを題材とした小説など、を捜して読む。必ずしも全部読みたいとは思えないときには、保険をかける意味で、Kindle本を捜し、お試し読みをする。それだけで用が足りてしまうことも多い。

 Kindle本を捜すと、当然Amazonさんは、関連したおすすめ本を勧めてくる。ここで引っかかることも多い。

 昨日は映画「Lion」の原作や「メッセージ」の原作をチェック。「メッセージ」の原作は「Story of Your Life(1998)」というテッド・チャンの短編で、短編集をお試し読みしたら、肝心な作品ではなく、「バビロンの塔」という作品だけが読めた。それがかなりいける。面白い。

 そうこうして遊んでいたら、「スローターハウス5」を、Amazonさんが推薦した。読んだことはあるのだが、とりあえずダウンロードしてみた。読むと、懐かしい。言い換えると、そういえば読んだことを微かに覚えている程度に忘れている。ヴォネガットのいいまわし、「そんなもんだ」というのを、村上春樹さんが真似していると勝手に思っていたのも思い出した。

 本棚の二層目(一層目に隠されている)に、カート・ヴォネガットの本がいくつか有るはずなので、掘り出してみた。四冊ほど見つかった。また読むか否かは難しいが、拾い読みはしてやろう。なぜ、そんな気になったかを言葉で説明できる程度に。



 発掘作業中に前回の発掘では見つからなかった「蕪村俳句集」が出てきたのは快哉をさけんだ(大袈裟)。

2017年5月21日日曜日

中動態か、なるほど、いいことを聞いた

 最近目から鱗が落ちることが多い。新聞を眺めながらそう感じた。



 今朝の朝日新聞朝刊には『中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)』という國分功一郎さんの本が紹介されていた。
 その書評を読んでいて、ずっと違和感を感じていた能動態でも受動態でもない表現が、あながち間違いでもないと気づいたのだ。

 問題にしていたのは、放送での出演者のコメント、たとえば「大売り出しがやっていた」、の類。気持ち悪い。三越デパートが大売り出しを開催中だ、と言って欲しい。

 似たような表現は、Web上のニュースの見出しにもよくある。システムで書いているだろうから仕方ないとも思っていた。

 どちらにせよ、動詞の使い方には能動形と受動形しかないと、中学英語文法から脱却できない考え方をしていた自分があさはかだったと気づいた。

 この本は買うべきか否か迷っているが、すこし考えたい。電子化してくれれば、自宅でも試し読みという手が使えるのだが。本屋に出向くしか無い。

 新聞の日曜版読書欄は、毎週楽しみにしている。今週の収穫はこれだった。老人の蒙をひらく記事をもっと期待したい。

2017年5月20日土曜日

『會津八一書論集』を読んでずっこけた

 昨夕、注文しておいた中古本が割と素早く(3日目で)届いた。定価1800円の本が、中古とは言え1円。送料が257円としても安い。『會津八一書論集』(1967年初版 二玄社)。今裏表紙の裏を見たら最初の購入者らしい方のメモが書いてある。「1976年4月3日に成美堂で購入」、このような書き込みがあると中古価格が安くなるので、普通は嫌われるが、このような控えめなものだと、かえって奥ゆかしく、好ましい。メモを挟んだりしている人もおり、興味も湧く。私はよく購入時のレシートを捨てずに挟んだままにしておく。栞にもなる。今回も一円の領収書を挟んでおいた。本文に赤線も引いた。

 『會津八一書論集』だが、夕食後少し読んでから寝ようと思ったら、引き込まれて三分の一近く読んでしまった。

 真面目な書道の先生なら卒倒しそうなことが書いてある。たとえば。

 まず、子供の頃の書道の先生には、字が下手だと怒られてばかりいた。(後年、また字を見てもらったが、お前の字はどこがいいのかわからぬと言われた。)

 自分でも下手だと認識したので、上手な字ではなく他の人が読んでわかるような字を書くことだけ心がけた。手本は明朝体の活字。「はねる」などの技巧は無用のものと考えた。

 一般の書家が尊ぶような宋朝などの辛気臭い字は好まない。王羲之などの、世の中でもてはやされる字体は百害あって一利なし。山岡鉄舟や勝海舟のよく読めない字も無用。西郷隆盛も女々しい字を書いていたと思う。

 良いと思うのは「泰山刻石」のようなフラットな字。

 しかし、法帖などは(王羲之などを含め)随分集めた。戦災で全部焼いてしまったが。

 會津八一先生のような達人の意見として面白く読んだ。でも私のような凡人は、やはり手本を見て格好良い字を真似してみたくなる。

 で、怒られそうだが、會津八一先生の字を真似てみた。



 なかなか似た字は書けない。雰囲気はこんなもの。ヘタウマ。

2017年5月19日金曜日

石鼓文(せっこぶん)なんて、知りませんでした

 漱石全集の装丁。いつも何の気なしに見ていたが、書の興味を持ち始めたので、改めて眺め始めた。

 最近の悪い癖(?)で、Googleで検索してみたら、これは『石鼓文』というものを、漱石が自分で選んで模写(?)したらしい。さすがだ。

 石鼓文も手習いの対象にしようと決める。ためしにやってみた。ぐお、難しい。


 これは多分「馬」という字でしょうね。


 この例に限らず、日本の書籍の装丁には、書が使われていることが多い。みな思い入れがありそう。

 書籍だけではない、近所の団子屋さんの包装紙にも使われている。これらを調べていくと、面白い勉強ができそうだ\(^o^)/

 漱石は康煕字典も持っていたらしい。当たり前なのだろうけど、羨ましいぞ。インターネットで見ることはできるが、自分の書斎でのんびり重たい本を繰るのは、楽しいからね。

 なお、祖父江慎さんの装丁した『心』はほしいけど、ま、どこかで会うのを楽しみにすると言うことにしておきます。

2017年5月18日木曜日

老いてまた書を習う、また楽しからずや

 数日前から、手習いを再開した。明らかに空海を勉強したせいである。喜ばしい。

 「再開」としたのは、高校生時代に書道の授業を受けて
感じるところがあったからだ。書道の先生のお名前がすぐには出てこない。調べれば分かるが…。彼はお前の姉さんのX子はよく練習した。ところがお前はほとんど授業中遊んでいたとお小言をくれた。遊んでいたのではない、一枚書くとそれ以上上手には書けないとわかったので、教科書のお手本の由来を調べていたのである。

 このおかげで、最近読んでいる本に出て来る、昔の偉大な書家の名前に親しみがある。考えれば良い授業だった。当時はつまらなくても後で受けてよかったという授業は多い。数十年かけないと良さはわからない。効果を気にしてすぐカリキュラムの手直しをするのは愚の骨頂だろう。

 いま、読みつつ有るのは石川九楊先生の『書を学ぶ』(1997年 ちくま新書)。初心者向けの本なのだが、手習い再開老人には便利だ。



 序章、「書の美しさはどこからくるか」。良いイントロ。

 第一章、「書の技法」。(今、ここ)

 「1 文房四宝」、まず、道具の選び方。紙、筆、墨、硯、下敷、文鎮、筆巻、以上が七つ道具だ。私は当面、iPadの毛筆ソフトを使うので不要。余裕ができたらいい筆や紙を買いたい(*^^*)この態度は石川九楊先生には怒られそうだが、貧しいので許してもらう。

 「2 手本の選び方と書体」。
まず、楷書から始める。仮名も同時に。後に、行書・草書に進む。これは、アグリーです。
 楷書の手本は「雁塔聖教序」(褚遂良)か、「九成宮醴泉名銘」(欧陽詢)。この「法帖」(手本の印刷本)を買いなさいとあるが、やはり、予算の都合上、インターネット上の画像で我慢しておく。余裕が出来たら…

 仮名の手本は「寸松庵色紙」と「枡色紙」を選ぶ。書法だけでなく構成法も同時に学ぶこと。はいはい。

 「梅雪かな帖」のほうが現代的でいいかもしれない。

 歌の場合は仮名を書きながら歌うのが良いと。なるほど。

 行書は「三折法」で書かれた「松風閣詩巻」(黄庭堅)から。高校で習った「蘭亭序」や「集字聖教序」(王羲之)は後にする。前者が楷書と馴染みが良いから。

 草書は「自叙帖」(懐素)だそうです。

 これらの手本を弛みなく学び続ける。そのうちに自分なりの書体が出来てくる。ただし、その後も臨書は続けるべし。

筆の持ち方や永字八法などはこの後出て来るが、必要に応じて読んでいこう。

 石川九楊先生は高校の先生とおなじく、基本に忠実にしっかりやれと書いておられますが、こちらは古希に近づいている人間が趣味で書くので、好きにやらせていただきます。注文済みの會津八一先生の本も参考になるでしょう(*^^*)

2017年5月17日水曜日

會津八一が読みたくなった、なんとなく

 今朝寝床で一通りFacebookやTwitterやMastodonの各ポストを眺めた後、ドイツ語講座を聴く前に10分ほど暇ができた。何か読もうと青空文庫をあさっていたら、會津八一さんの「拓本の話」があり、最近の好みにぴったりなので読んでみた。拓本を集めたという話が淡々と書いてある。面白い。

 朝食後パソコンに向かって検索してみたら、會津八一さんは書や拓本の世界でも超大物とわかった。早稲田や郷里新潟に記念博物館も有るようだ。行ってみたい。

 困ったときの松岡先生頼みで、松岡さんの紹介記事も眺めてみると、會津八一さんの豪快な人となりが知れた。

 さっそく、Amazonさんに行って、物色し、『会津八一書論集』が中古本でわずか一円で出ていたので購入手続きをした。全集本もやすいけど、時期尚早と思いとりあえず我慢。

 そのときに欲しいものリストから『Ansel Adams: A Biography』が出てきて、手招きしていたが、目をつぶった。あぶない。

 會津八一さんの和歌の本なら、文庫本『自註鹿鳴集』(1969年 新潮文庫)がある。捜したらすぐ出てきた。
 『書論集』が届くまでは、これを眺めていよう。漢詩を題材に和歌として詠みなおしたものなど、面白そうだ。



 なお、拓本を自分でもやろうかとも一瞬思ったが、思いとどまった。

 今朝のような一瞬の邂逅があるのでインターネットの世界は楽しい。隠居老人の趣味として好ましい。

2017年5月16日火曜日

FB、FB、NFB

 以前勤めていた会社で社員の教育係をしたことが有る。親会社(米国の)から講師を呼んで、数日間の開発標準の研修を行った。講師が2日目に腹が痛くなったという。昨夜のTENPURAがいけなかったか?と訊いたら、No!!!質問が皆無だからだよと言う。

 質問がないのは聞き手が分かってないからで、自分の話が下手で分かってもらえないのかと悩んだストレスが腸に働いたらしい。実は分かってないのではなく英語で質問するのが面倒だからだと弁解しておいた。君の話はよく分かるよ。

 でも講師君はまだ不安そうな顔をしていた。米国のような多国籍の国では人と人とのコミュニケーションが大切なのだろう。話が通じないとミサイルをぶっ放しかねないお国柄だからか。

 それは極端な話だが、質問してくれないと、講師がやりにくいのは日本でもまったく同じだろう。

 講師とはちょっと違うが、AB首相が答弁の際に野次が飛ぶと怒ったふりをしながら実は喜んでいるのも、同じような話だ。反応のないときには人は話がうまくできなくなる。

 FB(フィードバック)はそんな意味で重要だ。FB(フェイスブック)にも、FB(フィードバック、ああ面倒くさい)のためにいいねなどのボタンやコメント付けの機能がある。いいねしてもらったり、あるいはコメントがつくと話が「発展」する。ときには、最初に意図しなかった方に議論がススムくんになって楽しくなる。

 極端に言うといいね!ではなくてひどいね!でも、言い出しっぺにとっては役に立つ。さきのAB首相の例はまさにそれだ。

 FBといえば、アマチュア無線の界隈のかたはファインビジネスを思い出すだろう。受信状態が良いと言うことをFBと表現したりするようだ。

 アンプを作る人はNFB回路を知っている。ネガティブ・フィードバック。抵抗一つを介して出力信号を元の回路に戻してやると音質が飛躍的に向上する(ことがある)。でもうまく調節しないとかえってひどい音になる。

 ワインバーグ先生は自分にとって耳の痛い話(ネガティブ・フィードバックだ!)は、自分への励ましと捉えればいいとおっしゃった(気がする)。これが、達人のFB(フィードバック)への対処法だ。NFB(ネガティブ・フィードバック)をFB(ファインビジネス)への糧にする。スバラシイ。

 ワインバーグ先生の域に達するのは普通難しい。私淑する(以前の職場の)先生は、NFBを無視する方法を伝授してくれた。問題解決の一番簡単な方法は無視しちまうことだ。研修の評価などほっておいて早く飲みに行こう。



 素晴らしい!!

 でもやはりFB(フェイスブック)でいいねしてもらうのはうれしいですね。このブログにもコメント機能があるので、皆様よろしく。 #これが言いたかっただけか

2017年5月15日月曜日

クックック教授の宇宙論、命題2について

 リスボンへの夜行寝台列車の食堂で珈琲を何杯も飲みつつ、身分がばれないようにナイーブさを装いながら聴いているクルルへ、教授は大風呂敷を広げる。宇宙論もそのひとつ。易しそうなので2番めから考えてみた。 

命題2 「太陽系は…銀河の中央から三万光年も隔たる周辺部に…位置している…」



 放送大学の教科書『進化する宇宙』や、日本大百科事典、世界大百科事典に当たってみると、わが銀河系の円盤部の直径は10万光年。

 太陽系は銀河系の中心から2万8000光年のところにある。(『進化する宇宙』2005年刊の99ページ)
 日本大百科事典には岡村先生が2万5000光年としてある。
 世界大百科事典には高瀬先生(岡村先生の先生)が2万9000光年と書かれている。

 クックック教授の三万光年は、現在から見ても良い数字である。天文学は良い学問で、細かい数字は気にしない(できない)、観測技術と解釈により、数値はどんどん変更改定される。桁があっていれば御の字なのである。

 最初に引用した銀河系円盤の大きさ「10万光年」も、観測者によってドンドン改定されてきた。
 ハーシェルは一八世紀に6000光年とした。寒いイギリスの露天で観測を毎晩やってよく体を壊さなかったと思うが、一桁くるっている。これは一桁しかくるっていないと言うべきで、星はすべて見えるものという仮定が誤っていた(当時の技術では観測できない星が存在する)ためである。

 ハーシェルは太陽系はほぼ銀河系の中心近くにあるとしていた。

 20世紀初頭にはカプタインが太陽系は銀河系の中心から5000光年と述べた。シャプレイは5万光年としたが、星間物質による減光を考慮しなかったためとされている。

 トーマス・マンはシャプレイの説も当然読んでいたと思うが、同時代の学者のジーンズが1929年に引退してからの一般向け解説書を見て、穏当な3万光年という数字を持ち出したのだろう。慧眼というべきか。シャプレイとカーチスの銀河系の大きさに関する大論争でカーチス説が有力とされ、ハッブルの大発見でシャプレイが落胆したことも知っていただろうかと想像は膨らむ。

 シャプレイはかのリービット女史の晩年の上司。シャプレイはリービットの業績を評価していたが、性格的には合わなかったのではないかと思う。
 リービットのことまではトーマス・マンは知らなかったであろう。リービットは真面目なのでトーマス・マンの小説などは読まなかったと思う。

 さて、珈琲でも飲みますか。ジーンズも読まないといけないなあ。

2017年5月14日日曜日

円城塔さんは物理出身だったのか

 『文字禍』(第一回)で川端康成文学賞とやらを貰った円城塔さん。空海つながりで連作『文字禍』を途中から読み始めたばかりなので、少し驚いた。

 それでは、ということで少し調べてみると、学生時代は物理学をやっていたらしい。その後「ウェブ・エンジニア」を経験した後、作家を専業としたらしい。珍しい経歴として紹介されることもあろうが、もちろん本人にはこのキャリアは、必然だったのだろう。

 文字に対する興味がお有りになるらしく、作品にもその傾向が見て取れる。

 となると、同じく物理出身でSEの経験もあり最近は文字に関する興味を覚えている私としては、少し彼の作品を捜して読んでみたいと思い始めた。

 Kindleの本棚には『Self-Reference ENGINE』よいう、彼のデビュー作(たぶん)が、潜んでいた。数年前に購入して、途中まで読んで中断していたらしい。



 こういうことが最近よくある。もの忘れというより、精神が不活発になって、物事の始末を付けきれない。
 ただし、嘆いても始まらないので、余裕とかじっくり考えるという老人力がついたと、考えておく。本も、読み切れなければ、いつかはまた読むだろうとかまわずにほっておく。書(iPadのアプリで画面に書くことを書と言えればだが)の練習も、度々中断している。

 定年時に始めた、薄幸な天文学者リービットさんの伝記調べも断続している。もっとも、何かを調べるとき、派生的に出てくる興味対象を、追いかけることが多く中断が多いのだが、派生したことを調べるのは非常に面白いので、それも良しとしよう。

 テーマを追いかけるたびに、都度都度ブログを書いておくと、次回再開するときに好都合だと最近思っている。本文検索も簡単にできるので、前回何をどこまで調べたかがわかりやすい。
 ブログで小説を書く人もいるだろう。

 ともかく、Kindleで『Self-Reference ENGINE』読もう。Audibleにも円城塔作品がある。これも聴いておこう。

2017年5月13日土曜日

雨降りなので宇宙論を勉強しよう

 昨日の晴天はどこに行ったかと思わせる、雨の土曜日。気温も低い。花屋さんで会った猫ちゃんも今日は寒がっているだろう。置物だけど。



 2011年2月5日のブログに取り上げた『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』の中の、クックック教授の宇宙論の由来を調べる案件を復活させてみる。

 新潮社版のトーマス・マン全集第七巻461ページ。

 命題1 「われわれの銀河は、…、幾十億もの銀河のうちの一つ」

 命題2 「太陽系は…銀河の中央から三万光年も隔たる周辺部に…位置している…」

 命題3 「地球…時速千マイルで地軸を中心に回転し、秒速二十マイルで太陽のまわりを回る…」

 命題4 「水星は…公転を八十八日で行い、同じ時間をかけて一回だけ自転する」

 命題5 「シリウスの白い伴星は地球より三倍大きいだけだが、…一立方インチの物質が地球の一トンになるほどの比重をもつ」

 リスボンに向かう列車の食堂車でクルルは、教授にこのような宇宙論を吹き込まれ、それに魅了される。

 この論議の天文学史的な意味を追求してみるのが、面白いだろう。できたら天文学会で発表してやろうか(^_-)

 冗談はさておき、手がかりは以前少し調べてやはりブログに書いたジーンズ卿の件である。参考書は昨年の教科書『現代天文学史』やジーンズ卿の著書(インターネット・アーカイブで読めたはず)。まず、ジーンズ卿がどんな通俗本を書いたか調べよう。


(後記 2019年3月7日)
 ジーンズ卿の本はこれかも知れない。邦題『神秘の宇宙』。英語版なら無料でインターネット・アーカイブで読める

2017年5月12日金曜日

『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』は最後まで面白い!

 4月13日に読み始めを伝えるブログを書いて以来、途中中断はあったが、昨夜(5月11日)無事、読み終えた。2600枚の大作だそうだが、全編驚きの連続で、飽きなかった。

 結局、この本は空海さんが日本に帰ろうとするところで終わっている。あとがきで匂わせているが、この前後の話も読みたいが、書くとしても何年もかかりそうだ。本作は17年かかっているのだという。

 なぜ、世界の中心の長安から帰ってきてしまったのか、につては、四巻途中にヒントが有る。アテルイや坂上田村麻呂と約束があったとのこと。日本に仏道(現代的に言うと文明的な生活だろう)を広めたいとの気持ちがあった。

 五筆和尚とよばれるきっかけを描いている。皇帝の前で素晴らしい書の才能を披露する。ここにも興味を惹かれた。王羲之の「喪乱帖」とやらも見てみたい。空海がその時書いた書を真似して書いてみるというのが、次の目標(*^^*)



 これから、家人のお供で、花屋さんに夏用の花苗を買いにいってきます(T_T)

 夕方。思い立って昔のブログを覗いてみた。たとえば、2009年5月12日のやつ
勤めていた最後の年、8年前だ。よく会社帰りに飲んでいた。そのころが懐かしい。

2017年5月11日木曜日

自分のコンサルやるのは至難の業だ

 ワインバーグ先生は、他人の手助けをするより自分の手助けをするほうが難しい、とおっしゃったそうだ。 (『コンサルタントの秘密-技術アドバイスの人間学』)

 難しいが方法はある。たとえば、昨日このブログに、「朝刊を読むのは書籍の情報を得るため」と、「書いてみた」。

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 書いた以上、仕方ないので、今日は資源ごみを出した後、郵便受けから朝刊を持ってきて、朝食後に目をとおしてみた。広告や記事をざっと見たが、面白そうな本の紹介情報はなかった。

 文化・文芸欄に福岡伸一さんのエッセイが載っている。美術館でフェルメールを観るとき、絵が小さくて細かいので、「短焦点の双眼鏡」で眺めている、とのことだった。

 気になったので、この記事はスマホでスクラップした(写真に撮っておいた)。

 あとで、PCに向かったとき「短焦点 双眼鏡」で検索してみた。結果、良さそうなもの(50センチから合焦する)が見つかったので、とりあえずAmazonのウィッシュリストに保存しておいた。1万4千円なのですぐには買えない。



 先日、「バベルの塔」を観たとき、酔払っていたせいも有るが、あまりにも細かくて満足行くまではみえなかった。こんなとき便利そうだ。実際、東京都美術館では双眼鏡を手にした人が何人かいらっしゃった。その時は、双眼鏡でピントが合うのかと不思議だったが、今回ギモンが解けた。虫や草の観察にも良さそうである。いい情報が得られた。

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 ブログには書籍の情報を得ると書いたが、実際にはもちろん他の情報も入る。新聞を毎日読むという平凡なプロセスを、効果あるものにするには、自分でそのプロセスの進め方を変え無くてはならない。漫然と新聞を広げるといつもと同じ読み方しかしない。読み方のプロセスを変えるには、そのプロセスをあらかじめ記述しなくてはいけない。記述したことを改めてやってみると、違うことをやりたくなる。

 これがブログに自分のことを細かく記述することの、効用の一つだろう。

 別な観方をすると、誰かが書いたものが、誰かの行動を全て記述している可能性はないと言うことになる。トホホ。

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 なお、文化欄には北方謙三さんが、団塊世代=全共闘世代の弁護論も書いておられた。バブルの落とし前も団塊世代は付けただろうと。

 その是非は分からないが、彼の紹介している「ストレイト・ストーリー」というデビッド・リンチの映画は捜して観てみたくなった。老人のロード・ムービーだそうです。

2017年5月10日水曜日

四庫全書が欲しかったがインターネットなら読める

 でも本物(の定義はムツカシイが、500冊物のこと)が、やはり欲しいです。誕生日のプレゼントで誰かくれないかしら。

 新聞はやはり朝食後(ときどき朝食中)に、目を通すのがいいです。そのためには、集合住居の入口会堂(アパートのロビーと言う言い方は嫌い)まで行って、郵便受け箱から持ってこなくてはいけません。ごみ捨ての日はついでに持ってくるのでいいのですが、そうでない日はたいてい、昼食時に読むことになってしまう。

 脱線しましたが、新聞を読む目的は主に書籍に関する情報を仕入れること。広告と書評を読めるのがいい。隠居生活の情報収集にはかかせません。あとは、テレビ・ラジオの番組表と近所のお店の折込広告。展覧会の情報。こうみると、総合的に見て、スマホやPCで入手できる断片情報の価値を、凌駕していると見ても間違いではありません。

 今朝の朝日新聞イチオシ情報はコラム「折々の言葉」での、内村鑑三先生の教育に対する卓見。儲けるための教育でなく、真の人間を作る教育が大切とのこと。前後を読まないとすぐに大賛成は出来かねますが、いいお話ではあります。



 内村先生のこの文章「代表的日本人」が読めるかと青空文庫をあたりましたが、ありません。そのかわり(何の脈絡もないが)、内藤湖南の「文溯閣の四庫全書」という文章を見つけました。明治45年には四庫全書も身近だったか。

 私は(エヘン=咳払い)、以前行ったマカオの図書館で四庫全書のダイジェスト版(ダイジェストと言っても500冊ある)を見つけて、ほしいなと真剣に思いました。目次の巻を真剣に読みました。その時のことはブログに書いた。

 今日、調べてみると、118万円くらいで買えそうです。でも値段はともかく、場所がないので、買えません(^o^) そこで、もう少しググってみたら、電子版では読めることがわかりました\(^o^)/

 すると、四庫全書の目次巻のみを買って、あとは電子版で我慢すると言う手を使えば、あこがれの四庫全書が手に入る。これを文明の勝利といわなくてどうする。

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 今日は、お前さんの誕生日だとFacebookやGoogleさんが言ってきます。

 昨年一年は胆石症で棒に振ったようなものなので、今年からは生まれ変わったつもりで、楽しく頑張りたいと思います。メッセージを下さった皆様も他の皆様もありがとうございます。

2017年5月9日火曜日

川端康成文学賞は短編が対象なんですね

 就職以降、文学雑誌に遠ざかっていたが、突如として今年の「新潮」五月号、六月号を買ってしまった。理由は円城塔さんの短編連作「文字禍」を、空海つながりで読みたくなったため。正確には五月号をこの理由で買ったのだが、六月号は予定していなかった。

 しかし、新聞広告(新聞広告や書評については別途書いてみます)で、川端康成文学賞が「文字禍」に与えられたと聞き、その受賞の言葉と受賞作を読みたかったので、また駅ビル書店で購入。

 さっき書いたように、連作全体の題が「文字禍」なのであり、川端賞はその第一回の作品に与えられた。期せずして、読みたかった第一回分もすぐ手に入ったわけだ。

 「文字禍」はニ回分しか読んでいないが、「小説らしくない」小説だ。話が抽象的いや概念的なのだ。昔風に言えば高踏的。空海が唐で文字を扱うシステムを作っているというのが五月号の話だが、受賞の「文字禍」は始皇帝時代の俑を8000体(?)作った職人が人偏の字を三万字も竹簡に書いておいたというお話。謎の阿語生物群というのも出て来るが、まだ意味不明。数千画の字なんてあるのか??



 このあたりの本当か空想かわかないところが面白い。さすがに理系出身の作者だという人がいそうだが、そもそも小説とは昔からそんなものだ。読んだ当初には微妙な違和感が有る方が、ずっとそのことを考えることができて、長く楽しめる。

 「文字禍」はこれからも「新潮」に掲載されそうなので、楽しみにして駅ビル書店に毎月通わなくてはならない。これこそ「文字禍」そのもの。

 なお、この短編以外にも六月号には森田真生さんの「数が作った言語」というフレーゲの解説作品も載っていて「面白い」。昔の文学雑誌とはイメージが変わっているので驚いている(*^^*)

 いまに、計算機のプログラムも掲載されたりするのではないか。

2017年5月8日月曜日

ヘミングウェイの書けない天国と地獄

 映画「パパ:ヘミングウェイの真実」をAmazonプライムビデオで観た。

 批評家には評判が悪かったようだが、ヘミングウェイのファンには美味しい映画だ。実際に1960年までキューバでヘミングウェイが住んでいた家が撮影に用いられている。アメリカとキューバの国交回復のおかげだろう。飲みに行くバーも同じなのかしら? 違うかな。

 この映画の作者というかヘミングウェイを慕う若者役のモデルにもなり脚本も手がけたであろう、Denne Bart Petitclercも面白い人物だ。両親に捨てられて、新聞記者にやっとなり、ヘミングウェイにファンレターを出したのがきっかけで晩年の文豪と親交をむすぶ。ヘミングウェイを父親代わりと考えていたらしい。

 したがって、映画の中でもヘミングウェイは若者にしきりと教訓を述べる。当時はもうなにも書けなくなっていたからなおさらだ。

 例の立ち机(棚の上にタイプライターが乗ったやつ)に、向かうが、一文字もタイプ出来ずになやむヘミングウェイ。毎日何語書いたかの記録をダンボールの切れ端に鉛筆で書き込むが、ゼロが連続する。奥さんや取り巻きに当たり散らす。背景にキューバ革命がある。FBIやマフィアも暗躍する。

 パリ時代のように(『移動祝祭日』参照)、ノートに手書きすればいいのではないかと思うが。素人考えか?

 ノーベル賞も手にし、書かなくてもいいからのんびり釣りでも愉しめばいいのに、とも思う。天国にいるような暮らしは手に入っている。

 しかし、ヘミングウェイにとって、「書く」ことが生きることなので、書けないというのは、生きていけないということになる。



 若者にとっては、父親ヘミングウェイの述べる教訓より、書くことへのこの真摯な態度が、最大の教訓になっただろう。

 ところで、このDenne Bart Petitclercさんは、この後すぐ、「ボナンザ」の脚本を書いたりしていたようです。2006年没。

2017年5月7日日曜日

漢字が書けるし仮名も有る日本語は面白い

 石川九楊先生の『書を学ぶ』(1997年 ちくま新書)を謹んで読み始める。

 最初に総論がある。14ページ。

 「西欧言語学が、文字を言葉に外在するものと考え…我々とは異質な言葉と文字の関係をつくり上げた…」

 15ページ

 「東アジアにおいては…「形写による表音」という文字・漢字と化した…「書きぶり」を伴う発語=書字が内在的である…」

 17ページ

 「筆記具と紙(対象)との接触の手応えの中から、対象を識り、対象を識ることによって自己を識る…自覚された触覚が筆跡として対象に残される…「筆触は思考する」…」


 まさに、我が意を得たり、と言うと格好いいが、数年前にも石川先生の本を読み、このようなことは教わっていた。それをまた最近思いだしたというに過ぎない。「筆触」を忘れないために、iPadやスマホに手書きソフトを入れてメモや文章を書いていたが、それは続けている。

 ともかくしばらくは、例を見て臨書しながら、この本を読み進めよう。臨書の最初は褚遂良の「雁塔聖教序」の楷書の「日」かしら。


 うーん。まだ、形が写せるだけで、考えてない。修行しないと(T_T)
 
 草書、行書、楷書の順に漢字書法は成立してきたわけだが、やはり、習うには完成度の高い楷書からはじめて、行書や草書へそして雑書体も勉強すべきだろう。

2017年5月6日土曜日

月に暈がかかって美しい、これを書で表現できるか

 夕食には、玉ねぎとトマトと鶏肉(とカレー粉と塩)のシンプルカレーを作った。

  調理中にベランダに呼ばれた。月に暈(かさ)がかかって綺麗だとのこと。たしかに素晴らしいので、iPhoneで撮ってみた。



 こうしてみると、見えていたかすかな虹のような色合いは写らなかった。しかし、暈のあることはわかる。

 最近凝っている空海さんの書に「月」の字がある。先日真似して書いてみた。空海さんのもとの書は月の光がかそけく水面に差す様子とその時の気持ちまで表現できている。

 文字のあり方として、ドライに意味のみを伝えるやり方がある。現代ではほとんど、この使い方しかしていないと誤解していた。しかし、このごろ注意してみると、手書きはもちろん多くの書体があり、それで「言外」のことがらを伝えようとする人が、実は多いと考えるようになってきた。

 駅弁の包装紙にせよ、電車の駅で目にするポスターにせよ、そこでは写真や絵とともに文字の書き様で、何かを伝えようとする意志が感じられる。このような意志が込められていない書き物は弱々しい印象しか与えない。

 手始めに、ふだんなにげなく手で書く文字にもなんらかの「思い」を伝える書き方ができるようになりたい。

 そう思って、またAmazonで中古本を入手した。



 これを参考に、少し書を練習してみます。

 カレーはまずまずの出来だったが、このような日常の料理にも、なにかの思いを込めることができる達人になりたいものだ。

2017年5月5日金曜日

空海さんのことも忘れないのでありマストドンはタイムライン調教中

 夢枕版『沙門空海…』第3巻を読み終えた。だんだん、読むスピードが早まるが、一方読み終わるのが恐くてわざと送らせてもいる。



 3巻の279ページ。
 「密を愛するということは、この天地をーーー宇宙をまるごと愛するということなのだ。」

 281ページ。
 「この宇宙に存在するものは、全て、存在として上下の区別はないのだ(中略)全て存在として正しいと言ってもいい」

 288ページ。
 「「転法輪菩薩摧魔怨敵法」(中略)最高最勝の調伏法」

 だんだん空海が偉くなってくる。偉すぎ? でも、このくらい破天荒ならば、全体主義には陥らないであろう。この夢枕さんの物語は、唐で終わるのだろうが、日本に帰ってからの空海の行動(朝廷におもねった?)の、解釈もしりたいものだ。

***

 マストドンの個人用インスタンス(サーバー)は、一日経って少し落ち着いてきた。マストドン横断検索サイトで、物理学とか素粒子論とか好きなキーワードで検索し、その手の発言をしている人をフォローする。

 だんだん、自分好みのタイムラインが出来上がる。いやな発言をする人は見えないようにすればいい。なにしろサーバー管理者なので。これができるのが、個人インスタンスを手に入れるメリットだろう。

 月額5€が高いか安いかはまだわからない。うまく好みのインスタンスになれば満足できるのだろう。

Masto.hostでマストドンのインスタンスのオーナーになってみたけど少しだけ苦労した

 Masto.Hostというポルトガルのサービス。月5ユーロでインスタンスを借りられる。無料でドメインも貸していただける。

 面白いかと思ってやってみることにしました。こちらからは申し込み画面からインスタンス名を指定するだけ。支持に従いPayPalで一ヶ月分前払い5ユーロを払った。今のレートだと640円位。いやになったらいつでも解約できるらしい。

 日本時間11時半ごろ手続きしたが、サービスしてくれるHugoさんがまだ寝ていたらしく、18時半ごろ、インスタンスがセットアップされ、アカウントを作成しアカウント名を教えてとメールが来た。そのとおりにすると、30分ほどで、管理者権限にしたと返事。

 そのあと、しばらく遊んでみたが、どうもフォローした他人のアカウントの投稿が連合タイムラインで表示されない。寂しいので、Hugoさんに問い合わせのメールを出す。インスタンスのセットアップをし直してみたと返信があった。

 しかし、まだ他の投稿がみえないよ。またメールをHugoさんに送った。また調べてくれているようだ。



 マストドンの勉強のためと、やってみたのだが、英語のメールの勉強にもなっている。やむをえなければなんとかブロークンな英語でもメールなら通じる。

 しばらくして、また何処か直してくれたらしい。今度はHugoさんからマストドンでフォローされたという通知が画面に出現。こちらからもフォローし、少しメッセージポストをやり取りして、一件落着した。

 (翌日の追記 翌朝になると連合タイムラインは賑わっていた。すると、インスタンス生成が良くなかったのでなく、ポストが伝搬してくるのに暇がかかっていただけのようだ。それなのに、無知な質問でも丁寧に対応してくれたHugoさんに感謝しなければならない。)

 少し苦労したが、Hugoさんとも友達になれたし、良かったと言うべきだろう。



 いろいろいじってみたが、結局これは私一人の専用インスタンスにするのが良さそうだ。

2017年5月4日木曜日

須賀敦子ふたたび

 故人の愛読書を棺に入れようとして故人の家族が選んだ中に須賀敦子さんの文庫本があった。
『コルシア書店・・・』だったかしら。
これは候補となったが落選した本。


 故人と須賀さんは性格が似ていた気もする。綿密、少しエクセントリックながら正義派。
また須賀さんの本を読み直してみたくなった。

 下りは満員で上りはガラ空きという、おかしな状況下の新幹線で帰路につく。

2017年5月3日水曜日

長姉の葬儀

 一昨年9月に脳梗塞で倒れ、全身不随ながら生きながらえた姉が、4月30日になくなった。私より13才年上。随分可愛がってもらった。
 今日は通夜、明日は告別式。
 陽気な人だったので、あの世でも楽しくくらすと思う。
 
 60年ぐらい前の新婚旅行の時のスナップ写真。女優のようで気品もある。

2017年5月1日月曜日

筆跡鑑定の不思議とモナリザの微笑の謎

 社内の書類は殆どが手書きの時代があった。30年以上前はそれが普通だった。コピーを作りたい場合は薄紙になるべく濃く書いて(このほうがコントラストが良いくっきりした仕上がりになる)、自分で青焼きをした。青焼きの機械は各フロアにあったが、ゼロックスコピー機は高価なので、社内に一つしか無い。プロスペクトへの営業活動にしか使えなかった。

 部内の人々の筆跡は、したがって、皆覚えた。署名がないとしても、見慣れた筆跡で誰が書いたか解る。手書き書類を使わなくなった今になっても、身近な人の筆跡はすぐわかるが、若い人にはこの能力が失われたらしい。たまに、筆跡で書いた人を当てると、驚かれることがあった。

 今でも、手書きで署名することは多い。そして、ホワイトボードを使って議論するときには、手書きをしなければならない。字が下手なのは仕方ないが、読みにくいのは困る。そして自分で書くとき漢字を忘れがちなのもこまる。練習が必要だ。
 
 それはさておき、当時は手書きの文字をみれば誰がどういう気持ちで書いたかわかるような気がした。元気で明るい気分のときには字は大きく、筆圧も強い。元気が無いときには縮こまった、薄い字を書きがちだ。

 最近、空海にはまって参考書や伝記や小説を読んでみた。そして、空海の精神生活に文字が重要な役割を果たしていたことを知った。そして、空海の筆跡の写真も多少眼にした。
 
 空海の字は奔放である。彼の勁さを如実に表している。しかし、何度も見ていると、勁さの中に彼の浪漫性もあらわれているような気がしてきた。自然と関係深い字を書くときなどにその一端があらわれる。

 空海の「月」という字を、真似して描いてみた。筆と墨で書けばいいのだが面倒なので、iPad上のアプリ(Zen Brush2)でやってみた。


 
 三日月が夜空に低くかかり、その三日月が水面に映っているような気配の字だと感じた。あとで、他の書家(たとえば欧陽詢)の「月」の字も見たら、似たような、でも少しニュアンスの違う三日月が感じ取れた。雲をつかむような話では有るが、隠居老人の消閑にはふさわしい話でも有る。

 漢字の成立には自然がおおきく関わる、これは白川静先生に教わったが、すでに成立した漢字でもそれを書くときの書家の環境や気分によって、字体がおおきく変わるだろう。手書き文字にはデジタルな表現の文字が持ちたくても持てない大量の情報が隠されているかもしれない。

 AIを駆使すれば単なる文面に含まれるよりも、もっと大量の情報がわかるかもしれない。デジタルと高精細なアナログ画像情報の共存をはかることが必要な理由がここにある。

 モナリザの画面には、ジョコンダ夫人を微笑ませるために画家が楽師をやとって演奏させた音楽の一節が、痕跡として残っているというSF作家の説を読んだことがある。絵の具が乾きかけるそのときのメロディーの音波が固定されている。ピックアップを使って、モナリザの絵の表面をなぞっていけば再生できると。画面を傷めないようなレーザー光を用いれば可能かもしれない。