2020年10月30日金曜日

悩みつつ米国に戻るトーマス・マンはロンドンからボーイング377ストラトクルーザーに搭乗

『トーマス・マン日記』を読み続ける。

1950年8月4日。
眠れない。友人アドルノは手紙で仕事を続けるにはカリフォルニアの生活基盤を守れと言う。

8月5日。
ヘッセと会おうとしても彼は病気。心臓が悪いと。Kは長時間歩かねば大丈夫。

8月6日。
(窓から?)下のテニス・コートを見ると若いアルゼンチン人が、トレーナーと練習をしている。「ヘルメスの足」。

マンの記述は狂気じみているが、もしかするとこれが『詐欺師フェーリクス・クルル』に生かされているのではないかと思う。日記には何を書いてもいい。

8月12日。
ホテルを出発、途中インスブルックでグレート、フリードと会う。フリードは結局カリフォルニアには行かず、オーストリアの両親のもとにとどまることになった。チューリヒへ。シカゴのメーディからアメリカへ戻らないようにと忠告の手紙。アメリカに戻るとやはりエーリカに身近かにいて欲しいが、エーリカも警察権力にいやがらせされたらどうするか。

8月13日。
イタリア一時訪問中のトスカニーニも戻るのをいやがっている。

8月14日。
四分の三まで戦争状態。その終りを私(トーマス・マン)は見ることがないだろう。弱気、憂鬱。

8月15日。
ホテル・ドルダーまでヒルマン・ミンクスで最後のドライブ。フランツに再会。

8月17日。
空路、ロンドンへ。ランチ付き。

8月18日。
エーリカと今後のことを話しあう。『選ばれし人』を完成させるため、落ち着いた環境が欲しい。

8月20日。8月22日。
ニューヨークヘ飛ぶ。パン・アメリカン航空プレジデント便。Kと2人。

多分この型のボーイング377
出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

8月25日。
シカゴへ。娘メーディと会う。

8月29日。
カリフォルニア着、パシフィック・パリセーズ。夢のような気分で自宅に座っている。

8月30日。
旅行中は味わえなかった気ままな私生活を楽しむ。

8月31日。
久しぶりにぐっすり眠ったあと、Kがコーヒーをいれてくれた。

9月1日。
エーリカがニューヨークから電報をくれた。

9月2日。
Kが膀胱カタル。医者を予約。エーリカが着いた。

9月3日。
アメリカは朝鮮で後退中。朝鮮軍は僅かな装備で戦車に立ち向かっている。

セザール・フランクのヴァイオリン・ソナタを聴く。 

2020年10月29日木曜日

1950年75歳のトーマス・マンは2つ年下のヘッセが歳をとったと嘆いた

『トーマス・マン日記』を読み続けた。

1950年7月12日。
Kの退院で安心したのだろう、やっと良く眠れた。手紙を読んだり、手直し程度の執筆。

K、息子ゴー口と昼食。例のボーイが給仕してくれた。フランツェルと呼んでみる。(フランツちゃんというところかしら?)

ディナーの前に会ったときは、彼は冷たい態度。また落ち込む。さっきチップを5フランくらい渡せばよかった?

これはまるで少年の恋物語ではないか。わざとそう書いているのか。

一方、よく考えると『詐欺師フェーリクス・クルル』(第3部)の材料となったと思う。クルルとイギリスの老貴族キルマノックス卿とのやりとりに似ている。第3部は新潮社版「トーマス・マン全集 第7巻』の後記によると、1951年1月8日以降に書かれたという事になっている。

7月13日。
クノップの精算書に悩んでいることをKにうちあける。誤解で、本来の金額は数千ドルだろう、ともかく悩んでないで問い合わせなさいと言われたのだろう。すぐ、安心している。やはりKが母親でマンは子供。

そうなると、また給仕の一挙一動に関心が向く。

7月16日。
チューリヒからジルス・マリーアへ移動。フランツとの別れはつらかった。

7月17日。
ザンクト・モーリツに移る。

7月18日。
アメリカの情勢と自分たちの将来についてK、エーリカと話し合う。再亡命すべきなのか。ゴーロはアメリカに戻るべきでないと言ったとエーリカが。アメリカに戻ったら再び出国することはできないだろうか。ハーパーズ書店から『私が生きた時代』が出版されるかどうかで判断しよう。1933年アローザの苦い思い出がよみがえる。

7月21日。
ヘッセ邸でお茶。ヘッセは歳をとり、顔がほっそりしている。

1946年のヘッセ
出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

7月24日。
Kの67歳の誕生日。ヘッセ夫妻も呼び、お祝い。

7月26日。
ハーパーズから『私が生きた時代』の校正刷りが届いた。朝鮮に関する小さな変更のみだった。

このため、アメリカに戻る決心がついただろう。それが正しかったかどうかは今になってもわからない。

2020年10月28日水曜日

ノーベル賞作家のトーマス・マンも妻がいないとおろおろするだけ

『トーマス・マン日記』の続きを読み続ける。

1950年戦後二度目のヨーロッパ旅行でのチューリヒ滞在中に75歳の誕生日(6月6日)を迎えるトーマス・マンは、お祝い気分の中に、世界と自分の将来についての不安を覚える。

1950年6月7日。
Kが「旅先」にもかかわらず手術を受けたいとうちあける。

旅立つ前から症状はあったと思うが、米国の病院が気に入らなかったのだろう。トーマス・マンの肺の手術時の経験からくるのか。そしてチューリヒの病院の担当医は亡命ドイツ人で、言葉も通じやすい。

6月9日。
Kが病院へ入院。エーリカが付き添う。

6月12日。
病院で婦人科医のトラウゴット教授から話を聞く。フランクフルトを追われ1935年にチューリヒで診療所を開いたという経歴の持ち主。(注による。)

6月13日。
7日後の手術の予定が決まり、Kは上機嫌。ドイツ人からの「粗野な」手紙をエーリカが始末してくれた。

6月16日。
奇妙な生活。落ち着かない。

やはり、文筆以外の面ではトーマス・マンはお坊ちゃんで、処世能力はあまりない。しっかりした妻のKとの二人三脚でないとやっていけない。

トーマス・マンと妻カトーヤ 1929年ノーベル賞受賞時
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6月20日。
手術成功。痛みはある。

6月23日。
エーリカの「手助け」でホテルを移る。観劇。

7月3日。
ホテルのボーイ、フランツ・ヴェスターマイアー(1931年テーゲルンゼー出身、その後ニューヨーク。で宴会ボーイ長)に好意を持つ。

7月5日。
新しい第27章を書きはじめる。

7月8日。
27章を書きすすむ。

「エーリカはKを見舞う。二人して青年と私の偏愛とを茶化すように話題にしていたのだろう。」

7月10日。
米国の出版社クノップから届いたこの年の精算書は9ドル!?であるという知らせ。

K、退院。9ドルの件はまだうちあけない。早く打ち明けたほうが経済的苦境の打開策を考えてくれるはずだが、身体を気遣った?

7月11日。
ボーイの青年につれない態度をとられ、落胆。

ヒッペやハンス・ハンゼンのモデルである元学友を思い出す。

***

昨日、WiFiのアクセスポイントを新しくしたが、効果は絶大。接続は36時間経っても一度も切れない。MacbookのCPUの負荷も半分くらいになっている。ストリーミングで聴く音楽のダイナミックレンジも上がっている(ような気がする)。つながっているときも回線エラーのリカバリを繰り返していたのではないだろうか。3000円の投資でこの効果を得られるのはありがたい。

2020年10月27日火曜日

トーマス・マンの戦後二度目のヨーロッパ講演旅行。ヒルマン・ミンクスで移動していた。

メモに毎朝日付を書き込む。この頃は、昨日の新聞を見ないと、今日が何日か思い出せない。曜日はわかる。ゴミ出しをしているから。

***

『トーマス・マン日記』また、続きを読む。

1950年3月31日。
旅行のための講演「私の時代」はニューヨークで翻訳中。ドイツ語原稿はエーリカが短縮中。

マンは『選ばれし人』を書きすすむ。トルーマンがマッカーシーを批判。

4月2日。
肌寒いが、テラスで食事。(# この習慣も仕事のため目をさます役割がある?)

4月3日。
まちがえて8時でなく7時に起床。「早起きすると一日が傷つく。」とはどういう意味だろう。神経質すぎるのか?

政治から遠ざかれとマイアーから愚かな手紙。

4月6日。
胃が疲れている。旅行前の緊張か政治的緊張か両方?

執筆はつづける。

4月9日。
剃刀でひげを剃る。旅行には電気カミソリを持っていきたくないのかしら。

4月16日。
夜、モントゥー・コンサート(ラジオ?)を聴いていると、ゴーロがいとま乞いに来た。

4月19日。
出発の日。散髪。

4月23日。
シカゴで講演会。1000人収容のホールは満席。マイクを使って話す。

マンはこの講演「私の時代」で、「西欧の民主主義が自己の生命を守るためにロシアの共産主義とともに立ってナチ=ファシズムと戦ったのはつい昨日のことでした。・・・私は、両者の共同戦線が存続してこそ・・・人類にとって偉大な、いいものが生れ得るのだと考えています。」(新潮社版全集 第10巻、365頁。)と述べた。

4月25日。
ワシントンでの講演が取りやめになったのはうれしい。?

4月30日。
国会図書館でなくカウフマン講堂で講演。

5月4日。
ストックホルム。出発は1日。空路20時間。3日に講演。終了後ビールを飲んだ。

5月17日。
パリの講演と滞在は終り、車(ヒルマン・ミンクス)でチューリヒへ。

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この写真はいすゞが1953年に国産化したものだが、これにちかいものだろうと推測。
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5月23日。
ルガーノ者は昨日。湖の見える5階のホテルの部屋。

ところで車はやはりKが運転したのだろうなあ。ともかく車でヘッセ邸へ。昼食を一緒にとった。ヘッセ邸にはこの滞在中何度も遊びに行った。

亡命前ルガーノにいたのは1933年だった。

『イワン・イリーチの死』を読む。

5月31日。
車でルガーノを発つ。3人?、K、エーリカと。途中名物の鱒料理。チューリヒ着。

6月1日。
フリードと再会。彼は懐かしい『ドリトル先生』を持ってきた。

***

午後一時。昨夕注文しておいたBUFFALOのWiFiアクセスポイントが届いた。早速設置。WiFiの接続不良は解消した!気が晴れた。速度計測したが最速約50メガで前と変わらない。まあ、そもそも100メガ回線なのでしかたない。古いマンションなのだが、ギガの回線引けないかなあ。

2020年10月26日月曜日

無線LANがらみのトラブル対処の一日

一昨日ころから、頻繁に無線LANが切れるようになった。かなり以前から、ストリーミング・ビデオを観ているときなどにまれに勝手にPCやiPadが切断・接続をすることがあった。今回は、それが頻発。PCでもiOS機器でも、発生し、ビデオを観るどころの話ではなくなった。Twitterで「接続不良」とか「WiFi」とかのキーワードで検索してみると多種多様なことが書いてある。早く正常な状態に戻したいとあせると、かえって原因が追求できなくなる。

たとえば、これが原因かしら?と思わせる記事が見つかった。

「Apple、iOS 14/iPadOS 14やwatchOS 7で採用されるWi-Fiネットワークに対するランダム化されたMACアドレスについてサポートページを公開。」 この記事の中の方法をもとに「ランダム化されたMACアドレス」をやめて昔ながらの方法に戻す設定を試みてみた。症状は改善しない。違ったようだ。ルーターとアクセスポイントを結ぶLANケーブルも疑って、入れ替えてみる。これでもだめ。いきあたりばったりはここまで。

問題のあるのが回線系なのか、大分古めのアクセスポイントなのかを切り分けようと、有線LANを試してみる。今のメイン機MacbookProにはLANケーブル端子がない。そこで息子の古いWindows機を持ち出し、LANケーブルに繋ぎ、ビデオを映してみた。3時間くらいHD画像を流したが、切れない。モデムも含めた向こう側は、プロバイダの回線・サーバー共に大丈夫そうだ。

この問、iPadでのビデオは相変わらず接続切れで見るにたえない。

やはりWi-Fiルーターじゃなくて、WiFiアクセスポイントが悪いのだろう。アクセスポイントの換えは持ち合わせてないので、思いきって、安目のものを買うことにする。

Amazonで3000円強のがあった。配達は明日。なので、今回はauひかりのサービス品でなく購入で行く。ギガビット対応でないが、どうせ100メガMaxの光マンション回線なので型落ち品でかまわない。3時間ほど調べたのちポチった。明日到着する。

話変わるが、このマンションの回線をギガビット回線にしたい。でも30年以上経過した建物なので、可能かどうかわからない。まだ末調査なので、調査から始めると、組合員の説得、業者との交渉を含め、導入できるとしても数年はかかるだろう。気が遠くなりそうな話。いつまでここに住んでいるかもわからない。

***

全然読書できず、そして疲れたので昼寝する。

腰は、昨日の湖南料理のおかげか、調子良い。大量の唐辛子で血行が良くなったのだろう。

出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)



2020年10月25日日曜日

愛犬ニーコがいなくなった、が一ヶ月後に新しいプードルがやってきた。トーマス・マンは内田百閒より諦めが早い。

『トーマス・マン日記』の続きを読む。

1950年1月2日。
この日の注によるとアインシュタインの意見はマンの立場を明らかにするうえで重要な要因。

1月6日。
納税申告書をKが書いている。

イギリスが中国政府を承認した。米は台湾をあきらめた。ロシアがアジアで制御目的の核実験。

1月7日。
Kが税理士との相談結果を報告。今年の所得税は16,000ドル。

1月9日。
老犬のニーコがいなくなっており、警察と新聞に(捜索)依頼を出す。大いに心配。

1月20日。
ニーコは11歳。

1月27日。
耳の状態は変わらず悪い。体中の皮膚はかゆい。口も荒れて、喫煙禁止(これには反抗)。
ひげは6日問剃っていない。

こんな中でも『選ばれし人』の仕上げは休まない。

1月30日。
電気カミソリを買う。

夜素晴らしい響きのLPレコード。『三重協奏曲』。

2月8日。
生後8週のプードルの子犬がやってくる。アルガーと名付ける。6週間調教師に出す。

2月24日。
エーリカと相談。小説はほぼ完成したが出版は春以降。講演(旅行)のテーマはショーペンハウアーより『私の時代』。5月にはニューヨークを発つ。

再生装置の名前は「クロスワード・オヴ・メロディーズ」だそうだ。(?)

3月12日。
兄、ハインリヒ死亡。

3月14日。
同、葬儀。

***

昼前から、三軒茶屋に行き、掃除の仕上げ。夕方、3人でJの誕生会。湖南料理店。



2020年10月24日土曜日

『HAPPY DEATH DAY』、『HAPPY DEATH DAY 2U』はストーリー展開が早く、あかるくてホロリとさせるホラー映画

昨夜は、寝る前に映画『HAPPY DEATH DAY』を観た。この映画に関するファンジンをAR友の会の友人の編集長から送ってもらったので、読む前の予習のつもりで観た。単なるホラー映画かと思っていたが、味わい深い作品で驚いた。続編『HAPPY DEATH DAY 2U』も観ることにする。寝不足は美容の大敵なので、まずは就寝した。この後のお楽しみだ。




この石を撒いた。腰が痛い。

午前中は、マンション管理組合の仕事をしたので、午後『HAPPY DEATH DAY 2U』を観た。パラレル・ワールドのアイデアが使われている。主人公が暗記した数式はよくわからない。ともかく、第一作同様、軽快なテンポで、陰惨さがないホラー映画だ。面白い。

ファンジンは明日朝読むことにする。

***

朝読書。『トーマス・マン日記』。

1949年10月26日。
出かけた後の疲労なのか、耳の状態が悪化。好きな音楽を聴く気になれないのは気の毒。

11月2日。
10月31日にサンフランシスコへ飛び、ネールと会談した。

『選ばれし人』19章執筆。読書もたくさん。

11月7日。
「ロシアが、アメリカ帝国主義はドイツと日本の帝国主義を併せたものを大きく凌駕すると語っている。」を書いている……

ミュンヒェンからたくさん本が届いたが読書意欲が湧かない日だ。
昔の蔵書か。

11月19日。
食欲のないエーリカと、我が家の装置のすばらしい音を堪能。
マンはもちろん、ずっと19章の執筆に取り組んでいる。難航。

11月13日。
耳のアルコール治療をすると胸やふとももの皮膚に痒みが出るのに気付く。

仕事への意欲を掻き立てるために音楽を聴く。

11月17日。
こんな時期の、暑熱!

11月22日。
書評や手紙の処理など雑事がイヤになり、グレゴーリウスの完成や、『フェーリクス・クルル』の執筆のことだけ考えたい。

12月26日。
またLPレコードへの不満。
(# LPレコードのことを少し調べよう。この時期の技術水準など?)

***

今日作ったブリの照焼はうまくできた。小麦粉を薄く均等にふり、やや強火で表面を焼くのがいいらしい。照り焼きのタレが良く絡むように余分な油は事前に拭き取る。



2020年10月23日金曜日

16年ぶりの一時帰国で疲れて耳が悪くなったトーマス・マンだが音楽は毎晩聴く

6時起きして『トーマス・マン日記』の続きを読む。

昨日書きもらしたが、1949年8月13日の項の注によると、今回の重要な旅行に関するマンの英語版「報告」が「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」9月25日付けに掲載されたらしい。本文はこの巻の補遺にあるが、図版つきの紙面を見たいものだ。あとで、トライする。補遺を見ると、フランクフルトだけでなく、シュトゥットガルト、ニュルンベルク、カッセル、そしてミュンヒェンにも行ったらしい。ヴァイマルとチューリンゲンにも。

ヴァイマルのマン 
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8月19日。
パシフィック・パリセーズに帰った。帰路、上記の「報告」を書きはじめる。夜、前から好きなメンデルスゾーンの『夏の夜の夢』を聴く。(# 多分トスカニーニのレコードを書斎の電蓄で聴いたのだろう。NAXOSでそれらしい曲を探して聴いてみた。)

8月25日。
「報告」を書きあげる。Kとエーリカに読みきかせ、意見を聞き、翌日は訂正。

8月27日。
『選ばれし人』執筆を再開。

8月29日。
耳の状態は良くないが、好きな音楽は聴く。「新しい長時間録音レコード」を試し聞き。フランクのヴァイオリン・ソナタ。耳ざわりなところがあると。LPレコードだろう。評価が良くないのは耳が弱っているせいではないのか。あるいは器械の調整不足。

9月8日。
ボンで西ドイツ国家樹立。

9月12日。
『選ばれし人』執筆は16章に入った。

9月13日。
入浴しながら考える、体調は悪いが75歳までは生きたい。その時スイスにいるのかはおぼつかない。(# 弱気になっている。朝の入浴は私も定年以降真似している。)

「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」に写真を送る。

9月23日。
ロシアが原爆を保有していると騒動になった。

10月16日。
うっかり9時まで寝てしまい、11時から執筆開始。

10月17日。
7時半起床。マニキュア、コーヒー、入浴。


2020年10月22日木曜日

16年にわたる亡命生活を経て、ドイツへ一時帰国したトーマス・マンは74歳病弱

管理組合のお仕事、午前中は駐車場脇に泥跳ね防止で敷く砕石を100キロ購入。午後は北側部屋出窓の水漏れ状況の聞き取り調査。結構疲れた。

『トーマス・マン日記』のつづきを読む。朝と夕方。


1949年3月22日。
「フィラデルフィアで演奏会場がショスタコーヴィチを拒否。」

3月26日。
午前中は講演旅行用の講演原稿を書く。眼科医ヘ。スルファ剤の治療続ける。気分が悪く読書はできない。晩に『コジ・ファン・トゥッテ』を聴く。

4月7日。
不眠。咳。前日の耳の炎症。目の不調。# 近づくドイツヘの旅がうまくいくのかという不安のせいだろう。

4月25日。
K、エーリカと共に出発。

シカゴへの車中でコンラッド『黄金の矢』を読む。

4月28日。
シカゴで講演会。

4月29日。
大学病院で診察と検査。以前肺の手術を受けた病院だろう。

5月3日。
ワシントン着。講演会。

5月4日。
ニューヨーク。

初めての航空便でイギリスへ。イギリス内講演旅行、オクスフォード大での名誉博士号授与(5月13日)。…

(# すると私の生まれた日にはスコットランドに着陸したころか?)

5月19日。
ロンドン。フランクフルトからは正式な知らせがない。

ストックホルムへ飛ぶ。

5月22日。
息子のクラウス、カンヌで危篤の一報。そして死亡の知らせ。

K、エーリカと相談し、とりあえず講演旅行は最小限続けることにする。

5月29日。
コペンハーゲンへ。

講演。

6月2日。
チューリヒへ。家族再会。

6月3日。
講演会。

6月6日。
74歳の誕生日。喫茶店でお祝い。

6月11日。
マッカーシーよりの報道をするライフ誌と協力した友人を怒るエーリカ。

142頁。6月14日。
朗読会。執筆中の作品の一部をマンはよく読み聞かせて、聴衆の反応をみる。こんな執筆方法が作品の出来映えにどう関係するか考えてみたい。

6月15日。
キュスナハトへ行き旧居に住む昔の家主と昼食。懐かしい。帰りのタクシーの運転手も顔見知り。

6月18日。
フリードが母方の祖父によくなついていて、「本気で嫉妬」。

7月23日。
チューリヒを出発。「戦争にでも出かける気分。」で。日記には略されているが、24日。フランクフルトに入り、記者会見をした。「16年にわたる亡命生活を経て、・・・ドイツへの帰路をたどる。」と地元の報道。その後アムステルダムへ。

8月6日。
ロッテルダムで「ニュー・アムステルダム号」に乗船。

8月13日。
ニューヨーク着。

8月15日。
シカゴ。

8月19日。
パシフィック・パリセーズに帰る。

2020年10月21日水曜日

『トーマス・マン日記』の詳細な注釈にあらためて驚く

『トーマス・マン日記』のつづきを読む。


1949年1月23日。
短い日記と長い注を読むと、マンの日常が透けて見えてくる。書き、孫と散歩し、読書する毎日。政治のニュースにも注意を払う。

1月27日。溺愛の対象、8歳の孫フリードにアンデルセンを読んでやる。この冬から春までフリードとその弟を両親(ビービとグレート)から預かっている。大変だっただろう。

2月1日。
映画『魔の山』構想をコルダ監督と協議。『魔の山』で主人公の「幼馴染」として重要な役割を夢想のなかで果たす、プリービスラフ・ヒッペはシナリオから落とすしかない。(# マンはずいぶん落胆しているようだ。)

編者の詳細な注(# 詳細すぎて本の厚みが2倍以上に膨れ上がっている。たしかにコンピュータの助けとトーマス・マン研究が進んだことにより注が大量になるのだろう )によると1950年7月11日の日記にもヴィルリ(本名)としてヒッペに関する記述があるという。そちらの注を見ると、リューベック時代の学友でヴィリラム・ティンベといい、マンが下宿していた高校教師の家の息子。

同じ注に、『トニオ・クレーゲル』の幼馴染ハンス・ハンゼンのモデルはやはり学友アルミン・マルテンスだとのこと。

同性の幼馴染たちを詳細に記述することによりトーマス・マンは、彼らへの愛情を香り高い文学に昇華させている。

3月12日。
いつも膨大な量の手紙が届く。中には答えなくてはならないものもあるが、手紙書きで、午前中の仕事を邪魔されるのはイヤだ。(# 電子メールのある世界を教えてあげたいものだ。)

***

明日はマンション管理組合の仕事で一日忙しくなりそうだ。