2020年10月28日水曜日

ノーベル賞作家のトーマス・マンも妻がいないとおろおろするだけ

『トーマス・マン日記』の続きを読み続ける。

1950年戦後二度目のヨーロッパ旅行でのチューリヒ滞在中に75歳の誕生日(6月6日)を迎えるトーマス・マンは、お祝い気分の中に、世界と自分の将来についての不安を覚える。

1950年6月7日。
Kが「旅先」にもかかわらず手術を受けたいとうちあける。

旅立つ前から症状はあったと思うが、米国の病院が気に入らなかったのだろう。トーマス・マンの肺の手術時の経験からくるのか。そしてチューリヒの病院の担当医は亡命ドイツ人で、言葉も通じやすい。

6月9日。
Kが病院へ入院。エーリカが付き添う。

6月12日。
病院で婦人科医のトラウゴット教授から話を聞く。フランクフルトを追われ1935年にチューリヒで診療所を開いたという経歴の持ち主。(注による。)

6月13日。
7日後の手術の予定が決まり、Kは上機嫌。ドイツ人からの「粗野な」手紙をエーリカが始末してくれた。

6月16日。
奇妙な生活。落ち着かない。

やはり、文筆以外の面ではトーマス・マンはお坊ちゃんで、処世能力はあまりない。しっかりした妻のKとの二人三脚でないとやっていけない。

トーマス・マンと妻カトーヤ 1929年ノーベル賞受賞時
From Wikimedia Commons, the free media repository

6月20日。
手術成功。痛みはある。

6月23日。
エーリカの「手助け」でホテルを移る。観劇。

7月3日。
ホテルのボーイ、フランツ・ヴェスターマイアー(1931年テーゲルンゼー出身、その後ニューヨーク。で宴会ボーイ長)に好意を持つ。

7月5日。
新しい第27章を書きはじめる。

7月8日。
27章を書きすすむ。

「エーリカはKを見舞う。二人して青年と私の偏愛とを茶化すように話題にしていたのだろう。」

7月10日。
米国の出版社クノップから届いたこの年の精算書は9ドル!?であるという知らせ。

K、退院。9ドルの件はまだうちあけない。早く打ち明けたほうが経済的苦境の打開策を考えてくれるはずだが、身体を気遣った?

7月11日。
ボーイの青年につれない態度をとられ、落胆。

ヒッペやハンス・ハンゼンのモデルである元学友を思い出す。

***

昨日、WiFiのアクセスポイントを新しくしたが、効果は絶大。接続は36時間経っても一度も切れない。MacbookのCPUの負荷も半分くらいになっている。ストリーミングで聴く音楽のダイナミックレンジも上がっている(ような気がする)。つながっているときも回線エラーのリカバリを繰り返していたのではないだろうか。3000円の投資でこの効果を得られるのはありがたい。

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