ラベル 森有正 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 森有正 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年4月28日金曜日

トイレで読む本は間違って選ぶのがよい、住所はいくつも並行して持つのがよい

 尾籠な話で恐縮だが(口ばっかりですが)、今朝いつもの用足しに行くときいつものように読みかけの本を持っていった。座っておもむろに開いてみると、第三巻のつもりが第二巻だった。仕方ないのでパラパラめくっていると、いままで気づかなかった、文庫本解説ならぬ対談があるのに気づいた。そこで対談をありがたく読んだ。

 今、ハマっているが、いろいろ気が多いので、なかなか読み終えない夢枕版の空海の文庫本『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』(2010年 徳間文庫)の第二巻の後ろの、夢枕氏と岡本光平氏(現代書家)の対談だ。

 空海がハマった「書」の話が中心である。彼の異常とも言える言語能力は、どうも「書く」ことにより鍛えられたと、勝手に解釈した。
 そして「雑体書」と雑体書の中の「飛白体」に興味をひかれた。これらについても調べが必要だ。たとえば、ここを見る。石川九楊先生にも「相談」する

 そして、絵が絶望的に下手な私にとっては、手書きで行うべきなのは、「書」であろうと、今思った。とりあえず、今日のプロジェクトは「飛白体」で書いてみること。雑体書のなんたるかをその過程で知ることとしよう。このアイディアは本の選択を間違ったおかげ。さっそく書いてみた(*^^*) やっぱり下手だが、筋はいい(嘘)。



 ところで、空海の第三巻には、こんなことが書いてある。密教という当時の新しい知識を知るには、梵語を深く知る必要があった。たとえば言葉の多義性からくる深いニュアンスの理解力など。空海は総合力を発揮してそこまで短期間に理解を深めた。

 また、密の根本は天を素晴らしいと思うだけでなく人も素晴らしいと思うこと。そして同じ天の裡にあるなら、唐にいようと日本にいようと大差はない。

 したがって、長安にいようと日本に帰ろうとかまわないわけだ。ちょっと謎が解けた\(^o^)/

 なるほど、するとパリにいてもどこにいても構わない。なぜなら若いときにパリで過ごした人にとっては、どこまでも理想のパリがついてくる。こう言ったヘミングウェイ(『移動祝祭日』)にも通じる。森有正先生も晩年はよく日本とパリと両方に滞在していた。弟子の辻邦生先生も、パリと日本両方に住居を持っていた。どちらでも自由に仕事が出来ていた。

 うらやましいですね。

 

2017年1月7日土曜日

リルケと森有正そして田部井淳子さんとブログ




 朝、食事(サラダ、ハム、トースト、紅茶、りんご)をしながら、NHK-TVを観ていたら、田部井淳子さんが最後に福島県の高校生を、富士登山に連れて行った件のドキュメントをやっていた。3,000メートルを越して自分は登れなくなったが、笑顔を作って高校生たちを励ます。
 自分の心に叶うことなら最後の最後までやり通せるだろう、とTVを観ている人までを励ます人だった。

 そうじをしながら、定年後ずっと使って、一昨年隠居したMacbookを復活させ、クラシック音楽専用機としてセットアップ。仕事中のBGMは、これとやはりお古のiPhone4SのJazz専用機を使い分けることにする。古くて小回りがきかないマシンも、使いようでなんとか役に立つ。(自分もそうかも。)

 ブログの内容はこれでいいのか、考え始めたが、結論はこれでよい。何でも書くべきだと思い始めた。

 しかし、このようなことを狙いたいという希望は、常に更新していきたい。たとえば...

 光文社文庫の『マルテの手記』が、Kindle Unlimitedでまた読めるようになったので、拾い読みする。パリという大都会に上京したリルケの、戸惑いと、芸術への憧憬、幼児の思い出などを、「マルテ」という人物の独白的日記や架空の友人への手紙などという形で、緊密なストーリー性はなしで、覚書風に書き綴る。

 森有正先生の『バビロンの流れのほとりにて』も、同じような形態を取っていることに気づいた。

 彼らの場合、このようなものを書くことが、仕事いや、生きるということだった。

 「都市の空気は自由にする」というドイツのことわざを、高校の世界史の先生にならったが、(お名前が記憶の底に沈んでまだ出てきません。数日これ関係のことを考えているうちに思い出したいもの)、この時代の、特にパリは、本当に仕事をする人間を自由にしたのだと思う。

 ただし、その自由は、森有正先生のおっしゃるように、恐ろしい「孤独」のなかに得られる。しがらみのなかに安住し(それは必ずしも楽しいだけの安住ではない)ているより、寂しくもあり、孤独でもあるなかで「仕事」をしなければならない。

 なお、ここで言っている「仕事」とは、賃金を得るための労働ではない。

 隠居の身で太平楽を並べるなと言われそうだが、ともかく物質的には貧しいなかで、精神的には豪奢に考え、それをブログに書いていかなければならない。

 田部井さんは死の直前まで、エベレストの稜線らしきものを紙に描いていた。

2016年10月22日土曜日

森有正先生の日常

森有正先生の日常
バビロンの流れのほとりにて』より引用

「今の僕のパリで始まっている生活をちょっと書こう。朝のめざまし時計で五時半に起床し、すぐ洗面をして、コーヒーをわかして、パンと一緒にとる。それから八時半まで、かせぐための東洋医学の仏訳をし、それを終えるとすぐ外出し、前のカフェー・ギマールで三十フランのカフェー・オーレーをもう一度飲む。サン・ジャックとゲーリュサックの角か、リュクサンブールの駅前から、二一か二七か、八一のバスに乗って、パレ・ロワイヤルで降り、リシュリュー街を通って、ビブリオテーク・ナショナルに入る。そして夕方の六時まで仕事(デカルト研究)をする。食事は、近所の小さいカフェーで、サンドウィッチとコーヒーとですませ、時には自分で作ってもって行って、席で食べてしまう。…
 午後六時に研究が終ると、またバスに乗ってカルティエ・ラタンに戻り、安いレストランに入るか自分の部屋で自炊する。それから十時半か十一時になるまでは自由な時間で、日本の新聞雑誌に出すものを書いたり、手紙を書いたり、好きな本を読んだりする。その他一週に一度アンスティテュ・パンテオンに仏作文の稽古と、一カ月に二回、ジャコブ街のM夫人(ワール教授の知合い)のところへハイデッガーをドイツ語で読みに通う。以上の仕事の日課は月曜から金曜までの五日間で、土・日は完全に休み、自由に時間を使う。僕はこのシステムを今後少なくも四、五年間、推しすすめてゆかなければならない。…
 しかし僕にとって、この生活は限りなく生甲斐があるのだ。僕はこの生活のリズムを固く維持し、数十年を経過したいと思う。青春がすでに過去となった僕に、こういう生活が待っていたことは何というよろこびだろう。」

 この境地に達していたのは先生が留学を始めて数年後、そして亡くなるまで20年以上ほぼ似たような生活が続いたと思う。
 自分はすでに森先生の亡くなられた年齢をいくつか超えてしまった。改めて、自分をはげまさなくてはならない。

日常シリーズ開始しました。ここの真似です(^o^)