2020年8月3日月曜日

『共同幻想論』と『江戸漢詩』(中村真一郎)を並行して読む意味は……ある

『共同幻想論』対談のビデオ書き起こし(私家版)はようやく、ビデオの最後までたどり着いた。もちろん、読み直すとあらが目立つ。しかし、この作業の目的、対談で先崎さんと鹿島さんが何を言っていたのかをざっくりと把握すること、は達成できた。このあと、自分なりの感想を考えたい。それを書くことにより、吉本隆明は、『共同幻想論』を通じて何を言いたかったのかを考えはじめることができるだろう。

対談の最後に取り上げられた二つの質問は、非常に重要だ。対談の司会者がいくつかの質問から、これらを取り上げたその慧眼におどろく。

(1)『共同幻想論』にはなぜ「結論」が省かれているのか。
(2)家族と社会の関わりが薄い今の状況を、『共同幻想論』的にどう考えていくべきか。

(1)に関して言うと、吉本は読者に、安易な結論を与えることを拒否したのだろう。そして、『共同幻想論』を難しく思う私のようなものにも、自分の頭で考えるという自由を与えてくれる。吉本の「結論」は、鹿島さんと先崎さんの答えを読むと見えてくるのだろうが、そこにすぐ飛びついてはいけないと思う。『共同幻想論』は教科書ではないので、正解を探すのは無意味だ。吉本は「科学的」に、仮説検証のプロセスを辿らせようとしているのかも。

(2)を考えることは、『共同幻想論』を今読む意味を考えるという、大きな命題を考えることになる。これは、大問題でさすがの鹿島さんも、先崎さんも回答に苦しんでおられた。答えは、ないと言うのが簡単だが、それでは身も蓋もないので、ゆっくり考えてかつ行動して行かなければならないのだろう。

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昨日、Twitterでやり取りしたあることがあって、そのことから大学でフランス語を教えてくださった原二郎先生をまた思い出した。ご著書や、訳書、編集された本などを眺め、過去にこのブログに書いた記事を眺め、国会図書館で入手したいくつかの論文や雑誌記事などを見直してみた。ばらばらの資料類を筋の通った目で見るために、自分用の『原二郎覚書』のようなものを、まとめてみたくなった。書くことで、次になにを調べるべきかがわかってくるだろう。

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井波律子さんの書評に触発されて読み始めた中村真一郎の『全ての人は過ぎてゆく』は、もう少しで読み終えそうだ。出版文化の衰退の証拠(たとえば原稿料の驚くべき低下)など、興味深いいや憂うべきことがたくさん書いてある。


中村真一郎は病後の安らぎを得るために漢詩を読みふけったそうだが、その際に書いた本『江戸漢詩』(岩波書店)の中古本を注文しておいたが、今日届いた。これにもなるべく早く目を通したい。いそいで読む本ではないのだが。

とりあえず読んだまえがきで見つけてしびれた一節。

「歴史が一直線に進歩するという信念は、十九世紀の迷信に過ぎない。」

そして、江戸期の漢詩の文化を忘れ去った明治以後の日本、これは現代の混迷の原因の一つではないのか……と思いながら、このさきを読むつもりだ。 


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