2020年8月26日水曜日

先延ばししていた免許更新をやっと実現、熱中症に怯えながら

免許更新に二俣川の免許試験センターへ行く。暑い。午後に行ったせいか、普段に比べ空いている。すでに高齢者講習を受けているので、今日は講習はなし。目が悪くなっていたが、なんとかおまけしてもらった。眼鏡のコーティング(ブルーライト軽減用)が、紫色に写ってしまうということで、眼鏡を外して撮られたが、出来上がった写真を見ると、見知らぬ老人が写っている。更新は多分これで最期で、次の機会には返納しようと思う。

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朝、早起きして『頼山陽とその時代』を読む。

もう一度戻って、9頁のまえがきをまた見る。「無数の可能性の中途半端な実現の束が人の一生」とある。10頁には、「事実だけを配列した伝記が面白くなってきた」とある。このあたりに、しみじみと同感している。

167頁。
第三部「山陽の交友」のまえがき。100年前は日本の代表的文学者は山陽だと言われていた。『日本外史』、『日本政記』、『通議』(経済論)を書いたのだから。ところが、「参加の文学者」であり死後に尊皇攘夷派に担がれたが、山陽は実は晩年特に体制主義者だった。

168頁。
森田思軒の『頼山陽及其時代』(国会図書館DLにある)によれば、幾多の朋友の中心点だったという。

169頁。
当時、朋友たちは互いに交際、手紙のやりとりを頻繁にした。交通の不便さがかえって互いの出会いを深めていたと中村真一郎先生は言う。

170頁。
京摂の友人たち。山陽は江戸進出を狙い、20年間京都で準備したのに、江戸に行く直前に病没してしまった。

このあと、友人の羅列。

篠崎小竹(1781〜1851)、処世上のリアリスト。山陽の天才を愛でる秀才。そこを山陽も利用する。人の良いボス。

172頁。
小石元瑞(1784〜1849)、開けた(開けすぎた?)蘭医。

175頁。
浦上春琴(1779〜1846)、父玉堂と同じく、画人。

176頁。
北条霞亭(1780〜1823)、志摩的矢出身。山陽と深い付き合い。同年代。昌平黌を出て1811年に京都に行き、山陽と出会う。二人で京儒を罵る。霞亭は茶山を訪問し、廉塾における山陽の後釜にされる。茶山の姪と結婚させられる。福山藩主が気に入り、江戸へ引き抜く。茶山は失望した。大目付格儒官兼奥詰。古賀穀堂と結んで学術研究団体を作り活躍。結局は優柔不断のうちに死。墓碑銘を書いたのは晩年の山陽。やはり親友だった。

北条霞亭については、まず森鷗外を読まなくてはならない。

185頁。
武元登々庵(1767〜1818)は明日。

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読書途中で見つけたが

『古本年鑑 第2年版』のなかの随筆も面白そう。データももちろん大事だが。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1868285


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