2017年2月19日日曜日

マイルスの音楽の描く放物線は頂点を極めたか、コカインの悪影響も

 『マイルス・デイビス自叙伝 2』のつづき。

 1968年。「イン・ア・サイレント・ウェイ」。ジョー・ザヴィヌルとの素晴らしいコラボレーション。ひよっとしたらこれが最高のアルバムかも知れない。(あくまでも個人的意見(^^; )

 ロックの世界の人気が高まっていた。俺は拗ねるのでなく、ロックの奴らの良い所は認め、取り入れた。まだ俺には未来があり、それに向かって進むつもりだった。(ここはビミョーな表現)

 1969年「ビッチェズ・ブリュー」。レコーディングは創造的な過程で、動的に生きた作曲作業で進んだ。ビデオにも撮ればよかった。

 コカインの消費量が増してきた。

 次の数年間でも怒濤のようにアルバムを作った。憑かれたように。
 「ビッグ・ファン」、「ライブ・イビル」、「ジャック・ジョンソン」、「ブラック・ビューティー」、「マイルス・アット・フィルモア」、「ゲット・アップ・ウィズ・イット」、「オン・ザ・コーナー」、「マイルス・イン・コンサート」など。それぞれのレコードで違うことをやった。だれも聴いたことのないやつを。創造的時期だった。

 たくさんのミュージシャンを使って仕事した。1970年。年収は40万ドル。(有名だった割には少ないとも言えます(ToT) )

 1971年。ダウンビート誌のジャズマン・オブ.ザ・イヤーになった。

 俺の音楽にエレクトロニクスを入れた。音楽理論も勉強した。

 1974年。音楽をやめることを真剣に考え始めた。ブラジルで心臓麻痺をおこしかけた。

 このあと6年間暗闇の時が来る。トランペットには手をふれなかった。復活の自信も無かった。(143ページ)



 やりきれなくなり、『ドゥルーズの思想』(ドゥルーズ 1980年 大修館書店)を眺めはじめる。一行目から引き込まれる。
 「インタビュー、対話、対談、―「自分自信を説明する」のはとても難しい。」



 マイルスの自叙伝もインタビューをもとに別人が書き起こしているが、本当にマイルスを語り尽くしているかは疑問だ。仕方ないが。

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