2017年2月18日土曜日

ぼくは赤鉛筆と雑学がすき(*^^*)

 昨日、買物のついでに赤鉛筆を買ってきた。今まで本を読みながらポイントをチェックするのに、ポストイットを使っていたが、面倒になったため。
 能率は上がる。本は汚れるが、どうせ古い本が多いので、構わないことにした。赤ボールペンだと手が汚れたり、裏写りしたりで好ましくない。

 『マイルス・デイビス自叙伝 2』のつづき13章。(12章のモード奏法は後回し。)
 赤鉛筆でマークしたところは...
 1960年ころ、オーネット・コールマン他の「フリー・ジャズ」がはやった。俺(マイルス)はすべてのスタイルができるので、彼等の唯一のスタイルに合わせて演奏もしてやった。クールだけれどなんの様式も構造もない。

 1961年プロデューサーのテオ・マセロは録音テープを切り貼りして編集する技を使いだした。「ポーギーとべス」や「スケッチ・オブ・スペイン」あたりからだ。
 「サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム」のジャケットにに当時珍しかった黒人女性のポートレートを使わせた。当時の恋人フランシスだ。馬鹿げたライナーノーツをやめさせもした。音楽はそれだけで何かを語るものだ。

 カーネギーホールにも出演し、年に20万ドル稼げるようになった。
 トレーンやビル・エバンスがヘロイン中毒になっていた。困ったものだ。俺は家ではクラシックを聴いていたが、ビルの影響だ。

 1962年オヤジが交通事故の後遺症で60で死んだ。落ち込んだ。

 トニー・ウィリアムスやハービー・ハンコックをスカウト。このころからバンドリーダーとしての才能が開花したらしい。

 1964年東京へ行った。ビューティフルな人々がいた。

 ジャズは死んだという人々がアメリカでは増えた。フリ一ジャズの影響だ。ジャズは過去のものになり、お勉強するものになっちまった。

  ジャズクラブは店をたたんだ。ミュージシャンも元気なくなった。一所懸命働き、演奏し、他と一緒にやろうとする意欲のあるミュージシャンがいれば偉大なバンドができるのに。

 俺のところにはトニーやウェインやロンやハービーがいた。俺はただのリーダーだった。俺と一緒にやりいずれはリーダーになる奴等だった。

 1965年、「E.S.P.」、「マイルス・スマイルズ」、「ソーサラー」、「ネフェルティティ」を作った。

 有名人ともいろいろつきあった。覚えているのはジェームス・ボールドウィンだ。偉大な人だった。南フランスの彼の家で過ごしたものだ。

 病気をしたが、良くなった。1968年「キリマンジャロの娘」を作った。チック・コリアやロン・カーターと。(72ページ)

 ジェームス・ボールドウィンの代表作『Go Tell it on the Mountain』を読んでみた。感じをつかむのでKindleのサンプル版で充分。英語圏のやや有名な作家なら、かなりの著作がKindle化されている。サンプル版でよければ無料で読める。必要となったら購入すればいい。便利だ。


 ボールドウィンは、学生のころ植草甚一先生の本で紹介してもらった。その時の本を出して少しよんでみた。ハクスリーの『知覚の扉』の紹介も載っていた、『ぼくは散歩と雑学がすき』(1970年 晶文社)。今でも文章を書くときの模範としている本だ。


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