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2017年2月26日日曜日

マイルス・デイビスとクリフォード・ブラウンの生い立ちのちがい

 いまのところ胆石の発作は起きていない。脂肪分とコレステロールを避けた食事のせいだろう。でもなんだか、爆弾を抱えているような気がして、心の片隅に怖さを感じている。気分転換が必要。

 マイルスの自叙伝を読んで、感じたのは、同時期の(ただし一方は早死=事故死だったが)トランペッターなのに、クリフォード・ブラウンと性格がまるで違うなということだった。



 そこで、昔買ったクリフォード・ブラウンの伝記を捜してきた。少し拾い読みして違いの原因を探りたい。
『クリフォード・ブラウン 天才トランペッターの生涯』(ニック・カタラーノ著 川嶋文丸訳 2003年 音楽之友社)。

 ファンの片割れなので、発行時にすぐ買って読んでいる。しかし今回のマイルスの自叙伝ほど熱心に読んでなかったので、詳しいことは忘れている。

 生い立ちの違いがありそうだ。

 クリフォード・ブラウンはデラウェア州ウィルミントン生まれ。マイルスのような金持ちの家庭ではない。しかし、裕福とは言えないが、彼の家庭は暖かく結束していた。彼は8人の子供たちのなかの5人の男兄弟の末だが、彼がいじめられたりしないように兄たちはいつも弟をかばった。

 デラウェア州の共和党政府は黒人の差別にはできるだけ加担しないような政策をとったらしい。ウィルミントンの黒人社会は両大戦中には良いコミュニテイ意識があったようだ。家族内だけでなく黒人社会内でも民主的な空気が流れていたようだ。

 高校や大学(黒人専用カレッジ)に進学しても、好きなトランペット以外の勉強にも励んだ。教師たちも親切だった。

 こんななかでジャズ界にデビューして、順調に有名になり、26歳(1956年6月26日)でなくなるまで、挫折は経験していないだろう。クスリにも手を出していない。必要がなかったと思う。もし彼が何らかの形で、演奏に絡むところで差別を受けたらどうなっていたかを、マイルスの例と比べてこれから考えてみたい。

 体調が優れない朝は、マイルスよりも。クリフォード・ブラウンの底抜けに明るい音を聞きたくなる。今も「The Best of Max Roach and Clifford Brown in Concert」を聴きながキーボードを叩いている。

 マイルスの自叙伝にはブラウン死後の盟友マックス・ローチの落ち込みぶりとともに、ブラウンに対する賛辞がたくさん書かれている。『クリフォード・ブラウン』の本の索引を見ただけでは、マイルスの名は出てこない。本当に本文にもないのか、なければ、それはなぜかということも追求の対象になる\(^o^)/

2017年2月22日水曜日

『マイルス・デイビス自叙伝 2』紹介(最終回)



 1987年、「ツツ」がグラミー賞をとった。
 欧州や日本へ公演に行く。米国と違い、俺を尊敬してくれる。
 1988年、大親友のギル・エバンスが死んだ。音楽のアプローチが似ていた。金儲けはへただった。
 ジェームス・ボールドウィンも死んだ。
 年末に気管支肺炎にかかった。シシリーと離婚。

 1989年。ワーナーから「アマンドラ」を出した。コロムビアは1985年に作った「オーラ」を出した。

 自分はこの時にも芸術家として成長していた。従来通りにだ。

 成長という目でみると、ウェイン・ショーターやトニー・ウィリアムスやハービー・ハンコックとやることにより、高音域で音楽をとらえられるようになった事が大きい。感謝している。

 ジャズ・ミュージシャンは常に成長し、変化しなくてはならない。批評家は面倒くさがるが。

 黒人は日本人と似ているところがある。笑うのが好きで、型にはまらない。

 コカインもタバコもやめた。

 俺の人生で創造的だったのは、1945年から1949年まで。1954年から1960年。1964年から1968年も悪くはない。そして現在。絵も描き、作曲もし、すべての知識を活用している。

 毎日の演奏のたびに一歩前進するように頑張る。(原本は1989年に出版された。マイルスは1991年65歳で亡くなった(T_T) )

 自叙伝を読んで、今まで敬遠していたマイルスのCDをきちんと聴けるようになった。ジャズとは何かについて、少し解るようになった。

 この自叙伝には数多くのミュージシャンの名前があがっている。主要な人々については、別途勉強したい。その意味で良いものを読んだ\(^o^)/ 息子様が彼のCDを大量に所有していて、助かった。

2017年2月21日火曜日

栄光の中の翳りを感じるマイルス、こちらは中学生の時を思い出した

 体調がすぐれないときは読書よりも、ビデオ鑑賞や音楽を聴くのが楽で良い。テレビを見るのもきつくなることがあり、ラジオかまれ親しんだ音楽に切り替える。

 今朝、食事をしながらユーミンの作った「フェアウェル・パーティー」を聴いていたが、昔の彼氏や先生の言葉は覚えていないが、顔や仕草は思い出すという一節があった。

 突然、中学の世界史の後藤先生を思い出した。メガネをかけて長身色白の先生だった。「橋の下の文庫」(なぜ橋の下の文庫なのかは知らないが)と、自分の口を両手の指で横に拡げながら言ってみろと、授業中に突然言い出す。やってみるとわかるが、「bunko」とはどうしても言えず「b」が発音できない。クラス内は大盛り上がり。

 世界史の授業も面白かった記憶はあるが、具体的な事柄はアタマから抜け落ちている。ただし、歴史は面白いということのみ体に染み付いたが、それが大切なことだろう。本当の教育者だったわけだ。感謝している。



 『マイルス・デイビス自叙伝 2』はそろそろ佳境を通り過ぎようとしている。1984年、「デコイ」でまたグラミー賞。

 「ユア・アンダー・アレスト」をレコーディング。この題名は有名にも関わらず、白人には迫害を受けていた現実が反映している。かなしいことだ。デンマークで「ソニング賞」(?)を受賞。普通はクラシックの音楽家に与えられる賞だ。

 1985年。「オーラ」を録音。

 コロムビアは俺よりウィントン・マルサリスを厚遇。たしかに技術はあるが、立派なジャズを演奏するには人生に対する理解や感情が大切なんだ。

 「ユア・アンダー・アレスト」はコロムビア最後のレコード。ワーナー・ブラザースに移る。移籍金は7桁だ。1986年にかけて世界ツァー。絵を描き始める。コレクションも始めた。

 読書はしないが、新聞や雑誌はよく読んだ。そこから情報を得る。CNNもよく観た。糖尿病が悪化し、インシュリンを打ち始めた。

 1985年シシリーとの関係が一層悪化した。友人でいるべきだった。神経症をわずらった。でも彼女は1986年に俺の60歳パーティーを開いてくれた。

 1986年。「ツツ」をレコーディング。多重録音手法を採用。プロならできる。

 ホンダのバイクのCMにちょっと出演したら、ものすごく人気が出た。これが音楽活動の成果なら嬉しいのだが。(218ページ 次回最終です。)

 マイルスの晩年は、高級車フェラーリに乗り有名人と付き合うような栄光の中に、人生の苦さがにじみ出る日々だった。幸せだったら素晴らしい音楽は残されなかっただろう。しかし、彼の苦しみの中に芸術家の宿命が如実に現れる。それだからこそ、彼の音楽を聞きたくなる。
 凡人の戯言ではあるが。

 『ドゥルーズの思想』より。
 「裁判官であるよりは掃除婦でありたい。人生で道を誤った人ほどお説教をしたがるものだ。」

2017年2月20日月曜日

マイルスは復活した!そしてドゥルーズも勉強開始!


 ドゥルーズの『ドゥルーズの思想』(1980年 大修館書店)は、フランスでは1977年に『Dialogues』という題名で出版された。クレール・パルネという方との対話から生まれたとある。

 はじめから、対話の形態にはなっていない。しかも、対話なんて成り立たないということが書いてある。「お前は何になるか」という質問は馬鹿げていて、人はその「生成変化」につれて、何になるかも変わっていくからという。

 本はうやうやしく扱うものでない、概念は通じるかどうかが問題で理解したり解釈したりするものではない。#と手厳しい。

 美しい書物とは、すべての誤読を許す書物であり、外国語で書かれているのと同じだ。#ちょっと元気出る話ですね。

 偉大な思想家は不確かな個人生活と不安定な健康の中で、「大いなる健康」の状態の生命を持っている。

 すごいすごい\(^o^)/

 感心したので、仏語版も見たかったがKindleにないのでとりあえず諦めた。インターネット・アーカイブには英語版なら転がっていたのでながめることにする。


 『マイルス・デイビス自叙伝 2』つづき。
 コカインや酒に溺れて、数年をすごしたマイルスだが、1980年(49歳だ!)に世捨て人のような生活から、奇跡の復活を果たす。ジャズミュージシャンの何人かとかつての恋人シシリーの助けのおかげもあるが、本人の音楽に対する強い意志のおかげだろう。

 コロムビアの新しい担当のジョージ・バトラーは俺の音楽的好みや判断を尊重するといい、上層部も説得してくれた。

 新しいメンバーと「ザ・マン・ウイズ・ザ・ホーン」を作り始めた。音楽に対する妥協ない精神はまだ生きていた。

 秋になりビル・エバンスが死んだ。ミンガスも前年に亡くなっている。俺はヤクから足を洗い*つつ*ある。
 1981年の春には、ステージにも立てた。体の不自由な黒人が演奏を喜んでくれる姿にも素直に感動した。泣き崩れそうになった。秋には日本公演にも行った。あいかわらずの大歓迎だった。

 1981年7月に、「ザ・マン・ウイズ・ザ・ホーン」が発売された。よく売れた。良くしてくれたシシリーと正式に結婚した。とたんに態度が大きくなった(T_T)

 薬草治療を受け、体は良くなってきたが、卒中で右腕が一時動かなくなった。アルコールをやめ、ペリエだけをのんでいたら治った。

 ロックの影響でギターをやる若者が増え、そのせいでジャズにはますます人気がなくなった。でもロックでもいいものはいい。プリンスなど最高だ。

 「ウィ・ウォント・マイルス」や「スター・ピープル」をアルバムとして出した。

 1982年のグラミー賞を「ウィ・ウォント・マイルス」で取った。

 1983年夏の終わり。「デコイ」のレコーディングにとりかかった。秋にはヨーロッパに行き、ワルシャワでは大歓迎を受けた。ソ連のアンドロポフ首相はリムジンを差し向けてくれた。俺の耳にはまだ、聴衆の”ウィー・ウォント・マイルス”という歓声が聞こえている。(184ページ)

 #「お前は何になるか」という質問は馬鹿げていて、人はその「生成変化」につれて、何になるかも変わっていくという意味のドゥルーズのコトバが身にしみた。

 黙々と勉強するのみ。

2017年2月19日日曜日

マイルスの音楽の描く放物線は頂点を極めたか、コカインの悪影響も

 『マイルス・デイビス自叙伝 2』のつづき。

 1968年。「イン・ア・サイレント・ウェイ」。ジョー・ザヴィヌルとの素晴らしいコラボレーション。ひよっとしたらこれが最高のアルバムかも知れない。(あくまでも個人的意見(^^; )

 ロックの世界の人気が高まっていた。俺は拗ねるのでなく、ロックの奴らの良い所は認め、取り入れた。まだ俺には未来があり、それに向かって進むつもりだった。(ここはビミョーな表現)

 1969年「ビッチェズ・ブリュー」。レコーディングは創造的な過程で、動的に生きた作曲作業で進んだ。ビデオにも撮ればよかった。

 コカインの消費量が増してきた。

 次の数年間でも怒濤のようにアルバムを作った。憑かれたように。
 「ビッグ・ファン」、「ライブ・イビル」、「ジャック・ジョンソン」、「ブラック・ビューティー」、「マイルス・アット・フィルモア」、「ゲット・アップ・ウィズ・イット」、「オン・ザ・コーナー」、「マイルス・イン・コンサート」など。それぞれのレコードで違うことをやった。だれも聴いたことのないやつを。創造的時期だった。

 たくさんのミュージシャンを使って仕事した。1970年。年収は40万ドル。(有名だった割には少ないとも言えます(ToT) )

 1971年。ダウンビート誌のジャズマン・オブ.ザ・イヤーになった。

 俺の音楽にエレクトロニクスを入れた。音楽理論も勉強した。

 1974年。音楽をやめることを真剣に考え始めた。ブラジルで心臓麻痺をおこしかけた。

 このあと6年間暗闇の時が来る。トランペットには手をふれなかった。復活の自信も無かった。(143ページ)



 やりきれなくなり、『ドゥルーズの思想』(ドゥルーズ 1980年 大修館書店)を眺めはじめる。一行目から引き込まれる。
 「インタビュー、対話、対談、―「自分自信を説明する」のはとても難しい。」



 マイルスの自叙伝もインタビューをもとに別人が書き起こしているが、本当にマイルスを語り尽くしているかは疑問だ。仕方ないが。

2017年2月18日土曜日

ぼくは赤鉛筆と雑学がすき(*^^*)

 昨日、買物のついでに赤鉛筆を買ってきた。今まで本を読みながらポイントをチェックするのに、ポストイットを使っていたが、面倒になったため。
 能率は上がる。本は汚れるが、どうせ古い本が多いので、構わないことにした。赤ボールペンだと手が汚れたり、裏写りしたりで好ましくない。

 『マイルス・デイビス自叙伝 2』のつづき13章。(12章のモード奏法は後回し。)
 赤鉛筆でマークしたところは...
 1960年ころ、オーネット・コールマン他の「フリー・ジャズ」がはやった。俺(マイルス)はすべてのスタイルができるので、彼等の唯一のスタイルに合わせて演奏もしてやった。クールだけれどなんの様式も構造もない。

 1961年プロデューサーのテオ・マセロは録音テープを切り貼りして編集する技を使いだした。「ポーギーとべス」や「スケッチ・オブ・スペイン」あたりからだ。
 「サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム」のジャケットにに当時珍しかった黒人女性のポートレートを使わせた。当時の恋人フランシスだ。馬鹿げたライナーノーツをやめさせもした。音楽はそれだけで何かを語るものだ。

 カーネギーホールにも出演し、年に20万ドル稼げるようになった。
 トレーンやビル・エバンスがヘロイン中毒になっていた。困ったものだ。俺は家ではクラシックを聴いていたが、ビルの影響だ。

 1962年オヤジが交通事故の後遺症で60で死んだ。落ち込んだ。

 トニー・ウィリアムスやハービー・ハンコックをスカウト。このころからバンドリーダーとしての才能が開花したらしい。

 1964年東京へ行った。ビューティフルな人々がいた。

 ジャズは死んだという人々がアメリカでは増えた。フリ一ジャズの影響だ。ジャズは過去のものになり、お勉強するものになっちまった。

  ジャズクラブは店をたたんだ。ミュージシャンも元気なくなった。一所懸命働き、演奏し、他と一緒にやろうとする意欲のあるミュージシャンがいれば偉大なバンドができるのに。

 俺のところにはトニーやウェインやロンやハービーがいた。俺はただのリーダーだった。俺と一緒にやりいずれはリーダーになる奴等だった。

 1965年、「E.S.P.」、「マイルス・スマイルズ」、「ソーサラー」、「ネフェルティティ」を作った。

 有名人ともいろいろつきあった。覚えているのはジェームス・ボールドウィンだ。偉大な人だった。南フランスの彼の家で過ごしたものだ。

 病気をしたが、良くなった。1968年「キリマンジャロの娘」を作った。チック・コリアやロン・カーターと。(72ページ)

 ジェームス・ボールドウィンの代表作『Go Tell it on the Mountain』を読んでみた。感じをつかむのでKindleのサンプル版で充分。英語圏のやや有名な作家なら、かなりの著作がKindle化されている。サンプル版でよければ無料で読める。必要となったら購入すればいい。便利だ。


 ボールドウィンは、学生のころ植草甚一先生の本で紹介してもらった。その時の本を出して少しよんでみた。ハクスリーの『知覚の扉』の紹介も載っていた、『ぼくは散歩と雑学がすき』(1970年 晶文社)。今でも文章を書くときの模範としている本だ。


2017年2月17日金曜日

『マイルス自叙伝 2』買い直しが必要だ(T_T)、手に入れるまで別の本をよみます\(^o^)/


 『マイルス・デイビス自叙伝 2』を読み始めた。12章が都合により抜けた。大したことないだろうと思ったが、13章は「スケッチ・オブ・スペイン」の録音が終わって疲れた、というところから始まっている。

 『2』の巻末にはディスコグラフィが載っているので、調べたら、『1』の最後12章の「マイルス・アヘッド」(1957年)から、1959年末の「スケッチ・オブ・スペイン」の間にはすごく重要なレコードをたくさん出している。

 「死刑台のエレベーター」(1957)、
 「サムシング・エルス」(1958)、
 「マイルストーンズ」(1958)
 「ライブ・イン・ニューヨーク」(1958)
 「マイルス・アンド・モンク・アット・ニューポート」(1958)
 「ポギー・アンド・ベス」(1958)
 「カインド・オブ・ブルー」(1959)

 モード奏法もこの間に確立しただろうし、12章を手に入れて読まないことには話にならない(T_T) なんとかする。つまり文庫本で第2巻を手に入れなければならない。なので、少々お待ちください。

 昨夜、『脱原子力社会へ』(長谷川公一 2011 岩波新書)が届いた。先にこれを読むことにしよう。

 とおもいつつも、『トーマス・マン日記 1946-1948』のドイツ語版が読めるかどうかも心配で、少しパラパラやってみた。前の巻までは日本語で読んでいるので、だいたい何が書いてあるかは、想像がつくはず。とたかを括っていたが、やはりドイツ語の基礎が無い悲しさで、ムツカシイ。
 


 しかし、ここでドイツ語基礎を一から勉強するのはイヤなので、無理やり辞書をひきながら読むことに決めた。

 春一番が吹いているらしく、暖かい。体には良さそうだ。アタマはボケそうですが(^o^)

2017年2月16日木曜日

Twitterであれこれ御託を並べていたら、トーマス・マン日記の続き(1946-1948 ドイツ語版)が到着\(^o^)/

 Twitterでいろいろメモをしておいたので、まとめてブログ記事に仕立てます。常套手段化している。寝転がっているときにはTwitterは便利なのです。音声入力も試してみたいがまだ実行してません。

 「1938年のCost of Living」というTweetを見つけた。ガソリンが1ガロン10セントだって、安い!

 朝のニュースをTVで観る。トランプ大統領に対する批判的報道。そのバックに夕日の眩しさに眩しそうな彼の顔の映像。眩しいというより苦しげに見える。そこで次のTweetをした。

 TVニュースの背景映像には誤解を招く(わざと招かせる)ものがある。イメージによって人の判断を狂わせないように十分吟味し、誤解を招くような映像は抜きにしてほしい。
視聴者がよく判断を加えないといけないのはもちろんだ。
判断をする余地がある新聞報道の生きる道はここだ。ガンバレ!

 八つ当たりかもしれない。反省して。次のTweet.

 自分の言明は間違いを含むことが常にあるが、なおかつ真実への限りない追求の手段である。他者との正しい協力でその追求はより早まる。
科学のいや学問全般の良い教育を受けた人々なら、このことを実社会でも常に思い出して行動しなければならないし、できるはずだ。

 ちょっと偉そうすぎ。

 Amazon中古で「ドゥルーズの思想」(ジル・ドゥルーズ)を購入手続き。初めてドゥルーズを買うしよくわからないので、他の本でもいいのだが、これが安かった。到着が楽しみだ。

 佐藤優さんの『知の操縦法』を読む。体系的知が必要との前半はすぐわかったけど、後半のヘーゲルを用いた現代解釈はじっくり構えて読まないと。
『ポストモダンの共産主義』はコミュニズムを、佐藤さんのヘーゲルの位置におく。面白そう!

 「Sketches of Spain」を聴きながら読書。
マイルスとギル・エバンス(編曲・指揮)のコンビは最高だ(^o^)/

 ついでに、「BIG FUN」も聴いた。「Return to Forever」とほとんどメンバーも曲も同じだが、マイルスの睨みがきいているのか、少しこちらが真面目な演奏。ザヴィヌルやショーターやコリアの若々しい感性。

 その後、大ニュース。郵便屋さんがやってきた。
 おー、届きました。英国の古本屋さんから。やはり日記なので、辞書ひけば意外に易しそう。#トーマスマン日記1946-1948



 \(^o^)/

 ところで残念なニュースもあり、『マイルス・デイビス自叙伝』の続き(第2巻)を読もうとしたら、12章が抜けてます。安物買いで、違う編集の単行本(第1巻は文庫本だ)を買ったのが敗因。善後策を検討中です。とりあえず、今日はおやすみ。

2017年2月15日水曜日

1950年台後半、このころのマイルスの演奏が好きだ!

『マイルス・デイビス自叙伝 1』。
 1955年、「ミュージングス・オブ・マイルス」を作る。俺が望んでいたものに近い演奏になった。

 このころの演奏を聴くと、マイルスの明かるい気分が窺えて、実に楽しい気分になります。しかし、マイルスは止まるところなく、音楽的な完成への道をひた走りに走ります。

 そのころ、大会社のコロンビアが契約をしようとアプローチしてきた。前渡し金4000ドル、毎年30万ドルという破格の条件だ。受ける事にしたが、不遇時代に助けてくれたプレスティッジには恩義がある。1年間の残り契約中に4枚分のレコードを作った。

 1956年、入院して喉頭の良性腫瘍をとった。直後に大声で口論してしまい、声がしゃがれてしまった。白のメルセデス・ベンツを買った。独身者用の部屋を借りた。

 6月にコロンビアのために、「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」に入る曲を吹き込んだ。この頃、クリフォード・ブラウンが自動車事故で死んだ。長生きして欲しかったのだが。

 パリに行き、グレコとよりを戻した。サルトルとも再会した。「サン・ジェルマン」クラブで、バド・パウエルの演奏を聴いたが、みるかげもない様子だった。

 クラブでの演奏は週2500ドルになった。1957年3月クスリと縁の切れないコルトレーンやフィリーのクビを切った。

 5月、ギル・エバンスと「マイルス・アへッド」を作った。再びパリに飛び、「死刑台のエレベーター」の音楽を担当。
(1巻はこれで終了、次回からは2巻へ)

 ドゥルーズだけでなく、勉強の種はどんどん増えていく。今朝見つけたのは、長沼伸一郎さんの『物理数学の直感的方法』。経済学(統計)版もある。面白そう。

 そして、AmazonPrimeビデオに『エニグマ』(2014年)が入っているのを発見。歯医者に行った後、早速見てしまった。すると、アラン・チューリングについても調べたくなった。Kindleでかなり読めそう。

 近所ではビル解体工事が進んでいる。でかけて写してみました。爆撃の後のロンドンみたいだ。


2017年2月14日火曜日

マイルスはヘロインを断った!そして至高の芸術へと再出発する

 バレンタイン・デー、昨年と同様にミニカー付きのチョコレートを頂いた\(^o^)/



 蛋白質の不足と、糖分の過剰は胃に良くないという説を聞いたので、思い当たる節もあり、昨夕から鳥の胸肉と低脂肪牛乳や卵中心の食事にした。取りあえず調子は良い。

 『マイルス・デイビス自叙伝 1』のつづき。
 ビリー・ホリデイやチャーリー・パーカーの例をあげて医療用の麻薬の効果も述べている。
 ただしマイルス本人は超人的(といっていい)努力で、ヘロインをやめた。1回でやめきれた訳ではないが、とにかく理性の力で克服した。いい気分だった。

 突然ニューヨークに戻るのは、誘惑が多すぎて危険なので、デトロイトに行った。クリフォード・ブラウンとも一緒に演奏する機会があった。
 ボクシングのチャンピオン、シュガー・レイ・ロビンソンを見習って麻薬の魅力に対抗して頑張った。ニューヨークに戻る自信も湧いてきた。

 19542月にニューヨークに戻った。カルテットでレコーディングしたいとブルーノートとプレスティッジに電話した。3月にレコーディングできた。アート・ブレイキー、パーシー・ヒース、ホレス・シルバーと一緒だ。名作「ウォーキン」はこのときのものらしい。

 夏にはソニー・ロリンズの曲もやった。
 ヘロインはやらなかったが、コカインは常習癖に陥らないので少しやっていた。

 ヘロインをやらなくなると自信ができ、批評家の戯言には耳を貸さなくなれた。大きな態度だと批判する奴らもいたが、気にしなかった。演奏がすべてだ。

 ボクシングをまた習い始めた。シュガー・レイのボクシングも演奏も同じだ。正しい奏法がマスターできたら、あとは自分のやりたいこと追求すれば良い。

 ギル・エバンスの助言を受けるようになった。


 ジュリエット・グレコがニューヨークにやってきた。1949年以来久しぶりにウォルドルフ・アストリアで会ったが、仲はぎくしゃくした。後にはまた仲良くなるのだが。

 12月に「マイルス・デイビス・アンド・モダン・ジャズ・ジャイアンツ」をレコーディングした。

 19553月にバードが死んだ。気が滅入った。ヘロインをやめる奴が増えた。(312ページ)

 どんな時にもマイルスは音楽一筋だった。栄光の高みは近い。


 ところで、昨夜松岡正剛先生のブログを読んでいたら、ドゥルーズという哲学者のことが出てきた。Twitterで坂口さんも触れていたのを思い出した。Kindle無料の本はないので、お試し版をダウンロードして読んでみた。翻訳だが、妙に読ませる。中古本を入手して読んでみたくなる。


2017年2月13日月曜日

梅咲いて天下の春を知り、カナダ旅行を夢見る

 ベランダに鉢植えした梅が今年はじめての花を咲かせた。春はもうすぐだ。嬉しくて涙が出た。花粉症のせいかも知れないが。


 カナダのことを知りたくなり、とりあえずKindle Unlimitedで読みやすそうな、歴史の本をよみはじめた。寒そうだが面白い。セルビア付近からもベーリング陸橋を伝って、アジア系の種族がきている。他にもシベリアなどからイヌイットなど。10世紀にはじめてのヨーロッパ人が来た。アイスランド近くから、漂流して。


 『マイルス・デイビス自叙伝1』。1949年5月に23歳のマイルスはパリに演奏に行った。パリは気に入ったらしい。サルトルやピカソやジュリエット・グレコに会った。話があった。グレコとは話があいすぎて、恋におちた。セーヌの岸辺を一緒に散歩もした。

 アメリカにもどったが、寂しさのあまり、ヘロイン中毒が亢進。このあと4年も苦しむことになる。
 父親の助けを借りて入院したり、刑務所に「自主的」に入ったりして(!)ヘロインと手を切ろうとしたが、なかなかうまくいかない。

 そのなかでも音楽は続けた。プレスティッジやブルーノートからそのころ実用化されたLPレコードに吹き込んだ作品を出した。3分というSPレコードの時間制約がなくなり、表現の幅が広がった。

 有名になるにつれて、白人達がクール・ジャズとして俺の猿真似をしはじめた。ヘロインに苦しめられた精神の生んだ、悪口と捉えたい。
 新進トランペッターとしてチェット・ベイカーが持て囃されているが、本当にすごいのはクリフォード・ブラウンだぜ。

 1952年26歳のマイルスを、批評家は過去の人としてとらえはじめていた。(254ページ)

 


 

2017年2月11日土曜日

原発事故を理解するには技術的知識が必要、マイルスは「クールの誕生」を出した

 事故調の最終報告書概要(H24.7.23)続き。以下抜書とコメント。

ーーーーーここから 
2.重要な論点の総括
(1)抜本的かつ実効性ある事故防止策の構築
専門家が技術的・原子力工学的な面で具体的抜本的に取り組むべきである。
  #あたりまえだが、最重要なことをさらりと書いてある。
(2)複合災害という視点の欠如
(3)求められるリスク認識の転換
学者の知見をもとにしたリスク認識では不充分だった。考えられない規模の災害も起こりうることを認識するべきこと。
(4)「被害者の視点からの欠陥分析」の重要性
(5)「想定外」問題と行政・東京電力の危機感の希薄さ
経済性を考えると現在の知見における「想定外」リスクは意図的に排除されてしまう。これを克服する知恵を絞った行政と経営が必要。
(6)政府の危機管理体制の問題点
(7)広報の問題点とリスクコミュニケーション
(8)国民の命に関わる安全文化の重要性
これを認識した活動を東京電力に求めたい!
(9)事故原因・被害の全容を解明する調査継続の必要性
ーーーーーここまで

(1)が核心だが、この調査委では他人事とした嫌いがある。これを本当に受け止めて誰か動いてるのか?

 そこで自分なりに、「技術的」に調べることにした。
福島原発の原子炉の構造をまず調べてみる。結果は明日。


 『マイルス・デイビス自叙伝』の読書も続く。
163ページから。
 ジャムセッション好きのバードのやり方も、玄人が集まればいいが、素人がまじるとうまく行かない。かつ毎回違うスタイルになる。マイルスは固定メンバーでバンド特有のサウンドを作ってみたくなった。
 このころコカインとタバコはやったが、マリファナやヘロインはやらなかった。バードもヘロインには手を出すなと諫めてくれた。

 1947年のエスクァイァ誌ではトランペットの新人賞、ダウンビート誌の批評家投票ではディズと同点で一位となった。すごい事だ。

 ニューヨーク52丁目は衰えて、47丁目(ブロードウェイ)にジャズの中心が移った。バド・パウエルは偉大なピアニストだが、気持の弱さからヘロインにおぼれ、病院での荒っぽい治療に耐えかねて精神を病んでしまった。バードはその治療に負けなかったが。

 1948年から1949年にかけての音楽活動の成果として「クールの誕生」というレコードを作った。ビバップのわかりにくさがなく、スイートで口ずさむこともできる音楽だった。成功した!(188ページ)

 今読んでいるのは、『自叙伝』第一巻だが、注文しておいた第二巻が届いた。これは単行本のほうだ。1990年、JICC出版局。




2017年2月10日金曜日

事故調の福島原発報告書を読み始める、一方マイルス・デイビス自叙伝も読み続ける

 事故調の報告書は中間報告(H23.12.26)と最終報告(H24.7.23)に分かれている。事故が発生したのはもちろん平成23年3月11日だけれど、ずいぶんのんびりした調査だ。

 最終報告書概要というのがあり、きょうはその最初の三分の一、「l.主要な問題点の分析」を読んでみた。自分なりの(不十分だが)抜粋を書いてみた。以下。

ーーーーーここから
 (1)事故発生後の東京電力等の対処及び損傷状況に関する分析
第2原発より古い第1原発では対応マニアルが古い。したがってSC(圧力制御室)の監視や制御が不足。ただし未解明の状況が残されている。
(2)事故発生後の政府等の事故対処に関する分析
現場におけるオフサイトセンターが不充分。首相からの権限委任がうまくいかなかった。官邸側の対応体制も不充分で情報伝達の混乱があった。
(3)被害の拡大防止策に関する分析
特異性の大きな事故。モニタリング体制やSPEEDIの活用不足。避難指示については中間報告参照。プラスアルファあり。
(4)事故の未然防止策や事前の防災対策に関する分析
PSA(確率論的安全評価)手法が活用されてない。
(5)原子力安全規制機関等に関する分析
他組織との交流不足
(6)東京電力に関する分析
危機対応能力欠落(組織、教育、熱意、文化)
(7)IEAE基準などとの国際的調和に関する分析
国際機関との調和を行っていない。
ーーーーーここまで

 この地震と津波の発生は大天災なので、すこしは仕方ないが、事故前後の混乱は実に甚だしい。ほとんどが人災。ここまでわれわれに危機対応力がないとは信じられないがこれが現実だった。これをベースに考えなくてはならない。マイナスにおおきく振れている状況を、ゼロに戻し、プラスにしていくには相当な努力が必要そうだ。


 すこし、めげたので、口直しにマイルス自叙伝を読む。ここではたぐいまれなその能力に磨きをかけ、おおきく羽ばたく寸前の若者がいる。

 自叙伝147ページ以降。
 以前からつきあいのあった、ビリー・エクスタインがロサンゼルスにやってきたついでにマイルスにニューヨークに戻ってこいと告げる。もちろん高給で雇うということ。東に向かう途中デトロイトで悪い仲間に勧められ、コカインとヘロインをやってしまう。元気がでたり、リラックスしたりした。皆は、これをやればバードのような演奏ができると思い込んでいた。しかし、マイルスの求めているのはバードの閃きだ。ともかく、クスリをやったのは大きな間違いだった。

 ニューヨークに戻り、52丁目のJazzのにぎわいを味わった。凄腕のミュージシャンが毎晩いろいろなクラブに出演し、すごい熱気だった。空前絶後だ。

 マイルスはレスター・ヤングの流れるようなスタイルも学んだ。

 戻ってきたバードと共演した。バードの創造性と音楽的アイディアは底なしだ。それを説明してもらうのではなく、感じ取れるようになった。自分が既にわかっていることの他に、もう一歩進んだ演奏をすることを学んだ。何事にも(バードが突然あたらしいことをやりだしても)対応できる準備ができてきた。

 自分自身で学べというのがバードの流儀だった。マイルスは、学んだ。(160ページ)

 このあたりのバードとの名人的師弟関係にはしびれます。



 しびれたので、息子様のCD棚から、マイルスのCDを3枚借りてきて聴くことにした。もちろん、全部Appleのストリーミングで聴けるのだが、CD付属のブックレットで、録音日や演奏者データや解説を読みながら音楽を聴くのもなかなか捨てがたい楽しみだ。

2017年2月9日木曜日

メルトダウンは怖いので勉強する、マイルスのことも勉強する

 寒い日だ。体を冷やすと胃にこたえるので、暖かい部屋で読書しようとしていたが、トイレの排水が流れにくくなり、対策に追われた。ラバーカップを使えばよいと気付いたが、屋内を捜しても見当たらない。落ち着いて考えると、以前ベランダの隅に片付けたのを思い出した。

 慌てると思考力と判断力が鈍る。普段の仕事でも、落ち着きが肝心だ。

 最近、福島原発のメルトダウンした核燃料のことが報道されている。圧力容器から漏れ出て格納容器に一部があるらしい。ビデオが撮られたそうだ。

 格納容器からも核燃料デブリは漏れ出し、原子炉の基礎コンクリートも溶かそうとしている、あるいはすでに溶けて、地盤にまで達している可能性も取り沙汰されている。
 溶融した核燃料が再度、臨界に達して大爆発を引き起こすこともありうると思われる。チャイナ・シンドロームは単なる悪夢でなく現実化するかも知れない。この場合、ここ神奈川でも避難を考える必要がでて来る。

 命が惜しいので、原発事故のことを真面目に調べることにした。
どこから手をつけたら良いかわからないので、いつもの学習手準を使う。

 まずは、原発について思うことや知っていることを簡単な文章にしてみる。そして、文章に書きながら出てくる具体的な疑問点を調べ、また文章にする。漫然と他から知識を得ようとすると必ず挫折する。

 とりあえず事故調の報告書のポイントを抜き出して、そこから考えて、自分用のレポートを作ろう。



 一方、マイルス・デイビスの自叙伝の読書も続けたい。

 まだ若い(19歳)マイルスは、金になると聞き、西海岸へ飛ぶ。1946年、ウェストコーストジャズが盛んになりかけだったのだろう。しかし奥さん(アイリーン)と子供は東セントルイスに置いて行かざるを得なかった。

 もちろんバードとも一緒に演奏している。カリフォルニアではマリファナは手に入ったが、ヘロインは入手が難しく、バードは四苦八苦。酒に溺れたり、ベンゼドリンも使ったりで、当然体が駄目になっていく。

 そんな中でもダイアルでのレコーディングでは、インプロバイザーの実力を発揮して、すばらしい演奏を後世に残す。マイルスも一部に参加して、演奏になんとかついて行った。この頃はもう、手とり足とりではなく、俺(バード)について来いという指導のやり方だったようだ。ここで養った実力を発揮するのはもうすぐだ。

 マイルスの事跡を知ることによって、いままでちよっと敬遠していた彼の演奏が、聴きやすいものに変化してきた。素人の音楽趣味の変化なんてこんな他愛ないことだが、でも嬉しい\(^o^)/

2017年2月8日水曜日

マル経とバード、きょうも宿題が出ましたよ\(^o^)/

 机でブログを書くときはMacBookProと24インチディスプレイと外付けキーボードを使っている。エディターはWeb上のWriter。一応書いたものをブログの投稿画面にコピーする。

 机以外では何を使うか迷っていた。今回は少し考えて、iPad上の「メモ」アプリに手書き入力(Mazec)で書き、ブログに流し込むことにした。机代わりにはトーマス・マンに倣って60cm×36cmの板を使うことにした。特製でなく実はアイロン台である。家人がアイロンがけする時は取り上げられる。

 いまは、2冊の本を並行して読みはじめた。『国家と神とマルクス』(佐藤優)と、『マイルス・デイビス自叙伝1』(中山康樹訳)。

 それぞれ昨日は100頁ずつ読んだ。

 『国家と神とマルクス』。29ページに、獄中で読んだ220冊の本のうちの愛読書30冊のリストが掲載されている。数冊は、読んでみたくなるが、残り大部分は難しそうである。しかし、だからと言って『国家と神とマルクス』自体を投げ出したくなるわけでなく、かえって興味が増す。
 35ページには、『獄中記』も『国家の罠』も(どちらも国策捜査を受けた経験を書いたもの)よく売れたと書いてある。佐藤優の知的能力が評価されたのだろう。
 43ページのメディア論がおもしろい。活字メディアはイメージを思い浮かべるときに思考を要求するが、テレビはイメージが同時に届くので思考停止を招くとしてある。なるほど!
 有償の講演は引き受けていない。l回60万のオファーが良く来るが、これになれるとコツコツ本を書くのが馬鹿らしくなり、書かなくなってしまう(つまり勉強しなくなる)からという。(44ページ)
 これはすごく頷ける話だ。

48ぺージのマルクス経済学の方が近代経済学よりもこれからのシステムを説明でき、政治で言うとドイツ社会民主主義の知的遺産が重要としてあるところも気になる。イギリスの社会主義とあわせてこれから勉強したい。

 『マイルス・デイビス自叙伝1』。
 東セントルイスを出て、ニューヨークに来たマイルス青年は、親の手前一応ジュリアード音楽院に入る。しかし本当の目的は、「ミントンズ・プレイハウス」で武者修行することである。最初は気後れしていたが、すぐに頭角をあらわす。もちろん先輩プレーヤーのあとおしも重要だった。
 先輩の中に、あのチャーリー・パーカー(バード)がいた。彼の演奏はピカ一でとても真似はできない。しかしいつかはあの境地に達したいとマイルスは思ってきいている。バードも「お前なら大丈夫」と太鼓判を押してくれた。バードは演奏の時はシャンとしているが、その前後は、つまりほとんどの時間は飲んだくれているか、ラリっている。あるきっかけでマイルスの部屋に連れて来たら、そのまま居つかれてしまった。

 ここは推測だが、この修業時に、バードと生活を共にした事がマイルスのこのあとの生き方に、良いことも悪いことも大きく影響しているのだと思う。

 バードは演奏時以外はそんな状態なので、具体的な教えはディズ(ディジー・ガレスピー)とモンク(セロニアス・モンク)に受けた。

 105ページに重要なことが書いてある。「ビバップの頃は、みんなとにかく速く演奏していたが、オレはやたらスケール(音階)をたくさん吹くのは嫌いだった。オレはコードの中から、一番重要な音を捨おうをしていたんだ。」
 この後のマイルスの方向を定めるような決定を彼はすでに下していた。

 えーと、そうなると、チャーリー・パーカーの生涯にもあたっておかなくてはならない。宿題増えた\(^o^)/

 バードについては参考書持ってます。↓



2017年2月7日火曜日

マイルスの"So What?"を聴きながら、読んで、書く、また楽しからずや、ズルズル

 再度読み始めた 『知覚の扉』は薬の説明が長く、ようやく十分の一グラムを水に溶かしてのんだところで、また寝てしまいました。ハクスリーの英語とはあまり相性が良くないかな。



 夜中(ラウンドミッドナイト(^_-) )に起き出して、夕方掘り出した『マイルス・デイビス自叙伝1』(2000年 宝島社文庫)を読みはじめる。随分前にブックオフで105円(!)で買ったのですが、『同 2』も105円で見つけてからまとめて読もうと思い本棚にしまいこんでました。数年たっても『2』はみつからず、読むのを忘れていました。

 今回、クスリの件を勉強しようとして、思い出したので探し出して読み始めました。すると、おっ…面白い。夜中なのに本から目が離せません。自叙伝としてありますが、腕利きのジャーナリストのインタビュー兼聞き書きです。本人のモノローグ形式にしたててあります。Youtubeでよくあるインタビュービデオより、わかりやすい。
 マイルスは金には困らない家庭に育ったようです。順調にスターへの道を辿り始めました。それがいつ・なぜ麻薬に捉えられたのか。そして彼の芸術とインスピレーションにどう影響したのか。興味津々なところは、これから読みます。

 今朝起きて、あわてて『自叙伝2』をAmazonさんで注文しました。文庫本より前に出た単行本にしました。送料とあわせて800円くらいですが、背に腹は変えられません。

 昨夜、本当に寝る前に、鎮静剤としてビル・エヴァンスを小音量で聴きました。で、よく考えてみたら、ビルもクスリはやっていたはず。ググってみると兵役についたとき(1951年ころ?)手を染めてしまったらしい。彼の写真はほとんど口を閉じた、ムッとした顔をして写ってますが、クスリの影響で歯がすごく悪かったせいだという噂が書いてあります。YouTubeでインタビュービデオをみると、たしかに、前歯が何本か欠けてます。お兄さんとの音楽談義なのですが、内容は深かった。技術的鍛錬と即興演奏の関連性について。
 ビル・エバンスも調査対象にします。あと、バードことチャーリー・パーカーも。なお、クスリからはクリーンにもかかわらずものすごい即興演奏を遺したクリフォード・ブラウンも。クリフォード・ブラウンの伝記はいつか買って読んだので、要発掘。

 いま、参考書として、植草甚一先生の本をいくつか納戸部屋から掘り出してきました。そのうちの一冊がこれ。『ジャズの前衛と黒人たち』(1967年 晶文社)。学校の科目よりこの本をほうをよく勉強したものです。



 昨夕、息子様と話をして、最近私がはまった、佐藤優氏の本を貸してもらいました。そのうちの『国家と神とマルクス』(2007年 角川文庫)を読み始めました。『獄中記』の下地があるので、最初から没頭できます。佐藤優氏はクヤシイくらいに筆力と知力が素晴らしく、有無を言わせず読ませるタイプです。「ドラえもん」を遥かに凌駕するかもしれないです。読んでいると自分も勉強したくなってしまう。この点で松岡正剛先生に代わりうるヒトかもしれません。文章としては私の私淑しているのは植草さんですけど。



 体調が回復するに連れて、読書ページ数は増えていきとまりません。花粉症の鼻水もズルズルと、とまらないけど。