書簡集(新潮社版全集12巻)をめくっていたら、538ページにトーマス・マンは「ジーンズの本は以前夢中になって読んだことがあります。」と書いている。1952年にカリフォルニアからスイスの知人に書いた手紙の一節である。年代から見てこれはJ.ジーンズ卿の宇宙論の通俗本であろう。もちろんトーマス・マンのことだから本気になったら論文まで読んだだろうが。
1929年のリタイア以降ジーンズはいくつかの一般向けの紹介本を書いている。この材料をもとにして「フェーリクス・クルル」の食堂車のなかのK教授のお話を書いたのだろう。当時F.ホイルとともにジーンズも定常宇宙論を支持していたと思うがもちろんこれは「フェーリクス・クルル」にははっきりとは反映されていない。
2011年6月20日月曜日
2011年6月12日日曜日
地球・火星・金星の気象モデルの講義を聞いて思うこと
今朝の放送大学講義は、地球の気象環境モデルに関して。大きなファクターは太陽からのエネルギー放射(の受け取り)と地球からの惑星放射のバランス、そして大気の温室効果と大気中の気流や海洋中の海流の対流効果。明快なお話だった。
もちろんこれは現在分かっていること(データが取れていること)をまとめて、ストーリーとして描かれた科学的なモデルである。理論の科学性は単にそれが誰かの主観で正しいか判断できることではなく、その反証可能性による。異なるデータが出てくればモデルは(つまり理論は)造り直さねばならない。
火星については地球に比べて、データが少ないのでまだまだモデルは地球のそれに比べ不完全である。新しい宇宙船が火星に到達するたびにモデルは大幅に書きなおされる。金星に関してはモデルの相対的不完全さがもっと大きく実はほとんど判っていないとも言える。
われわれがビジネスおよびビジネスシステムに関して作るモデルに関しても同じようなことが言えそうだ。人によってはどこかに正解があって、それを直感で理解し書き下ろそうと考える、これが失敗のもとなのではないか。
せめて火星レベルぐらいまでデータを集める努力をして、モデルを慎重に組み立てる必要がある。金星レベルのデータ理解のもとに無理やりモデルを作ってしまうケースが多そうだ。この場合、地球モデルを下敷きにしてしまうのが世の常だろうが、多分使い物にならない。地球と金星はまったく条件が異なるし、地球モデルがいかに組み立てられているかを理解していないからである。
ところで講義された今村先生ってすごい秀才タイプの風貌でした。(勝手なこと言ってすみません。)
もちろんこれは現在分かっていること(データが取れていること)をまとめて、ストーリーとして描かれた科学的なモデルである。理論の科学性は単にそれが誰かの主観で正しいか判断できることではなく、その反証可能性による。異なるデータが出てくればモデルは(つまり理論は)造り直さねばならない。
火星については地球に比べて、データが少ないのでまだまだモデルは地球のそれに比べ不完全である。新しい宇宙船が火星に到達するたびにモデルは大幅に書きなおされる。金星に関してはモデルの相対的不完全さがもっと大きく実はほとんど判っていないとも言える。
われわれがビジネスおよびビジネスシステムに関して作るモデルに関しても同じようなことが言えそうだ。人によってはどこかに正解があって、それを直感で理解し書き下ろそうと考える、これが失敗のもとなのではないか。
せめて火星レベルぐらいまでデータを集める努力をして、モデルを慎重に組み立てる必要がある。金星レベルのデータ理解のもとに無理やりモデルを作ってしまうケースが多そうだ。この場合、地球モデルを下敷きにしてしまうのが世の常だろうが、多分使い物にならない。地球と金星はまったく条件が異なるし、地球モデルがいかに組み立てられているかを理解していないからである。
ところで講義された今村先生ってすごい秀才タイプの風貌でした。(勝手なこと言ってすみません。)
2011年6月9日木曜日
W.Fleming Leavittをめぐる人たち(4)
Williamina Paton Fleming 1857生-1911没 初めてE.C.Pickeringの「人間コンピュータ」として雇われた。1881年には正式雇用。もともとはE.C.Pickeringの家の女中さんでスコットランドからの移民。ご亭主に捨てられてE.C.Pickeringに雇ってもらったのを感謝して彼の名前を息子につけたとか。
給料が安いと文句を言いながらも、持ち前の才能と気力を活かして、H.Draperカタログ作成の基礎を作る。A.J.Cannonは彼女の後輩。
給料の話は別として「人間コンピュータ」達は仕事には愛着をもっていたらしい。E.C.Pickeringのマネジメントもうまかったのだろう。
給料が安いと文句を言いながらも、持ち前の才能と気力を活かして、H.Draperカタログ作成の基礎を作る。A.J.Cannonは彼女の後輩。
給料の話は別として「人間コンピュータ」達は仕事には愛着をもっていたらしい。E.C.Pickeringのマネジメントもうまかったのだろう。
![]() |
| 真ん中で立っている女性がフレミング Harvard College Observatory - https://hollisarchives.lib.harvard.edu/repositories/4/archival_objects/1134143, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10392913による |
2011年6月3日金曜日
S.Bailey Leavittをめぐる人たち(3)
S.Bailey 1854生-1931没 先輩であり、Pickeringの後、短期間天文台長を務めShapleyに後を譲る。44年間Harvard 天文台に勤務。Pickeringの仕事を助ける。アレキパ(ペルー)の天文台にもたびたび赴任し南天の星の写真を多数撮影した。(A.J.Cannonの追悼文による。)
Leavittさんとも仕事の上で親しかったし、彼女の亡くなったときには非常に好意的な追悼文を書いている。この文章が彼女の人となりを知るための唯一と言っても良い資料で、多くのWebページで引用されている。
彼の書いた”The History And Work Of Harvard Observatory 1839-1927"は基本的な資料で幸いインターネットで入手できた。他のスタッフと共にLeavittさんの記事も1ページほどある。彼女の業績については非常に控えめな表現しかしていないが、この時点では仕方ないことか?
Leavittさんとも仕事の上で親しかったし、彼女の亡くなったときには非常に好意的な追悼文を書いている。この文章が彼女の人となりを知るための唯一と言っても良い資料で、多くのWebページで引用されている。
彼の書いた”The History And Work Of Harvard Observatory 1839-1927"は基本的な資料で幸いインターネットで入手できた。他のスタッフと共にLeavittさんの記事も1ページほどある。彼女の業績については非常に控えめな表現しかしていないが、この時点では仕方ないことか?
2011年6月2日木曜日
A.J.Cannon Leavittをめぐる人たち(2)
A.J.Cannon(1863年生-1941年没) 5歳年上の先輩女性。E.C.Pickeringに先に「人間コンピュータ」として雇われた。
OBAFGKMという恒星のスペクトル型の論理的な分類を完成、驚異的な速度で写真乾板上の星々のスペクトル型を読み取ったという。
彼女の父親は造船業者で州議会議員だったらしい。上流家庭の子女。子供の頃、母親に星座の見方を教わったそうだ。やはり大学時代に耳を悪くした。
Wellesley大学卒業後、新規流行のカメラを持参でヨーロッパに旅行し、スペインの写真集も作ったそうだ。
女性初のHenry Draper Medalや1925年にオックスフォード大学から 名誉博士号を貰っている。
Leavittさんももう少し長生きしていれば、こうした栄誉やノーベル賞ももらえただろう。しかし、A.J.Cannonの明るい性格とは違うので有名になっても嬉しくはなかっただろう。好きな研究を続けるには金がいるがそれを研究に影響しない形で入手するのは今も昔も難しい。ちょっとキュリー夫妻のことも脳裏をよぎる。
死の直前のLeavittさんの病床にバラの花束を届る、といった日記も書いているとのこと。
OBAFGKMという恒星のスペクトル型の論理的な分類を完成、驚異的な速度で写真乾板上の星々のスペクトル型を読み取ったという。
彼女の父親は造船業者で州議会議員だったらしい。上流家庭の子女。子供の頃、母親に星座の見方を教わったそうだ。やはり大学時代に耳を悪くした。
Wellesley大学卒業後、新規流行のカメラを持参でヨーロッパに旅行し、スペインの写真集も作ったそうだ。
女性初のHenry Draper Medalや1925年にオックスフォード大学から 名誉博士号を貰っている。
Leavittさんももう少し長生きしていれば、こうした栄誉やノーベル賞ももらえただろう。しかし、A.J.Cannonの明るい性格とは違うので有名になっても嬉しくはなかっただろう。好きな研究を続けるには金がいるがそれを研究に影響しない形で入手するのは今も昔も難しい。ちょっとキュリー夫妻のことも脳裏をよぎる。
死の直前のLeavittさんの病床にバラの花束を届る、といった日記も書いているとのこと。
2011年6月1日水曜日
E.C.Pickering Leavittをめぐる人たち(1)
1846年生まれ。1919年没。彼女の上司であり、かつ指導者でもあった。おそらく、Leavittさんの研究生活に最も影響力を持った人物だろう。
Leavittさん側からの視点で調べ始めると、時給30セントで雇って自分のプロジェクトの仕事に彼女をこき使った感が強く、この人のせいで彼女は研究者としての業績が思ったほど上がらなかったし、病気で早死してしまったのではないかと思い込んでしまう。
でも、公平に見ると、女性を手広く雇用して仕事を与えたし、彼女たちからは好かれていたこともありそうだ。なにより、勃興してきた写真術を天体観測に応用し、広範な星のカタログを作ったという業績は高く評価できる。目視中心だった観測から、現代の写真中心の観測にするための基礎を作った。弟のW.H.Pickeringよりも円満な人物像が浮かび上がってくる。
W.H.Pickeringは天文学者・観測者としてはいろいろ「優秀」だったが、飛行機の発展を予測し損なって後にA.C.クラークに皮肉られてます・(「未来のプロフィル」ハヤカワ文庫版18ページ)
E.C.Pickeringに関してはもっと伝記的事実を収集していきたい。ハーバードの図書館にいきたいなー。
Leavittさん側からの視点で調べ始めると、時給30セントで雇って自分のプロジェクトの仕事に彼女をこき使った感が強く、この人のせいで彼女は研究者としての業績が思ったほど上がらなかったし、病気で早死してしまったのではないかと思い込んでしまう。
でも、公平に見ると、女性を手広く雇用して仕事を与えたし、彼女たちからは好かれていたこともありそうだ。なにより、勃興してきた写真術を天体観測に応用し、広範な星のカタログを作ったという業績は高く評価できる。目視中心だった観測から、現代の写真中心の観測にするための基礎を作った。弟のW.H.Pickeringよりも円満な人物像が浮かび上がってくる。
W.H.Pickeringは天文学者・観測者としてはいろいろ「優秀」だったが、飛行機の発展を予測し損なって後にA.C.クラークに皮肉られてます・(「未来のプロフィル」ハヤカワ文庫版18ページ)
E.C.Pickeringに関してはもっと伝記的事実を収集していきたい。ハーバードの図書館にいきたいなー。
2011年5月31日火曜日
Leavittさんをめぐる人たち
これから、Leavittさんゆかりの、この方々について調べて書いていきます。
以下、お名前、生没年、彼女との関係
(1)E.C.Pickering 1846-1919 上司かつ先生
(2)A.J.Cannon 1863-1941 先輩
(3)S.Bailey 1854-1931 先輩
(4)W.Fleming 1857-1911 先輩
(5)H.Shapley 1885-1972 Pickeringの後任
(6)C.Payne-Gaposchkin 1900-1979 英国より来た後輩
(7)E.D.Leavitt 1836-1916 おじさん
以下、お名前、生没年、彼女との関係
(1)E.C.Pickering 1846-1919 上司かつ先生
(2)A.J.Cannon 1863-1941 先輩
(3)S.Bailey 1854-1931 先輩
(4)W.Fleming 1857-1911 先輩
(5)H.Shapley 1885-1972 Pickeringの後任
(6)C.Payne-Gaposchkin 1900-1979 英国より来た後輩
(7)E.D.Leavitt 1836-1916 おじさん
2011年5月27日金曜日
Leavittさんの上司ピッカリングの弟とダーウインの関係
また、Leavittさんに関する調査中です。
上司であり、大学時代の教授にあたるE.C.Pickeringにはやはりハーバードで天文学をやったW.H.Pickeringという弟がいました。12歳ほど年下。1858年生まれ。兄貴と協力して写真を使った天文学の発展に寄与。
この人は兄さんよりかなり破天荒というか大胆で、ローウェルより過激な宇宙の生物存在説を述べています。火星にはオアシスがあるとか月にも生物がいるとか。冥王星の存在をプラネットXとして予言もしたらしい。逆行軌道の衛星も発見。60歳代後半には引退してジャマイカの私設天文台で観測三昧。羨ましい。
月の起源も論じていますが、その時一緒に研究したのがGeorge Darwinで、この人は有名なCharles Darwinの息子なんですね。
するとLeavittさんのおじさまの名前のよしみでE.C.Pickering氏も彼女を喜んで雇ったのかもしれません。
上司であり、大学時代の教授にあたるE.C.Pickeringにはやはりハーバードで天文学をやったW.H.Pickeringという弟がいました。12歳ほど年下。1858年生まれ。兄貴と協力して写真を使った天文学の発展に寄与。
この人は兄さんよりかなり破天荒というか大胆で、ローウェルより過激な宇宙の生物存在説を述べています。火星にはオアシスがあるとか月にも生物がいるとか。冥王星の存在をプラネットXとして予言もしたらしい。逆行軌道の衛星も発見。60歳代後半には引退してジャマイカの私設天文台で観測三昧。羨ましい。
月の起源も論じていますが、その時一緒に研究したのがGeorge Darwinで、この人は有名なCharles Darwinの息子なんですね。
するとLeavittさんのおじさまの名前のよしみでE.C.Pickering氏も彼女を喜んで雇ったのかもしれません。
2011年5月6日金曜日
Leavittさんの給与
Leavittさんのことを昨年書きました。
ハーバードの天文台に正式に雇われたときの時給が30セントというのは、安いのか高いのかと思っていました。
最近読んだ本によると1914年のアメリカの一人当たり所得は年間377ドル、ちなみにイギリスは244ドル日本は36ドル(「大国の興亡(上巻)」365ページの表)ですし、星新一さんの「明治・父・アメリカ」によると1896年にソーダファウンテンでコーヒーが5セントだそうです。
すると、時給30セントは、少ないがまあまあと言う気がしてきました。米国から欧州への船賃は10ドル前後だったようですし、Leavittさんは独身で親からの援助も何らかの形であったでしょうし、仕事に専念することはできたのだろうと想像しています。お金が多すぎるとかえって好きなことをやる時間がなくなるし、仕事以外の趣味はなかったと想像します。
欧州旅行で誰とどこに行ってどんなことを考えたのかは知りたいですね。資料が見つからないのですが。
ハーバードの天文台に正式に雇われたときの時給が30セントというのは、安いのか高いのかと思っていました。
最近読んだ本によると1914年のアメリカの一人当たり所得は年間377ドル、ちなみにイギリスは244ドル日本は36ドル(「大国の興亡(上巻)」365ページの表)ですし、星新一さんの「明治・父・アメリカ」によると1896年にソーダファウンテンでコーヒーが5セントだそうです。
すると、時給30セントは、少ないがまあまあと言う気がしてきました。米国から欧州への船賃は10ドル前後だったようですし、Leavittさんは独身で親からの援助も何らかの形であったでしょうし、仕事に専念することはできたのだろうと想像しています。お金が多すぎるとかえって好きなことをやる時間がなくなるし、仕事以外の趣味はなかったと想像します。
欧州旅行で誰とどこに行ってどんなことを考えたのかは知りたいですね。資料が見つからないのですが。
2011年2月5日土曜日
「詐欺師フェーリクス・クルルの告白」執筆にもペルソナ手法が用いられていた
「詐欺師フェーリクス・クルルの告白」の成立という三枝圭作先生の論文を読むことができました。ここです。
クックック教授やその夫人の描写のために資料としてショーペンハウエルやアンナ・パブロワの写真などを保管していたと言うことです。他の資料やメモなどとともに「詐欺師」用ファイルを、亡命生活中も大切に持ち歩いたのでしょう。
執筆は何回も中断されて断続的に数十年にわたり続いたようですが、物語の世界に戻るためにはペルソナ手法が重要な役割を果たしたと思われます。このイメージ入りの資料ファイル作成管理はライティング・パターンにもなります。
以下はペルソナとも三枝先生の論文ともはなれますが、教授からクルルが、パリからリスボン行の寝台列車の食堂車中で受ける臨時の「講義」は、「魔の山」の有名な講義とともに、面白くて読むのをやめられなくなります。生物学に関するあたりはよく分かりませんが、天文学に関する部分は、当時の最新の知識が反映されており、トーマス・マンがいかに知識習得に貪欲であったかを示しています。執筆時期と天文学上の発見発表(たとえばハッブル)の時期を調べて、エッセイにしたいと思います。もう2月ですが、今年の初夢妄想は未完に終わった「詐欺師」の続編を書きたい...ということなんですが、10年くらいかけてものにならないかな。トーマス・マンは40年くらいかけているのですが、実働はもっと少ないだろう。
クックック教授やその夫人の描写のために資料としてショーペンハウエルやアンナ・パブロワの写真などを保管していたと言うことです。他の資料やメモなどとともに「詐欺師」用ファイルを、亡命生活中も大切に持ち歩いたのでしょう。
執筆は何回も中断されて断続的に数十年にわたり続いたようですが、物語の世界に戻るためにはペルソナ手法が重要な役割を果たしたと思われます。このイメージ入りの資料ファイル作成管理はライティング・パターンにもなります。
以下はペルソナとも三枝先生の論文ともはなれますが、教授からクルルが、パリからリスボン行の寝台列車の食堂車中で受ける臨時の「講義」は、「魔の山」の有名な講義とともに、面白くて読むのをやめられなくなります。生物学に関するあたりはよく分かりませんが、天文学に関する部分は、当時の最新の知識が反映されており、トーマス・マンがいかに知識習得に貪欲であったかを示しています。執筆時期と天文学上の発見発表(たとえばハッブル)の時期を調べて、エッセイにしたいと思います。もう2月ですが、今年の初夢妄想は未完に終わった「詐欺師」の続編を書きたい...ということなんですが、10年くらいかけてものにならないかな。トーマス・マンは40年くらいかけているのですが、実働はもっと少ないだろう。
登録:
投稿 (Atom)
