2020年7月27日月曜日

『共同幻想論』はまだ理解できないが自分にとっての存在感が増してきた

『共同幻想論』ビデオの書き起こし、6日目。7分間分くらいやる。

今日の部分のなかから、鹿島さんの言っていること(に近いこと)を、文責、私で書き出してみる。

「吉本が『共同幻想論』をそもそも書き始めたきっかけの原体験は、おっしゃっていたように、終戦のですね、8月15日、あの時の大ショックですね。あれがなぜ大ショックだったかというと、確かに負けたというのでそのあと、吉本は、昨日まで聖戦遂行と、ガンバレ一億玉砕と叫んで、例えば高村光太郎のような人がその敗戦後しばらく経ったら、これから文化国家の建設だと言っている、なんでこんなことができるんだ、この神経というのは一体どこから来るのだ、ということを言っている。

吉本の考えていた社会というのは、伝統的社会のものですね。だけれども国の上の方の人間は国家理性で、昨日までは鬼畜米英ですけれども、明日からは日米親善で行きますという風なことができてしまう。これは一体どうなっているのか、というのがそもそもの出発点なのではないか。

だからそこでですね、吉本は個人幻想と共同幻想は逆立する、あれ「さかだち」と読むのじゃなくて「ぎゃくりつ」と読まなければいけないので、逆立する、つまり個人幻想はそれぞれの人間がいろいろ持っているけれども、必ず共同幻想のレベルになってしまうと個人幻想とはひっくり返った形で、レベルが違う段階に入ってしまうという、そのレベルの新旧の繰り上げみたいなところを研究するのがこの『共同幻想論』ということなんだと思うんですけれども、吉本的なこの逆立と言うんですか、ひっくりかえる、あるいはレベルをあげてしまうというところが、これはやっぱり難しいですね。僕はまたもう1回しっかり読んでいるんですけれども、なかなかそう簡単には分からない。」

鹿島さんが「わからない」とおっしゃるのとはレベルがちがうが、やはり私もわからない。ただし、『共同幻想論』はなにを解明しようとして書かれたのは、少しずつ呑み込めてきた(ような気がする)。





終息が見えないコロナ禍のなかの、われわれの行く先はどこなのか。そしてそこに到達しようとしたときに、どのような世の中になるのかは、全く見えない。見えないが、終戦後のような混乱をさけるためには、個人が個人の頭でしっかり考えて、個人で考えたことを実行に移さなくてはいけなさそうだ。

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『蝸牛庵訪問記』(岩波書店)を読み続ける。小林勇の文章は非文学的で見聞の羅列だけなのだが、かえって露伴の日記を読むような気分になってきて、面白く読める。小林勇は、百鬼園のことを書き綴る平山三郎的だ、平山三郎のほうが文章は格段にうまいのだが、それぞれの「先生」との付き合い方がそっくりだ。

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