2019年3月7日木曜日
OLD REVIEWSのネタをまた発見→「科学が文章となる過程」(戸坂潤)
読みやすいので青空文庫のほうでひととおり読んだ。その中で、次の文章が目についた。
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7 科学が文章となる過程
J・ジーンズ卿の『神秘の宇宙』(藪内清氏訳)が重版になった。初め『新物理学の宇宙像』という題で訳されたのだそうだが、今度は原名(Mysterious Universe)の直訳にして出したものである。一九三〇年に原著者がケンブリッジ大学のレード講演に基いて書かれたもので、論文というよりも正に「エッセイ」というべきスタイルにぞくする。
第一章は「滅び行く太陽」、第二章は「近代物理学の新天地」、第三章は「物質と輻射」、第四章は「相対性原理とエーテル」、第五章は「問題は混沌として」(Into the Deep Waters)というのである。私は最初この原本を開けて見た時に、実を云うと、章題のつけ方のこの流儀にやや反感に近いものを感じた。何か大変俗悪な、素人をおどすような気分で書かれているような予感がしたからである。処が読み始めるとスッカリ感心して了った。実に心憎い程の切れ味を有った叙述なのである。巻を措く間も惜しく、読んで了ったものだ。尤も本はごく小さく四六判一四〇頁程のものであるが(訳本の方も二百頁程だ)。
ジーンズは物理学的観念論者の典型ともいうべき人であろうが、そういう哲学は勝手にしゃべらしておけばいいだろう。他にも沢山いることだ。併し科学的名文家としてのジーンズは充分に尊重されていいと思う。同じく物理学的観念論者の一人であるエディントンも亦、食い込むような厚みのある説明を与える叙述力を持っているが、ジーンズはこの本で、もっと掌を指すように、又もっと手玉に取るように、対象を生々と転がしている。
日本にも自然科学者で科学的文章の名文家が少なくない。私の知っている限りでは石原純博士とか仁科芳雄博士などがそうだ。だが英語国民やフランス語国民の自然科学者には、その「科学」が「文章」にまでなって了っている達人(?)が日本よりも多いのではないか、というような気がする。と云うのは、之は単に文章の問題ではない、科学自身の社会的生存に関する問題であるからだ。
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(下記のファイルの一部を切り取って引用しました。)
底本:「戸坂潤全集 第五巻」勁草書房
1967(昭和42)年2月25日第1刷発行
1968(昭和43)年12月10日第3刷発行
入力:矢野正人
校正:土屋隆
2007年1月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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引用されている、「J・ジーンズ卿の『神秘の宇宙』」という本は、2年前私が探した本に違いないと思った。(2年前のブログはこれ、「雨降りなので宇宙論を勉強しよう」。)
トーマス・マンが『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』のなかで、「クックック教授の宇宙論」としてもちいた知識の種本だろう。
『神秘の宇宙』はいまでもAmazonさんで入手できる。『神秘の宇宙―新物理学の宇宙像 (昭和12年) ジーンズ 』
原書はInternet Archiveですぐ見つかった。ちょっとだけ読んだ。あとで(いつになるか?)じっくり読んで、トーマス・マンが当時の最新宇宙論をいかに深く理解していたか調べてみたい。
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試しに原書の数行をOCRにかけてみた。完璧にできた。アルファベットはいいなあ!
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2011年の今日。リュクサンブール公園にて。
2019年3月13日水曜日
OLD REVIEWS試作版第三弾…『讀書法』(ブック・レビューの本)の自序
「讀書法」といふ題は、本當を云ふとあまり適切なものとは思はれない。「ブック・レヴュー」といふ題にしたかつたのだけれども、三笠書房主人の意見を容れて、この題にしたのである。私はこの本が、讀書術の精神を教訓する本ででもあるかのやうに受け取られはしないかと心配してゐる。内容は全く、色々の形と意味とに於けるブック・レヴューと、之に關係した少しばかりのエセイとからなつてゐる。
ではなぜ、こんなやゝ風變りな書物を出版するのか。簡單に云つて了へば、ブック・レヴューといふものゝ意義が可なり高いものでなければならぬといふことを、宣傳するために、特にブック・レヴューを主な内容とするかういふ單行本を少し重々しい態度で、出版して見る氣になつたのである。ブック・レヴューは之までわが國などではあまり重大視されてはゐなかつた。評論雜誌は云ふまでもなく、學術雜誌に於てさへ、卷末のどこかに、ごく小さく雜録風に載せられてゐるに過ぎなかつた。それもごく偶然に取り上げられたものが多くて、ブック・レヴューといふことの、評論としての價値を、高く評價してゐるとはどうも考へられなかつたのである。
これはどう考へても間違つたことだと思ふ。現に外國の學術雜誌では、ブック・レヴューに權威を集中したやうに思はれるものが多く、澤山のスペースを割くとか、或ひは卷頭へ持つて行くとかいふ例さへある。學術雜誌でなくても、ブック・レヴューのジャーナリズムの上に於ける眞劍な意義は、高い價値を認められてゐるやうに見える。それに又、文藝評論家や一般の評論家達の登龍門が、ブック・レヴューであるといふこと、現代の有名な評論家の多くがブック・レヴューの筆者としてまづ世に出たといふ例、これは相當著しい事實なのである。それから又、わが國でも實際上さうなのだが、ブック・レヴューは同じ雜誌記事の内でも、特に好んで讀まれるものであるといふ現實がある。
かういふ事實を前に、ブック・レヴューの文化上に於ける大きな意義を自覺しないといふことは、どうしても變なことだと考へられる。ブック・レヴューをもう少し重大視し、尊敬しなければならない、といふのが私の氣持である。處が偶々、東京の大新聞の若干が、しばらく前ブック・レヴューに或る程度の力點を置くやうになつた。スペースや囘數を增した新聞もあれば、ブック・レヴューの囑託メンバーを發表した新聞もある。その他一二、ブック・レヴューを主な仕事とする小新聞の企ても始まつた。この原因については色々研究しなければならないが、一つは所謂際物出版物に對する反感から、本當に讀める書物を、といふ氣持が與つて力があつたらう。讀書が一般に教養といふものと結びつけられるやうな一時期が來たからでもあるだらう。尤もこの氣運とは別に、最近の戰時的センセーショナリズムは、新聞紙の學藝欄を壓迫すると共に、ブック・レヴューへの尊敬は編輯上著しく衰えたのではあるが。
「ブック・レヴュー」を意識的に尊重し始めたのは、一年半程前からの雜誌「唯物論研究」である。實は之は私たちの提案によるのだ。まづ評論される本の數を、毎月(毎號)相當多數に維持することが、最も實質的なやり方だと吾々は考へた。少くとも十四五册についてブック・レヴューを掲げるべきだとして、そのためには、紙數の關係から云つて、一つ一つのブック・レヴューはごく短かくならざるを得ないが、誰も知つてゐるやうに、原稿用紙三四枚に見解をまとめることは、實は原稿用紙數十枚の努力をさへ必要とすることである。それだけ質は高いものともなるだらう。
とに角、分量の上で多いといふことは、ブック・レヴューに壓力を附與するための最も實質的な手段である。之が實施された上で、質の向上を望むことも困難ではない。それに、或る程度以上に數が多いといふことは、ブック・レヴューの對象となる本の選擇から、その偶然性を取り除く點で、甚だ必要なことなのだ。思ひつきのやうに、ポツリポツリと載るのでは、なぜ之が選ばれたのか、またなぜ他の本が撰ばれなかつたのか、問題にする氣にもならないだらう。注目すべき本は、或る程度、又或る方針の下に、やゝ網羅的にのるといふことが、ブック・レヴューの權威を高める所以だ。之にはどうしても、少くとも數の上で盛り澤山でなくてはならぬ。
以上のやうな見解の下に、今日に到るまで雜誌「唯物論研究」は「ブック・レヴュー」尊重主義を引き續き實行してゐる。その内容は別の問題として、編輯上の精紳は注目されていゝ。現に「文學界」は多少之に類似したブック・レヴューを試みるやうになつたし、「新潮」と「文藝」とも亦、ブック・レヴューを正面に押し出すやうになつた。「科學ペン」亦さうである。文化雜誌としては當然なことであるが、わが意を得たものと云はねばならぬ。
ではブック・レヴューとは何か、といふやうな抑々の問題になると、本書の「ブック・レヴュー論」といふ文章もあつて、今こゝに評説する餘裕はないと思ふが、要するにブック・レヴューなるものは、クリティシズム(批評・評論)の一つの分野か、一つのジャンル、であると思はれるのである。出版物としての本を紹介批評するわけであるが、問題はその本が出版されることの文化上の意義、その本に含まれてゐる思想や見解や研究成果の文化上の意義、といふやうなことを評論することの内に、横はるのである。つまり出版された本を手段として、その背景をなす文化的實質を評論する、といふことがブック・レヴューの意味で、さういふ評論のジャンルや領野が、「ブック・レヴュー」といふーつのクリティシズムなのである。決して單に本を紹介するだけが目的ではない。紹介・案内・そして廣告・推薦、といふことも目的の一部分でなくはないが、最後の目的はもつと廣く深い處にあるだらう。だからブック・レヴューを本式にやると、いつの間にか、その本が文藝の本ならば、最も具體的で且つ時事的な文藝評論にもなつて來るのだ。時とするとブック・レヴューだと云ひながら、その本はそつち除けになつて、本とは直接關係のないエセイになつたりする場合も、例が多い。又逆に大抵の多少は文獻的な粉飾󠄁を有つた評論やエセイは、要するにブック・レヴューみたいなものであるとも考へられる。
で私は、「ブック・レヴュー」といふものがクリティシズムのーつの重大なジャンルであり、一分野であるといふこと。そしてわが國では之まであまりその點が世間的に自覺されてはゐなかつたらしいといふこと、このニつの條件に基いて、かういふ風變りな本を出版することにしたのである。私が右に述べたやうなことは、勿論澤山の人が嫌ほど知つてゐることだ。ブック・レヴューが評論の入口であるといふやうなことは、クリティシズムに關する常識だらう。(本多顯彰氏などいつも之を説いてゐる。)併し個々の文學者や評論家の常識であるといふことゝ、世間が之を自覺してゐるといふこととは、勿論別だ。世間は之を自覺すること決して充分でなかつたといふのが、事實ではないだらうか。
さて、本書を世に送る所以は、右のやうな次第であるか、併し私が決してブック・レヴューの模範を示さうといふやうな心算でないのは、斷るまでもあるまい。もし萬一之が模範にでもなるとしたら、ブック・レヴューを今日の水準から高めるよりも、寧ろ却つて低める作用をしないとも限りない・私がこゝに登録したブック・レヴューは、私の力自身から計つても、決して滿足なものではなく、又世間の水準から云えば愈々貧弱なものだといふことを、卒直に認めざるを得ない。それにも拘らずかういふ貧弱な内容のものを敢えて出版するのは、つまり一種の宣傳(「ブック・レヴュー」のための)であり、このまづいものを以て宣傳することが、やや滑稽に見えるとすれば、結局私はこの宣傳のための犧牲者になるわけなのである。私はこの位ゐの犧牲は忍ぶことが出來る。さういふ圖々しさを必要な道徳だとさへ思つてゐるから。ただ恐れるのは、之によつて逆効果を來たしはしないかといふ點だけだ。この本のおかげで、ブック・レヴューといふもの一般の信用を傷けることになりはしないかゞ、心配だ。
模範を示すことは出來ないが、「ブック・レヴュー」といふもののサンプルの若干を示すことは出來たかも知れない。『讀書法日記』とか「論議」とか『ブック・レヴュー』とか「書評」とかいふ類別が、夫々サンプルであり、さうしたサンプルを集めたこの本は、云はばカタローグみたいなものでもあらう。たゞ大抵のサンプルは實物よりも良くて他處行きに出來てゐるものであるが、このサンプルだけは、云はば實物よりも劣つてゐるやうに思ふ。つまりブック・レヴューの外交であるこの筆者が、相當の犧牲者である所以である。
『讀書法日記』は「日本學藝新聞」にその名で連載したものであり、『ブック・レヴュー』は「唯物論研究」の同欄に載せたものである。「書評」は主に新聞や雜誌に所謂書評として發表されたもの。いづれも特になるべく樣式の原型をそのまゝ保存することにした。サンプルとするためである。「論議」はブック・レヴューに準じたエセイであり、「餘論」はブック・レヴューそのものに關する若干の考察からなつてゐる。
出典 『讀書法』(戸坂潤) 昭和13年1月 三笠書房刊
国会図書館デジタルコレクション
(下の画像も)
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(あとがき)戸坂潤はこれまで知らなかった。国会図書館デジタルコレクションを見ているうちに偶然見つけた。この序文でも一部紹介されているが、盛りだくさんの『讀書法』である。「目次」を見ていると猛然と読みたくなってきた。これを読めば「ブック・レビュー」のなんたるかがわかりそうだ。
戸坂潤の本は図書館にあまりおいてない。古本は意外に安く出回っているのに…
2022年4月12日火曜日
『鷗外「奈良五十首」を読む』(中公文庫)もBOOKS HIROの日記本の仲間に入れても良い
平山城児さんの『鷗外「奈良五十首」を読む』(中公文庫)が昨日届いたので、今朝から読み始める。PASSAGE by ALL REVIEWSで一棚店主になって以来一ヶ月、書棚の経営とPASSAGE運営のお手伝いとで、好きな読書をゆっくり楽しむことができなかった。今回は少し余裕がでたような気がして、オモシロイ読書ができたような気がする。まだ読み終わってはいないが。
部屋の掃除も滞っていたので、片付けをし、設置したままのコタツの布団を畳んでしまい、「コタツテーブル」として使うことにした。これで午前の多くの時間を使ったが、気分が変わってシゴトも捗ることと思う。読み終わらなかった原因はここにある。
『鷗外「奈良五十首」を読む』だが、鷗外の晩年の短歌「奈良五十首」を、当時の日記「委蛇録」を手がかりに読み解く経緯を書いた本だ。男性の日記は、鷗外の晩年の日記は特に、記述がそっけない。その行間に多くのニュアンスが隠れているはずだが、日記の文面だけを追っていると想像がおよばない。砂を噛むような気持ちで日記を読む羽目になり、途中で投げ出したくなる。
一方、短歌を読む時に感じるのは、その短歌がどのようなシチュエーションで書かれたのかがわからないと、短歌の意味を取り違えそうで気持ちが悪い。読者が自由に捉えるのが正しいのだろうが、取り付く島もないとつらい。
そこで、短歌と同時期に書かれた日記を照らし合わせるという手法を、平山城児さんはこの本でとっている。うまい方法だとまず感心した。難しいのは短歌の出来る源泉の鷗外の奈良体験が複数年に渡るということで、鷗外はきっと手帳に書いた短歌の原稿を毎年の奈良行のたびに、書き換えていたのではないかということだ。複合された時間差のある感興。
ともかく、この本を読むと短歌が「わかる」と同時に、「委蛇録」の無味乾燥な灰色の記述に、徐々に色彩が蘇ってくる。正倉院の宝物の絵画に広いスペクトルの光をあてると、往時の鮮やかな色彩が蘇るのと似ているようだ。
私の書棚「BOOKS HIRO」の日記本に、鷗外の日記と一緒にこの本も入れて売るのも良さそうだ。
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今日のツイート2つ。
日記好きとしては、
— 福地博文(hiro)@PASSAGE一棚店主 ( BOOKS HIRO ) (@hfukuchi) April 12, 2022
『小説勉強』徳永直 著https://t.co/LjpJ2D0gTf
「日記と心のレンズ / 22 (0019.jp2)」が興味深いです。 pic.twitter.com/01XuGA1zHd
獄中でも、いや獄中だからこそ出来る読書。書簡なのだが、これも私の「日記コレクション」の範疇にいれたい。
— 福地博文(hiro)@PASSAGE一棚店主 ( BOOKS HIRO ) (@hfukuchi) April 12, 2022
↓
図書カード:獄中通信 (戸坂 潤) https://t.co/Fo7rbh0Psj #青空文庫
2021年7月27日火曜日
アウトラインプロセッサで遊びながら書評の勉強
Web上のアウトラインプロセッサdynalist を使ってみることにした。Twitterで今朝教えてもらったツール。これから朝風呂に入ります。編集長作業は一旦済んだので。一反もめん。
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食事、掃除。
再び机に向かったのは9時50分。アウトラインプロセッサに書いた「書評研究」の目次案をいじる。レベルを上下させるのが自由にできて面白い。
結果は、テキストとしてエキスポートできるし、OPML形式(?)でもエキスポートできる。
戸坂潤の『読書法』を読み始める。青空文庫版、Kindle for iPadにて。以下抜粋。
序にかえて
「偶々、東京の大新聞の若干が、しばらく前ブック・レヴューに或る程度の力点を置くようになった。スペースや回数を増した新聞もあれば、ブック・レヴューの嘱託メンバーを発表した新聞もある。その他一二、ブック・レヴューを主な仕事とする小新聞の企ても始まった。」
「雑誌『唯物論研究』」
「少なくとも十四五冊についてブック・レヴューを掲げるべきだとして、」
「『文学界』は多少之に類似したブック・レヴューを試みるようになったし、『新潮』と『文芸』とも亦、ブック・レヴューを正面に押し出すようになった。『科学ペン』亦そうである。文化雑誌としては当然なことであるが、わが意を得たものと云わねばならぬ。」
「問題はその本が出版されることの文化上の意義、その本に含まれている思想や見解や研究成果の文化上の意義、というようなことを評論することの内に、横たわるのである。」
「「読書法日記」は『日本学芸新聞』にその名で連載したものであり、「ブック・レヴュー」は『唯物論研究』の同欄に載せたものである。「書評」は主に新聞や雑誌に所謂書評として発表されたもの。いずれも特になるべく様式の原型をそのまま保存することにした。サンプルとするためである。「論議」はブック・レヴューに準じたエセイであり、「余論」はブック・レヴューそのものに関する若干の考察からなっている。」
1.「読書法日記」
「敢えて新刊紹介や新刊批評という意味ではない。また良書推薦という意味でもない。私はそんなに新刊書を片っぱしから読むことは出来ないし、また何が良書であるかというようなことを少しばかりの読んだ本の間で決定することも出来ない相談のことのように思う。もう少し無責任な読書感想の類を時々書いて行きたいと考える。」
これは今で言うブログ。以下は明日読む。
2.論議
3.ブック・レヴュー
4.書評
5.余論
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本のなかで引用されている『沈黙の戦士 : 戦時巴里日記』小松清(ジイドと会ったらしい)
![]() |
| https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1114618 |
書評サーチには「読書法」というキーワードもいい。今後使える。
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夕方新たに5冊借りてきた。書評関連と山本義隆さんの本。
2021年7月26日月曜日
鶴見俊輔の書評はみなマジメ
鶴見俊輔『書評10年』(潮出版社)を読んだ。「あとがき」より。
「本を読むのは、3歳くらいから70歳の今日までつづいている私にとってのやまいである。」
鶴見俊輔が書評を書いていた媒体。書評への考え方。
鶴見俊輔は書評を50歳をこえてから書き、『週刊ポスト』、『朝日新聞』の書評委員を歴任。『信濃毎日新聞』、『思想の科学』、『エコノミスト』、『母の友』、『ちくま』、『算数教育』、『本の窓』、『朝日ジャーナル』なども書いたものがこの本になっている。
つきあいのある人の本の書評はしない。小説の書評は自信がないのでしない。不都合な点、まちがった所があったらフェア・プレイで批判・攻撃するべきである。
上記のような記述は「書評研究」の方法の一つにできる。
『書評集』を読み。書評家の書評への考え方を調べる。おもに前書きや後書きにまとまっている。書評ごとの初出媒体を調べる。これを書評家の「書評集」ごとに行い、一覧表にする。これは書評探索の手がかりになるし、まとまった一覧表自体が貴重な研究資料になる。
『書評集』をキーワードとして、Amazonや図書館やTwitterで探すとうようよ出てくる。あと、自分の書棚にもその気になって探すとかなりの収穫が。あとは古本屋さんを回る。
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明日は戸坂潤に挑戦。
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『妖怪少年の日々』第4章に入り、ようやく小学校・中学校での読書の様子がわかる。なつかしさを覚えるラインアップ。荒俣さんとこのころ趣味がほぼ一致する。日本社会の同質性?
・小学校の映画見物授業
・『ゴジラ』、『沈黙の世界』、『砂漠は生きている』、『緑の魔境』
・「ヒッチコック劇場』、『世にも不思議な物語』
・中学校の学校図書館で『現代人の読書』(紀田順一郎)をリクエスト!
・『リプレーの世界奇談集』(庄司浅水)、『趣味研究 動物妖怪譚』(日野巌)
・ケネディ暗殺と『世にも不思議な物語』のリンカーンエピソードの一致
・黒沼健の著書
・『海の奇談』(庄司浅水) タイタニック
・魚の飼育が趣味
・森の石松(この話は掲載誌『怪』の読者へのサービス……)
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コロナ禍のなか、はた迷惑な国際運動会は「仕方なく」ときどきテレビで見るが、今夜の卓球混合ダブルス、伊藤美誠の自ら作る「笑顔」が印象的。精神力の強さを感じる。見習う。
2019年3月26日火曜日
MAKING OF OLD REVIEWS 3/26/2019
今までの記事のインデックス。(含むリンク)
(1)「巴里にてのツルゲーネフと島崎藤村」 正宗白鳥
(2)「羅生門の後に」 芥川龍之介
(3)序に代へて (戸坂潤)
(4)鷗外の『秀麿もの』 辰野隆
(5)芥川龍之介と詩 室生犀星
(6)永井荷風氏の「紅茶の後」(安倍能成)
作成方法。
(1)国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開されている書籍をキーワード検索し、記事を探す。
(2)国会図書館デジタルコレクションの機能を使いPDFファイルを作ってダウンロード。画像調整も同時にする。
(3)ONLINE OCRでデジタルテキスト化。
(4)デジタルテキストを手作業で校正する。古い記事なので旧字旧仮名に注意する。旧字のチェックは校閲君にお願いする。迷ったら現行の字体を尊重する。
(5)ブログにアップし、出典とあとがきを追加する。
(6)ブログ読者の方に指摘されたミスは即刻修正。
今後の課題。
(1)記事を探すのは楽しいが、大変。大量の書籍があるのだが、個別に見つけた記事を熟読し、その記事に関連した記事を探すという地道な作業が必要。時間が重要な資源となる。これを毎日の生活の中で続けるためのモチベーション維持ができるか。
(2)品質の良い(OCR効率の高い)原稿画像を得ることが、校正の能率を左右する。ところが古い書籍から取得できる画像の品質は一般的に悪い。より鮮明な画像の取得が必要。
感想。
この作業は非常にオモシロイ。ブログに上げるまでに記事を何度か精読できるから。
数十件くらいまでは今のやり方で続けていく。そのなかでなにか新しいアイディアも生まれるだろう。
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『終戦後日記』(徳富蘇峰)は第一巻を読み終えた。この日記は荷風や百鬼園の戦後日記とまったくちがうオモシロサなので第二巻も借りてきた。他に『自伝』も借りてある。新聞記者としての訓練が出来ているらしく、文章が読みやすい。しばらくは興味を持って読み続けられるだろう。
2021年8月7日土曜日
『井上ひさしの読書眼鏡』(中公文庫)はインパクトのあるマジメな書評集
今朝のTwitterでジーンズの『神秘の宇宙』が話題になっている。
ジーンズ鄕のことはトーマス・マンや戸坂潤との関連で少しブログに書いたので、今朝のいくつかのTweetを面白くよんだ。ウルフの『波』や『群像』今日発売版をゆっくり読んでみよう。
https://hfukuchi.blogspot.com/search?q=%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%BA
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孫を預かる土曜日。ワクチン接種の副反応が……などとは言っていられない。さんざん遊んで夕方6時半の電車に父親ごと乗せる。孫は来てよし帰ってよし。
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![]() |
| この眼鏡の絵がいいね! カバーデザイン:多田進さん |
昨日読んだのが『井上ひさしの読書眼鏡』(中公文庫)。読売新聞の書評欄に2001年から2004年に書いた書評と、米原万里展の図録に2008年に書いた全著作書評。藤沢周平の追悼文が掲載されている。この本の井上ひさしの書評はどれも単なる本の話題だけではなく、現代社会の持つ問題点を深くえぐる内容である。井上ひさしはつくづく誠実な人間だったのだと思わせる。
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一昨日注文した『いろんな色のインクで』(丸谷才一 マガジンハウス)が届いた。最初のインタビュー記事の題名が「藝のない書評は書評じゃない」と振るっている。楽しみだ。明日のブログで一部でも速報する。
2021年6月21日月曜日
保苅瑞穂『モンテーニュ私記―よく生き、よく死ぬために』(筑摩書房)を読むと冒頭からしびれる
夏至の日の日没。この季節は晴れれば、空の色が美しい。
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保苅瑞穂『モンテーニュ私記―よく生き、よく死ぬために』(筑摩書房)を読み始める。
最初から引き込まれる。
4頁。
「一日にわれわれは色々な時間を生きている。そのどの時間にもわれわれの精神は等しく働いているはずであり、夕日を眺めるにも、なにかについて本を書くにも、精神の働きに高下というものはない。そして、そうやって精神が様々に働くうちに時間が過ぎて行って、その、一日が暮れて行く。」
この付近の記述は吉田健一を思わせる。ともかく『エセー』への愛にみちている。
26頁。
「かれがあれだけ本を読み、勉強したのも、それによって知識やなにかの肩書きを得るためでなく、よく生きて、よく死ぬためだった。」
素晴らしい。この本は借り物だが、自分で買いたくなった。……
今、Amazonへ行き購入した。中古だが。
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書評の探し方出版された書評集や、雑誌記事・新聞記事として掲載された書評を探す各データベースで、「書評」「ブックレビュー」などの書評を示すキーワードを追加して検索します。CiNii Article: 「書評」「ブックレビュー」などの書評を示すキーワードを追加して検索します。Web of Science: まずキーワード検索し、ドキュメントタイプ「Book Review」で絞込みします。Humanities Abstracts: 「文献タイプ」から「** Review(**にはBook, Entertainmentなどが入ります)」を選択します(場合によっては「** Criticism」なども)。複数選択可能です(OR検索になります)。聞蔵IIビジュアル(朝日新聞): 「ナビ検索」を開き、「ジャンル」から「読書・書評」→読書・書評欄名のボタンをクリックします。一覧画面が表示されますので、書名等のキーワードを追加して絞り込みます。LexisNexis Academic: 左メニューの「ニュース(全分野)」を開き、「記事の種類」から「論評([対象])」をチェックして検索します。書評データベース、及び書評を含むデータベースBook Review Digest Plus http://search.ebscohost.com/login.aspx?authtype=ip,uid&profile=ehost&defaultdb=brd「週刊読書人」( 新聞 / http://www.dokushojin.co.jp/ )
CiNii Article: 「書評」「ブックレビュー」などの書評を示すキーワードを追加して検索します。
戦前の書評を収録した例として、次のものがあります。『書香』国立国会図書館の所蔵情報へのリンク(復刻版 緑蔭書房 1992 【Z21-B207】)[範囲] 1930年~1938年[備考] 「書評輯覧/書評展望」欄に、各種の新聞書評が要約・転載されています。索引はないので、刊行年から通覧します。書評集のはじまりは、戸坂潤『読書法』国立国会図書館の所蔵情報へのリンク【特501-202】(国立国会図書館デジタルコレクション)あたりとされていますが、これらの書評集に収録された書評を横断的に検索できる資料は、あまり見あたりません。国立国会図書館デジタルコレクションに目次データが採録されていれば、検索することができます。
3-6.明治期~大正期の文芸書明治期~大正期に、後刷りの末尾に書評が掲載される場合がありました。ただし、法定納本をもとにした当館蔵書に、そのような例は多くありません。(例)乙羽生『累卵の東洋 : 政治小説』国立国会図書館の所蔵情報へのリンク (5版 大橋又太郎 1899 【71-395x】)(国立国会図書館デジタルコレクション)巻末(跋と奥付の間)に約40点の書評が掲載されています。ある著者が同じ出版社から出した別の本の巻末に、書評の転載が付けられる場合もありました。(例)竹越与三郎『二千五百年史』国立国会図書館の所蔵情報へのリンク(訂補 二酉社 1916 【73-86ヘ】)(国立国会図書館デジタルコレクション)
具体的にはこうなっている。 「別の本」ではないが。













