2019年3月20日水曜日

OLD REVIEWS試作版第五弾…「芥川龍之介と詩」(室生犀星)

芥川龍之介と詩 室生犀星

初めて芥川君をたづねた折に僕は自費出版をした「愛の詩集」を携つて行つたが、二三日後に七八行の詩を書いて送つて寄越した。原稿は紛失して見當らないが、何んでも田端の高臺から茫乎たる下町あたりの烟をかいた詩で、ちよつと立體的な格調があつた。手紙には君の眞似をしてかいた詩だとしてあつたが、その組立てががつしりしてゐた。詩の話をよくしてゐたが佐藤惣之助君の詩や、萩原朔太郎君の詩を好いてゐるやうであつた。時々、僕の部屋でちよつと紙と筆とをかしてくれと云ひ、ちかごろ作つた詩だと示すことがあつたが、さういふ時の芥川君はそれが十行くらゐのものでも、すらすらと覺えてゐて書き下してゐた。晩年の春だつたかに漂然とたづねて來た芥川君は例によつて紙と筆とをかしてくれといひ、一篇の詩を書いて、それを僕の手にわたすと、

――、この詩はどうかね。

と、例の鋭いとげとげしい筆蹟の詩を眺める僕を、彼はまじまじと見てゐた。芥川といふ人は對手の眼を放さずに見つめるくせのある人だつた。あの人ほど他人の眼を見て物をいふ人はない。女の人にもああいふ眼付をして物を話した人であらうか。ああいふ眼付をして靜かに眼を眺め込まれたら、ちよつと嘘をつくことが出來ないかも知れない。

芥川君はたいへんに長い睫毛をもつてゐて、その瞼が合ふと睫毛が深々と眼を覆ふことがあつた、睫毛の長い人は短命だといふが、あるひはそれがさうであつたのかも知れない。話の途中によく眼をしばたたくほど泪もろいところもあつた。

山吹
あはれ、あはれ、旅びとは
いつかはこころやすらはん。
垣ほを見れば、「山吹や
笠にさすべき枝のなり。」

かういふ詩は古いほど感じが深いね、と鑑定家のやうに僕は頸をかしげながら云つた。

――、かういふ全體が前がきのやうな詩には、なにか曰くがあるのかね。
――、ただ書いたのだよ。詩としてはどういふものかな。
――、「山吹や笠にさすべき枝のなり」をうまく點出したのはいいね。こんな念入りな詩は僕にはかけんね。
――、うむ。

芥川君はちよつとうなるやうに嘆息した。そのころ芥川君は返辭をするかはりによく唸るやうな溜息のやうなものをつくくせがあつた。僕はしかしそのとき山吹やの句が誰の發句だつたか思ひ出せずにゐたが、あるひは芭蕉の句かとも思うた。芥川君にさういふと芭蕉の句だよとこたへた。

だが、間もなくその詩のことを忘れてしまつたが、亡くなつてから僕はその詩を慌てて見たくなり、讀むと何も彼もわかつて良い哀れ深い詩だと思うた。あの時に充分に意味がわかりかねてゐたが、僕でなくても誰も突然にあの詩を示されても、わからなかつたであらう。

僕はこの詩の旅びといふ言葉や、山吹の枝を笠にさす心持が永い間頭にのこつて、ふと口ずさんで見て哀しみを感じることがあつた。詩としても非常にうまい。芥川君の生涯に二つとない秀れた詩であらう。まるで旨い墨繪のやうであつて、字句のあひだに一字のたるみなぞがない。

一たいに芥川君の詩は發句ほどうまくない。發句なぞよりも些か馬鹿にして書いた思ひつきふうなところがある。しかし遺珠なぞはさまざまに置きかへて苦心してゐるが、あれは苦心といふよりも口調とか韻律にあまへたところがあるのである。

芥川君の詩は發句とおなじい苦心をしてゐるやうであるが、發句にはひどく打身になつてゐても、詩は大抵悲しみ嘆くといふ情をあらはしても、それに身を委してゐるやうなところがある。つまり歌ひながら書きつづツた詩がたくさんにある。詩中にもだえてゐるところがあつても何處かで遊んでゐるやうなところがあるのだ。大ていの詩は人に與へて書かれたものであり相聞風な趣きの作品である。小説のなかに悶えてゐた彼は時々にしばしば机をあらためて、詩をかいて疲れを醫やすといふときが多かつたにちがひない。さういふ悲しい閑日月を弄することは忙しい生活にあつては、一そう樂しいやうな氣がするものである。芥川君の書齋は本やら骨董で一杯であつたから、一入、詩中にはいり込んで心を遣るといふことに、自らも好んでゐた哀れ深さを樂しんだことであらう。

相聞一
あひ見ざりせばなかなかに
そらに忘れてやまんとや。
野べのけむりも一すぢに
立ちての後はさびしとよ。

相聞二
風にまひたるすげ笠の
なにかは路に落ちざらん。
わが名はいかで惜しむべき。
惜しむは君が名のみとよ。

相聞三
また立ちかへる水無月の
歎きを誰にかたるべき。
沙羅のみづ枝に花さけば、
かなしき人の目ぞ見ゆる。

これらの詩はことごとく口調のよい、詩にあまへた人のくり言ばかりである。そのほか旋頭歌「越びと」二十五首ことごとく人にあたへ、人をおもひ、人を哀しんだ歌の數々である。

元來芥川君は小説家であるよりも、詩人風な人がらであり、好んで詩人たることを喜んでゐた人かも知れなかつた。詩人的であることは小説家であるよりも私なぞには親しいのである。小説ばかり書いてゐる人間は、實際、小説くさくてその作品にあぶらがなく、かすかすな氣がして讀めないのである。

芥川君は迭られる大ていの詩集をよんでゐたが、それが無名詩人の場合でもさうであつた。僕なぞよまない詩集でも、ちやんと迭られるとよんでゐて、かういふ詩人がゐるが、ちよつと旨いぢやないかといふことが屢々であつた。「小學讀本」のなかに編む詩についても、かれは大ていの詩人の詩をよみつくし、それを克明に書き取つて撰んでゐたが、その撰み方にはさすがに眼が行きとどいてゐて、そつのない詩が多かつた。誰々の詩をよんで見たが、まるで佳い詩がないとか、誰々のやうな拙い作品をかく人がどうして詩人になれたのかとか云つて鋭い詩人論を爲すことがあつた。

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出典
『慈眼山随筆』 昭和10年 竹村書房
国会図書館デジタルコレクション
(下の画像も)

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あとがき 
芥川龍之介の詩はたいていの全集で読めるだろう。例えば『芥川龍之介全集 2』(春陽堂 1967年)の502ページ以降。国会図書館デジタルコレクションではまだインターネット公開されていない。残念!

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