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2022年3月2日水曜日

日記を読むと人生がわかり、日記を書けば人生がかわる!

マルセル・プルースト通り14 3月2日朝

なぜ自分は読書を好むのか、というギモンに対する一つの答えを見いだしました。それは、同好の士に会えるからです。同好の士は、時空を超えて存在します。毎日『トーマス・マン日記』を読み続けた今は、トーマス・マンは同好の士です。自分と似たようなことで悩み、あるいは喜びを感じる人がいる。そこに、こよない嬉しさを覚え、孤独の哀しみが和らぐ気がします。

少し前にブログに書いた自分の文章を引用します。

「トーマス・マンが自分と同じ年齢で、頑張って著作にはげみ、その材料収集だけにとどまらない膨大な読書を、不自由な亡命先で続けている。肺の感染性膿瘍(たぶん結核が原因)で、危険な手術を受けながらもなんとか回復して、書き続け読み続ける。入院先では、看護人の優しさに魅せられたり、麻酔術を受け意識の遠のきと回復を興味深く体験し、はじめてベッドから立ち上がるときのときめきや虚脱感のなかで、生きていることを実感する。これらの感覚は3年前の入院時にわたくしもほとんど同様に感じた。トーマス・マンは自分の「弱さ」も、亡命先での不便な生活の苦しさも、「正直」に日記に書き込む。世界のこちら側でわたくしは『トーマス・マン日記』や『ファウストゥス博士の成立』に書かれた文章を読んで、そうだそうだと一人で相槌をうつ。」

大げさに言えば、この宇宙の中で自分は一人ではない、自分と同じ考えの人がいるのだと思うと、安らぎを感じるのです。

また、『トーマス・マン日記』の出版の経緯を語った池内紀さんの『闘う文豪とナチス・ドイツ トーマス・マンの亡命日記』も置きました。『トーマス・マン日記』を読む際の手引としてお読みください。ドイツ語版の日記も一冊ございます。


『トーマス・マン日記』の他に森有正の日記や内田百閒の日記も置きました。

***

今後BOOKS HIROでは「日記文学」をテーマにした販売を続けたいと思います。日記好きの方々どうぞよろしくお願いします。もちろん、これから「日記」を読んでみたいという方も。

書棚に置く予定の本たちです。すでに置いてあるものもあります。


BOOKS HIRO店主 hiro(福地博文)

追伸

この店のモットーを

「日記を読むと人生がわかり、日記を書けば人生がかわる!」

としました。

「日記を読むと世界がわかり、日記を書けば世界がかわる!」

でも良いことにしてます。

 

2021年1月18日月曜日

北杜夫のトーマス・マン好きは有名(と私は思っている)


10年位前に古本で買った北杜夫『どくとるマンボウ航海記』(新潮文庫)が出てきた。中央公論社版がベストセラーになったのは1960年頃。中学生時代に熱中して読んだ記憶がある。

トーマス・マンに言及した部分をさがしてみた。

115頁-118頁。

……リューベックに行くことができた。リューベックはトーマス・マンが生れ、かつ長編『ブッデンブロオク一家』の原型であるその家が残っている古い都市である。マンはむろん今世紀最大の作家だが、現在ドイツでは私が思っているほど(もっともこれは途方もない思い方なのだが)読まれていないようだ。……そこらの狭い路地の角で、もう十年も前はじめて『トニオ・クレーゲル』を読んだころ、私なりに夢みたあの碧い眼に、あの金いろの髪に、ふいにばったりと行き会わないものかとひそかに念じた。……

146頁。

(パリで)……Tは『ブッデンブロオク一家』の最初の部分を一節ずつカードに書きぬいたのを示し、克明にマンの技法を説明してくれた。


Tとは無論辻邦生のことだ。パリのアパートで高校時代に読んだ、(そして今も読んでいる)マンの小説のことを議論している、可憐な二人のすがたが彷彿としてくる。


この二人は、後にマンの墓参りにスイスにも行った。このとき、北杜夫はマンの墓前で涙が止まらなかったという。


辻邦生『モンマルトル日記』(集英社)277頁。

1969年8月2日にあたる部分。

……トーマス・マン――ながらく青年期のぼくを支えてくれたこの偉大な作家の墓に、ともに作家となった宗吉と詣でることになるのも、なにかの因縁かもしれない。マンの墓は……木々にかこまれ、スイートピーやサルビアや花々にかこまれている。……マンの墓石に頭をつけ、深い知恵を伝えていったマンの、その万分の一の努力でもつづけることを誓う。……(マンの家を訪ねるのは)マン夫人が病気なので、遠慮する。……(チューリッヒの)マンのアルシーブにゆく。書斎と、食堂をそのまま復元している。他の一室に原稿や資料などが飾られている。

チューリヒには私も一度は行ってみたい。コロナ禍後の旅行の第一候補をする。その前にドイツ語が読めるようにしておこう。 

辻邦生さんの日記や小説論ををもう少し読んで、マンに関する記述を集めてみようと思う。とりあえず開いてみた『モンマルトル日記』にも何ヶ所かある。

関西大学学術リポジトリの南森孚さんの論文「北杜夫とドイツ』も参考になりそう。北杜夫の著書ももっと深く調べるべき。少ないけれど何冊かは持っているものの、散逸しているので、まずは発掘しなければならない。

***

朝、寒いのでまた寝床の中で、『トーマス・マン日記』。1919年7月1日から8月15日まで読む。

7月24日。
(子供のころ出会った)「ハニ」のことを尋ねた。

「ハニ」については注釈でも不明としている。誰だろう。

ついでなので『主人と犬』も半分くらい読む。

2017年9月4日月曜日

「闘う文豪とナチス・ドイツ」を読了、次はカフカとアラビア語かしら

 残念ながら読み終えてしまった。今朝読んだ部分は、実際には「トーマス・マン日記」を読んでいない時期に関する部分なので、「残念」というわけだ。

 「トーマス・マン日記」の「主要な」部分は、1933年から1945年までのナチス・ドイツからの亡命生活の部分だし、「闘う文豪とナチス・ドイツ」もこの部分に多くのページを割いている。

 第2の亡命、マッカーシズムからのがれてスイスへの移動、が今朝読んだ部分のクライマックス。ただし、この二回目の亡命の内幕については、マンは日記でも多くを語っていないようだ。それだけ不本意なことだったのだろうと思う。

 ともかく、「トーマス・マン日記」の後半を手にいれて読まなくてはならないが、高価なのでなかなか手に入りそうもない。

 安いので、ドイツ語版をとも思ったが、読む前にと学んでいるドイツ語が半年たってもなかなか身につかない。

 なにごとにも時間は必要だ。

 晩年、トーマス・マンはカフカにも興味を示している。「カフカ日記」も読んでいたようだ。

 「カフカ日記」も高い。即決では買えないので、欲しいものリストに入れておく。とりあえず、図書館を頼ろう。

 NUKのドイツ語入門ラジオテキストはなかなか内容がある。基礎編はドイツの街と建築の紹介にもなっている。昔訪れた場所の記述はなつかしい。応用編のほうは、森鴎外の「独逸日記」が題材となっている。これはまとめてテキストと「独逸日記」を読んで見る価値がありそうだ。



 ラジオテキストの広告の部分を見ていたら、アラビア語もやってみたくなった。半年分の教材が800円強なので、10月からの分のテキストを買ってみるつもりだ。

2021年7月2日金曜日

気まぐれな「書評探索」は楽しい

 朝。発見。買いたい!少なくとも図書館で買ってもらおう。

『読む・打つ・書く: 読書・書評・執筆をめぐる理系研究者の日々』(東京大学出版会)
https://allreviews.jp/review/5552


あさイチ、リト@葉っぱ切り絵さんが出演。世界観を表現したらフォロアーが飛躍的に増加したと。私もフォローした。

https://www.instagram.com/lito_leafart/

毎日少なくとも1つ「葉っぱ切り絵」を作り、インスタに掲載する。その継続する姿勢が大切なのだろう。

昨日の朝日朝刊、小川洋子さんの話。

「輪郭がぼやけているものに、しっかり言葉をあてはめてみることは、作品のより深い理解にもつながる。(現代文解釈の出題への解答作成は)国語を勉強する上で絶対に無駄ではない」

***

書評探索つれづれ。

毎日、一つ知らなかった書評を探す。なかったら自分で書く。これで行こう。
例えば、『トーマス・マン日記』の書評とか。探してみよう。

これは解説。

https://www.fujisan.co.jp/product/1281687685/b/1382108/

一冊の本!にまとまったものならある。

『闘う文豪とナチス・ドイツ トーマス・マンの亡命日記』池内紀 著https://www.chuko.co.jp/shinsho/2017/08/102448.html

この本の書評はある。https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/postseven/trend/postseven-629335


論文検索(https://ci.nii.ac.jp/)で「トーマス・マン日記」で検索すると、2件みつかった。これらは本文にアクセスするには国会図書館に行かないといけない。「文學界」はよそでも(例えば大宅文庫)読めるだろう。

『トーマス・マン日記1940-1943』掲載誌 文學界 50(4) 1996.04 p.284~287

https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000002-I3933334-00

編集者が語るこの叢書・このシリーズ(11)『トーマス・マン日記』全十巻について掲載誌 人文会ニュース (126):2017.4 p.37-42

https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000002-I028185436-00


自分で書いたものもある。(冗談)

https://hfukuchi.blogspot.com/2020/12/blog-post_14.html?m=0


書評という切り口で膨大な本の世界に立ち向かう。その楽しみの結果を「100人」で記録しておく。



養老孟司『考える読書』(双葉新書)

オモシロイ。2年ほど前、友人(鍋さん)から譲ってもらった積ん読本。昨晩突然、読みたくなった。「突然」は奇跡的にあるいは潜在意識の導きによってと言い換えてもいい。

この本の内容は「小説推理」(双葉社)に「ミステリー中毒」という名称で連載したものらしい。今でも連載中。そして同社から書籍化されたのは、この本以前に『ミステリー中毒』と『小説を読みながら考えた』がある。

https://www.futabasha.co.jp/booksdb/book/bookfind/index.html?type=t&word=養老孟司&btn

三冊ともARに掲載するのは難しそうだ。『ミステリー中毒』と『小説を読みながら考えた』は絶版らしいから可能性はある。こうして、地道に書評を発掘する必要があろう。


2017年1月21日土曜日

若者の目から見たトーマス・マンの日常は非カリフォルニア的

 ルカーチに触発されて、トーマス・マンの晩年の政治思想を探りたくなったが、思いつく資料のうちでもっとも重要そうな『トーマス・マン日記』は1946年3月分までしかない。このあとの巻は、高価なのでまだ入手できずにいる。

 トーマス・マンの義理の甥、つまりカーチャ夫人の双子の兄の息子のクラウス・プリングスハイム・Jr(1923年生まれ)の書いた手記のペーパーバックが先日手に入った。『Man of the World』(19995年 モザイク・プレス)


 クラウスという名は平凡な名前らしくマン家にもプリングスハイム家にもたくさんいてまぎらわしい。父親の方のクラウスさんはナチスから逃れ日本に来ていた高名な指揮者である。息子のクラウス・Jrとともに、1946年10月に苦しいい生活を送っていた日本を出て、米国カリフォルニアに向かう。身元引受人はトーマス・マンである。

 10月末にシアトルに着き、バスを乗り継いで、トーマス・マンの住んでいたカリフォルニア州パシフィック・パリセーズ(サンタモニカの近く)を目指す。

 広壮な住宅を建てて住んでいたトーマス・マンだが、台所事情は苦しかったらしい。印税5万ドルの手取り分が半分でそれをほとんど住宅の維持に費やしていた。クラウス・Jrは身元引受人のトーマス・マンの銀行口座残高と入金予定まで、入国書類を見て知っていた。
 
 マンは住宅だけでなく身仕舞いにも気を使っていた、ベッドルーム以外では365日ネクタイをしていたとクラウス・Jrは書いている。来客も多かったが、父親に似て生真面目な性格だったのだろう。

 通常マンぐらいの生活を送るなら、午餐や夕食にはワインを飲むのが普通だろう。クラウス・Jrもカーチャ夫人に頼まれて、ワインを買ってくることがあった。気を使って「いくらのワインにするか」をきくと1ドル強のワインをといわれたらしい。カーチャ夫人は、一人で家政を受け持ち、買い出しもしたらしいが、クラウス・Jrに運転を教え、アッシー君をやらせたらしい。マンはもちろん運転などしない。運転手がいるのが当然という考えなのだろう。

 マンは、時計のような規則正しい生活を送っていた。これは有名な話だが、改めて、若者の目から見た記述を見ると、可笑しい。

 朝は8時に起きる。ずれても2・3分のちがい。

 9時まで時間をかけて身仕舞いをする。

 9時に朝食。トースト、シリアル、卵、ジャム、バター、紅茶またはコーヒーそしてオレンジジュース。ロサンゼルス・タイムス紙を同時に読む。

 9時40分。じゃ、仕事するよと書斎に向かう。書斎にはこの間誰も入らない。(ということはその前にメイドが掃除はしておくのだろう。)

 11時15分。イタリアン・ベルモットに卵黄を混ぜた飲み物を、クラウス・Jrがそっと書斎に届ける。マンは書斎机ではなく、ソファの端に座り、書物用の板(60センチくらい)を膝に載せ、黄色のリーガルパッドにモンブラン万年筆で、しきりに書きものをしている。
 語句の手直し以外、ほとんど書き直しをしなかったマンだが、そのかわり極端な遅筆。一日(といっても午前中半日だが)に1ページしか書かない。

 1時半、散歩に行く。余計な会話はしたくないと、犬を連れて、徒歩で歩きに行く。たいていは夫人が車で追いかけ、歩き疲れたマンを連れ帰ってくる。

 2時15分。午餐を告げるゴングが鳴らされる。来客があればワインが出るが、それ以外は簡素な食事。午餐のあとは神聖な煙草の時間である。

 このあと、書斎で読書と全世界から届く手紙の処理。マンは筆まめだった。
 
 5時にお茶。人に(依頼されて)会うのはこの時間。

 7時45分。ディナーの時間。家族・親族間で猛烈な勢いで議論をしながらの食事である。

 ディナーのあとは音楽の時間。Hi-Fiセットを手に入れたばかりのマンは、ゆっくりと音楽を楽しむ。「小説家でなかったら、私は作曲家になっていただろう。セザール・フランクみたいな!」とクラウス・Jrに語ったことがあるらしい。

 もちろん、外出することもあった。

 このあと、チャップリンに招かれて、ディズニーのスタジオ(借り切り)で、多くのスターと「Monsieur Verdoux」(「殺人狂時代」)の試写を見たという記述が続く。(115ページ)

 なかなか、赤狩りの記述にたどり着かないが、もう少し頑張ってみます。それにしても、『トーマス・マン日記』安く手に入らないかな? もちろん古本で。

2022年2月25日金曜日

PASSAGE by ALL REVIEWSの書棚(マルセル・プルースト通り14)に置くリーフレットの原稿を書き始める

 本日もPASSAGE by ALL REVIEWSの開店準備のお手伝いに行った。作業したのは、価格シールと蔵書票シールを裏表紙に貼ること。50冊くらいやったら腹が空いたので、向かいの「小諸そば」に行ってかき揚げそばを食べる。400円。うまい。その後、120冊くらいやっているうちに、今度は眠くなってきた。眠気覚ましに、同じく友の会から手伝いにきたKさんの差し入れの桜餅(道明寺風)をいただく。桜の葉が2枚にくるまれている。これもうまい。今日は店主ご夫妻のご都合により、17時で撤収。結局あまり使わなかったディスプレイ・ケーブルを持ち帰る。

帰って、夕食後、PASSAGE by ALL REVIEWSのご近所の〈文銭堂〉で買ってきたお土産のモナカ〈銭形平次〉を食べる。

思い立って、PASSAGE by ALL REVIEWSの私の書棚(マルセル・プルースト通り14)に置くリーフレットの原稿を書き始める。本に手製の帯をまこうと思ったが今日たくさんの本を整理していて、帯は痛みやすいことを痛感したからだ。実は書店員としてはないほうが取り扱いやすいと言う意味でありがたい。リーフレットとして持ち帰ってもらう案を検討したいのだ。

第1稿

私(hiro)の推しは「日記」です

私が日記を読む目的はつぎの2つです。

1.有名作品の執筆背景への興味を満たす

(例えばトーマス・マンの『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』執筆の顛末)

2.自分のブログ日記の参考とする

〈私のオススメの日記10選〉

  (*)がついているのは今回書棚に置いたものです。


1.『トーマス・マン日記』(紀伊國屋書店)全10巻 (* そのうち5巻)

2.辻邦生の日記

(1)『パリの手記』(河出書房新社)全5巻

(2)『モンマルトル日記』(集英社)

(3)『パリの時』(中央公論社)全3巻

3.森有正の日記『森有正全集』(筑摩書房) 13巻と14巻  (*)

4.森鴎外の日記『鷗外全集』(岩波書店) 1巻

5.夏目漱石の日記『漱石全集』(岩波書店) 1巻

6.サートンの日記

7.内田百閒の日記  (* 『百鬼園日記帖』(福武文庫) )

8.永井荷風の『断腸亭日乗』 

9.『アシモフ自伝』(早川書房)全4巻 (自伝と称しているが実は日記に近い)

10.神谷美恵子の日記

 <今読んでいる日記>

1.斎藤茂吉の日記『全集』(岩波書店)全4巻 他に手記が2巻

2.自分の若い頃の日記ノート10冊と手帖20冊

(これは、ブログへの転載を計画中、完成すれば18歳から死ぬまでの80年分の「日記」ができるはず。)

上記の(*)以外に

『Tagebuecher 1946 - 1948: 28. 5. 1946 - 31. 12. 1948』

『闘う文豪とナチス・ドイツ - トーマス・マンの亡命日記』(中公新書)

など置いています。

書棚の写真。

暫定版、もっときれいになる予定だ



2020年9月28日月曜日

デスクワーカーの職業病である腰痛には皆苦労している

『トーマス・マン日記 1946年-1948年』のあとがき(森川俊夫)を読む。

1946年4月1日から5月27日は、日記は空白。トーマス・マンは肺の感染性膿瘍でシカゴの病院で検査と手術を受けたからだ。シカゴにはこの病気の名医がいたし、娘夫婦や、Kの兄(物理学者のペーター)がいたからだと思う。それにしても、カリフォルニアからシカゴまで列車の移動は辛かっただろう。

自宅に戻った翌日から、5月28日から日記が再開されている。

『ファウストゥス博士』は1943年5月23日から執筆を開始しているという。物語の主人公は1885年に生まれ1940年に亡くなる設定だ。語り手が過ごす時間は、戦争中であるということにしてある。主人公の生きる時間と、ナチスの支配が進む時間の二重性をうまく演出してあるのだ。そして、主人公レーバーキューンの先駆者としてトニオ・クレーガーがいると指摘している。

1947年1月29日の日記には11時50分に『ファウストゥス博士』の最後の記述が終わったと書かれていることが、指摘されている。

日本語版の日記の註釈は各日付ごとに配置されており、私としては読むのに便利と感じた。たまたまこの巻だけ買ったドイツ語版の日記を見ると、註釈は巻末にまとまっている。註釈を読むのに毎回厚い本の頁をめくるのは大変だと思う。日記の文面を手早く読むだけならドイツ語版式が良いのかも知れない。

どちらにも、膨大で詳細な註釈がついているのには驚く。訳者も大変だったろうが、このあとがきに紹介されている、校正と索引を受け持った伊藤暢章氏の苦労が偲ばれる。

さきほど出てきた、トーマス・マンの義兄ペーター・プリングスハイムのことを少し調べたくなった。日本語Wikipediaには項目がない。ドイツ語Wikipediaにはある。Google翻訳で翻訳したら、日本語の翻訳はいまいち。英語に翻訳したら、読みやすい。1881年生まれ、1964年死去。当時は米国に亡命していた。トーマス・マンが金銭的に援助もしていたようだ。この人は、寺田寅彦がベルリン大学に留学したときに、教室で会ったプリングスハイムと同一人物かどうかよくわからない。寺田寅彦の「ベルリン大学」に登場している海坊主みたいな人。

ペーター・プリングスハイムの理学的著作はInternet Archiveで読める。


***

トーマス・マンの『ファウストゥス博士の成立』も少し読む。

日本語版全集第6巻の528頁付近。創作に脂が乗っている時には、肉体的に困難を抱えていることが多いという。要するに無理をしているわけだ。『ファウストゥス博士』の場合は上記の次第で死にかけた。そして『ワイマールのロッテ』を書いている時には、坐骨神経痛の激痛に悩まされていたらしい。こちらはかなり身近な病と思う。私もそうだし、知人でも腰が痛いという人は多い。問題解決にはG. M. ワインバーグの『文章読本』がおすすめ。


昨日のブログに書いた鹿島茂さんの『成功する読書日記』にも、腰痛対策は書いてある。


2020年12月13日日曜日

『トーマス・マン日記』とサートンの『74歳の日記』を読み比べる

『トーマス・マン日記』を読む。

『クルル』を、とりあえず、リスボン出発の前まで書くことに決めたらしい。それ自体は喜ばしい。不承不承やるにしても、やはりトーマス・マン、手抜きはしない(できない)からだ。エルレンバハの家への不満とカリフォルニアへの思いは続く。難しいところで、カリフォルニアに居たとしても、『クルル』題材への不満は変わらなかっただろう。

1953年7月3日、エルレンバハ。
ウォーターマンの万年筆、Kが選んでくれたこの万年筆はよい。

『クルル』の第8章を書き進める。リスボン滞在をいずれにせよ一度終わりまで書いて、それから自分と小説とがどういう関係になっているかをみることに決断。

7月4日。
ソファーの隅で『ファウストゥス』小説を、それから『選らばれし人』を書き進めていた時代への郷愁。パシフィク・パリセーズの家をけっして忘れはしないだろう。この家は嫌いだ。

7月5日。
第8章を、実験的に書き進める。

7月6日。
第8章に取りかかるが、嫌気がさし悩む。

私の唯一の楽しみといえば、喫煙とコーヒーをのむこと、二つともからだには有害たが、そうなのだ。そのほか書物机に背を丸めて座ることも同じように害がある。

パシフィク・パリセーズにおけるわが家のソファーの隅がいま私に欠けているのだ。

7月7日。
12時45分まで第8章を書き進める。

7月8日。
第8章、1枚書き進める。

7月10日。
昨日来客。いつ不安はおさまるのか。おそらく終わりまで果てないだろう。

7月12日。
ズゥズゥとの対話に手を加える。

7月13日。
ズゥズゥとの対話を書き直し、先へ書き進める。

7月24日。
Kの70歳の誕生日にとうとうなった。晩餐会で私は私の祝辞を読む。お祝いの日は良く美しかった。

7月27日。
疲れた。客たちが去ってくれることを願う。孤独になることへの欲求はとどのつまり墓中の安息を目指している。進行中の『クルル』の章を先へと書き進める試み。おそろしく疲労。

7月28日。
『クルル』第3部第8章を少し書き進める。長くなったリスボンでの滞在を物語り、ふたたび取り上げねばならない第9章への展望。

7月29日。
第8章の結末はほとんど先へ進まない。

7月30日。
第8章の結尾の変更。

7月31日。
第3部第8章を書き終わる。

8月1日。
『クルル』の次章の準備をためらいながら進める。

8月2日。
『クルル』の新しい第9章(両親宛ての手紙)を書き始める。

8月3日。
ルクセンブルク宛てのフェーリクスの手紙を書き進める。

8月5日。
こっけいな『クルル』の手紙の章を苦吟しながら書き進める。

***


午後、メイ・サートンの『74歳の日記』を読み始める。引き込まれて100ページ強を一気に読んでしまった。73歳の年末に脳梗塞となり、その回復過程を記述したもの。かなり重症だったようだが、一人暮らしでの療養を、隣人や友達(犬と猫も含む)の助けを借りながら、必死にやり遂げる。

トーマス・マンの日記と比べると、やはり女性の方が苦しみに耐える力が強そうな印象を受ける。そして、トーマス・マンはちょっとした風邪でも大げさに騒ぎ立てる。メイ・サートンは本当に苦しいときは日記を書いていない。

2020年12月15日火曜日

トーマス・マンにも「老人力」はあった、いやかなりあった

『トーマス・マン日記』を読む。

相変わらずだが、なんとか『クルル』を書き続ける。この、「なんとか」にトーマス・マンの強さの秘密がある。周囲、特に妻Kや娘エーリカなどと、創作上の行き詰まりや、生活上の悩みを相談できた。妻や娘にはトーマス・マンを導く知恵があり、マンは割と素直にそれに従っている。

やはり亡命先で苦労している(『ツヴァイク日記』によるとだが)ツヴァイクとは、ここが決定的に違うと思った。ツヴァイクは一人で悩んでいるように見える。その悩みを日記にぶつけているのはトーマス・マンも同じだが悩み方がオープン、この「違い」により、トーマス・マンとツヴァイクの生涯の終わり方に明暗がもたらされる。トーマス・マンはツヴァイクの「弱さ」を惜しんでいたと思う。

一人だけで頑張ってはいけない。


1953年9月1日。
澄んで、真夏のよう。コーヒーのさいに、Kと建てるべき家の部屋割り、規模、必要な浴室について話す。

「ルクセンブルクへの手紙」を書き進める。

9月2日。
第9章を書き進めるが、退屈。

9月3日。
12時半土地ブローカーと車で外出。ヘルリベルクとキュスナハトを見てまわる。手が届かない価格、意気消沈。夜、観劇。

9月6日。
リスポンからの手紙の終わりを書き進める。

いくつかの土地を見学。

9月7日。
クルルの手紙、書き終わる。さらに先へ書き進める。

パシフィク・パリセイズからまだ取り寄せるべき家具、ソファーなどについて話しあう。

9月9日。
私たちの有り金、ちょうど200,000スイス・フラン、少なすぎる。中級程度の家屋建設見積もりが170,000スイス・フラン。やむを得なければ抵当権つきでなすべき。少し第9章を書き進める。

9月11日。
ミンクスで出発。

9月12日、ヴヴェ、トロア・クロス。
昨日、エーリカと出発。夜7時着。今日、11時頃不動産仲介業の一人といっしょに車で出かける。適切そうな家。シンプロン鉄道の騒音でダメ。

夜、7時チャプリンの家へ。魅力的な夫人と、5人の子供たちが、心から歓迎のあいさつ。快適な夕べ。

9月13日。
再びチャプリン邸へ。

9月16日、ルガーノ、ヴィラ・カスタニョーラ。
一昨日はブリグで一泊。昨日、ルガーノ、ヴィラ・カスタニョーラに投宿。なじみのバルコニー付き部屋。

ヴァルターと再会。

夜、エーリカが、『クルル』長篇小説でがんばるべきだという、ためになる忠告をしてくれる。

9月17日。
モンタニョーラヘ。ヘッセに『欺かれた女』を謹呈。喜んでくれた。

9月19日。
ヴァルター父娘と夕食、『欺かれた女』についてヴァルターが愛情をこめて話す。

9月24日。
第9章を書き進める。

9月25日。
テニス競技のくだりを少し書き進める。

9月26日。
かゆみには暖かい入浴が役立つ。

9月29日。
メーディが来る。

9月30日。
ヘッセ邸へ別れのあいさつに行く。

10月2日、エルレンバハ。
きのう、メーディが運転手となってヴィラ・カスタニョーラを出発。夕方、到着。新しい家政婦マーリア。

***

『老人力』を読み終えた。意外にと言っては失礼だが、面白かった。

307頁。
(わからない事を質問されても)ずるずると自分なりの論理が出てきて(自分で)面白がるのが、老人力😆 なおかつ、最後に話は発散する。(まとまらない。) これも素晴らしき「老人力」。



2020年10月19日月曜日

『トーマス・マン日記 1949-1950』(紀伊國屋書店)を読み始める。いよいよ私の時代に。

昨日、三軒茶屋まで行き、世田谷区立図書館のカウンターで借りてきた『トーマス・マン日記 1949-1950』を読みはじめる。

インゲ・イェンスの書いた編者序文が秀逸。この巻に納められた1949年から1950年の日記の主題は2つ、トーマス・マンの青年への愛と、政治情況の悪化への対応。前者については日記本文に語らせ、後者については編者注でできるだけ補足すると言う。またかすかに見られる、マンの日記記述上の乱れについても述べられる。老いが忍び寄っている。

日記本文と索引も含めた編集上の苦労についても少し触れられている。コンピュータとインターネットが駆使されたらしい。

1949年1月1日。
新しいスイス製ノートブックに日記を書きはじめる。5月にはまたチューリヒに行く予定なのでまた同じノートブックが買えるであろう。

元日だが『選ばれし人』の執筆を再開、Kが風邪で寝ているせいもある。

1月3日。
「若いプリングスハイム」によると日本ではマンの本が人気。日本円で100万円の預金ができそうだが、円は間もなく暴落するだろうと書いている。

「訳者あとがき」も先に読んでおこう。この間のマンの動静がまとめてある。翻訳原稿の難しい校正についても、感謝の言葉がある。苦労がしのばれる。

定価14,000円はこれらを思えば安い。でも年金生活者には買えないのには変わりない。清水の舞台をとびおりてこそ、浮かぶ瀬もあるのだが……

2022年2月26日土曜日

PASSAGE by ALL REVIEWSの開店準備に孫はあまり役に立たなかった(要するにおじゃま)

土曜日は孫の育児補助の日。今日は2時半まで家で預かって(父親と二人)、その後帰ってもらうことにしていた。しかし父親の希望で(昔大学に通っていて懐かしいらしい)、散歩代わりにすずらん通りまで一緒にやってきた。電車に1時間近く乗っていたが騒いだのは5分程度。お腹が空いたせいだ。


せっかくなので(こちらの都合のせっかくで必死の仕事中の皆さんには申し訳なかったが)PASSAGEの中を覗かせてもらうことにした。さすがに、1歳半の孫にはなにがなんだかよくわからなかったようだ。父親は本棚の中身を見て興味深そうにしていた。ぐずりだしたので、10分程度で直ぐ帰したが、なんとその後1時間ぐらい神保町をベビーカーを押して歩き回ったらしい。風邪を引かせたのではないかと心配。

(写っていないが)後方で作業中の皆さまお邪魔してすみませんでした

私は、作業を16時45分に開始して、書評家さんの書棚ひとつ分の価格シール貼りをしただけ。今日はお休みに近い。明日は頑張る。マンションの管理組合の総会があるが、配偶者だけに出席してもらう。いつもは二人で出るが、密を避けようという口実で。


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まだ二日間を残しているが、クラウドファンディングは見事目標150万円を達成した。中心となって頑張ってくれた学生諸君には感謝したい。昨秋には実現できると思わなかった。自分の不明を恥じる。それ以上に若さの偉大な可能性を感じた。


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負けてはいられぬと、PASSAGEの書棚に置くリーフレットの文章の第2稿を書いた。

BOOKS HIRO店主のわたくしが読書、なかでも日記文学の読書をおすすめする理由

なぜ自分は読書を好むのか、というギモンに対する一つの答えを見いだしました。それは、同好の士に会えるからです。同好の士は、時空を超えて存在します。毎日『トーマス・マン日記』を読み続けた今は、トーマス・マンは同好の士です。自分と似たようなことで悩み、あるいは喜びを感じる人がいる。そこに、こよない嬉しさを覚え、孤独の哀しみが和らぐ気がします。

少し前に書いた文章を引用します。
「トーマス・マンが自分と同じ年齢で、頑張って著作にはげみ、その材料収集だけにとどまらない膨大な読書を、不自由な亡命先で続けている。肺の感染性膿瘍(たぶん結核が原因)で、危険な手術を受けながらもなんとか回復して、書き続け読み続ける。入院先では、看護人の優しさに魅せられたり、麻酔術を受け意識の遠のきと回復を興味深く体験し、はじめてベッドから立ち上がるときのときめきや虚脱感のなかで、生きていることを実感する。これらの感覚は3年前の入院時にわたくしもほとんど同様に感じた。トーマス・マンは自分の「弱さ」も、亡命先での不便な生活の苦しさも、「正直」に日記に書き込む。世界のこちら側でわたくしは『トーマス・マン日記』や『ファウストゥス博士の成立』に書かれた文章を読んで、そうだそうだと一人で相槌をうつ。」

大げさに言えば、この宇宙の中で自分は一人ではない、自分と同じ考えの人がいるのだと思うと、安らぎを感じるのです。

2020年10月21日水曜日

『トーマス・マン日記』の詳細な注釈にあらためて驚く

『トーマス・マン日記』のつづきを読む。


1949年1月23日。
短い日記と長い注を読むと、マンの日常が透けて見えてくる。書き、孫と散歩し、読書する毎日。政治のニュースにも注意を払う。

1月27日。溺愛の対象、8歳の孫フリードにアンデルセンを読んでやる。この冬から春までフリードとその弟を両親(ビービとグレート)から預かっている。大変だっただろう。

2月1日。
映画『魔の山』構想をコルダ監督と協議。『魔の山』で主人公の「幼馴染」として重要な役割を夢想のなかで果たす、プリービスラフ・ヒッペはシナリオから落とすしかない。(# マンはずいぶん落胆しているようだ。)

編者の詳細な注(# 詳細すぎて本の厚みが2倍以上に膨れ上がっている。たしかにコンピュータの助けとトーマス・マン研究が進んだことにより注が大量になるのだろう )によると1950年7月11日の日記にもヴィルリ(本名)としてヒッペに関する記述があるという。そちらの注を見ると、リューベック時代の学友でヴィリラム・ティンベといい、マンが下宿していた高校教師の家の息子。

同じ注に、『トニオ・クレーゲル』の幼馴染ハンス・ハンゼンのモデルはやはり学友アルミン・マルテンスだとのこと。

同性の幼馴染たちを詳細に記述することによりトーマス・マンは、彼らへの愛情を香り高い文学に昇華させている。

3月12日。
いつも膨大な量の手紙が届く。中には答えなくてはならないものもあるが、手紙書きで、午前中の仕事を邪魔されるのはイヤだ。(# 電子メールのある世界を教えてあげたいものだ。)

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明日はマンション管理組合の仕事で一日忙しくなりそうだ。

2022年5月27日金曜日

〈PASSAGE〉の書棚「BOOKS HIRO」に追加するメイン商品を検討中

昨日『トーマス・マン日記』がすべて売れてしまった。嬉しいのですが、なぜか少し寂しい気もします。

気を取り直して、〈PASSAGE by ALL REVIEWS〉の書棚「BOOKS HIRO」に追加するメイン商品を検討し始めています。『トーマス・マン日記』に匹敵するようなものとしては、手持ちでは『鷗外全集(または選集)』の日記の巻か、『斎藤茂吉全集』の日記の巻が考えられます。後者は岩波の旧版全集で6冊あり、『トーマス・マン日記』10巻(出品したのは手持ちの5巻)に対抗できるでしょう。

とりあえず、読んでみないと話にならないので『斎藤茂吉全集』の第46巻をもちろん中古で購入手続しました。届くのは6月1日頃になりそうです。それまでは、国会図書館デジタルコレクションで読むことにします。

斎藤茂吉全集. 第46巻 (日記 第1)
出版者 岩波書店

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このブログのレイアウト変更を行いました。過去記事も簡単に見ることが出来るように、「テーマ」の変更を行いました。内容やブログの書き方も改善しようと思います。



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『国立国会図書館月報』 733(2022年5月)号

https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_12233022_po_geppo2205.pdf?contentNo=1#page=8

この中のOCRに関する記事がオモシロイです。

2021年2月16日火曜日

『トーマス・マン日記』全十巻を読み終えたので、また最初から読み始める予定

『トーマス・マン日記 1918−1921』を最後まで読み終えた。

1921年9月17日。『ゲーテとトルストイ』講演旅行をドイツ国内で行う。最初リューベックに立ち寄り、7日間滞在、講演以外の時間をなつかしい街歩きで過ごす。この日の日記は旅行から戻って書いたもの。

12月1日。1921年の収入は300,000マルク。嬉しそうに書いているので、予想より多かったのだろう。エイヤーで100倍すると、三千万円。莫大というわけではない。やむを得ずだろうが、トーマス・マンは外面的には貴族的な生活をしていた。高価な住まいや身なり。使用人も複数。そう思うと46歳のこの頃も内情は苦しかっただろう。そして子供も多かった。

ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)
Katia Mann mit ihren sechs Kindern um 1919.
Von links nach rechts: Monika, Golo, Michael, Katia, Klaus, Elisabeth, Erika.


ところで、これで『トーマス・マン日記』(紀伊國屋書店)を10巻全部「読んだ」ことになる。このブログを本格的に書き始めたのは、2016年10月で、さかのぼってみても第一巻を買ったのがいつか解らない。思いついて、Amazonの過去の注文履歴を調べたら、2014年5月12日に中古品1400円で買っていたのが判明。この後、やはり中古で4冊買った。残りの5冊は高くて買えず、世田谷区立図書館に揃っているのを発見して、昨年から一年がかりで5冊借りて読んだ。こうして見ると、借りるほうが本は早く読めるとわかる。買うと安心してしまい、いわゆる積ん読になる。でも、この本のように資料的価値もある本はできれば手元に置きたいのだが、財布が許さない。

さきほど、手元にある第一巻から第五巻をめくってみたら、内容を記憶していないところが多いのに気付いた。また、最初から読む必要がありそう。また、十冊読むことになるのか。終わるのは5年はかかる。全集も並行してよむのであれば10年かかるだろう。生きているうちはずっと読み続けるような予感がしてきた。

それも面白そうだ。

2017年1月20日金曜日

ルカーチ『ロマンの魔術師』でトーマス・マンはいつまでも一人前と認められない?



 午前中に歯医者に行ってきた。右下奥から二番目の大臼歯の金属冠が取れたので治してもらいに行っているが、そこ以外の歯をあれこれ治すので、なかなか終わらない。毎度のことだが。

 ルカーチの論文集『ロマンの魔術師』。4番目の論文は「遊戯的なものとその背景」。これは以前読んだことがある。「詐欺師フェーリクス・クルル」の詐欺師としてのふるまいと、芸術家(トーマス・マン)の振る舞いは。現実生活に対する遊戯性ということで、似ているという論旨だった。今回読み直してみて、他に心に残ったところ。

 210ページ。
「彼(クルル)ののぞむものは、勝利と勝利の快感なのであって、金と社会的地位は、自分の能力をそれにふさわしい状況のもとで発展させるための、当然の(もちろん、たぶらかしで手にいれるのであるが)前提なのである。この条件をつくりだすために、クルルは詐欺術を必要とするのである。」
 これが、小説家と一緒ではないかとルカーチは言っている。もちろんトーマス・マン自身もいろいろな著作で同様なことを述べている。

 213ページ。 
(貴族を詐称する)「クルルは、原型よりも、ずっと(本物)なのである。」
 清水ミチコやコロッケの真似する様子は、真似されているスターよりも、スターらしい。すると、トーマス・マンは、米国や欧州で民主主義者の真似をしているが、実は社会主義国にいる者よりも、民主主義者らしいのかもしれない。もちろん、ルカーチは紳士なので、こんなことは言っていない。

 この論文はトーマス・マン80歳の記念の論文だ。トーマス・マンはもうあきらめて「詐欺師フェーリクス・クルル」を未完のまま。出版する。リスボンから南米に向かって旅立ったクルルの化けの皮はまだはがれない。トーマス・マンもこの後すぐ黄泉の国に旅立つ。小説家の化けの皮もやはりはがれなかった。ルカーチはこの論文においてすら、もっとトーマス・マンに書かせたかったようだ。私もそう思うが、仕方ない。

 トーマス・マンの晩年の日記をみると、歯医者に通うという記述が多く見られる。お坊ちゃま育ちで歯性は悪かったのだろう。ブデンブローク家の当主も歯医者で無理に抜歯をしようとして心臓発作で亡くなった。気をつけなくてはならない。

2018年4月20日金曜日

参照する本はすぐ手に取れるようにしたい

 昨夜図書館から借りてきた本、「私的読食録」(堀江敏幸、角田光代 2015年 プレジデント社)の中に、「御馳走帖」の書評がある。内田百閒の昼食の蕎麦のお話が紹介されており、これは何度読んでも面白い。「御馳走帖」は書棚のすぐ手に取れるところにある。こちらも読んでみたくなる、関連本を次から次へと読み漁る危険な流れに吸い込まれそうになった。踏みとどまった。

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 懸案の書棚の整理を少しだけ(一段だけ)やった。「トーマス・マン日記」や辻邦生の日記、アシモフ自伝など、すぐ手に取れるところに移して、順序よく並べた。「トーマス・マン日記」はやはり5冊しかないことが判明。あと5冊を死ぬ前に入手して読みたい。



 はみ出した文庫本は枕元に固める。3列に並べるという暴挙。後ろの列の本の背の写真を撮って、前に貼ったほうがいい。



 整理したら疲れたが、精神的には良い気分になった。

 森有正の著作、辻邦生著作集、森鴎外選集、寺田寅彦選集なども手近に並べたい。あ、植草甚一スクラップブックも。近いうちにやろう。なお、トーマス・マン全集はさっきの日記の棚の2段下にすでに並んでいる。

***

 気を良くして「物語の娘 宗瑛を探して」(川村湊 2005年 講談社)を読み始める。

 宗瑛は片山廣子の娘で堀辰雄が慕っていた、堀辰雄の師匠芥川龍之介は片山廣子に想いを寄せていた… なんと華やかな世界。

***

「70歳の日記」はめでたく読了。メイ・サートンは愚痴も正直に書くので日記が読みやすい。他の日記もいずれ借りて読むことにする。



2021年4月16日金曜日

AR定例会(4月17日21:30〜)用の記事

 

hiroの推しは「日記」です


<日記を読む目的>

1.著者の作品の背景への興味
(例えばトーマス・マンの『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』執筆の顛末)
2.自分のブログ日記(1万日連続を目指す)の参考

 

<オススメの日記10選>

1.『トーマス・マン日記』(紀伊國屋書店)全10巻

2.辻邦生の日記

(1)『パリの手記』(河出書房新社)全5巻

(2)『モンマルトル日記』(集英社)

(3)『パリの時』(中央公論社)全3巻

3.森有正の日記『全集』(筑摩書房) 全2巻

4.森鴎外の日記『全集』(岩波書店) 全1巻

5.夏目漱石の日記『全集』(全集刊行会)全1巻

6.サートンの日記たち

7.内田百閒の日記たち

8.永井荷風の『断腸亭日乗』 

9.『アシモフ自伝(実は日記に近い)』(早川書房)全4巻

10.神谷美恵子の日記

 

<今読んでいる日記>

1.斎藤茂吉の日記『全集』(岩波書店)全4巻 他に手記が2巻
2.自分の若い頃の日記ノート10冊と手帖20冊
(これは、ブログへの転載を計画中、完成すれば18歳から死ぬまでの80年分の「日記」ができるはず。)

2017年9月27日水曜日

トーマス・マン先生ご本人に教わってもドイツ語はまだものになっていない(T_T)

 今年の4月に始めた初級編のNHKラジオドイツ語。6ヶ月聴き続けて今日終了した。




 トーマス・マン日記を取り出して読んでみた。1946年5月28日、昨日はエーリカ(長女)とロサンゼルス駅にペーター・プリングスハイム夫妻を迎えに行った…と書いてある。読める\(^o^)/

(3年後の後記:これ間違ってました。トーマス・マンが入院先からエーリカたちと一緒に帰ってきたので、ペーター・プリングスハイム(物理学者でKの兄)が迎えに来ていたのです(T_T) 。
やっと、邦訳版を世田谷区立図書館で借りてきて読んだのでわかりましたm(_ _)m )



 しかし問題が有る。固有名詞を除く単語は全部、辞書を引いた。見たことが有る単語でも意味が思い出せない(T_T)

 せめて辞書をひくのは1センテンスで1・2個にしたい。それでないと、この一巻だけで1000ページもある日記、全10巻を読むのには100年位かかってしまう。

 単語力をつける作業に取り掛かる。まず、先日見つけておいたビデオを観ることを考えた。




 100回聴けば、そして数回例文を書いてみればかなり単語は覚えられそうだ。

 これだけではつまらない。もっとYouTubeを捜したら、なんと、トーマス・マン御大ご本人の朗読の「トニオ・クレーゲル」のビデオを発見。これを聴きながら、Kindleで無料のドイツ語版「トニオ・クレーゲル」を読んでいけばいいのではないか?

 



 早速、第一章(ハンス・ハンゼンと下校し別れる所まで)を聴いて読んでみた。以外に朗読は速く、途中で気を抜くと置いていかれる。御大はかなりドラマティックに読んでいるのにも気づいた。

 字面を追うのが精一杯で、単語はあまり頭に入らない。学生時代に「トニオ・クレーゲル」の第一センテンスで挫折したときよりは数段ましでは有るが…

 さっきの基本フレーズ100回作戦をまずさきに実行したほうが良さそうだ。

***

 サンスクリットは今日はお休み。どこかで集中的にやるのが良いかもしれません。



2021年1月8日金曜日

トーマス・マンについての勉強は終わりがないし楽しい

『トーマス・マン日記』で、最後の講演旅行のくだりを読む。とやかく言うことなし。昨夜観たドキュメント映画には、ヴァイマルやリューベックでのトーマス・マンが映っていた。

1955年5月。
「新緑と花咲き出る道」を、5月7日、Kとエーリカと3人で最後の講演旅行に出る。シュトゥトガルト、キシンゲン、アイゼナハ、ヴァイマル、ゲティンゲンを経てリューベックへ。

トラーヴェミュンデ、リューベック市庁舎(突然のスピーチがうまくいかなかった)、市立劇場での朗読(「ハンス・ハンゼン」、「綾ぎぬ」、「サーカス」)は大成功。市庁舎食堂での晩餐会。マリーア教会、カタリーネウム(ギムナジウム)(グラウトウやヴィルリ・ティムペへの想い出)、寝台車でチューリヒへ。5月25日朝、キルヒベルクへ戻る。5月26日朝、嚥下困難。


5月29日。
『ペンツォルト』メセージを書き始める。

5月31日。
『ペンツォルト』書き進め
る。

どこまでも執筆をやめないマン。そして80歳の誕生日の6月がやってくる。


***

「近代日本文学のねじれ--三島由紀夫、辻邦生、村上春樹におけるトーマス・マン」(小黒 康正 文学研究 102, 19-48, 2005-03)を読むと、三島、辻、村上がそれぞれどのようにトーマス・マンの作品を通じて欧州文明に対応したかが、わかる。日本に取り込もうとした三島、逆に自分を欧州文明に同化させようとして辻、インターナショナルに取り扱った村上。村上春樹の『ノルウェイの森 上』の主人公は149ページで、『魔の山』を読みふけっている。そして、『ノルウェイの森』全体は、『魔の山』に照応していると言う。



***

トーマス・マンのテキスト・データベースというすごい代物があるというのをトーマス・マンに関する他の論文を見ているうちに発見した。九州大学にいた樋口忠治の作成したもの。(全集の文章をすべてキーボードで入力したという。驚嘆。)まだ、使い方がよくわからないし、多分わかっても今の所猫に小判だろう。学術的には素晴らしいものだ。http://www.flc.kyushu-u.ac.jp/~hgmc/


しかし、Internet Archiveで適当な本(*)を探して、本文検索をするほうが、素人には面白そうだ。

(*)たとえば、『The Hesse-Mann letters : the correspondence of Hermann Hesse and Thomas Mann, 1910-1955』

2020年9月20日日曜日

『トーマス・マン日記 1946年-1948年』の冒頭部分は明るいタッチだが……


『トーマス・マン日記 1946年-1948年』読み続ける。面白い。

編者Inge Jensの書いた註釈の詳細さと見事さにうたれる。編者序文に本人が書いているように「ゆっくり、急げ ( Festina lente ) 」でないと出来ないだろう。そして、老年期になったトーマス・マンも『ファウトゥス博士』を、周囲の手を借りながら、「ゆっくり、急いで」書いていたようだ。

1947年1月29日に、1943年5月23日から書いていた『ファウストゥス博士』を完結させたと、正確な日付を持ち出しているが、これは、日記を書いていたからに違いない。念の為、この日の日記を引っ張り出してきて見ると、たしかに書き始めたことの記述があった。少し戻る。

1946年12月21日。日本で津波があったという記述。南海大地震のことだろう。

1946年12月27日。妻や娘などが執筆を手伝う。うらやましい。彼女らはマンの進行の遅さに業を煮やしたのかも。

1947年1月1日。この日だけは執筆をしない。読書は休まない。ここも頭が下がるが、読書を続けるのは、執筆へのエネルギー供給になるのだろう。

1947年1月6日。娘のエーリカが原稿の校正校閲をしっかりやってくれたとの感謝の言葉。でも譲れないところもある。

1947年2月5日。執事のフェーリクスが酔って車を運転し、逮捕されたとある。「フェーリクス」だと!? 「詐欺師フェーリクス・クルル」との偶然の一致かしら? これを種にして、『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』の続編パロディーを考えるという、楽しそうな作業を思いつく。明日、具体策を考えてみよう。

1947年4月10日。フェーリクスが収監から戻る。索引を見ると、何箇所にも登場している。「フェーリクス・クルル」という語も何箇所も出てくるようだ。面白そう。

1947年4月22日。パシフィック・パリセーズを発ち、ヨーロッパ旅行に出発。シカゴ、ワシントン、ニューヨークを経由して、クイーン・エリザベス号でサウザンプトンへ。乗り心地はあまり良くないと書いている。船高が高く揺れるのだ。ロンドンでは講演を二つ。「ドイツとドイツ人」、「ニーチェ論」。

これも読んでおきたい。

1947年5月28日。エア・タクシー(小型機)で、ロンドンからチューリッヒへ。懐かしかっただろう。

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孫の命名書をインターネット上のツールで書いてみる。手書きのほうが趣はありそう。でも、これは親の仕事だと考え直す。