ルカーチに触発されて、トーマス・マンの晩年の政治思想を探りたくなったが、思いつく資料のうちでもっとも重要そうな『トーマス・マン日記』は1946年3月分までしかない。このあとの巻は、高価なのでまだ入手できずにいる。
トーマス・マンの義理の甥、つまりカーチャ夫人の双子の兄の息子のクラウス・プリングスハイム・Jr(1923年生まれ)の書いた手記のペーパーバックが先日手に入った。『Man of the World』(19995年 モザイク・プレス)
クラウスという名は平凡な名前らしくマン家にもプリングスハイム家にもたくさんいてまぎらわしい。父親の方のクラウスさんはナチスから逃れ日本に来ていた高名な指揮者である。息子のクラウス・Jrとともに、1946年10月に苦しいい生活を送っていた日本を出て、米国カリフォルニアに向かう。身元引受人はトーマス・マンである。
10月末にシアトルに着き、バスを乗り継いで、トーマス・マンの住んでいたカリフォルニア州パシフィック・パリセーズ(サンタモニカの近く)を目指す。
広壮な住宅を建てて住んでいたトーマス・マンだが、台所事情は苦しかったらしい。印税5万ドルの手取り分が半分でそれをほとんど住宅の維持に費やしていた。クラウス・Jrは身元引受人のトーマス・マンの銀行口座残高と入金予定まで、入国書類を見て知っていた。
マンは住宅だけでなく身仕舞いにも気を使っていた、ベッドルーム以外では365日ネクタイをしていたとクラウス・Jrは書いている。来客も多かったが、父親に似て生真面目な性格だったのだろう。
通常マンぐらいの生活を送るなら、午餐や夕食にはワインを飲むのが普通だろう。クラウス・Jrもカーチャ夫人に頼まれて、ワインを買ってくることがあった。気を使って「いくらのワインにするか」をきくと1ドル強のワインをといわれたらしい。カーチャ夫人は、一人で家政を受け持ち、買い出しもしたらしいが、クラウス・Jrに運転を教え、アッシー君をやらせたらしい。マンはもちろん運転などしない。運転手がいるのが当然という考えなのだろう。
マンは、時計のような規則正しい生活を送っていた。これは有名な話だが、改めて、若者の目から見た記述を見ると、可笑しい。
朝は8時に起きる。ずれても2・3分のちがい。
9時まで時間をかけて身仕舞いをする。
9時に朝食。トースト、シリアル、卵、ジャム、バター、紅茶またはコーヒーそしてオレンジジュース。ロサンゼルス・タイムス紙を同時に読む。
9時40分。じゃ、仕事するよと書斎に向かう。書斎にはこの間誰も入らない。(ということはその前にメイドが掃除はしておくのだろう。)
11時15分。イタリアン・ベルモットに卵黄を混ぜた飲み物を、クラウス・Jrがそっと書斎に届ける。マンは書斎机ではなく、ソファの端に座り、書物用の板(60センチくらい)を膝に載せ、黄色のリーガルパッドにモンブラン万年筆で、しきりに書きものをしている。
語句の手直し以外、ほとんど書き直しをしなかったマンだが、そのかわり極端な遅筆。一日(といっても午前中半日だが)に1ページしか書かない。
1時半、散歩に行く。余計な会話はしたくないと、犬を連れて、徒歩で歩きに行く。たいていは夫人が車で追いかけ、歩き疲れたマンを連れ帰ってくる。
2時15分。午餐を告げるゴングが鳴らされる。来客があればワインが出るが、それ以外は簡素な食事。午餐のあとは神聖な煙草の時間である。
このあと、書斎で読書と全世界から届く手紙の処理。マンは筆まめだった。
5時にお茶。人に(依頼されて)会うのはこの時間。
7時45分。ディナーの時間。家族・親族間で猛烈な勢いで議論をしながらの食事である。
ディナーのあとは音楽の時間。Hi-Fiセットを手に入れたばかりのマンは、ゆっくりと音楽を楽しむ。「小説家でなかったら、私は作曲家になっていただろう。セザール・フランクみたいな!」とクラウス・Jrに語ったことがあるらしい。
もちろん、外出することもあった。
このあと、チャップリンに招かれて、ディズニーのスタジオ(借り切り)で、多くのスターと「Monsieur Verdoux」(「殺人狂時代」)の試写を見たという記述が続く。(115ページ)
なかなか、赤狩りの記述にたどり着かないが、もう少し頑張ってみます。それにしても、『トーマス・マン日記』安く手に入らないかな? もちろん古本で。
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