2020年9月28日月曜日

デスクワーカーの職業病である腰痛には皆苦労している

『トーマス・マン日記 1946年-1948年』のあとがき(森川俊夫)を読む。

1946年4月1日から5月27日は、日記は空白。トーマス・マンは肺の感染性膿瘍でシカゴの病院で検査と手術を受けたからだ。シカゴにはこの病気の名医がいたし、娘夫婦や、Kの兄(物理学者のペーター)がいたからだと思う。それにしても、カリフォルニアからシカゴまで列車の移動は辛かっただろう。

自宅に戻った翌日から、5月28日から日記が再開されている。

『ファウストゥス博士』は1943年5月23日から執筆を開始しているという。物語の主人公は1885年に生まれ1940年に亡くなる設定だ。語り手が過ごす時間は、戦争中であるということにしてある。主人公の生きる時間と、ナチスの支配が進む時間の二重性をうまく演出してあるのだ。そして、主人公レーバーキューンの先駆者としてトニオ・クレーガーがいると指摘している。

1947年1月29日の日記には11時50分に『ファウストゥス博士』の最後の記述が終わったと書かれていることが、指摘されている。

日本語版の日記の註釈は各日付ごとに配置されており、私としては読むのに便利と感じた。たまたまこの巻だけ買ったドイツ語版の日記を見ると、註釈は巻末にまとまっている。註釈を読むのに毎回厚い本の頁をめくるのは大変だと思う。日記の文面を手早く読むだけならドイツ語版式が良いのかも知れない。

どちらにも、膨大で詳細な註釈がついているのには驚く。訳者も大変だったろうが、このあとがきに紹介されている、校正と索引を受け持った伊藤暢章氏の苦労が偲ばれる。

さきほど出てきた、トーマス・マンの義兄ペーター・プリングスハイムのことを少し調べたくなった。日本語Wikipediaには項目がない。ドイツ語Wikipediaにはある。Google翻訳で翻訳したら、日本語の翻訳はいまいち。英語に翻訳したら、読みやすい。1881年生まれ、1964年死去。当時は米国に亡命していた。トーマス・マンが金銭的に援助もしていたようだ。この人は、寺田寅彦がベルリン大学に留学したときに、教室で会ったプリングスハイムと同一人物かどうかよくわからない。寺田寅彦の「ベルリン大学」に登場している海坊主みたいな人。

ペーター・プリングスハイムの理学的著作はInternet Archiveで読める。


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トーマス・マンの『ファウストゥス博士の成立』も少し読む。

日本語版全集第6巻の528頁付近。創作に脂が乗っている時には、肉体的に困難を抱えていることが多いという。要するに無理をしているわけだ。『ファウストゥス博士』の場合は上記の次第で死にかけた。そして『ワイマールのロッテ』を書いている時には、坐骨神経痛の激痛に悩まされていたらしい。こちらはかなり身近な病と思う。私もそうだし、知人でも腰が痛いという人は多い。問題解決にはG. M. ワインバーグの『文章読本』がおすすめ。


昨日のブログに書いた鹿島茂さんの『成功する読書日記』にも、腰痛対策は書いてある。


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