2019年8月11日日曜日

『献灯使』とトーマス・ウルフのレミントン・タイプライターに、ことばの可能性の極致をみたい

『献灯使』のなかの表題作を読み終えた。
この作品について、講談社のサイトで、作者の多和田葉子さんが、ロバート・キャンベルさんと対談している。そのなかで、印象に残った話。著者は「正体不明のじめじめした暗い恐怖が広がって、「怖いからやらないでおこう」という自主規制のかたちで、人間としてやらなければならないことを誰もしなくなるような恐い時代」がくる。これはもうすでに来ているかもしれない独裁制だという。

最近の事件、たとえば札幌での警察のふるまいなどを見ると、多和田さんの言う通り、ジメジメした独裁の時代が来ているのかもしれない。すべての記録をこっそり抹殺しようとしているのも、それに対して皆がおかしいと思いながらも声を上げられないのも、同じ状況だ。

すると、この小説は未来を描いた小説ではない。まさにじめじめどろどろした現実を「鮮鋭な」コトバで捉えた小説だ。素晴らしいコトバの使い手だ。


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トーマス・ウルフのことが気になって、ビデオをひとつ観た(A Story of the Buried Life - The Thomas Wolfe Memorial )。
そのなかで、彼の使ったと思われるタイプライターが写っていた。画面を超拡大してみると「レミントン」と書いてあるようだ。裏を取らないと。ということで、近いうちに二駅先の図書館に出向いてみる。彼のコトバにも引き込まれる予感がする。



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