2019年11月30日土曜日

『パリ左岸』は言論が自由なユートピアだったか?

『パリ左岸』を読み続ける。戦後の動きはますます混沌としてくる。


236頁。カミュは社会民主主義を擁護。
238頁〜239頁。共産党員モランは、当時スターリン主義者でカミュを非難したが、後にはカミュの行動がやむを得ないものだったと「理解」する。
242頁。ケストナー、イギリスでは、カフェの活発な会話もないし、そもそも作家が集まらない、と嘆く。
244頁。前タイム紙中国特派員のホワイトは、1300万人のアメリカ兵が帰郷し、戦前の生活を取り戻したいと望んだことが、共和党勝利につながったという。
245頁。スターリンを批判し、共産化を恐れながら、自らも腐敗していく米国社会に見切りをつけ、パリに戻りたいとリチャード・ライトは考えた。
246頁。ノーマン・メイラーはフィリピン戦の経験をもとに、『裸者と死者』を書く。小説家としてパリに行きたいとメイラーも考えた。
248頁。ボーヴォワールは米国訪問用に、初めてドレスを買った。18万円、泣きながら。おかげで、以前のサルトルのように米国についた瞬間に洋服屋に連れ込まれずに済んだ。
249頁。ボーヴォワールは米国人の上辺だけの明るさに辟易した。


ここまで読んでくると、パリは言論自由な天国のような気もしてくる。本当だろうか、この先を読めばわかるかも知れない。

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他に調べたことども。

中谷宇吉郎は1929年にキャベンディシュ研究所に行ってる。でもデイラックに会ったとは書いてない。専門違うし。
『英国の物理学会と物理学者』(青空文庫で読んだ。)

ここはスゴイ。源氏物語の画像とテキストと現代語訳を一画面で対照しながら見ることが出来る。
https://genji.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/app/#/


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