2021年8月4日水曜日

『蝶々は誰からの手紙』は丸谷才一流書評の教科書だ

もちろんすべての書評をロハで読むわけにはいかない。少し前の書評集なら古本で安く入手できる。それを手元に置いて書物の宇宙を探検する手掛かりとするのが、大人の知恵では無かろうか。

書評そのものの価値を宣伝し過ぎると、古本の書評集の価格も騰がってしまうおそれがあるが、まずは心配しなくても良さそうだ。少し残念な希望的観測。

古本になったときの値段こそ、その本が読者にとって望まれているかどうかの判断材料である。良いかどうかではないのが悲しいのだが。

朝活読書をここ数日続けているが、じっと読んでいると腰が痛くなってくる。時々は動かないといけない。同様に読んでばかりいると頭の筋肉が痛くなってくるので、書いたり話したりしないといけない。

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ともかく、『蝶々は誰からの手紙』を立ったり座ったり寝転んだりしながら読み続ける。

266頁。

「中年男になると」はイタロ・ズヴェーヴォ/堤康徳訳『トリエステの謝肉祭』の書評。著者はジョイスの年上の友人で実業家・作家。代表作『ゼーノの苦悶』。

丸谷才ーは『トリエステの謝肉祭』の方を買っている。その作品原題『老年』の英訳にジョイスは『中年男になると』と題を与えた。そしてアナトール・フランスより巧みだと評したが、丸谷才ーはプルーストに勝ると好評価。

この書評を読むと、書評が読書宇宙そのものと思えてくる。素晴らしいのだが、『トリエステの謝肉祭』を読まなくても読んだ気になってしまう。これも丸谷才ーの技なのでありがたく受け取る。

239頁。

「日本近代文学は彼ではじまった」津野海太郎『滑稽な巨人 坪内逍遙の夢』

私の場合この書評の題名「日本近代文学は彼ではじまった」と津野海太郎と書名『滑稽な巨人坪内逍遙の夢』だけでノックダウンされて、PCのところに行って図書館で予約してしまう。もちろん「じつに愉快で、哀れが深くて、読みごたへのある伝記」と言う丸谷才一の意見があったからだが。

246頁。

「あの戦争から60年」

「あのいくさのあひだ書き記された日記類は多いが。共感を禁じ得なかったのは清沢洌『暗黒日記』。マス・ヒステリーの日本を誠実にそして知的に批判し、希望を捨てない。敬愛の念をいだいた。」毎日新聞に2005年8月14日の掲載された書評だが、今もいや今だからこそこの本を読みたくさせる記述。

259頁。

「作文で困ったとき」

「近代日本語は口語体の成立以来、小説家によって作られた傾向があるのだが、その代表である自然主義作家たちは語彙が貧弱で、それが社会全体に強く作用してゐたからである(たとへば政治家の言葉づかゐの低調さ)。『日本語シソーラス』はこの文明の疲弊を正す本になるかもしれない。」

この批評精神も見事だし当時(2003年毎日新聞掲載)だけでなく、今にも見事に通用するのは恐ろしいくらいだ。

上記4つの書評は丸谷才ーの考えるところの、良い書評のお手本のようなものだ。

このような書評模範例の紹介と、初出情報のダイジェスト、対象本の傾向などを「書評の勉強」ページに追加したい。

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