2019年3月27日水曜日

高丘親王の旅は今も続いているか…

3月31日の月間ALL REVIEWSのゲストは巖谷國士さん。この方は、澁澤龍彦全集の編者だと、やっと今朝思い出した。『滞欧日記』という全集の一冊を出してきて少し読むと、今度の月間ALL REVIEWSのテーマの舞台プラハに滞在したときのことが書いてある。解説は巖谷國士さんが書いている。ちょうどいいので、この本を持参してサインしていただこう。


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澁澤龍彦といえば、絶筆となったのが『高岳親王航海記』でかなり昔に読んで感激した。高丘親王のことを調べたいと思って、国会図書館に相談してみた。以下の新村出の文章が見つかった。

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眞如法親王の記念碑を新嘉坡に建つるの議

平城天皇の皇太子であらせられた高岳親王、卽ち弘法大師の高弟であらせられた眞如親王の御事蹟は、明治以來しばしば學者並に佛教家の考證を盡くし、顯彰を重ね時には遺跡の探檢をも試みたことさへあつて今更私がこゝに後ればせに紹述し奉る必要はない。唯親王が御少年時代の御悲運は、申すも畏こき事であるからそれはさて措いて、私たちがいつも想出す每に感激に堪へないのは、七十有餘歳の御高齡を以て、唐土から更に印度に向はせられた其の壯擧の、而も遂げたまはずして空しく南國の一角に玉體を埋めさせられたことである。日本人として貴賤のいづれを問はず渡天の雄圖を敢てした第一人者として、又近世以往にあつては空前絶後の業を企てた佛教徒とも云はるべき御方として、一千有餘年の後に於て國民を興起せしめ、佛教徒を感奮せしめずにはおかぬ事どもであるにも拘はらず、未だ如何なる方面に於ても何等大規模の記念事業を立案し計劃したことあるを聞かぬのは、私の甚だ遺憾に思つてゐる所である。

眞如親王が入唐の勅許を得られて奈良の超昇寺を發せられたのは清和天皇の貞觀三年でいよいよ九州を出發して唐に到着されたのは、其翌年の九月であつたが、それらは唐では懿宗の咸通二年三年で、西暦紀元八六一年八六二年に當るのである。而して親王が唐の皇帝の認可を受けて印度に向ふべく廣東を出發されたのは、貞觀七八年、卽ち咸通六七年の春正月二十七日の事であつた。この二年のうちの春で、その年次は前後兩樣に考へられるけれども、多分は貞觀八年卽ち唐の咸通七年、西紀八六六年のことゝすべき樣である。されば今大正十四年から遡ると、大凡そ千六十年目になるわけである。それゆゑ當今を以て正に千年とか千百年とかいふ遠忌に達してをると云ふことは出來ない。然しながら全く別の機縁により、私は親王を追慕し奉るあまり、此の千六十年忌ぐらゐを起點として、親王の記念事業を計劃したい痛切な希望を、懷いてをる。

親王を記念し奉るべき場所は、奈良及び其西郊を始め、高野なり東寺なり御遺蹟の地に求めることは固より當然であるが、私が一層熱烈なる情を以て計劃したいと思ふのは、新嘉坡の適當なる地域に於て雄大にして崇嚴なる記念碑を建立する事である。何故に特に新嘉坡を選定しようとするのか、それは次の理由に基くのである。

親王が渡天の徑路は、古來より明治末期に至るまでは、學者も佛教家も同樣に陸路を取られたと考へ流沙を渡るといふ常套の修辭に拘泥し、又御落命の地たる羅越ラオスと誤解したがため、誰も南海の航路に依られたと考へ及ばなかつた所が、夙に東洋史學の先進たる桑原博士は、奮來の謬説を打破して親王の渡天は、義淨等幾多の先從もあつて唐代には頗る開けてゐた南海路を選ばれたものに相違なく、尚羅越は馬來半島の一角、大體今の新嘉坡附近と見てよからうとの斷案を下された。それ以來この新説は學界の定論となり、私もこれまで度々之に據って説を立て來つたのである。尤も桑原博士の世間への發表以前佛國の東洋學者ペリオー氏も羅越國の所在を該半島に想定したことがあつたが、私は考證に於ては、桑原氏の方がペリオー氏に先んじてゐたことを信じ得る理由を持つてゐる。なほ私も驥尾に附して聊か考究を進めたが、羅越といふは、馬來半島及び附近の大小諸島嶼に見ゆるラウツト何々といふ地名の音譯ではないかと思ふのである。ラウツトと云ふのは馬来語で海のことを意味する通用語であるから、羅越といふのは、半島の東南に寄つた海岸の一地方から出でた地名で今の新嘉坡附近だなどと精密に極めることは無論出來ないけれども或は寧ろ反對の方面海岸かも知れず、卽ち暹羅灣の方面の沿岸であるか或は外洋に面する方の濱海地方かも知れないけれども、ともかくも半島の東南端に近いことだけは、間違ひないと信ずる。それ故に後世日本人の發展地として、又我々の印度及び歐洲への航路として、往來頻繁なる重要貿易港たる新嘉坡を以て、眞如親王薨去の羅越國に比較的接近せる由緒地と擬定することを容るされるであらうと思ふ。

私は此の際新嘉坡の新興以前遠く足利時代及び德川時代初期卽ち明朝の時分に馬來半島の南北沿岸の奧地に日本人の足跡を印した事を取立てゝ筆にしたくはない。勇敢なる日本人が、所謂ろゴーレス人として貿易のために西下し、或は倭寇として強行南征し、或は山田長政の徒として背面の六坤を進略しためした雄圖は、畢竟侵略主義的な、帝國主義的な奮時代の一夢と追想し去ることにしやう。ともかく此際はさう考へておきたいのである。寧ろ私は、フランシスコ・サベリヨ上人が、薩摩の青年彌二郎なるものをマラツカの港より印度に伴ひ行き、それが日本に於ける西教流行の機縁となつたことを以て、馬來半島と日本との平和なる又榮光ある史的關係の一面を飾りたい氣がする。

眞如親主が、求法の爲に印度に航せられて其途中羅越國に薨去あそばされてから凡そ一千六十年の昨今に、當つて、印度を領有する大英國は、國内に於ける種々の公義公論の末、また日本に於ける朝野さまざまの批評杷憂の聲をも馬耳東風と聞流しつゝ、將に新嘉坡に軍港を建設し、或は印度を護るためとか或は濠州を庇ふためとか稱して日本に備へんとする由である。軍國外交の事に門外漢たる私は、かゝる事件に對しては風馬牛であつて、眞如親王の求法の精神たる平和的宗教的動機からして、英國が軍港を建つる共同一領域の附近に、親王追慕の爲め、平和の押へとして、平和主義宣揚の象徴として、記念碑を立てたいと思ふのである。日本人の求むる所は、印度古聖の法であつて其穢土ではない。佛教の精神から云つても無論同樣である。あの瀬戸からして一歩も侵入させまいと思ふのは、お互樣であるが、英國が特にあゝいふ軍國的態度に出ようとするのに對して、日本が冷然平和的精神を固執しようとするのであるとも云へば云へる。然し私の提唱するのは主として對英關係からするのではなくて、眞如親王を顯彰し奉りたいといふ國民の衷情の一端から出づるに外ならないのである。

尤も他國の領土に記念碑を建つるといふが如き事が許されることか如何かは考へて見ないのではない。無論多少の困難はあらう、又永遠に之を保護するについても覺悟は必要であるが、その困難に打勝つこと、その覺悟を固くすることは、日本人が皇室を尊崇し歴災を敬重し佛法を擁護し平和を愛好する精紳よりしては、何でもなからうと信ずるのである。而して建碑事業の遂行に關しては其組織や方法を考究する周到確實なる國民的大規模の計畫を興す必要があらうと思ふ。

少し話が一躍して進みすぎる嫌があるが、若し碑を立てる場合には、眞如親王の御事蹟の要略、殊に其御最期の事を、極印象的な文句に綴つて、日本文と漢文と梵文と英文との四體とし、碑の表裏兩側の四面に彫刻して、建とえば日本領事館の域内とか、或は寧ろ公園や博物館などの衆目を惹く地帶とかに建てる樣に致したいと云ふ案を持つてゐる。

今大正十四年西暦千九百二十五年の新春を迎ふるに方りて、先づ之を日本の宗教家諸賢に檄して御一考を希望する次第である。(『中外日報』大正十四年一月一日)
*出典 『史伝叢考』 1934年 楽浪書院
国会図書館デジタルコレクション(下の画像も)



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なかなかいい話だが、戦時中だし、本当に石碑が建立されたのかと調べたら、こんな記事が見つかった。スゴイ。平和になってから、本当に建てたひとがいたのだ。

「高岳親王と羅越国 1100年の時を結ぶ不思議な縁 /野村亨  [1997年10月21日 東京夕刊] 」

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