2019年5月20日月曜日

OLD REVIEWS試作版第十四弾…「ハイデッゲル教授の想ひ出」(三木清)

三木清『読書と人生』より「ハイデッゲル教授の想ひ出」

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私がハイデルベルクからマールブルクへ移つたのとちやうど同じ頃にハイデッゲル氏はフライブルクからマールブルクへ移って來られた。私は氏の講義を聽くためにマールブルクへ行ったのである。

マールブルクに著いてから間もなく私は誰の紹介狀も持たずにハイデッゲル氏を訪問した。學校もまだ始まらず、來任早々のことでもあつて、ハイデッゲル氏は自分一人或る家に間借りをしてをられたが、そこへ私は訪ねて行ったのである。何を勉強するつもりかときかれたので、私は、アリストテレスを勉强したいと思ふが、自分の興味は日本にゐた時分から歷史哲學にあるのでその方面の研究も續けてゆきたいと述べ、それにはどんなもの
を讀むのが好いかと問ふてみた。そこでハイデッゲル敎授は、君はアリストテレスを勉強したいと云つてゐるが、アリストテレスを勉强することがつまり歴史哲學を勉强することになるのだ、と答へられた。そのとき私には氏の言葉の意味がよくわからなかつたのであるが、後に氏の講義を聽くやうになって初めてその意味を理解することができた。卽ち氏に依れば、歷史哲學は解釋學にほかならないので、解釋學がどのやうなものであるかは自分で古典の解釋に從事することを通じておのづから習󠄁得することができるのである。大學での氏の講義もテキストの解釋を中心としたもので、アリストテレスとか、アウグスティヌスとか、トマスとか、デカルトとかの厚い全集本の一册を教室へ持って來て、それを開いてその一節を極めて創意的に解釋しながら講義を進められた。私は本の讀み方をハイデッゲル教授から學んだやうに思ふ。

シュワン・アレーに定められた教授の宅へは私も時々伺ったが、そこにドイツ文學の古典の全集がぎっしり竝んでゐたのが特に私の注意を惹いた。それを私はいささか奇異の感をもって眺めたのであるが、昨年『ヘルデルリンと詩の本質』といふ氏の論文を讀むに至つてその關係が明瞭になった。最近氏の講義には藝術論が多いといふことである。氏は一度フライブルク大學の總長になられ、あの『ドイツ大學の自己主張』にあるやうな思想を述べられたこともあるが、ナチスとの關係が十分うまく行かなかつたためか、總長の職は間もなく退いてこの頃では主として藝術哲學の講義をしてゐられるやうにいはれてゐる。日本でもマルクス主義に對する彈壓が激しくなつた頃多くの人が藝術論に逃れたことのあつたのを私は想ひ起し、ハイデッゲル教授の現在の心境を察し、一般に哲學と政治との關係について考へさせられるのである。

マールブルクのハイデッゲル教授の書齋で私の目に留つたのはもう一つ、室の中央にあつた教會の說教机に似て立ちながら本を讀んだりものを書いたりすることのできる高い机である。あんな机が欲しいものだと時に想ひ出すのであるが、私はいまだそれを造󠄁らないでゐる。

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出典 『読書と人生』 三木清 昭和17年 小山書店
国会図書館デジタルコレクション(下の画像も)



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あとがき
ハイデガーは全く読んだことがないが、この文章を読むとなんとなく読んでみたくなる。それが三木清のこの文章の魅力だろう。そして、「立ち机」がまた欲しくなるし、「立ち机」を使っていた『魔の山』のゼテムブリーニ師の冗舌が懐かしくなる。



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