『三四郎』に関する論文を少しだけ読んでみた。三四郎はもちろん野々宮さんも振ってしまう美禰子のことをテーマにした論文もある。
そして、ジャン・バティスト・グルーズの「少女の頭部像」(図)が美禰子に似ているとか、広田先生の引っ越しの手伝い中に三四郎と美禰子が仲良く見ていたジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの『人魚』の絵は美禰子が三四郎を誘う手段だったという話題もあった。
ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの『人魚』 ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) |
『虞美人草』の藤尾の描き方が類型的で、美禰子はそれよりも複雑な人格として描かれている。その後の漱石の作品では女性はもっと、時代に即して、かつ「女性」らしく描かれていくのだそうだ。
漱石は女性をどう捉えていたのか。当時の常識からは当たり前と言っていいのかわからないが、やはり男性に従属するべきものと考えて、作品中に登場させていなかっただろうか。これは全作品を検討し直す必要がありそうだ。他に、鏡子夫人のことも考える必要がある。一緒に、森鴎外と鴎外夫人のことも考えてみたい。
現代の作家の、たとえば村上春樹さんが女性をどう描いているかも、一緒に見直すべきかとも思う。
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