『岩手における転形期の群像』(三浦宗太郎著、昭和37年、とうほくずうずうべん鼓社発行)。
2.1ストの直前、三浦宗太郎は某銀行従業員組合の労働組合講座で講演。終了時の質問への返答で
「このまま、米占領軍が傍観すれば、必ずストは決行されるだろう。」
しかし
「これまでの占領軍の労働行政をみれば、傍観するとは思われない。」
と答えた、とある。(24ページ)
そして、その晩、共産党県委員会を訪ねたが、幹部はすでに姿を隠している。そこにいた委員に尋ねると、ストは必ず実行されると楽観的な見方を述べたという。
「この諸君に、果たして政権をまかせることが出来るか…。」と三浦宗太郎は不信感をもったという。(25ページ)
三浦宗太郎の「占領軍の労働行政」への危惧が、28ページにある。
「(労働関係調整法などの行政的措置は)占領軍の行政目的を阻害しない範囲において、日本の労働組合が自由に活動し、かつ、助長、援助されるということ、ことにその教育面における効果が、根本的な目的であった…。」
一方で、「労働組合側の盛り上がる闘争の力」はとどめることはできかねるとも、考えていた。
そして、1月31日午後。「連合軍の占領目的を阻害する行為」であるとして、ゼネストは禁止命令をうける。
昭和22年4月に、選挙が行われる。3月には占領軍は「共産主義は国際的な民主主義の敵」として、共産党および同調者を排除する姿勢を示した。このため、岩手県内でも「民同派(社会党系)」が「組織的に動き始めた」(32ページ)。
知事候補として鈴木東民が立候補、そして参院議員候補として若干37歳の三浦宗太郎が立候補したらしい。
結果は「骨身にこたえるみごとな惨敗」(33ページ)。
労働委員だった三浦宗太郎は総選挙後に改選を迎え、支持者はおおかったものの、「赤」のレッテルを貼られ、選任を忌避された。「岩手におけるレッドパージ一号というべきであろう。」と自らを評している。(34ページ)
ここで、第一部は終了。「文化活動とその周辺」という第二部
にうつる。挫折後の心理と行動はどうするのか。続きは明日。
0 件のコメント:
コメントを投稿