仲良し同士内輪の忘年会なので話がはずむ。皆トイレも近い。トイレに立つと、そこまで話していた内容に関連した別の話を思い出す。急いでもどり、その話をしてみる。連句の世界に近い。
そんななか、「呼び水理論」というのを思いついた。ひところはどこにでもあった井戸のポンプ。しばらく使わなかったときには、乾いて水を汲み出しにくくなっている。バケツなどで、井戸ポンプに呼び水を与えると、また井戸水を汲み出せるようになる。
われわれの頭の中の記憶を汲み出すポンプにも、呼び水的なものを与えると、深いところから記憶や知識が汲み上げられてくる。酒を酌み交わしながらの何気ない話の交換は、この呼び水になることが多い。
ブログを書くという行為も、この「呼び水」になりやすい。一応は、何を書くかをはじめに思い浮かべて書き始めるが、書いているうちに、頭の中の記憶や知識が、汲み上げられ、最初の構想よりも深いことや全く違ったことが思い浮かぶ。それを逃さないように、手早く書き取る。
使うキーボードやエディターは簡素なものがいい。これらの手段に関わっていると、せっかく思いついたことをわすれてしまう。
外山滋比古先生はこのあたりの呼吸を、清流に棲む魚を捕らえることに例えていらっしゃったと思う。
忘年会の前に、会場の近くの本屋さんに行ったら、こんな本を見つけた。
『文藝別冊 大瀧詠一<増補新板>』(河出書房新社、2012年、1,200円の2割引き)
この本が出た翌年に大瀧詠一さんは亡くなっている。ほぼ同年輩の彼の音楽への造詣は驚くほど深い。その情熱の理由をしりたい。これから目を通すのが楽しみだ。家人のママ友も本の中に出てくるといい。
この本を買うという行為も「呼び水」であることに思い至る。
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