2017年1月26日木曜日

自分の出生の秘密を知り、トーマス・マンも亡くなり、欧州旅行はてんやわんや



 『Man of the World』(Klaus H. Pringsheim)の続き

 朝鮮戦争中に米国の兵役を勤めたので、奨学金と、他に生活費月110$を貰えて、カリフォルニア大学ではラッキーな学生生活を送れた。
 歴史や政治学を学んだ。バイトをしていたダグラス社でも、勤務中の勉強が許された。

 入学後2年の1955年に休暇をとり、欧州に友人と出かけた。
 S.S. United States に乗船。ツーリストクラスだが豪華な船旅ができた。サザンプトンで車を借り、まず英国内を旅した。
 パリに行き、その2日目に、キオスクで「トーマス・マン死す」と書かれた新聞見出しを発見した!

 ホテルに戻り、マン夫人に電話した。「明日お葬式だけど、間に合わないでしょう。予定通りの日にチューリヒにいらっしゃい」。いつもの通り落ち着いた声だった。
 予定通りに先に、16年ぶりに会うミュンヒェンの母を訪ねた。まだ若さも残る母も連れて、かねて念願のベニス方面へ向かった。

 車の中で母から、写真を渡された。
 なんと、これが本当の父親だという。
 オペラ歌手のハンスおじさん(昔、知っていた)だった。
 写真をみると自分とそっくりだ。
 プラハのオペラハウスで、父クラウス・Srと一緒に仕事をしていた時の事らしい。
 その後はこの件は母とは話し合わずに旅を続けた。

 母をミュンヒェンに送り届けたあと、キルヒベルグのマン夫人を訪ねた。
 米国から戻ってからは、地元の「歓迎」もあり、トーマス・マンは割と元気にしていたという。
 右脚に軽い痛みが出たので旅先から戻り、病院で診察を受けた。
 軽症と皆思っていたが、数日の入院の後、血栓で静かに息を引き取った。解剖で脳以外の広範な血管の石灰沈着が見つかった。

 墓参りを済ませたクラウス・Jr. 君は、マン夫人に自分の出生の悩みを打ち明けた。
 「でも、あなたはいまでもプリングスハイム家とマン家の一員に変わりない。それどころかトーマスはあなたをすごく可愛がっていたのよ。」、夫人に諭されて気分が落ち着いた。(170ページ)

 20年後、マンの日記が公刊されることに成った。初めてカリフォルニアに到着した日の、マンの日記に「bogus son」という記述があり、悩んだ末、「bogus」という単語を抹消してもらった。

 

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