昨日に引き続き、プリングスハイム教授の素性を調べる。まったく偶然に先日購入した『Man of the World』を、家人の買い物のおつきあいで、ホームセンター駐車中の車のなかで拾い読みする。この自伝の著者はトーマス・マン夫人の甥のKlaus H. Pringsheimである。
索引をみると、当然、何人かのPringsheim家の人々がリストされている。その中に「Pringdheim, Prof. Peter」という方がいる。Prof.がキーワードだ!
118ページに、トーマス・マン亡命先のカリフォルニアで、Peter, Katja(トーマス・マン夫人), Klaus(自伝の著者の父)の三兄弟が25年ぶりに集まったと書いてある。そしてPeterおじさんはシカゴ大学の物理学の教授であるとも書いてある。
このひとがプリングスハイム教授にちがいない。トーマス・マン夫妻と同様に、ナチスの手を逃れて米国に亡命したのであろう。
名前が「Peter Pringsheim」とわかったので、あとはググるだけで幾つかのページが出てきた。これとか、これ。坊主頭は寺田寅彦の記述通り。若いとき(寺田寅彦があったのは1909年)からこうだったのですね。
おまけだが、クラウス(父)プリングスハイムは日本で戦中まで高名な指揮者として活躍。戦争末期に米国へ出国。その息子の一人(ハンス・プリングスハイム)が戦後日本で外人タレントとして「連想ゲーム」などで活躍したという。
一方で、『二億電子ボルト』も読み進める。ナチスは1933年に選挙で勝つ。ドイツ国民はヒトラーが選挙中におこなった極端に過激な暴言は、責任ある立場に付けば和らげられるだろうと期待したのだ。しかし、その甘い期待は完全に裏切られる。約束された経済的発展はもたらされないまま、ユダヤ系の人々への迫害がきびしくなるばかりとなった。
このあたりは、現在の世界の指導者の今後の行動をうらなう上で、見逃せない歴史事実と思う。
外国籍でその迫害を逃れていたリーゼ・マイトナーも、その母国オーストリアがドイツに併合されてしまい、亡命を余儀なくされる。しかし亡命生活の中で、中性子による核分裂反応の論文を書く。それは原爆の製造と使用に結果として利用されてしまう。
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